サティア・サイババ
これらの言葉は「真実のサイババ」(青山圭秀著)より参照させて
いただきました。興味のある方は読んでみることをお勧めします。
あなた方はみな、神の化身なのだ。わたしと同じように、人間の血
肉をまとった神なのだ。ただそれに「気づいていない」だけのこと
だ。
人間の心は、絶対的で属性のない原理を把握することができない。
この原理は形がなく、言葉や心、そして知性の及ばないものである
。神は人間が神聖であることを示し、人間の手の届くところに来る
ため、人として化身してきたのだ。
神は愛そのものである。神が人の形をとったのは、そうすることで
人が神と語り、神と共に生きるためであり、神に仕え、神を崇め、
神に達し、神に親しみを感じるためである。
あなた方は、欲望によって、あちらこちらと心を動かす。しかし、
わたしには欲望はない。あなた方を解き放ちたいという欲求がある
だけだ。わたしはここにいるのに、なぜ恐れるのだ。苦しむ者はみ
な、わたしの許へ来なさい。あなたが私に一歩ちかづけば、わたし
はあなたに十歩近づこう。
神の化身は、みな不思議な現象を示す。だが、人が化身を化身と認
識しないこともまた、不思議という他はない。さらに驚くべきこと
は、化身が目の前にいるのに、化身として体験する能力を持たぬ者
がいることだ。そして最も驚くべきことは、化身の面前にいながら
、みじめな思いをする者がいることだ。化身の近くにして化身と共
に歩き回り、化身と共に歌ったり遊んだりしながら真実の神の化身
を理解できないとは、まことに不思議なことである。
この肉体において、善良な性質、邪悪な性質を含め、あらゆる性質
が生まれ育った。それらは、同一の肉体にあって成長し、衰え、互
いに敵対する。邪悪な性質と善良な性質が消え去り、あらゆる属性
を脱したとき、人ははじめて平安を得る。だから、「わたし」「わ
たしのもの」という幻想を捨て、不動の平安を享受し、いつも心を
穏やかにしていなさい。
全ては芝居なのだ。神の遊戯、戯れなのだ。神にとって歓びとは何
か。そして苦しみと何か。神の本質は至福であり、神は歓喜も苦悩
も知らない。神は自らの意志により、一切を創り出す。世界という
舞台の上で芝居を上演し、自分自身、さまざまな姿をとって芝居を
演じているのだ。それは心で上演されており、真我は、観る者とし
て一切をじっと見守っている。
奇蹟に重きを置いてはならない。それを過大評価してはならない。
わたしの力は、これらの奇蹟にあるのではない。わたしの力は愛、
それのみにある。わたしにとっては、天を地に、地を天に変えるこ
とはたやすい。だが神聖な力は、みせびらかすためには使わない。
神が化身して現れたのは、人類への愛のためだけである。表面的な
奇蹟はみな、その愛の大海の雫にすぎない。その雫に惑わされては
ならない。海全体を見て、それに浸かりなさい。
もしわたしが単なる普通の人間として来たならば、誰がわたしに耳
を傾けただろうか。だからわたしは、このような人間の形をして、
しかも人間の力と知恵を超越した者として来たのだ。
奇蹟は、わたしの名刺にすぎない。だが面白いことに、この名刺が
なけば、だれもわたしの栄光のかけらにさえ気づかない。
グルは道を照らす光である。そしてその目的地は、神である。現在
の世の中では、真のグルは得がたい。ごまかしのはびこる今の世で
は、教師たちは世俗の煩いを避け、神我実現を求めて隠遁している
のだ。真のグルが大勢いることは事実である。だが、彼らに出会う
ことは希である。
まず自分自身を信じることだ。そして、至高の神を信じることだ。
自分と神を信じるとき、他人がよかろうが悪かろうが、おまえとは
係わりのないことだ。
教えを説く人間が真のグルなのではない。真のグルとは宇宙そのも
の、自然、創造である。この宇宙とそれを構成する全てを教師とみ
なし、互いに学びあわなければならない。
