和尚

これらの言葉は「存在の詩」(和尚著)より引用させていただきました。興味のある方は読んでみることをお勧めします。


もしあなたが自由であれば 
あなたはもちろん自然でもある 
ティロパは「道徳的であれ」などとは言わない 
彼は「自然であれ」と言う 
このふたつは完全に正反対の次元に属する 
道徳的人間は決して自然じゃない 
そうなり得ないのだ 
もし怒りを感じても 
彼は怒ることができない 
道徳がそれを許さないから− 
もし愛を感じても 
彼は愛することができない− 
彼は常に道徳に従って行動する 
決して彼の自然に従ってじゃない 

解脱とは 
あなたが完璧に自然であることにほかならない 
解脱とは 
何かあなたが 
自分はものすごくたいそうなものを手に入れたんだと言って 
自慢にするようなものじゃない 
それは全く大それたものなんかじゃない 
それは全く並はずれたものなんかじゃない 
それはただ自然であること 
ただあなた自身であることにすぎないのだ 

もしそこに善も悪も何もなかったら 
欲せられるものも避けられるものも何もない 
あなたはすべてを受け入れる 
”ゆったりと自然”になるのだ 
あなたはただ存在とともに漂いはじめる 
どこへ行くでもなく・・・・・ 
目的地などないのだから−−− 
どんな的(まと)に向かうでもなく・・・・・ 
的などどこにもないのだから−−− 

そうすればあなたは 
ありとあらゆる瞬間を 
それが何をもたらすかにかかわらず 
楽しむことができるようになる 
何であれだよ 
覚えておきなさい 

最終的なのは無努力であること 
”ゆったりと自然”であることなのだから−−− 
ティロパが 
”ゆったりと自然に”という言葉で言おうとしていたこと−−− 

自分自身と戦わないこと 
ゆったりと自由でありなさい 
あなたのまわりに 
品性だの道徳だのというワクをつくろうとしないこと 
自分自身を調教し過ぎないこと 
さもなければ 
その訓練そのものが束縛になってしまうだろう 
自分のまわりに牢獄を築き上げないこと 
自由でいなさい 
漂い 
状況とともに動くのだ 
状況に応えるのだ 

自分のまわりに<人格>という衣を着て歩かないこと 
ひとつの固定化された態度を持って歩かないこと 
水のように自由でいるのだ 
氷のように凝り固まらずに−−− 
自然が導いて行くところならどこへでも動き 
そして漂い続けるのだ 
抵抗しないこと 
あなたの上に 
あなたの実存の上に 
いかなるものといえども押し付けようとしないこと 

ところが 
社会全体 
何かしら押し付けることを教える 
善人であれ 
道徳的であれ 
これであれ、あれであれ、と 
タントラは完全に 
社会や、文化や、文明を超えている 
タントラは言う 
もしあなたがあまりにも文化づけされすぎたら 
あなたはすべての自然なるものを失うだろう、と 
そしてそのときあなたは 
ひとつの機械的なものになってしまうだろう、と 
漂うことなく 
流れることもない 
だから、自分のまわりにワクを強要しないこと 
瞬間から瞬間へと生きるのだ 
絶えざる覚醒とともに生きるのだ 
これは理解されるべき深いポイントだ 

なぜ人々は 
自分のまわりにワクをつくり出そうとするのだろうか? 
気を引き締めなくて済むようにだ 
なぜならば 
もし自分のまわりにどんな性格づけも持たなかったら 
あなたはとてもとても醒めている必要があるからだ 
というのも 
一瞬一瞬、決定がされなければならないのだから 
何の既製品の決定も持たず 
凝り固まった態度も持たない 
あなたは状況に応えなくてはならないのだ 
何かそこにあることに対して 
あなたは完全に不用意なのだ 

覚醒を回避することに関しては 
あなたはよくよく目を見開いていなくてはなるまい 
人々はひとつのトリックを編み出してきた 
そのトリックというのが<人格>というやつだ 
自分自身にある一定の訓練を強いて 
醒めているいないにかかわらず 
その訓練があなたの面倒を見てくれるようにする 
たとえば、つねに真実を語る習慣をつける 
そうすればあなたはそれに関して思い悩む必要はない 
誰かが質問をする 
あなたは真実を語るだろう 
習慣で−−− 
しかし習慣から出てきたとき 
真実は死んでいる 
それに生というものはそんなに単純じゃない 
生はとてもとても複雑な現象だ 
ときとして嘘が必要なこともある 
そして、ときには真実も危険なものであり得る 
人は醒めていなければならないのだ 

たとえば 
もしあなたの嘘を通して誰かの生命が救われるとする 
もしあなたの嘘を通して誰も害を受けず 
誰かの生命が救われるとする 
あなたならどうする? 

