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共犯論の基礎T 総説 共犯論に入ると、犯罪の主体が複数となります。これはどういうことかというと、他人の犯罪に参加した行為者の扱いが問題となるということです。実際のゼミではこれから述べることの5倍くらいの情報を提供するのですが、ここでは内容をしぼった上で話を進めていきたいと思います。それでは、宜しくお願いします。
まず、最初に刑法の共犯規定を見ると、60条が共同正犯について定め、61条が教唆、62条が幇助について定めています。教唆と幇助を狭義の共犯といい、共同正犯とは若干異なった見方をされることがあります。
U 処罰拡張事由 1. 狭義の共犯の事例
たとえば、デガワがヤベッチに「オカチャンを殺せ」と教唆し、ヤベッチがオカチャンを死亡させた場合を考えてみましょう(必ず図に描いて検討して下さい)。これは狭義の共犯の場合です。
この事例では、オカチャンの死の結果とヤベッチ(正犯者)の行為の間には因果関係が認められます。これに対して、オカチャンの死の結果とデガワ(共犯者)の教唆の間には厳密な意味での因果関係は認められません。つまり、教唆者であるデガワの行為には殺人の構成要件該当性がないということになります。にもかかわらず、61条は教唆者であるデガワを処罰するとしています。ここでは、厳密な意味での因果関係が認められない者を処罰するのですから、共犯は処罰拡張事由だと言われます。狭義の共犯の場合は、正犯の背後で教唆・幇助を行う者(背後者)の「2次的責任」がどの限度で認められるかが問題となります。
2. 共同正犯の事例
それでは、デガワとヤベッチが「意思の連絡」をして、2人ともオカチャンに向けて発砲し、銃殺してしまったという場合はどうでしょうか?ここでは、どちらの銃弾で死んだか分からないと仮定して下さい。
この場合、どちらの弾が当たったか分からないのですから、オカチャンの死とデガワ・ヤベッチの発砲行為との間に因果関係は認められません。ところが、60条はこのような場合でも2人とも正犯として処罰されるとしています。共同正犯においては、「正犯性」が拡張されているということになります。つまり、共同正犯の議論では、拡張された正犯性(「1次的責任」)をどの限度で認め得るのかが問題とされます。
V 共犯の処罰根拠 このように共犯は処罰拡張事由ですが、拡張類型である共犯が処罰される根拠が問題となります。これは1967年にドイツとスイスで出された論文がきっかけで発展してきた議論ですが、日本では1979年以降にこの議論が大きな争点になったそうです。
1. 責任共犯論
最初に責任共犯論について見ていきましょう。この見解は、共犯者が正犯者を有責な状態に陥れた点に共犯の処罰根拠を求める見解です。この見解によれば、共犯が成立する場合は必ず正犯も有責な状態になっているのですから(ここでの共犯者はもちろん有責です)、正犯者・共犯者共に有責な状態になっています。つまり、2人とも(上の例でいえば、デガワもヤベッチも)有責な状態ということから、共同責任の理念が責任共犯論の根底にあるといえます。このように、共同責任の理念を強調し、共同責任を極端に求めるのが責任共犯論の帰結といえます。そうなると、正犯者が責任無能力者の場合ですと、正犯者・共犯者間の共同責任はあり得ませんから、共犯は成立しないということになります。これを極端な従属形式といいます。
以上のような理論は、現行法の一貫する個人的責任の理念に反するという批判を受け、支持者を失いつつあります。
2. 違法共犯論
これに対して、違法共犯論は、共犯者が正犯者をして構成要件に該当し違法な行為を行わしめる点に共犯の処罰根拠を求めます。この見解によると、教唆者デガワが正犯者ヤベッチに殺人という違法な行為を行わせたから、デガワの行為も違法だという評価を受けることになります。つまり、「共犯の違法」は「正犯の違法」に由来するということになるのです。
