神はすべての人に語りかけている
神はすべての人に語りかけている。聞くことができないと思うなら、それは聞こうとしていないからである。神は語りかけるために、感情、思考、経験、そしてあらゆる手段を用いる。そう、あなたの目の前にも文章がある。
すべての人は特別であり、すべての時は黄金である
他よりも特別な人、特別な時というものはない。我々が人生でぶつかるすべての問題の根は、自分が神に話しかけられるほどの価値があると思っていないところにある。生きとし生けるものはすべて完璧さの反映であり、神の姿をかたどって、神に似せてつくられている。考えみて欲しい、完璧な神は不完全な創造をすることはできない。
神が望むことはあなたが望むことだ
神は人に何かを強制したりはしない。「せよ」、「してはならない」ということは一切ない。神のために何かをする必要はない。あなたが何かをしないからといって神があなたを愛さなくなることはない。神はただ我々が自分自身を体験して欲しいと望んでいるだけだ。
自分を権威として生きなさい
自分の感情に耳をすまし、自分の最高の考えに耳を傾け、自分の経験に耳を傾けなさい。誰かが違うことを言ったら、自分を信じなさい。宗教を信じることは簡単だ、あなたは考えなくて良くなるからだ。だが、人の教えを信じる前に自分の感情を確認してみなさい。我々は完璧だ、何も必要とはしない。恋人も、宗教も、すべてをだ。
神には特定の姿形はない
神はあらゆる形で我々の前に現れる。だが、人々は自分が見たもの、感じたもののみが神だと信じてしまう。だから、すべての人が違う神を崇めることになるのだ。神は非常に複雑で、もちろん我々には理解できない。神には無限の側面がある。神は冒涜的であり、神聖であり、おぞましくあり、神々しい面がある。我々が考えつく、考えつかない全ての面がある。神のイメージを勝手にきめているのは我々だ。
求めるものは与えられる
求めるものは与えられる。いや、神は我々が求める前から与えようとしている。それでは、欲しいものが手に入らないのはなぜか、「欲しい」と思えば「欲しい状況」が与えられるからだ。
宇宙は巨大なコピー機に過ぎない
我々がこれが現実であると思ったことは必ず現実になる。思ったことが現実にならないのは何故か。それは現実になると信じていないからだ。
宇宙には「存在のすべて」しかない。
宇宙には「存在のすべて」しかない。すべてはひとつであり、それは愛であり、神である。我々はすべてを知っている神のかけらである。我々は知っていることを体験するために、自らが神であることを忘れた存在である。
人生とは自分が何者であるかを示すために創造するプロセスだ
我々は神である。人生とはそれを示すために創造するプロセスだ。忘れたことを思い出し、創り直すことだ。そして、全体に戻ること、神に戻ることだ。
聖なるものは三位一体である
すべての聖なるものは三つの部分から成っている。我々は魂、精神、身体から、空間はこちら、あちら、こちらとあちらの間から、宗教では父、子、聖霊ともいう。単純なものは二次元的である。左右、上下、大小。我々は「知る」、「体験」、「在る」の順に進化する。知っていることを体験し、体験して初めて在ることができる。
「正しい」とか「間違っている」ということは存在しない
ものごとはすべてはあるがままである。「正しい」、「間違っている」というのは、ものごとの本質ではなく、個人の主観的な判断だ。我々がそう呼んでいるだけである。
何かをする理由は、ひとつしかない。宇宙に向かって、自分が何者であるかを示すことである。ある行動を拒否する理由もひとつしかない。それが自分にふさわしくなくなった、という理由だ。
最高のヴィジョンを生きなさい
最も気高い、こうありたいと思う自分を考え、毎日そのとおりに生きたらどうなるかを想像しなさい。自分が何を考え、何をし、何を言うか、ほかの人の言動にどう応えるかを想像しなさい。そんなふうに想像した姿と、いま自分が考え、行い、言っていることが違うのがわかったら、考えと言葉と行動を気高いヴィジョンにふさわしく、意識的に、変えようと決心しなさい。
神の計画に失敗はありえない
我々は自分自身が神だということを忘れて、それを思い出し、再び神との合一を果たすゲームをしている。どれだけ回り道をしようとも、あなたがめざしている場所へ行き着かないことはありえない。それは神の計画に入っていない。神の計画に失敗はありえない。
地獄はない、天国とはあなたが今いる場所のことだ
我々は求めたものが与えられている。それでは何故、苦しみがあるのか、悲しみがあるのか、それは自らの成長のために求めたからだ。我々は、ここで、すべてを経験することができる。涙も、楽しさも、苦痛も、喜びも、高揚も、激しい憂鬱も、勝利も敗北も、引き分けも。我々は苦痛なしにすべてを経験することができる。つまり、「天国へ行く」のではなく、自分がすでに天国にいると気づくことだ。地獄はない、もしそう呼ぶものがあるとすれば、それは神の偉大な喜びから遠く離れた魂の経験のことである。
