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過失犯の基礎

 T 過失犯の問題点

 「過失犯はよく分からない」という方は結構多いかもしれません。それはなぜでしょうか。
 その答えは単純で、あまり勉強しない分野だからです。司法試験でも昭和38年に認識ある過失の問題が出題されて以来、過失犯論は問われていません。また、過失の共同正犯に関する問題は頻出分野ですが、過失犯に関する理解はほとんど問われません。という感じなので、みんな過失犯に関することはどうしても後回しになってしまい、どんな問題点があるのかも忘れがちです。
 でも、過失犯に関する議論というのは、実は体系上重要な問題を含んでいます。結果無価値論と行為無価値論の対立です。
 そこで、今回はどんな問題点があるかをまず思い出してみましょう。
 まず、過失構造論が大きな問題点ですね。旧過失論、新過失論、新新過失論(危惧感説)という3説があります。
 次に、過失構造論を前提として、「信頼の原則」を体系上どこに位置付けるかという問題点もあります。
 あとは監督過失という論点です。
 

 1 過失構造論
 2 信頼の原則
 3 監督過失

 実は過失犯の論点はこの3つだけです。今回は監督過失は扱わず、過失構造論を中心に検討して信頼の原則にも触れていくという形にしたいと思います。

 U 過失構造論

 1. 旧過失論
 最初に「過失」というものはどのようなものかについて考えてみましょう。
 たとえば、「アレクセイが不注意にもよそ見運転をしてたら、イグナチョフを車で轢いて怪我をさせてしまった」という場合はどうでしょうか。この場合、アレクセイには傷害の故意はありませんね。したがって、傷害は成立しません。でも、不注意で人に傷害を負わせたのだから、(業務上)過失傷害(刑法209条、211条)は成立します。さて、ここでの「過失」とは一体何でしょうか。
 伝統的に「過失」とは、構成要件該当事実の認識・予見可能性だといわれています。この事例でいえばイグナチョフ(人)の傷害についての予見可能性です。
 つまり、過失とは「結果の予見可能性」のことをいいます。人の傷害という結果について予見可能性があったから、過失傷害の罪に問うことができるということになります。このように過失=結果の予見可能性と考える伝統的な見解を旧過失論といいます。

 旧過失論:過失=結果の予見可能性

 2. 新過失論
 ところが、このような伝統的な旧過失論に対しては、昭和30年代以降疑問が投げかけられるようになりました。その背景には自動車の普及がありました。自動車の普及とともに、上述のアレクセイのように業務上過失致死傷事件を起こす人が増えてきました。そこで、あまり処罰し過ぎるのも問題だから、なんとかして過失犯処罰を減らせないかということになりました。それは、伝統的な旧過失論によれば、以下のような結論になってしまうからです。
 自動車の運転をしていれば、交通事故を起こすことの予見が可能といえば、いえないことはないと思います。そうなると、交通事故が起こったら、無条件で業務上過失致死傷が成立します。これでは過失犯の処罰は限定されないのではないかということです。
 そこで、新過失論を名乗る見解は、「過失=予見可能性という旧過失論の考え方をやめよう」と主張しました。新過失論は、過失犯は予見可能性という主観的要素ではなく、「基準行為からの逸脱」という客観的基準により処罰が限定されるのだとしました。「基準行為」というのはアレクセイの「安全運転」のことです。「よそ見運転」というのが「基準行為からの逸脱」で、これが過失の本体ということになります。

 新過失論:過失=基準行為からの逸脱

 この「基準行為からの逸脱」というのは、業務上過失致死傷の「死」や「傷害」といった結果ではないですね。つまり、過失の本質である「基準行為からの逸脱」というのは、結果とは区別された行為無価値だということができます。行為無価値が過失の本質なんですね。新過失論というのは、実は行為無価値論型過失犯論です。
 これに対して、旧過失論は「死」や「傷害」といった結果惹起を違法要素とし、それについての予見可能性を問題としますから、結果無価値論型過失犯論ということができます。
 ただ、ここで注意すべきことがあります。それは新過失論が「予見可能性」を過失犯の成立要件として残していたことです。さすがに、結果が予見できないのに「基準行為からの逸脱」を問題にすることはできないとされたのでしょう。