しかしながら、このような説明の仕方は、結局のところ「共犯の違法」を「正犯の違法」から借り受けるものだとの批判がなされています。そこから、違法共犯論は単なる「可罰性借用説」に過ぎず、「共犯固有の犯罪性」を基礎付ける根拠にならないのではないかとも言われています。
3. 因果共犯論(惹起説)
そこで、「共犯固有の犯罪性」を正面から問題とする見解が主張されます。これが因果共犯論=惹起説です。惹起説は、正犯の行為を介して法益侵害を自ら惹起したことを共犯の処罰根拠とします。この見解によれば、共犯(教唆者=デガワ)もまた正犯(ヤベッチ)と同じく構成要件該当結果を惹起したのですから、単独正犯と共犯の区別が問題となります。この点については、単独犯においては法益侵害の直接的惹起が認められる(結果→行為)のに対して、共犯においては正犯行為を介した法益侵害の間接的惹起が認められる(結果→正犯→共犯)との区別がなされています。つまり、単独正犯と共犯では結果惹起の態様が異なるということになります。
基本的には「共犯固有の犯罪性」を正面から問題とする惹起説が妥当ですが、惹起説の内部でも見解が分かれています。
(1) 純粋惹起説
そのうちのひとつが純粋惹起説といわれる考え方です。この見解からは、共犯が成立するためには、正犯に構成要件該当性が認められることは必ずしも必要ないということになります(死の結果→「 」→教唆犯)。たとえば、医師Leeが看護婦Wonに秘密漏示を教唆した場合、看護婦Wonには秘密漏示の構成要件該当性はありません(看護婦という身分では秘密漏示の罪責を負い得ない)が、医師Leeには秘密漏示の教唆犯が成立します。これは「共犯固有の犯罪性」を明らかにし得る点で優れた見解だといえます。
しかしながら、上の例で看護婦Wonに秘密漏示が成立しないのに、医師Leeに秘密漏示の教唆犯が成立するという帰結はどうでしょうか?これはいわゆる「正犯なき共犯」を認めるものです。結論を述べれば、このような「正犯なき共犯」を認める純粋惹起説は採用できないということになります。それは現行法上、共犯処罰は明らかに「正犯」の存在を前提としているからです。61条1項は「人を教唆して犯罪を実行させた」としていますし、62条1項も「正犯を幇助した」と規定しています。純粋惹起説は現行法のこのような態度となじまないものなのです。
(2) 混合惹起説
そこで、やはり教唆・幇助として処罰するためには正犯行為に(少なくとも)構成要件該当性を要求する混合惹起説が支持されることになります。さらに言うと、共犯を処罰するためには、正犯の存在が必要条件となるということです。上の例でいえば、共犯者デガワが処罰されるためには、正犯者ヤベッチの構成要件該当性が必要条件になるというものです。
ここで注意して欲しいことは、混合惹起説を採ると「共犯の不法」が「正犯の不法」に由来することはないということです。「教唆者デガワの可罰性」は「デガワ固有の犯罪性」に由来するものです。つまり、デガワ本人が教唆という「ヤバイ」ことをしたから、デガワが殺人の教唆で処罰されるということです。混合惹起説を採りながら、(ヤベッチの)「違法は連帯する」というのは論理矛盾だということになります。実は「違法は連帯に」というのは混合惹起説からは導かれない命題なのだということに注意して下さい(純粋惹起説からも「違法は連帯に」という命題はもちろん導かれません)。これはあくまで「共犯固有の犯罪性」を問題とする惹起説を採用する場合の注意事項です。
W 実行従属性 次に実行従属性という問題について扱いたいと思います。この点に関しては従来から独立性説と従属性説の対立があります。以下のような事例で問題となります。
<事例>
イルハンがテムジンに「チャガタイを殺せ」とそそのかしたが、テムジンは「わかった、1週間以内に殺しておく」と言ったまま結局何もしなかった。イルハンは殺人未遂の教唆として処罰されるか?