その人の人生は、その人のものだ
あなたは他の人間の魂への責任はない。その人が、そうしたいなら、そうさせてあげなさい。あなたが自分で自分の人生を決めなければならないように、その人も自分でその人の人生を決めなければならないのだ。それはすべての人にとって必要なことなのだ。最愛の者が去るというならば、去らせてあげなさい。
人間関係が失敗し、変化してしまうのは、最初にその関係を結んだ理由では関係を続けられなくなったときだ
もちろん、真の意味で失敗した関係というのは、ありえない。ただ、人間的に見て、望んだとおりにならないという意味での失敗があるだけである。人間関係の目的は自分自身のどの部分を「明らか」にしたいかを決定することであり、他者に何かを期待することではない。期待は他者に本当の自分らしくない行動を強い、他者はついにはそれに応えられなくなり、関係は終わる。人間関係の試練は、相手が自分の思いにどれだけ応えられるかでも、自分が相手の思いにどれだけ応えられるかでもなく、自分が自分の思いにどれだけ応えられるかである。
最も愛情深い人間とは、最も自己中心的な人間だ
人間関係において大切なのは、相手が自分の思いに対して、どれだけのことをしてくれるかではなく、自分が自分の思いに対して、どれだけのことができるかである。相手が何者で、何をし、何をもち、何を言い、何を欲しているかはどうでもいい、大切なのはその関係のなかで、あなたが何者であるかを示すために、どれだけのことができるかである。つまり、他者について心をわずらせるのではなく、ただただ自分について心をくだけばよい。そして、それが自分を創造する唯一の機会である。
マスターとは常に愛を選択した人達である
マスターのふるまいはすぐに予想がつく、未熟者のほうはまったく予想がつかない。未熟者は気高い選択をした直後に、そうでない選択をする。マスターは常に気高い選択とは何かを考えている人であり、未熟者は最も有利な選択は何かを考えている人である。人間関係のすべての決定的な接点において問題はひとつしかない。「いま、愛なら何をするだろうか?」である。マスターは暮しをたてることではなく、生きることを選んだ人達だ。
あなたはメッセージャーだ
あなたはこの文章を読んでいる。何故だろう。それは、あなたは先駆者だからだ。あなたは真実を求め、そして語るだろう。これからしばらくの間、世界には、神の言葉をほがらかに響かせるたくさんのトランペットが必要だからだ。おおぜいが切望している真実と癒しの言葉を語る多くの声が必要だからだ。
あなたは、金は悪いものだと思っている。
我々は良いことをするのにお金を得てはいけないと思っている。だから、ストリップの踊り子は大金を稼ぎ、聖職者はパンと水で暮すことになる。我々は崇高なことをすると、ますます貧しくなってしまう。それでは、我々は自ら良いことをできなくしていることになる。考え違いなのだ。
あなたは病気を愛している
すべての病気は自分で創り出している。自分を憐れんだり、自分に注意を向けるために、病気を利用してきたのだ。ほとんどの人はまったく無意識に病気を創り出している。だから、何故、自分が病気になったのかがわからない。
カルマの法則はない
カルマの法則と呼ばれているものは存在しない。あるとすれば、あなたが経験したがっているいうことだけだ。人を殺す経験をすれば、人から殺される経験をしてみたいと思うだけだ。
支えになっている考えを変える方法は「思考−言葉−行動」というプロセスを逆転させることだ。
我々は思考し、言葉にし、行動している。つまり、支えとなっている考えが変わらなければ何も変わらないことになる。これを最も速く変える方法は、「思考−言葉−行動」というプロセスを逆転させることだ。こうありたいと思う考えにもとづいて行動し、こうありたいと思う考えを言葉にし、それを何度も実行することだ。
セックスで遊びなさい。遊ぶがいい!
もちろん、セックスは「いいこと」だ。非常におもしろい遊びだ。だが、力を得るため、隠れた目的のためにセックスを使ってはいけない。自我を満足させるためや支配するために使ってはいけない。純粋な喜びと高度なエクスタシーを与え、分け合うという目的以外に使ってはいけない。それが愛であり、再創造された愛とは、新しい生命だから!セックスは大いなる愛の表現である。他者への愛、自分への愛、生命への愛の表現だ。だから、あなたがたはセックスを愛すべきだ!(実は愛している−ただ、口にできないだけだ)
わたしはあなたがたに恥ずべきことは何も与えていない
我々には恥ずべきことは何も与えられていない。ましてや我々の身体や身体の機能を恥ずかしがることはない。身体や身体の機能を隠す必要はない。身体や身体の機能への愛も、互いへの愛も隠す必要はない。我々のテレビ番組は裸の愛を見せることを恐れている。裸の暴力を何とも思わないで見せているのにである。