木々は育ててくれた人にも、切ろうとした人にも、等しく涼しい木
陰を提供し、甘い実を与える。こうして、木は我々に、平等心を与
える。山々は、暑い日も寒い日も、風が吹こうと雨が降ろうと悠然
とし、我々に体のことを気にしすぎないように教える。鳥は明日を
思いわずらわず、見つけただけの餌で満足し、暮している。そうし
て鳥は、満足することと、将来を思いわずらわないことを我々に教
える。こうして、自然は、「私」「私のもの」という考えを捨て、
神を最高の師と仰ぐことを我々に教えている。時の流れの最初から
、自然はこれらのことを教えている。だが、人はそれを学ぼうとし
ない。「私の家族」「よその人」といった考えを捨てようとせず、
人類が一体であることや、我々の内にある神聖を認めようとしない
。木々は、最高の教師である。体に執着し、うぬぼれの心を増長す
ることで、人は自然の教訓を忘れ、利己心を募らせてきた。山々は
、暑さ寒さに無関心である。そうして人に、喜びも悲しみも等しく
扱い、神実現のために努力するように教える。楽しみや苦しみは、
体だけに係わるものだ。真我は影響することがない。我々は、人が
生まれ、死んでいくのを見ている。それを常に見ていながら、聞い
ていながら、経験していながら、我々は身体についての幻想から抜
け出すことができない。そして、身体への執着でがんじがらめにさ
れている。肉体のはかなさや移ろいやすさを学ぼうとしていない。
こうしたことを常に教える自然は、真の意味での師といえる。
グルは、必ずしも現実の具体的な形をとって現れるとは限らない。
グルは、より高い想念のインパルスを促し、書物や友人、あるいは
さまざまな出来事を通じて人を導く。それらは一瞬にして真実を解
き明かす。こうした気づきがあれば、後はほとんど求道者次第と言
える。グルは、それを見ていて方向を指し示すだけである。自分の
心を騒がせ、見失ってはならない。わたしは、どんなに遠くに離れ
ていてもあなた方を導く。あなた方はわたしと共にあり、わたしは
常にあなた方と共にあるのだ。
わたしがあなた方の心に入り、心の中を調べてから話すと考えるな
ら、それは大きな間違いである。実際は、わたしはいつもあなたの
心の中にいる。わたしに知れずに、少しでも心を動かすことは、誰
にもできない。
信者が神にその人生を委ね、従うのならば、神は彼の人生の最も細
部に渡るまで面倒を見、責任を負うのだ。その人によるのだ。大き
なエゴを持ち、欲望に依りかかった者には、わたしは距離を置き、
干渉しない。だが、純粋な想念を持ち、純粋な心で神に帰依する者
の人生は、わたしが完全に責任を持つ。
わたしは、全宇宙を手中に収めている。だが、その栄光と威厳を悟
った信者には、一人ひとり、個別に注目しているのだ。全宇宙を掌
握しているわたしが、各々の信者については人生の詳細にわたって
面倒を観るということ。そのこと自体が、わたしの栄光なのだ。
真心からでさえあれば、どのような名を呼び、どのような姿の神を
、どのように礼拝しても構わない。いずれにせよ、それは一つの神
を礼拝したことになるのだ。
グルとは、霊性の教師のことである。グルは弟子に英知を伝えるが
、彼の義務はそこまでである。師の霊的知識を受け、それに応える
のは弟子の務めだ。弟子は学んだことを実践しなければならない。
人が自らの生涯を神に捧げるなら、ちょうど慈愛に満ちた母親が子
供の面倒を観るように、神がその人の面倒を見る。何一つ、思い悩
むことはなくなるのだ。
神の賛歌は、どのような信仰に基づき、どこの言葉で歌ってもよい
。各々は、自分の伝統、自分の国の言葉で、神を賛美するようにし
なさい。
祈りは食事よりも重要だ。空を飛ぶ鳥、吠える獣、地を這う虫、彼
らはみな、自然に養われ成長する。一方、人は創造の頂点ではない
か。被創造物の王者であり、君主ではないか。その人間が、他の被
創造物と同じく食べものを求め、雨露をしのぐだけに生きるならば