もしあなたが 
自分は真実でなければならないという 
凝り固まった心を持っていたら 
あなたはひとつの生命を見殺しにするだろう 
生命より貴いものは何もない 
どんな真実も−−− 
どんなものもひとつの生命より貴いということはない 
そして、ときには 
あなたの真実が誰かの生命を奪い得るのだ 
あなたならどうする? 
ただ自分の古いパターンや習慣 
「自分は正直な人間だ」というあなた自身の自我(エゴ)を保つために 
あなたはひとつの生命を犠牲にする 
ただ正直な人間でいるだけのため 
ただそれだけのために? 
それは生き過ぎだ 
完全に気が狂っている 

もし生命が救われるのなら 
たとえ人があなたのことを嘘つきだと思おうと 
そのどこが悪い? 
なぜそんなにも 
人があなたのことをどう言うかを気にするのか? 

なかなか難しいことだ 
凝り固まったパターンをつくり出すことでさえも簡単じゃない 
なぜならば 
人生は動き続け 
変わり続けるのだから−−− 
毎瞬ごとに 
そこには新しい状況が現われて 
人はそれに応えなければならないのだから−−− 

最大限の覚醒をもってそれに応えること 
それがすべてだ 
そして、決定を状況そのものから出て来さしめること 
既製品でなく 
押しつけでもなく−−− 
つくりつけの心を持ってまわらないこと 
ただゆったりと 
醒めて 
そして自然であり続けるのだ 

これこそ本当の宗教的人間の姿だ 
そうでないいわゆる宗教的人間など死人に等しい 
彼らは彼らの習慣によって行動する 
彼らは習慣によって行動しているだけだ 
これはひとつの条件づけであって 
自由じゃない 
意識というものは自由を必要とする 

”ゆったりと”自由であれ 
この言葉をできる限り深く心に刻んでおきなさい 
この言葉に自分を貫かせるのだ 
”ゆったりと”自由であれ 
あらゆる状況にあって 
あなたが楽々と水のように流れられるように−−− 

ある人がマイスター・エクハルトに尋ねた 
「天使たちは天国で何をするんですか?」 
彼は言ったものだ 
「あなたは何という馬鹿者だろう 
天国は祝うための場所だ 
天使たちは何もしはしない 
彼らはただ祝う 
その光輝を 
その荘厳を 
その詩を 
その開花を 
彼らは祝うのだ 
彼らは歌い 
彼らは踊り 
彼らは祝う」 

仏陀がその究極の 
全く究極の悟りに達したとき 
彼はいったい何を達成したのかと尋ねられた 
すると彼は笑って言ったものだ 
「何もないのだよ 
というのも 
私が達成したものはすべて 
すでに私の中にあったのだ 
それは何か私が新しく手に入れたというようなものではない 
それは永劫の昔からつねにそこにあり続けていたのだ 
それはまさに私の本性そのものだったのだ 
しかし私はそれに気づいていなかった 
私はそれに目覚めていなかった 
その宝はつねにそこにあったのに 
ただ私がそれを忘れていたのだ」 

「見よ 野のゆりを想え」
彼は何を言っているのだろう?
それは
「リラックスしなさい
あなたはそのために骨を折ることなんかない」ということだ
実際、何から何まで備わっているのだ

イエスは、もし<あの方>が
大空の鳥の
動物たちの
野生のけものたちの
木々や植物たちの面倒を見ているのだったら
なんであなたが気を病むのか、と言う
<あの方>はあなたの面倒だって見ようとはしないだろうか、と
これがリラックスだ
なぜそんなに未来のことを思い煩うのか?
ゆりたちのことを考えてごらん
ゆりたちを見てごらん
そしてゆりたちのようになってごらん
そうすれば、あなたはリラックスできる

<中略>

もうひとつ別な次元のエネルギーがある
それは動機づけされざるお祝いという次元だ
その目的地は<いま>と<ここ>だ
どこかほかのある場所じゃない
実際には、あなたが目的地なのだ!
実際には、この瞬間よりほかにどんな完成もない
「ゆりたちを想え」−−−
あなたが目的地(ゴール)であって
ゴールが未来になく
到達されるべき何ものもなく
むしろあなたはそれを祝うべきのみであり
あなたはすでに到達している−−−
それがもうある、というとき
それがリラックスだ
動機づけされないエネルギー −−−

