パパが選んだサンクスギビングホリデーの旅

デスバレー & ラスベガス

アメリカンはこの時期、ホリデーを目いっぱい楽しむ。家族でのんびりするもよし、また、旅に出るもよし。というわけで、このシーズン、旅行に出かける人でどこも満員となるのであるが、またしても運のいいことに、わずか3週間前というのにホテルが取れてしまったのである。

われわれはまたしても旅立った。今回は地獄の長距離ドライブの旅。

子供は泣き叫ぶ、フリーウェイは渋滞する。このあたりは日本と状況が似ている。

以下、旅の結幕をご覧あれ。


11月28日(金曜日)

朝9時出発。早く早くと気は急くが、お父さんは今朝になってから荷物を準備する始末であるから、予定時間7時などというのは有名無実となる。子供の好きなおととおにぎりとゆでたまご、サラダにフルーツと飲み物を積み込む。

この日はフリーウェイは渋滞はしなかった。車はものすごく多かったが、平均70マイル(120キロくらい)でぶっ飛ばせた。もちろん、この速度は法定速度でございます。あしからず。

ラスベガスヒルトンホテルにチェックイン。遅めの出発ながら、3時半にチェックイン。だが、ここでひとつトラブル。カードキーをもらったはいいが、部屋を開けてびっくり。先客の荷物があるではないか。慌てて引き返し、事情を説明するはめに。結局この日、部屋を変えてはもらったものの、また、他の人に部屋を開けられるのではないかとびくびくしどうし。ヒルトンならすこし高いけど安心だと思ったのにな。がっくり。

わたしたちはケチなので無料ショーを見た。目的のトレジャーアイランドホテルの前でやっている海賊船の戦いはものすごいひとひとひと。ほとんど人ゴミで見えなかった。パパいわく、「まあ、見たと言うだけでよしとしよう」。ついでにここのバフェを楽しんだ。おすすめはデザート。ケーキ類はアメリカンにありがちなこってり甘いというあれではなくて、さっぱり軽めの日本風。なかなかいける。味は全体的にトップレベルと評価しました。

あと、人込をかきわけてフォーラムショップスでウインドーショッピングをしたが、どこへいっても仕掛けだらけ。ネオンだらけ。いやはや、ラスベガスってすごい。

でも、どうも雰囲気が梅田に似ているのですわ。ははは。

11月29日(土曜日)

朝、7時に起きて朝食バフェを楽しむ。ヒルトンのバフェは実際よかったが、値段は夕べのディナーより高かった。朝食バフェにしては高いのではあるまいか。本当はリオスイートホテルまで行きたかったが、体力と時間がなかった。残念。

9時、出発。フリーウェイではない(証拠に対向車線だった)がほとんど地平線までまっすぐよっ、という道をひたすらぶっ飛ばす。あたりは砂漠。なんにもないねえ、というところまでくると、いきなりインディアン居留地という看板。アメリカ人って、やっぱりケチやね、という話をしてしまう。アメリカの歴史は詳しくないが、ネイティブアメリカンたちがもともとの土地を追われて現在のなにもない土地に強制移動させられたということくらいはわたしたちも知っている。しかしその土地を目の当たりにするとこういう感想となる。もうちょっとなんとかならんの、という感じ。

12時30分。ようやくバティの町につく。ここからデスバレーに入っていくのだが、わたしたちはこの町に来て再び驚いた。古い西部劇に出てきそうな町なのだ。もちろんガソリンスタンドもあるし店もいくつかある。しかしさびれて不景気そうな印象はぬぐえない。だって地図の上では結構大きな町に見えたんだもんね。ここでドーナツ屋に入ってドーナツを食べようとしたが、ドーナツはもう売り切れたという。仕方なく売れ残りらしいデニッシュとコーヒーを買って、朝食時にがめておいたパンとあわせて食べる。いやいや、もうちょっとがめておけばよかったね、と思わず言ってしまった。売れ残りだがあってよかったという感じ。

