人はそれぞれに「愛ってこういうものなんだ/あってほしい/あるべきだ」み
たいな思いをもってる。
でもって、そのバックグラウンドには子供時代からの思い出とか経験がある。
そして、そのサークルというか、範囲って、かなり狭いものだったりする。
オトナになっても、意外とそういう「愛の概念」は子供のときと基本的にはそ
う変わってなかったりとか。
ただ、こういう愛の概念って、心の表面(意識)よりも、もっと深いところに
隠れてしまってるんですね、たいてい。それで、心の表面では、むしろ自分が本来もってない/もつことができなかった愛のイメージが強く働いていたりする。
ただし、そういう愛のイメージは、心の底にある愛の概念とむすびついている。
しかも、多くの場合、裏返しの形でね。。。
たとえば、幸福な家庭っていうイメージがあるとする。それは友達の家庭とか、
TVドラマとかから得られたイメージだったりする。でも、自分の家庭はそうじゃ
なかった(と思ってる)。そうすると、形的にそういうイメージが自分の「愛の
概念」なんだと誤解しちゃう。
それでいてもとの淋しさや哀しみはそのままなんですね。つまり、どんな<理
想的>な愛のイメージをもったとしても、空白部は残ったまま。。。
☆・・……
幸福って、いったいなんなんだろう?
「淋しい幸福」とか「哀しい幸福」とか、そういうのはナシなんだろうか?
明るくて、いろんな面で満たされていて、安らかで……そういうのだけが幸福
なんだろうか?
どんなに「プラス」な幸福観をもっていたとしても、そのプラス面だけにこだ
わってるような愛のイメージって、どっちみち狭いと言えないだろうか?
プラスな愛イメージにこだわっているからといって、その人が魅力とか暖かさ
をもってるとは限らない。そういうのでないと愛なんかじゃないんだという堅苦
しい冷たさと裏腹だったりする。あるいは、ただ自分の「空白」部分を意識しす
ぎて、それを埋めてくれるようなプラス愛に飢えてて、そして誰かに愛してもら
いたがってるだけだったりもする。
そして、そういうキャラな人は、形的に似たような空白感や飢えをもってる人に興味を引かれやすい。
それで、自分なら相手の空白感や心の飢えを満たして上げられるにちがいない
と思う。相手も、自分の空白感や飢えを理解して満たしてくれるだろうと期待す
る。
でも、仮に二人に何かの関係が始まったとしても、お互い自分の狭い愛情観に
こだわりをもってるので、形は似ていても、すれちがいが多くなってくる。
☆・・……
外から見たら「幸福」に見える家庭のなかに、意外と寒々とした関係しかなか
ったり、実質的には崩壊してたりする例もある。家族全員で幸せごっこみたいな
ことしてる家庭もある。
そういう家庭で育った人が、オトナになってパートナーを選ぶとき、影をもっ
てたり破滅的な感じの人に惹かれるということもしばしばある。そういう人の方
が「真実の心」を持ってるんじゃないか⇒もってるはずだという空想をしちゃう。
だけど、その「真実の心」っていったいどういうものなんだろう? その人は
そういう心を知らない。知らないからこそ憧れる。矛盾してると思いませんか?
繰り返しになるけど、影があったり破滅的な感じの人だからよくないというわ
けじゃない。そういう人はまた別の形で心の空白をもっている。人を愛すること
なんてあまり興味なくて、愛されたいだけどどうせ愛されないんだみたいなスネ
た意識をもってたりする。
だから、もしも愛情関係になって、やがて別れましょうとかいうことになると、
すごく怒ったりする。愛そのものがもう信じられないとか、どうせ誰もかれも本
当に愛してくれたりはしないんだと被害者みたいなことを言ったりする。
こういう「被害者意識」をもちやすいという点で、厄介な人ということは言え
るかもしれない。
☆・・……
愛の関係には、被害者なんてないですよね。
被害者意識があるだけ。
なぜなら、人はそれぞれに自分なりの「愛の法律」をもってるから。
それがどんなに常識的なものであっても、非常識なものであっても同じことで、
たまたま似たような「愛の法律」をもってる人が多いか少ないかだけのことなん
ですね。ただし、それぞれ微妙な違いがあるのは当然だけど。。。
愛については、充足感にしても欠乏感にしても、とにかく自分の経験の範囲で
の「愛の形」(とその反対のイメージ)に閉じこめられてると、広がりと深みの
ある豊かな力はわいてこないんじゃないかな。
いろんな人がいる。
いろんな愛がある。
それが出発点。
愛は「決め」じゃない。
「探検」なんだと思う。
でも、「愛の法律」という檻のなかに閉じこもってる人とは、なかなか愛の探
検は出来ないよね。せめて、そこから引き出してあげるぐらい。。。かな?