、それはなんと嘆かわしいことか。朝起きてから夜眠りにつくまで
、人は際限なく雑用に追われ、騒動を繰り返し、混乱し、心配に浸
っている。そうして、そこから何を得ているのだ。ものごとは紛糾
し、心を騒がせているだけではないか。それが結局、人間だという
のか。いや、そんなはずはない。内なる輝きという高貴な目標を持
ち、自らの愛の灯をともし、その炎を他と分かち合うのが人間では
ないのか。
今日、人生は悲しみに彩られ、人々は恐れと失望に満ちている。そ
こから逃れ、困難に当たる強さを得るには、あらゆる力の源に接す
るしかない。それはすなわち神である。日々の重荷にうちひしがれ
ているうちは、そのような平安と歓びを得ることはできない。諸君
は毎日、思い煩いという巨大な重荷を背負っている。毎日、一時間
、それらを脇へやって、神と共に過ごしなさい。神は諸君の肩の荷
を降ろしてくれる。
あなたの人生そのものが、神の栄光を歌う歌でなければならない。
全身全霊で神の御名を歌い、怒りや貪欲、嫉妬の心で汚れた大気を
、神聖な波動で浄めなさい。
何人かの者が集い、神の賛歌を口にするとき、英知はすでに彼らの
ものである。
この宇宙、すなわち創造には限りがない。それは永遠で、始まりも
なければ終わりもない。それと同じように、神の声、すなわちヴェ
ーダにも限りがない。永遠で、始まりも終わりもないのだ。
10ドルや100ルピーで買えるものは、空を行く浮雲のようなも
のだ。そのようなものに、永続性があるだろうか。あなたの知性を
磨き、統率された修養によって到達したものこそ、財産としていつ
までも残る。そのような永続する宝を求めなさい。
自分の許にすり寄ってくる者に、誰でも彼でも教えを垂れるような
者は、真のグルではない。弟子の過去と未来を考慮せず、その資格
や資質を勘案することなく教えを説くようなことも、真のグルのす
ることではない。
グルは、弟子にその資格が整ったとき現れる。それは自動的にそう
なるのだ。弟子は、果たして自分が教えを受けるにふさわしいかど
うかを知ることはできない。グルが正しい瞬間を知り、弟子を祝福
、救済するのだ。
井戸を掘るのに、30センチ、50センチと掘っては止めていたの
では、結局水脈に当たることはできない。正しい場所を選らんだな
ら、そこを一心に掘りなさい。そうすれば必ず、英知という名の水
脈に行き当たる。
神を呼びなさい。助けてくれるから。神自身がおまえのグルとなっ
て応えてくれるだろう。導いてくれるだろう。神はいつもおまえの
味方だ。神を想い、神を観、神を聞き、神を飲み、神を愛しなさい
。それが簡単な道であり、無知から脱却し、真実の自己を発見する
王道なのだ。
真の瞑想とは、唯一の想念、唯一のゴールとしての神と融合するこ
とだ。神のみ、神のみだ。神を想い、神を呼吸し、神を愛するのだ
。人が「私は瞑想している」と思っている限り、それは心の動きで
あり、瞑想ではない。神と一体となったとき、人はどんな形にもと
らわれず、神と融合する。その課程で、心は自然と停止する。
形あるもの全ての中に、自分の中にあったその同じ光がある。あな
たは光の中にある。光はあなたの中にある。あなたは光なのだ。こ
うしてもはや、人はその身体に限定されず、宇宙全体に広がる。自
我を超えて、自分の光が宇宙の光であることを観ること、それが解
脱に他ならない。
真理を、外に探し求める必要はない。真理は、いつでもどこにもあ
る。人は、真理を探すのではなく、それを生きるべきなのだ。
どの道もゴールは同じだ。道によって方法が多少違うのだ。最初に
、我々はどの瞑想を行なうか、どの霊性修行を実践するかを注意深
く考えなければならない。誰がグルなのか。何がゴールなのか。そ
うして初めて、成就に至るための十分な自信が得られる。そうした
ら、そこに留まり、進みなさい。我々のゴールは肉体的、あるいは