西洋では「自分自身を改善せよ」というのがスローガンだ
この世に関してでも
あの世に関してでも
とにかく「改善せよ」とくる
どうやって改善するか
どうやってもっと偉大になったり
もっと大物になったりするか−−−

東洋では我々はもっと深く
まさにこの何かになろうとする努力自体が障壁(バリアー)なのだと取る
なぜなら、あなたの<実存>は
あなたがすでに宿しているものだからだ
何になる必要もないのだ
ただ自分が何者であるかに気づくこと
それがすべてだ
ただあなたの内に誰が隠されているのかを知ること−−−

「改善」?!
何を改善したところで
あなたはいつまでも不安と不幸から逃れられまい
なぜならば
改善しようというまさにその努力自体
あなたをあらぬ道に導いているのだから
それが<未来>に意味を持たせ
<理想>に意味を持たせる
そうして、あなたの心は欲望と化す
欲望して、あなたは道を誤る

欲望を鎮まらせなさい
無=欲望の静寂の淵になるのだ
すると突然、あなたはびっくりする
想いもかけずにそれがそこにある
あなたは腹の底から笑うに違いない
ホーディダルマが笑ったように−−−

たとえば、お腹がすく 
そうしたらあなたは食べる 
これは<行為>だ 
しかしお腹などすいていず 
空腹なんか全然感じないのに 
それでもあなたが食べ続けるとしたら 
これは<行動>だ 
こういう食べ方は暴力みたいなものだ 
あなたは食べ物を破壊する 
あなたは歯を噛み合わせて食べ物を破壊しているのだ 
それはあなたの内なる落ち着きのなさに 
ちょっとした解放を与えはする 
あなたは空腹のせいで食べているんじゃない 
あなたはただ内的な要求 
つまり暴力への衝動で食べているにすぎないのだ 

<中略> 

だがそこになんの空腹もなかったら 
それは<行為>じゃない 
それは一種の病だ 
こうした行動は強迫観念的なものなのだ 
もちろん 
こんなふうに食べつづけられるものじゃないのはあたり前だ 
そんなことをしたらあなたは破裂してしまうだろう 
そこで人々はいろいろなトリックを発明した 
彼らはパン(※1)やジャムを噛む 
彼らはたばこを吸う 
そういうものは栄養価値のないニセの食べ物だ 
しかしそれらは暴力に関する限りうまく働いてくれる 

<中略> 

だがこうした<行動>は 
あなたが何かに取り憑かれていることを表している 
あなたは自分自身でいることができない 
あなたは沈黙にとどまることができない 
あなたは非行動的であることができない 
行動を通して 
あなたは自分の狂気を放出し続けているのだ 
<行為>はビューティフルだ 
<行為>は自然な感応としてやって来る 
生は感応を必要とする 
あらゆる瞬間 
あなたは行為しなければならない 
だが、その行為は 
現瞬間を通してやって来るものだ 
お腹がすいたら−− 
食べ物を求めるだろう 
喉がかわいたら−− 
井戸に行く 
眠気を感じたら眠る 
あなたはトータルな状況の中から行為する 
行為というものは自然発生的でトータルなものだ 

<行動>は決して内側から湧き出て来るものじゃない 
それは<過去>からやって来る 
あなたはそれを何年もかかって蓄め込んで来たのかもしれない 
で、それが現在の中へと炸裂する 
それはつじつまが合わない 
しかし心は巧妙だ 
心はつねに 
これは<行動>じゃないと証明しようとする 
これは<行為>なんだ 
必要だったのだ、と(P182〜P186) 

(※1 パンという木の葉に各種のスパイスをくるんだもの) 

『真理は、決して心地の良いものではない 
 始めのうち、それはきわめて不安なものだ 

 仏陀はこう語ったといわれている 
 「嘘は最初は甘く、最後は苦い 
  そして 真理は最初は苦く、最後は甘い」 
 そのとおりだ 
 仏陀は全く正しい 
 真理は苦いが、真理そのものが苦いのではない 
  
 しかし、私たちはあまりにも長く嘘の中に生きているために 
 真理が訪れたときに自分の嘘が粉々にくだかれ 
 それが痛むのだ 

 真理は妥協することがない 
 真理が訪れるとき、全ての嘘は粉々になるのが定めだ 
 そのため最初は混沌となるが 
 その混沌の中から星々が生まれる 
 その混沌から創造性が生まれる』 
(出典不明)

名言の部屋へ戻る

ホームページへ戻る