ニューヨークのミュージシャン、アート・リンゼイの弾くエレクトリック・ギターとは何か?
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水口政美によるドキュメンタリーヴィデオ作品"Public Movie"では、1998年リスボン世界博においてArto Lindsayがキュレートをつとめたミュージック・シリーズを収めている。そのなかで、Arto自身のバンドの演奏のうちこの曲"Whirlwind"については、いくつかのライブ・テイクを継ぎ接ぎしながら、上記のようにまとめている。 1945年にニューヨークに生まれ、宣教師であった両親の仕事の関係で3歳から17歳までの間をブラジル北東部の町レシーフェで過ごす。18歳で帰国し、フロリダの大学に進学後、ニューヨークに戻り、1978年に結成したバンド"DNA"においてデビュー。 少年期をブラジルで過ごし、現在でも一年のうち数ヶ月をブラジルで過ごすという彼にとってブラジル音楽とその土壌としての文化の影響についても注記を要する。ボサノヴァの名曲をさらりと歌ってみせ、自身でポルトガル語の詩を書き、曲をつくり、あるいは現在ではCaetano Veloso、Marisa Monte、Gal Costa、Carlinhos Brownら多くのブラジルのミュージシャンたちのプロデュースも手掛けることによって、それらを世界に紹介する役割も果たしている。日本においても坂本龍一との親交があつく、彼のアルバムに多く参加しているほか、テイ・トウワ、葉加瀬太郎、大貫妙子、中谷美紀、ゴンチチなどのプロデュースや作品提供もおこなっている。 彼の詩の世界はCaetano Velosoに代表されるようなブラジルにおいて最も知的なミュージシャンたちの直系といえるもので興味深いが、ここで特に問題としたいのは、「ギタリスト」としてのArto Lindsayである。 現在多くのミュージシャンに信頼をおかれ、多くのプロデュースを手掛ける彼は、実は自らの声以外には、正確な意味においては「演奏できる」楽器を持っていない。ギタリストではあるのだが、あらゆる意味において、彼のギターは通常の「ギタリスト」の範疇を逸脱しているのである。 「通常の意味でギターを演奏することができない」。「チューニングをおこなわない」。「コードを鳴らさない」。彼のギターはいつも否定形をもって説明される。そしてその音を表現するために次に出てくる言葉は「ノイズ」。「彼はノイジーなギターをかき鳴らし…」。 2 ここでエレクトリック・ギターという楽器について考えてみよう。 音楽の歴史をみるとき、楽器の発達とそれを支えるテクノロジーという一側面がある。たとえばモーツァルトの時代、チェンバロという楽器は貴族のサロンの場といった限られた空間と聴衆を前提とし、それ以上に大きな空間では音量的に無理であったのだ。そこにピアノという楽器が登場し、大きな音を出すことを可能とし、音楽ホールでの演奏会という形式への道を拓く。ピアノはその名前「Piano-Forte」自身が明快に示しているように、微かな音量から非常に大きな音までダイナミックレンジの広い、幅広い表現力を持ちえた楽器であった。そして、その楽器に非常に高い張力で数多くの弦を張るには、鋳鉄によるフレームの製造技術が不可欠であったわけであり、ピアノという楽器は当時の最新のテクノロジーの成果だったのである。 エレクトリック・ギターもまた、そのような文脈において興味深い楽器である。 ガット(羊の腸)弦ではなく、金属弦が張られているということ、すなわちエレクトリック・ギターの音が金属由来であるということにも注意をしておきたい。 金属はその鈍い光沢もさることながら、その特有の金属音が人々に畏怖の念を思い描かせたのではないか。他の音に比較して非常に複雑な倍音構成をもつ「キーン」という音。 しかし実際には、エレクトリック・ギターがそのように特異なものとして扱われることは稀である。アコースティックギターと同じように語られ、それと代替可能なものと認識されている。なかにはジャズ演奏などに用いられる「セミ・アコースティック・ギター」などもあるくらいである。これは、共鳴器をもったギターであり、それを電気的にピックアップするというプロセスを踏む面ではエレクトリック・ギターなのであるが、よりアコースティックに近い響きを獲得できるのだという。 多くのロック・バンドが、エレクトリック・ギターを採用している。しかしそれは一義的には、アンプフィルターによる自在なボリューム制御という恩恵にあずかるために採用しているにほかならない。彼らの弾くコードでさえ、アコースティックのものとなんら変わりはない。 しかしここに、もっとラディカルにエレクトリック・ギターを弾くギタリストが居る。Arto Lindsayにほかならない。
彼のギターは本質的に即興であるから、その効果はライブ演奏においてもっとも効果が発揮される。 音楽が何らかの意味で人間の快楽の感覚と関わっているとするなら、すぐれた音楽についてエロティシズムを語ることもできるはずだ。バッハの対位法の音楽が感覚を飛翔させる力をエロティックと表現することは十分に可能だし、ワーグナーのオペラや、あるいは負のワーグナーであったというべきスクリャービンらについては、その点において確信犯であったというべきだろう。 現代の「鍛冶」。エレクトリック・ギターに秘められていた無数の金属の剣を初めて白日の下に曝したミュージシャン。彼のことをそのように評価しておきたい。 彼は決してアヴァンギャルドを目指していたようなわけではない。ただ単に、つねに音楽的にラディカルであったのだ。それがあるときには前衛的なフリー・ミュージックとして、またあるときには甘く詩的なメロディーとして現れたというだけなのである。
そして彼のギターは、我々に「自由であること」について考えさせざずにおかない。 フリーミュージックを演奏すること。そのうえでフリーミュージックから自由であること。ボサノヴァを演奏すること。そのうえでボサノヴァから自由であること。自らの音楽的な感覚とラディカルなエレクトリック・ギターを頼りとして、自由であること。あるいはそれを言い換えて、音楽的なるものの根源を目指すこと。それがArto Lindsayの仕事である。
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最終更新日02/02/08