感覚的なものでなく、霊的なものである。そして愛は全てにまさる
。愛は、神への王道なのだ。神は愛なのだから。
神に祈るのはあなたがたの義務だ。あなた方は言葉に出すべきだし
、その言葉は思いと一致したものでなくてはならない。思いは真実
の言葉として発せられるべきだ。神が全てを知っているのはもちろ
んだ。しかし神は、あなた方の心からの言葉を聞きたいのだ。母親
は、生きるためには子供に食べ物が必要なことは知っている。しか
し子供が欲しがったときにミルクを与えるものだ。
苦しむ者には、わたしの恩寵がある。苦しみによってのみ、彼らは
自己の内面に向かい、その探求を始めるからだ。そして、内的に道
を追求すること以外に、惨めな輪廻転生から逃れる術はないのだ。
ちょうど、我々に影がつきまとい離れることがないように、幻想も
また神につきまとい、神から離れることがない。
いつでも、どこでも神と交わること、それが祈り、瞑想の状態であ
る。
心は欲望の織布である。心の平安とは、欲望のないこと、心のない
ことである。いわば、心を無にした状態である。それは実に、純粋
性、意識の完全な純粋性を意味する。どんな霊性修行も、この心の
浄化を目的としている。
今日、人々は、自己の本性以外のものなら何でも知りたがる。しか
し不幸にも、自らの真の姿を知ろうとはしない。人に会えば「あな
たは誰ですか」と問うても、「わたしは誰か」と自分に問うことは
しない。だが、自分自身を知らない者には、「あなたは誰か」と問
う権利はない。そして、真の自己が何かを自覚しないかぎり、至福
に達することはできない。
人に仕えることにより、神に仕えることを学びなさい。人の心には
、神がおられる。人への奉仕は神への礼拝であることを、堅く心に
留めておきなさい。
自分が完全であるかのようなふりをすること、自分の行ないは完全
であるようなふりをして、他人の行ないを指導することは、大変な
罪である。それは、人のためにならないからだけではなく、自分自
身を毒するからだ。だが、人を助ける前に自分が完璧でなければな
らないと考えるならば、それも誤っている。人は自分自身の問題を
認め、他の人を救うことができる。ある人が謙虚に自分の欠点を認
めるならば、他人も助かり、自分自身も助かるのだ。
物質的、精神的、さまざまな形での見返りを期待することなく行動
しなさい。何を為すにつけても真心を込めて行ない、自分が完全に
満足できる仕事をしなさい。その満足こそ、あらゆる報酬とあらゆ
る力を、あなたに与えるだろう。報いは自ずとあらわれる。この点
については疑ってはならない。
人生は挑戦である。戦い抜きなさい。人生は歌である。歌いなさい
。人生は神聖である。実現しなさい。人生は品格である。そこには
一つの、完全な道がある。地上の人生とは、人から神へと至る道で
ある。人間に生まれるという功徳により、次のステップは神を実現
することであるる。人生は神聖であり、最高の徳を身につけること
で、それを味わうべきである。
この世には、四種類の人間がいる。第一にものごとをすべて善いと
言う者。第二に善いことは善い、悪いことは悪いと言う者。第三に
そういう判断を下さない者。以上の者たちには、それぞれもっとも
な点がある。だが、四番目の人々には、どんな人も、どんなものも
、邪悪に映る。彼らには善というものが見えないのだ。
生きとし行ける者は全て、この舞台における役者である。幕が下り
るとき、または役が終わるとき、彼らは舞台から下りるのだ。舞台
では、人は泥棒を演ずるかもしれない。王様を演ずるかも知れない
し、道化者や乞食を演ずるのかも知れない。劇中、これらすべての
役に対し、指示を出す者が一人だけいる。このポイントをよく理解
しなければならない。注意は両方に払うべきだ。実際の役割を演ず
ることと、監督から受ける指示の両方である。
西洋の言葉では「命を失う」というが、インドでは「肉体を去る」
