自己分析
それでも。。。よくわからないという人がいるみたいです。そうなんです、たぶん、よくわからない人間だと思うのです。そこで、自己分析をしてみました。「自分のことは自分が一番よくわかっている。」これは真実かも知れないし、嘘かも知れないですね。とりあえず、自分なりに判断した特徴をあげてみます。少しでも、わたしを理解していただくための、お役に立てていただければ幸いです。
自然が好きである。人が好きである。この世界、すべてが好きである。
自然が好きです。子供の頃、よく一人で山の中に遊びにいきました。春、まだ解け残る雪の中から顔を出す蕗の薹、どこからともなく聞こえて来る雪解けの水の流れる音、穏やかに優しく温かい太陽。夏、生い茂る緑の草原、青い青い空を流れてゆく白い白い雲、若草萌える野山、木々の間を渡る風、風に乗って運ばれて来る緑の香り。どこからか囁く小川のせせらぎ、竹林の静かなざわめき、姿の見えない山鳩の鳴き声。秋、山々を赤黄色に染める紅葉、かさかさと音のする落ち葉の絨毯、木々に燈るオレンジ色の柿の実。茶色いいがいがの栗の実。冬、ひっそりと輝く山冬苺の赤い実。葉を落とした木々の躍動感溢れる枝振り、空を白く染め、そして、すべてを覆い隠す純白の雪、すべて大好きです。それは、海でも、同じでした。小笠原の美しく青い海、亜熱帯の明るい太陽が差し込む透き通る青い海中で自由に泳ぎまわるイルカたち、ロタ島の明るく水色に輝く透明な海の中で、白い珊瑚たちのまわりで戯れる色鮮やかな熱帯魚たち。自然は、いつでも、どこでも、美しく、深く偉大で、わたしに感動を与えてくれます。
人が好きです。いろいろな人が、その人にしかない個性を持って、その場所で精一杯、生きています。そう考えただけで、なんて素敵なことでしょう。いろいろな人から、いろいろな影響を受けてきたし、与えてきたと思います。わたしを愛してくれた沢山の人も、抱き合って歓喜をともにした人も、罵り合って喧嘩別れした人も、ついていけなくなってさよならした人も、わたしに愛想をつかして去った人も、いつのまにか連絡の途絶えてしまった人も、すべてわたしにとって大切な人々です。知ってる人も、知らない人も、近くにいても、遠くにいても、必要ならやってきて、わたしに影響を与えてくれます。人間関係、嬉しく、憤怒に耐えず、悲しく、楽しく、苦しく、辛く、切なく、愛おしい、こんな素敵なものはないと思います。相性の良い人も、相性の良くない人もいるけれど、みんな、大好きです。
すべてである。
二極性があるとすれば、どちらでもあるようです。これは、前述のカバラの占いでも出てきました。慈悲深く、冷酷である。余所余所しく、馴れ馴れしい。感情的であり、合理的である。神経質であり、無神経である。流行に敏感であり、人目を気にしない。寛容であり、厳格である。開放的であり、閉鎖的である。保守的であり、革新的てある。女性的であり、男性的である。大人的であり、子供的である。理系的であり、文系的である。筆無精であり、筆まめである。傲慢であり、謙遜である。繁忙であり、暇である。理想主義であり、現実主義である。陽気であり、陰湿である。重たくあり、軽くある。光であり、影である。どれが本当なのかと考えてみても始まらないでしょう。わたしは、すべてなのですから。ああ、本当によくわからないです(^^;
客観的である。
何事についても、極めて客観的で冷静でクールです。もちろん、そうでない場合もあるでしょうが、基本的には客観的です。常にもう一人の自分が、自分自身を観察しています。これは適切な判断をするには有利な場合が多いのですが、反作用として感情がないようにも感じられ、大変冷たく、よそよそしい印象を与えます。まるで人事のように冷淡に言い放ってしまう傾向があるからです。そして、何らかの(おそらくは感情的な)理由より、この客観性がうまく機能しない場合には、支離滅裂な笑うしかない行動を取ります。この客観性の原因について、次のように推察されます。わたしは、もともと感情の起伏が激しいが、それを表に出すと日常生活に支障があるため、普段は感情を心の奥深くに隠蔽し、知識を基にした常識的で客観的な判断を優先させている。
客観性を示す会話の例
友人A「なんか、忙しくて、大変そうだね!」
ゆたか「ええ、そうみたいですね」
友人A「えっ、自分のことでしょ?」
ゆたか「。。。そうです」
個性がなく、鏡になってしまう。
わたしには、昔から個性がありません。こう言うと意外に思われるかもしれません。ホームページを見れば、十分に個性的だし、「あなたは非常に個性的だ。」と言われることもあります。もちろん、誰にでも個性はあるのでしょうが、「いかにも」という強烈な個性がないように感じています。ある友人は、「個性がないのが、あなたの個性です。」と言ってくれました。さて、個性がないとどうなるかというと、まわりにいる人の個性が映ります。誰かが話しているのを聞けば、その話し方が写り、誰かの文章を読めば、その書き方が写ります。誰かの性格を見れば、その性格が写ります(^^;もちろん、このような写り込みは持続するものではありません。これが、わたしの多様性を広げている原因にもなっています。このような顕著な現れかた以外にも、相手の態度、雰囲気、気性が暗黙のうちに写るということがあります。これは少しやっかいです。礼をわきまえた人には、礼をわきまえた対応が返り、無礼な人には、無礼な対応が返ることになります。つまり、人はわたしの中に自分自身を見るのです。もし、自分と全く同じ人間がこの世に存在していたら、どう思うでしょうか。「そんな奴がいたら、ぶっ飛ばしたくなる。」と感じる人は多いようです。もし、わたしに不快を感じるなら、このことを少し考慮してみてください。わたしが貴方の中の、貴方が自分自身で嫌いな部分を写しているかも知れないということです。