 新過失論:過失=予見可能性+基準行為からの逸脱

 3. 新新過失論(危惧感説)
 昭和40年代になるとさらに行為無価値論を押し進めた新新過失論(危惧感説)が登場します。簡単にいえば、この新新過失論(危惧感説)というのは、「過失犯の成立に結果の予見可能性なんて要らないよ」という見解です。アレクセイが「傷害」の結果を予見しなくても、何かが起こるであろうという「危惧感」を持っていればそれでいいというのです。ここでアレクセイが危惧感を解消するための措置を採らなかったこと=過失ということになるそうです。
 新新過失論ないし危惧感説が主張されるきっかけになった事件が森永ドライミルク事件です。この事件はヒ素ミルク事件ともいわれていて、ミルクを作る材料の中には注文した物以外の添加物が入るという不安感があるのだから、その不安感を払拭する措置を採りなさいとされたものです。
 このような裁判所の判断を発展させたのが新新過失論(危惧感説)です。この見解は結果の予見可能性を不要とし、過失の本質は「危惧感の不解消」だとします。「危惧感の不解消」は、過失致死の「死」という結果とは区別された行為無価値です。したがって、新新過失論(危惧感説)は行為無価値論型過失犯論だということができます。しかも、結果の予見可能性を不要とし、過失の本質を「危惧感の不解消」という行為無価値のみに求めているのですから、これは一元的行為無価値論(注)です。
 

 新新過失論(危惧感説):過失=危惧感の不解消のみ

 この新新過失論(危惧感説)は、一元的行為無価値論からの帰結を示しているものに過ぎません。違法論として一元的行為無価値論を前提としていれば、予見可能性を不要とする見解が導かれるのです。何が言いたいのかというと、違法論として一元的行為無価値論を前提とする以上、新新過失論(危惧感説)は別に責任主義に反するわけではないということです。「新新過失論は責任主義に反するからけしからん」という批判がなされることもありますね。でも、こういった批判というのは、あまり的を得ていないかもしれません。

 旧過失論=結果無価値論型過失犯論
 新過失論=行為無価値論型過失犯論
 新新過失論(危惧感説)=一元的行為無価値論

 V 信頼の原則

 1. 信頼の原則の意義
 これは簡単にいえば、「被害者が適切な行動をするだろう」と無理なく信頼していたならば、過失犯は成立しないという原則です。たとえば、「ボビーは不幸にもエリックを轢いてしまいましたが、それはエリックが急に歩道橋から道路に飛び降りたせいだ」という場合を想定してみましょう。
 この場合、ボビーは「歩道橋の人は下に飛び降りないだろう」と無理なく信頼していますから、エリックを轢いても業務上過失致死傷は成立しません。
 このように、被害者または第三者が不適切な行為に出ないということを信頼するに足る事情がある場合、その信頼が裏切られて結果が発生したとしても、過失責任を問えないというのが信頼の原則です。これついては旧過失論と新過失論を軸に対立があり、新新過失論(危惧感説)からの主張は特に押さえる必要はありません。
 2. 旧過失論
 過失の本質=予見可能性とする旧過失論からすると、信頼の原則は結果の予見可能性の問題そのものということになります。ボビーは歩道橋にいるエリックの適切な行動を信頼していましたから、エリックを轢くという予見可能性は極めて低くなります。この場合、旧過失論によれば過失犯は成立しません。信頼の原則が適用されて過失犯の処罰が限定されているわけです。つまり、過失犯が成立するのは結果の「高度な予見可能性」があるときということになりますね。このように、旧過失論において信頼の原則は、予見可能性の認定を限定する役割を果たしているのです。
 3. 新過失論
 これに対して、「基準行為からの逸脱」を問題とする新過失論からは、「被害者エリックの違反行為にまで対処する必要はないじゃないか」とされます。つまり、被害者が適切に行動に出るべきところで不適切な行為を行った以上、加害者の側に処罰に値する違法性がないということになります。信頼の原則は「基準行為からの逸脱」についてその違法性を軽減する役割を果たしています。
 

 W まとめ

 
 あとは監督過失を押さえるだけで過失犯論のほとんどを把握したことになります。過失構造論での結果無価値論と行為無価値論の対立は必ず押さえてください。その土台さえあれば、信頼の原則も監督過失も体系上明確に位置付けることができると思います。

 <注>

 一元的行為無価値論というのは、違法性=反倫理性とする見解です。現在主張されている「行為無価値論」というのは、違法性=法益侵害(結果無価値)+反倫理性(行為無価値)としますね。これを二元説といいます。
 一元的行為無価値論というのは、違法性は専ら反倫理性(行為無価値)だと考える見解です。

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