という。西洋では、人は肉体を持ち、肉体に魂が宿るというが、イ
ンドでは、人は魂であり、魂が一時肉体の衣をまとうという。した
がってインド人は、感覚の楽しみと世俗の栄光を追い求める文明や
文化は砂上の楼閣であり、崩れ去る前の僅かな時間輝くだけのもの
と考えている。
死は嘆くべき出来事ではない。それは旅の終わりであり、目的地に
ついたとき、持ち主が車を降りるだけのことである。一つの完成で
あり、少なくともそうなるべき幸福な結末なのだ。ただし、皆が死
をそのように賢明に捉え、そのために準備しているようであればの
話だが。
人は、自分だけが死なないような気がするものだが、それこそがこ
の世で最も不思議なことだ。花は咲いて、散る前に芳香を放つ。と
ころが、人は最期の時が近づくとただしかめっ面をするだけだ。人
も花のように、何か善いこと、輝かしいことをして死ぬべきだ。二
つのことを覚えておきなさい。それは死と神だ。そして、二つのこ
とを忘れなさい。それは、人から傷つけられたことと、人にしたで
あろう善いことだ。この二つのことを胸にしまっておくのは、将来
のためである。これらをしまっておけば、将来その結果が現れる。
我々が考えること、心にとめることが何であれ、我々はその反作用
を経験するのだ。死をいつも心にとめておきなさい。そうすれば多
くの善行を積み、多くの悪事を避けることができるだろう。
死が訪れる時、悲しみは無用である。肉体は、生まれては死ぬもの
なのだ。生命をもたらしたその同じものが死をもたらす。その理由
を知りたいと思うのは、正気の沙汰ではない。神のすることは、「
因果の鎖」を超越しているのだ。通常の理性では、その秘密を解き
明かすことはできない。せいぜいが、推測するくらいのことだ。理
性の領域を超えたものを、どうやって理性が把握することができよ
うか。
心はあまりに厳格に統制しても、逆に勝手気ままにし過ぎてもいけ
ない。そうして我々は、善いことを行ない、悪事に参加するのを避
けるべきだ。善いことと悪いことを見分けつつ、心が両極端に陥る
のを避けなければならない。心と想念の統制はヨーガの基本であり
、常に教えられてきたことである。
心は精妙な道具である。それによって悟りを得ることもできれば、
束縛されることもできる。それは、あなたが心をどう扱うかにかか
っているのだ。
心が外界の対象を追い求めるのは、たった二つの理由による。一つ
は、感覚が対象物に引き付けられるからであり、もう一つは、それ
に我々が永遠のものを重ねて合せて幻を観るからである。それだか
ら心は、何度も何度も、本来のゴールに軌道修正するようにしなけ
ればならいない。
心は幻の源である。心は惑い、束縛される。もしも心が理性に従う
ならば、それは解放され、夢と消える。そして、我々はみな、全て
神であることをはっきり認識することができる。世界が多様に見え
る間は、その誤った認識を正すための修行が重要である。
心は一つの選ばれた神のイメージで固めるべきだ。そのイメージが
銀でできていれば、目も髪も、口も皮膚も、みな銀となる。心は、
その寿型に流し込まれ、神の似姿となるのだ。
心を、そのおもむくままにしてみなさい。ただし、あなたがそれに
振り回されないで、心がどこへ行くかを見てみなさい。心は、しば
らくは気ままにさまようだろうが、じきに疲れて、あなた自身に戻
ってくるだろう。
心は欲望の綴れ織りだ。心から欲望を取り除いてごらん。後にはた
だ、神のみが残る。それが至福の状態であり、人間本来の姿だ。欲
望を少なくしなさい。そうすれば、心地よい旅ができる。
真の教育は、謙虚の感覚を育む。大いなる学びは、大いなる謙虚を
生み出す。謙虚なくして、教育はあり得ない。
神に至ろうとするさまざまな道の間にある憎しみを取り除くのも、
教育の務めだ。神は一つであり、ゴールも法も、真理も宗教も、そ
して理も一つである。
