TNTの歴史

1982

ノルウェーにあるトロンヘイムでTNTは生まれた。結成当時のメンバーは、ダグ・インゲブリットセン(ボーカル)、ロニー・レ・テクロ(ギター)、スタイナー・エイクム(ベース)、ディーゼル・ダール(ドラムス)。ノルウェーにはハードロックのマーケットはなく、クラブでの地道な活動で観客を増やしていった。ヴァーティゴとの契約によって、ファーストアルバムTNTを発表。歌詞はすべてノルウェー語だった。

1983

デビューはしたものの大した成功は収められず、スタイナーが脱退(後に彼はブロンド・オン・ブロンドやケティル・ストッカン・バンドなどに加入)。残りのメンバーの友人であったモーティー・ブラックが後任となった。

1984

個人的な問題を抱えていたダグと、「世界的な成功を収めるためにはよりよいボーカリストが必要」と判断した残りのメンバーと間に亀裂が走り、ダグは脱退(後に彼はティンドラムなどに加入)。5月に入り、ニューヨークのバンド「ジャッカル」のボーカリストだったトニー・ハーネルのデモテープを聞いたバンドは、トニーのクリアーなハイトーンボイスを気に入り、元MSGのゲーリー・バーデンにほぼ決まっていたダグの後任に決定した。次のアルバムのレコーディングのためにスタジオに入る3日前のことであった。トニーの加入後、ヴァーティゴとのノルウェー国内の契約から、ポリグラムとの世界的な契約となった。そしてセカンドアルバムKnights Of The New Thunder発表。すでに出来上がっていたオケにボーカルを重ねただけだけのトニーであったが、バイキングのイメージを追求するために、ハーネルの名字をハンセンとしてクレジットされている(ダグの英語名がD.D.ダイナマイトだったように)。すべて英語の歌詞になり1枚目よりは洗練されたサウンドで、Seven Seasのヒットもありノルウェーツアーも大成功だった。ニューヨークのマネージメント会社、フリーフォールプロダクションとも契約し、東海岸でのクラブツアーも行った。

1985 - 1986

次のアルバムの製作に入るが、より世界的な成功を夢見たバンドは今までに書いた曲をすべてボツにし、新たに1から書き始めた。

1987

サードアルバムTell No Tales発表。トニーのハイトーンボーカルとロニーのクールなギターがミックスされたポップメタルあるばむで、10,000 Lovers (In One)やEveryone's A Starなどが全米のFM局でもオンエアされた。ストライパーとラウドネスの前座を勤めたクラブツアーの後、トニーとの不仲を理由にディーゼルが脱退(後にティンドラムなどに加入)。後任には、モーティーの旧友でTell No Talesのデモテープ製作時にエンジニアーだったケネス・オディインを迎えた。

1988

ノルウェー版グラミー賞ともいわれるSpellemannspris Awardを受賞。

1989

4枚目にあたるIntuition発表。トニーいわく「TNTのポップさの限界までいった」この作品は、どの曲もキャッチーでメロディック、トニーの歌唱力とロニーのユニークなギターなどがうまくマッチした。デジタルレコーディングを駆使し、プロデューサーであるビョーン・ネッショーのヘルプもあり、ハードロックアルバムの中では抜きんでたクォリティーとなった。まず日本でタイトル曲Intuitionがヒットし、初の日本公演も大成功させた。この時の模様は、1991年に発売になったライブビデオForever Shine Onで堪能できる。しかし、家族といる時間が欲しいというケネスの要求が受け入られ、彼は脱退。「TNTは最有力新人」と言っておきながらろくなプロモーションをしなかったポリグラムのおかげで、全世界でのヒットとはならなかった。日本とノルウェーでの好セールスだけでは満足しなかったポリグラムから一方的に契約を切られることとなる。

1991

レコード契約を失ったものの、1週間後にアトランティックと契約したTNTは、5枚目のアルバムのレコーディングに入ったと伝えられていた。が、実際はかなりのスローペースのためにメンバーにひまができ、モーティーはThin Lizzyのカバーバンド「バッドハビッツ」を結成。自主制作で"Johnny The Fox Meets The Jimmy The Weed"をシングルとして発売した。