洞察力があり、繊細である。
洞察力が優れているかどうかについては、本来、自分自身で(主観的に)判断できることではないと思うのですが、わたしは、これまでの経験から、多くの人よりも優れていると感じています。洞察力が優れていると、相手の些細な言葉、行動から、その人の心情が把握できてしまうことになります。もし、わたしが多くを語れば「よく気がつく人だ、あの人は繊細だ。」と言われることになります。しかしながら、相手の心情がある程度把握できることについて、わたしはあまり重要とは思っていません。確かに、洞察力は微妙な判断の助けにはなるかも知れませんが、相手の気持ちは結局は相手に聞いてみなければわからないことですし、もし必要があるならば、相手に素直に問題を提起したほうが解決が早く、人間関係にも良い影響を与えると考えているからです。繊細であることは、芸術系のワークにおいては細部にまでこだわった作品を作成するのには大切なものだと思っています。ただし、繊細であることは、壊れやすく、疲れやすいことですから、多くは語らず、細かいことは気にしないことにしています。このことは、いいかげんであるという印象を与えていることと思います。
ナルシストである。
自分から、こう宣言する人も珍しいと思いますが、そのように感じています。もっとも、多くの人は、自分で否定しているだけで、本当は自分自身を愛しているのだと思っています。ギリシャ神話ではナーシサスは岸辺に座り、水面に映った美しい自分の姿を見つめたまま動かず、ナーシサス(水仙)になってしまったそうです。それでは、あまり生きている意味がないので、適当にしておいたほうがいいでしょう。しかしながら、自分を愛さず、他者を愛せという古典的な道徳観念には、わたしは同意しません。自分を愛さなければ、おそらく、他者を愛することもできないと感じているからです。少なからぬ人が自分自身のことが嫌いだと言います。つまり、自分を否定しています。「もし、あなたがもっともっとわたしを愛してくれたなら、きっと、わたしも自分自身を愛することができるようになるでしょう。」そう思って、愛を求め続ける人、多くはないでしょうか。わたしは逆ではないかと思っています。「もし、自分を愛することができたなら、もっともっと他者を愛することができるようになるでしょう。」ということです。自分を肯定するのです。そのような考えもあり、いつからか、わたしは自分が好きになりました(^^)
美しいもの、きれいなものが好きである。
対象はすべての分野に及びます。美しい自然、美しい月、美しい星空、美しい風景、美しい植物、美しい動物、美しい石、美しい人、人については、顔、身体、とりわけて美しい心には自然と惹かれてしまいます。視覚的な美しさ、美しい造形、美しい建物、美しい写真、美しい絵画、美しい色、美しいレイアウト、美しいアート、聴覚的な美しさ、美しい音、美しい旋律、美しい演奏、臭覚的な美しさ、美しい匂い、美しい香り、アロマの香り、森林の香り、草の香り、海の香り、味覚的な美しさ、おいしい水、美味なるもの全般、触覚的な美しさ、美しい肌、優しい肌触り、形而上的な美しさ、美しい文学、美しい文章、美しい詩、美しい数式、美しいプログラム、美しい法則、美しい社会、美しいシステム、美しい伝統、すべての美しいものが好きです(^^)
コミュニケーションは下手である。
実際に多くの人々を観察してみて思うのですが、コミュニケーションの能力を指標化できれば、その分布は明らかに正規分布(ガウス分布)になるようです。上位5%に入る人々は、感嘆するほどコミュニケーションが上手であり、下位5%に入る人々はもどかしいほどコミュニケーションが下手です。わたしのコミュニケーション能力は中の下と分析しています。コミュニケーションの能力は個人の性格と過去のトラウマに影響される場合が多いように感じます。コミュニケーションが下手であることの影響は、人間関係においてトラブルが多くなることです。実際に人間関係のトラブルは記憶にありますし、そこまでいかなくても、わたしの対応を不快に感じてしまう人も多いことでしょう。関係各位におかれましては、ご迷惑をおかけ致しましたこと、あるいは今後ともご迷惑をおかけ致すであろうこと、この場を借りまして謝罪致します。その原因としては、表現力の欠如、思いやりの欠如、常識にとらわれない振る舞い、相手との心理的な距離感の読み間違いなどではないかと思っています。
人々のコミュニケーション能力に差が現れる要因について、人々を感覚系のタイプに分類する考え方があるそうです。これは、視覚的、聴覚的、臭覚的、味覚的、触覚的のタイプに分けられるようです。これは、情報の入力、出力をこのような反応で行なうという意味です。情報処理のスピードは視覚的が一番速く、触覚的が一番遅いと考えられます。視覚的なタイプの人は、情報が面的に処理されるので、会話での反応が速く、また途切れることなく話し続ける傾向があるようです。コミュニケーションの上手な人には視覚的なタイプの人が多いような気がします。触覚的なタイプの人は、実際に手で触れてみようとしますから、会話での反応は遅く、言葉少なで、深く感じたり、考えたりする傾向があるようです。わたしは、触覚的なタイプではないかと思っています。
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