教育は英知を呼び起こす。分別のない単なる知識、識別力の伴わな
い行動、賢明さのない学識、正当でない権力、真実でない証言、調
子はずれの音楽、信仰のない礼拝、良識のない、人格の低い人、謙
遜でない学生、霊性のない講演、これらはみな、なんの役にも立た
ない。
もしも、人の受けた教育が心を耕さず、文化の裏打ちのないもので
あれば、彼は最初から教育を受けていない者よりも劣る。心を開き
、真我を解き明かすものだけが、教育の名に値する。教育により、
感覚をコントロールすることを学ぶべきだ。真の教育は謙遜の心を
与え、そこからあなたの価値が生まれ、霊的な世界だけでなく、こ
の移ろう世界でも幸福を得ることができるのだ。
学問の目的は、自由である。文化の目的は完成である。知識の目的
は、愛である。教育の目的は、人格である。
幸福になるための秘訣は、好きなことをすることではない。するべ
きことを好きになることだ。
幸福は、神と一致することにある。あなたの本質は至福である。そ
のことを知って、いつも快活でありなさい。
邪悪な計画は、誰が立てたにせよ、一時的な幸福を与えるだけであ
る。そして究極の転落へと、確実に導く。
幸せは、自分が人間として何をすべきかを忘れさせる。利己主義を
助長し、そのための罪に陥る。悲しみは人に気づきを与え、注意深
くさせる。したがって、惨めさは真の友だ。幸せは、よいことの蓄
えを食いつぶし、低次元の熱情を呼び起こす。だからそれは、本当
は敵なのだ。
最高の幸せは、内なる平安である。それをどうやって得るのか。自
分が生まれたり死んだりすることのない真我であり、喜んだり悲し
んだり、浮いたり沈んだりすることもないことを知ることによって
である。
人は、他人が不幸でいて、自分だけ幸福になることはできない。人
は、人類という有機体の一部なのだから。自らの繁栄を分かち合い
、他人を苦しみから救うために努力せよ。それがあなた方の務めで
ある。
人類は一つのコミュニティである。自分を傷つければ、みなを傷つ
けたことになる。
霊性は宗教ではない。神への愛である。神の名を唱え、神の賛歌を
歌い、霊性に想いを馳せ、神との合一を欲することで、霊性は育ま
れる。神との合一は、ちょうど泡がはじけて、自らが大海であった
ことに気づくのに似ている。霊性を養うことで、意志の力が生まれ
る。意志力がなければ、知識は役にたたない。
神という言葉は、神が存在することを意味している。もし神が存在
しなければ、このような言葉が生まれ、定着することもなかった。
神が見える者も、見えない者もいるだろう。だが、この言葉自体、
神の存在を意味している。神は遍在である。神は過去、現在、そし
て、未来にいる。神はたった一つである。たった一つの宗教がある
それは愛の宗教である。たった一つのカーストがある。それは人間
というカーストである。たった一つの言葉がある。それは心の言語
である。たった一つの神がある。それは遍在の神である。この神は
不断の霊性修行によって「見る」ことができる。疑ったり、躊躇し
たりしてはならない。修養を行ない、意識を高めることで、あなた
は心にまします神を見ることができるのだ。
神は全てである。全ての形、全ての名が神である。神がいない所は
なく、神のいない時はない。
あなたの周りにいるあらゆる人の本質は神であるが、あなた方は神
を知ろうという努力を一切しない。敬意をもって、他に仕えよ。そ
れが、それぞれの内なる神聖な本質を知る最も簡単な、最高の道で
ある。全ては神の形であり、神の輝きであり、神の子なのだから、
どんな人々にもその親しみを感じるべきだ。互いを切り離す政治的
な境界線がどこにあろうと、全人類の幸福と繁栄を祈りなさい。
神は愛である。だからあなたも愛になりなさい。神と一つになるよ
うに。神は美である。あなたも美になりなさい。内側に汚れたもの
をもたないように。そうすれば、紙と一つになれる。神は慈悲であ