1. 独立性説
この点について、独立性説はイルハンの教唆行為を独立に評価します。つまり、「そそのかし」それ自体を「実行の着手」とみてイルハンを殺人未遂の教唆で処罰するということになります。この独立性説によれば、テムジンという「正犯者」が何もしないうちから、イルハンが教唆犯として処罰されることになります。
この独立性説は未遂犯の実行の着手時期に関して、「犯意が明確化したとき」という基準を採用する主観説から導かれます。教唆者の犯意は「そそのかし」の時点で明確化するのだから、その時点で殺人未遂の教唆で処罰することができるということでしょう。
2. 従属性説
ただ、共犯の処罰根拠のところで述べた通り、教唆者イルハンが処罰されるためには、「正犯者」テムジンが構成要件該当行為(殺人未遂)を行わなければなりません。これは「正犯者」テムジンの構成要件該当性が共犯処罰の必要条件になるという混合惹起説ですね。この混合惹起説からすれば、正犯者テムジン自身が法益侵害の危険を生じさせた時点で、教唆者イルハンに殺人未遂の教唆が成立することになります。このように「正犯者」自身が実行に着手しない限り共犯は処罰されないという意味で、混合惹起説からは従属性説が支持されるということになります。
Y 罪名従属性 従属性説の立場から次に問題となるのが、罪名従属性です。これは簡単にいえば、共犯者と正犯者は常に同じ罪名でなければならないのかということです。
1. 狭義の共犯と罪名従属性
まず、狭義の共犯から検討したいと思います。
結論から述べれば、狭義の共犯の場合には罪名従属性は原則として否定されます。たとえば、殺意をもってバス爆発を起こそうとしているラデンに、傷害を与えるつもりだと誤信してブセインが爆弾を貸与し、乗客が怪我をした場合はどうでしょうか?
この例では、ラデンは殺人未遂です。これに対して、ブセインは殺人未遂幇助ではなく、自己の責任に対応した傷害幇助の罪責を負うにとどまります。これは責任判断の個別性を根拠としており、また、その根拠から罪名従属性の否定は当然に導かれることになります。
2. 共同正犯と罪名従属性
ところが、共同正犯においては罪名従属性が否定されることはないとする見解が主張されています。これが犯罪共同説というものです。
まず、共同正犯がどういうものかを確認しておきましょう。共同正犯というのは60条に規定してある通り、「共同して犯罪を実行した者」を正犯とするという規定です。たとえば、ラデンとブセインが殺意をもって「意思の連絡」をし、草野君に向けて発砲したところ、草野君が死亡したという場合です。この場合、いずれの弾丸で死んだかが不明でも、「共同実行」を根拠にラデンとブセインには殺人既遂が成立するということになります。これを「一部行為の全部責任」と言います。
ここで、「共同実行」や「意思の連絡」という共同正犯の要件をどのように理解するかが問題となります。特に次のような事例が典型です。
<事例>
デガワが傷害の故意で、ヤベッチが殺人の故意でオカチャンを同時刻に包丁で刺したところ、オカチャンは死亡した。いずれの行為が原因で死亡したかは不明である。
(1) 犯罪共同説
犯罪共同説は、共同正犯は特定の「犯罪を」共同して実行するものと解します。したがって、デガワとヤベッチが「共同実行」をする際に必要な「意思の連絡」も「犯罪的なもの」である必要があります。つまり、「意思の連絡」は「犯罪的なもの」と解するわけですから、共同正犯が成立するためには行為者間に「故意の共同」が要求されることになります。これが実はポイントなのですが、犯罪共同説というのは「故意の共同」を共同正犯成立の要件にする見解なのです。この見解によれば、AとBが共同してXを殺すという場合、AB共に殺人の故意がなければ殺人の共同正犯は成立しません。その意味で、共同正犯が成立する場合は常に共同者の罪名が同じとなり、罪名従属性が肯定されることとなります。このことを前提にデガワ・ヤベッチの事例について検討してみましょう。
デガワは傷害の故意で、ヤベッチが殺人の故意という場合、両者の故意は異なるものです。したがって、「故意の共同」はないことになります。となると、デガワ・ヤベッチに共同正犯は成立しません。結局、それぞれ単独正犯の成否が問題となり(しかも死の結果については因果関係が肯定できないから)、デガワは傷害となり、ヤベッチは殺人未遂にとどまることになります。