1992

ケネスの後釜に、トゥイステッドシスターのドラマー、ジョー・フランコの教え子でもありPITでインストラクターをしていたジョニー・マッカルーソを迎え入れ、アルバムの製作に本腰を入れた。そして通算5枚目のRealized Fantasies発表。楽曲のクオリティーは悪くはないものの、Tell No Tales、Intuitionと続いたポップメタル路線を望んでいたファンのなかには、「ストリート感覚」でブルージーさやグルーブが強調されたこのアルバムには戸惑う人もいた。2度目の来日公演を行ったものの、レコード会社に操られることに嫌気の差したメンバーは、トニーとジョニーの不仲や、ロニーとモーティーのいるノルウェーとトニーのいるニューヨークの物理的な距離からくる問題なども含め、結局バンドを解散させた。その後ロニーとモーティーはBad Habitzのフルアルバムを発表し、TNTの時よりも多い回数ノルウェーで演奏した。ジョニーは日本公演の直前にRiotに参加。アルバムThe Brethren Of The Long Houseでプレーし、教則ビデオNo Turning Backも発売した。

1993

ロニーとモーティーが新しいバンド"Vagabond"を結成した。

1994

ヴァガボンドがデビューアルバムVagabondを発表。TNTとはまったく違ったプログレ系のロックについていけなかった元TNTファンも多かった。トニーはアル・ピトレリらと組んだアコースティックプロジェクトのアルバム"Morning Wood"を発表。ハードロックボーカリストだけではない広い実力を見せ付けた。その後もディープ・パープルのトリビュートアルバムなどにも参加。ロニーとモーティ組は、ノルウェー人ジャズギタリスト、テリエ・リュプダルとのアルバムRypdal & Tekroを製作、ツアーも行った。.

1995

ヴァガボンドが2枚目のA Huge Fan Of Life発表。TNTのようなキャッチーなハードロックのこのアルバムでロニーのギターも炸裂し、ファンも納得した。

1996

ポリグラムが日本でのみTNTのベスト盤Till Next Time (The Best Of TNT)を発売。好セールスを記録し、ロニーとトニーの話し合いの結果、4年ぶりについに待望のTNT復活となる。サポートドラマーはフロード・ハンセン、サポートキーボードはおなじみのダグ・ストッケを迎えたアルバムの製作に入った。大晦日にノルウェーのテレビ番組に出演し、Fireflyと呼ばれる新アルバムからの曲を演奏した。

1997

TNT復活後初のアルバムFirefly発表。90年代がかった作品にファンの間では賛否両論が生まれたが、真のTNTファンはどの曲もトニーとロニーの「マジック」でしか生まれないメロディックな音楽ということを見抜いており、快く受け入れられた。ノルウェーツアー、日本ツアー共に大成功させ、次のアルバムの製作にかかろうとした矢先、「ソロ活動に専念する」ことを理由にトニーが突然の脱退。「新しいボーカリストを探してTNTを続ける」とロニーとモーティーは言ったもののそう簡単にトニーの後釜が見つかるはずはなく、TNTとしての活動は暗礁に乗り上げた。だが、Rypdal & Tekro IIなどでミュージシャンとしては精力的に活動を続けた。

1998

9月24日、TNTのマネージャーからEメールが届いた。「トニーをボーカルに迎えて、TNTは新しいアルバムの製作に入ります。」1年ぶりにトニーが復帰。早速ロニーとトニーはスペインへ飛び曲作りを始めた。その間に、ロニーの待望のソロアルバムExtra Strong Stringがノルウェーでリリースされ(後に日本でも)、トニーのTNT脱退の原因だったソロプロジェクトはWestworldという形で現れた。トニーはセガのゲーム機ドリームキャスト用のゲームのサントラSongs With Attitudeにも参加し、ファンにとっては次のTNTのアルバムを待つ間の前祝いとなった。

1999

スタジオアルバムとしては7枚目となるTransistorが8月に発売になった。いつものように「TNTらしさ」がでたアルバムだったが、それでもIntuitionやTell No Tales時代とは曲調が違っており、売上も伸びなかった。日本はおろか、本国ノルウェーでさえもツアーは行われず、しばらくの間TNTとしての活動が停止することになる。

2000

春に"Big Bangと呼ばれる2枚組のアルバムの発売が予定されていたが、アメリカでのレコード会社とのいざこざから契約を切られるはめになり、結局発売は中止。一方でトニーのWestWorldは2作目を発表し、12月に日本で2回公演する予定。ディーゼルのたっての希望により、彼がドラマーに復帰。ロニー、モーティーと3人で、TNTの次回作のデモを精力的にレコーディングしている。リプダル&テクロの3作目もレコーディングされており、来年早々の発売になると思われる。

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