る。あなたも慈しみに満ちなさい。神は甘露である。神の言葉は甘
く、神の見方は甘く、神は甘く響く。神は甘さそのものよりもさら
に甘い。
神はあなたから離れて、遠くにいるものではない。神はあなたの中
に、あなたの前に、あなたの後ろにいて、いなたを手招きし、守り
、導き、注意する。あなたと常に語らい、内なる声を促している。
神を探す必要はない。神は心からの呼びかけに応えるべく、そこに
いる。わたしを呼びなさい。わたしは常にあなたの側にいる。
それぞれの宗教が、各自の定める範囲内で神を定義し、神を理解し
たとしている。それはあたかも、盲人が象に触って、象を説明して
いるのに似ている。
神は不可思議である。外の物質世界で、神を認知することはできな
い。神は、一つ一つの存在の中にいるのだ。神をさまざまに様相を
変えて人の心をじらす現象にではなく、自分自身の奥底に見いだそ
うとしなさい。
心に正義のある者は、人格を育むことができる。人格者は調和的で
あり、秩序を乱すことがない。秩序と規律があれば、世界に平和が
訪れる。したがって平和は、個人個人の人格にかかっていると言っ
て差し支えない。
個人は滅ぶかもしれないが、種は残る。人は死ぬが、人類は残る。
木は倒れ、灰や塵になるかもしれないが、全ての種が滅びることは
ありえない。生命は永遠である。滅亡はあり得ない。
目先の利益だけを追い求めるような態度は、改めなさい。時間をか
けて得られたもののほうが長続きがして、健全なのだ。個人の利益
よりもグループの利益を、さらに村の、社会の、国家の、そして人
類全体の利益を優先させなさい。
心が静まれば、人生は神聖となる。一人一人が人格を高め、正しく
行動するならば、それ以外に何かの革命が必要なわけではないのだ
。
女は、愛と貞節のためならば、命も捧げる覚悟が必要である。清純
で、奥床しく、夫に仕え、夫への愛を育まねばならない。これが、
女の最高の正義である。これがまさに、女として生まれたことの意
味である。
人間や、それに類似の生命体は、この宇宙にはいない。生命は、宇
宙に満ちている。神にとっては、宇宙は一つなのだ。だが、転生は
、宇宙の他のところではあり得ない。いつもこの地球なのだ。
この地上における生命の表現は、人から神へと向かうものだ。人に
生まれたことの徳により、次のステップは、神を顕現することだ。
人間の生は神聖であり、最高の価値あるものと思わなければならな
い。それは生死の輪廻から逃れる特別な機会である。このことは地
球においてのみ起こることだ。この筆舌に尽くし難い、広大な宇宙
においても、このような機会のある星や場所は他にない。地球のみ
の特権なのだ。だが、人々はそれに気づかず、理解しようともしな
い。彼らは知らないのだ。
あらゆる生命体は、人間として生まれることにあこがれる。人間と
しての生を通じてのみ、神が顕現されるのだ。したがって、時間を
浪費するのが最も愚かしい。人は今、ここに生き、今ここに、人生
の究極の目的を達成する機会が与えられている。次はどんなところ
に、どんな状況で生まれるのかは、誰も知らない。それを思えば、
今生の一瞬たりとも、無駄にはできないはずだ。
わたしを目にした後は、必ず静寂を確保しなさい。わたしが通り過
ぎるとき、わたしの力があなた方に注がれている。もし、あなた方
がダルシャンの後でおしゃべりをすれば、この力はそのままわたし
のところに戻ってくる。わたしが見たものは何であれ、力を与えら
れ、変容する。あなた方は日に日に変わっていくのだ。わたしがあ
なた方の間を歩くこと、それは天界の神々も欲してやまない祝福で
ある。それをあなた方は日々受けている。あなた方はそれぞれ、完
全なタイミングでそれを受け取るのだ。
変転きわまりなく、何ごともあやふやなこの世界に、たった一つ確
実なことがある。それは、遅かれ早かれ、我々の全てが神を思い出
し、実現するということである。