さて、このような犯罪共同説の帰結は支持できるでしょうか?これは到底支持することはできませんね。デガワとヤベッチが共同して一定の法益侵害を惹起しているのに、その事実を考慮しきれていません(死の結果について全く帰責することができない理論構成です)。この理論では不十分だと言うことができます。
逆転の発想
そこで、犯罪共同説はかなり無理な理論構成を試みます。「逆転の発想」ともいえるでしょう。これはかなり度肝を抜かれるのですが、要するに、思い切ってデガワとヤベッチに殺人の共同正犯の成立を認めてしまおうということが犯罪共同説の立場から主張されたのです。
このようにすれば、デガワとヤベッチの罪名は常に同じということになります。ただ、ヤベッチには傷害の故意しかありません。そこで、犯罪共同説の論者はヤベッチには殺人の共同正犯が成立するが、責任内容に応じた傷害致死の刑しか科さないという結論を導きます。
ただ、このような理論構成には問題があります。まず、殺人の故意がないヤベッチに殺人の成立がなぜ認められるのか、その根拠が不明です。また、仮にヤベッチに殺人の成立を認めるにしても、なぜ効果として傷害致死の刑しか科せないのかということも疑問です。殺人の成立を認めるのなら、殺人の刑が科せるはずではないのかということです。このようにして、罪名と科刑を分けるという方法論の限界が示されているといえます。
(2) 部分的犯罪共同説
そこで、部分的犯罪共同説という見解が主張されます。この見解は殺人の故意があるデガワと傷害の故意しかないヤベッチについて、次のような結論を導きます。つまり、殺人の故意と傷害の故意は傷害の限度で重なり合いがあり、その重なり合った傷害について「故意の共同」が認められるとします。起訴状の記載が「殺人」でも裁判所は「傷害致死」の(縮小)認定ができますから、殺人の故意と傷害の故意には部分的犯罪共同説のいう重なり合いは認められると思います。
この部分的犯罪共同説によれば、傷害の故意の限度で「故意の共同」を認めますから、デガワとヤベッチの両者には傷害致死の共同正犯が成立します。ここでも罪名は一致しますから、罪名従属性は肯定されます。
しかしながら、ここで注意すべきことがあります。実は部分的犯罪共同説は、デガワが殺人の故意を持っていたことに着目し、デガワに殺人の単独犯を別個に成立させるという処理を行っています。これはどういうことかというと、デガワには傷害致死の共同正犯のみならず、殺人の単独犯が成立するということです。
デガワ →傷害致死の共同正犯+殺人の単独犯 このように部分的犯罪共同説は、傷害致死の共同正犯に加えて、殺意あるデガワの過剰部分について殺人の単独犯を別個に認めざるを得ないということになります。部分的犯罪共同説は単独犯の成立を肯定せざるを得ないという点で、共同現象を捉えきれない不十分な理論だと言えます。また、このことから共同正犯の成立に「故意の共同」を要求するということ自体にも疑問が生じるのです。
(3) 行為共同説
以上のことから、共同正犯の成立に「故意の共同」は不要であるという理論を正面から認める必要がでてくることになります。この共同正犯の成立には「故意の共同」は不要であるとする見解が行為共同説です。
このように、考える根拠が問題となりますが、これは端的に個人的責任の理念に求められると思います。つまり、「責任の共同」=「故意の共同」は責任の性質上あり得ないということです。責任に応じた責任非難のみが正当化されるのであり、それはもともと個人個人で異なるものだということができます。そうであるならば、個人の故意内容に応じた共同正犯の成立が認められるということになりますね。
このように考えると、殺意のあるデガワには殺人の共同正犯が成立し、傷害の故意しかないヤベッチには傷害致死の共同正犯が成立することになります。
このように、行為共同説は共同正犯の成立に「故意の共同」を不要とし、共同者ごとに異なる犯罪の成立を認めます。その意味で、罪名従属性は否定されます。ここで問題となるのが共同正犯の要件である「意思の連絡」をどのように捉えるかです。この点ついては、「意思の連絡」は「故意の共同」ではなく、心理的因果性を基礎付けるに過ぎないものと捉えることになります。つまり、意思の連絡をすることで「赤信号みんなで渡ればこわくない」という心理状態になり、心理的因果性が強まるということになります。
ちなみに、責任共犯論と犯罪共同説が結びつくこと、惹起説と行為共同説が結びつくことについては共犯と身分のところで説明しています。
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