これからが山越えだった。砂と岩の西部、などという歌があったけど、あれをそのまま歌ってしまうような景色がつづく。道は狭く、くねくね曲がり、アップダウンがきつい。下手にヒーターやクーラー、オーディオなんかをつけておくとバッテリーがいかれる。これから行かれる方はご注意。わたしたちは前もって自分たちの車を点検に出しておいたが、すべてを止めて車をいたわりつつ進む。こんなところで故障すると最悪ですからねえ。

デスバレーに入る。イエローストーンなどと違ってゲートなどはまったくない。

バッドウォーター(真っ白な大塩原。ここは西半球の最低地点といわれ、海抜はマイナス85.2キロ)で日没を迎える。あまりいい天気ではなかったので、夕焼けはさほどでもなかったが、釣瓶落しに日が落ちると、もうとんでもない闇の中。街灯もネオンもない世界はこんなに暗いか、と思った。星がとてもきれい。ストーブパイプウェルズのキャビンは清潔で部屋もけっこう広かった。ただし、受付窓口がどこかがさっぱり見えないのには閉口した。暗くて看板がまったく見えないのだ。近くまで寄ってようやく見つけて、腹を空かしてぐずる子をなだめなだめ手続きを終え、ダイニングルームにかけこむが、時既に遅し。一歳半の息子は料理が出てくるのが本式のためか遅いここでは待っていられず、最初からサーブされていたパンを一個食べてしまい、あとは入らず。結局料理が出てきたころにはもうあきてしまい、わたしたちはろくすっぽ落ち着いて食べられない。仕方がないのでかわるがわる外で遊ばせながら食べた。まったく、たいした料理でもないんだからさっさともってこいっ。と毒づいておこう。ここでパスタは頼まないことをおすすめします。ステーキはなかなかおいしかったけど。

11月30日(日曜日)

日の出のデスバレーを見るために早起きする。といってもダイニングが7時からなので、たいしたことはない。悪魔のゴルフ場、アーティスツパレット、砂丘、ザブリスキーポイント、ダンテスビューを見る。とにかくなんにもない、岩と砂の西部、という赤い河の谷間などという歌を思い出してしまうくらい。空気がとんでもなく乾いていて、常に水分を補給していないと喉をやられる感じ。しかしものすごく冷え込んで、ぱらぱら雨も降った。降水量最低のここで雨というのがなんとも。

ここの歴史についてすこし紹介しておく。

ここをはじめて西洋人が発見したのは1849年。西部開拓時代。カリフォルニアにいくには山を越えなくてはいけないのだが、十月もすぎると雪山となり、こえられないため、南に進路を取った家族が迷い込んだのが最初らしい。しかしここはもともと湖で、これほど干上がってしまうまえにはインディアンが住んでいたらしく、いろいろなものが発掘されている。また、ゴールドラッシュ時代にはここで銀、銅などを掘り出したらしい。それもしかし採算が取れずに閉鎖され、いまに至るらしかった。

ここで死んだ人はあまり多くはない。特に最初、迷い込んだ家族たちは一人をのぞいて生還している。デスバレーという名前から、もっとたくさんの人が亡くなったのかと思ったが、そうでもないらしい。

以上、日本人観光客用パンフレットから。英語の次に日本語のものが並んでいるほど、ここはどうやら日本人観光客が多いらしい。助かった。

帰りだが、結局あれもここも見たいということで公園を出たのは2時30分。ここから南下してBakerという町に出て15フリーウェイに乗ったのだが、その町までものすごく距離があった。地図をしげしげみると、どうやらこのデスバレーの向こうと言うかはしっこは、原子爆弾の実験場として使用された基地があるらしい。とにかくデスバレーというところに入る町という町は「西部劇」のセットではないのか、と思われるくらいのすごい町ばかり。人が住んでいるのが不思議なくらいの町ばかりだった。まっすぐ地平線まで続く道、岩と砂と岩塩。またしてもアメリカはすごい、とおもってしまった。

しかしフリーウェイは日本並みに混んでいた。ここに帰ってきてようやく、世間様はホリデーだったということを思い出した。子供は騒ぐ。だってずっと車に閉じ込められてるんだもんね。一時間くらいでつく距離がなんと3時間をオーバーしてしまう。ちょっとつらかった。