1990年春、トッド・メイフィールドはシカゴの銀行を辞めて、アトランタに移り住む。彼は大学で経営学を専攻した経験を活かして、再興されたカートム・レーベルを、父親の代わりに経営することになっていた。同時に、父親のコンサート活動のブッキングも、彼の担当する業務になった。父親とは、言うまでなくカーティス・メイフィールド、インプレッションズ時代からソロに至る活躍で、シカゴソウルの第一人者として名声を築いた人物である。
ソウル界のオールドスクールの勢いが低調になった80年代、カーティスもアルバムを時々発表する以外は、あまり表舞台に登場することはなかった。イギリスではポール・ウェラーやブロウ・モンキーズをはじめ、ソウルの影響を受けた若手ミュージシャンのおかげでちょっとしたカーティス・ブームが生まれたが、本国アメリカではレコード契約もない状態がしばらく続いた。
その状況が変化し始めたのは、80年代末のことだ。台頭するラップ・ミュージックの世界で、カーティスの昔の仕事に対する注目が高まった。88年にイチバン・レコーズと配給契約を交わし、6年ぶりにカートム・レーベルが復活する。90年2月には久しぶりの新作『テイク・イット・トゥー・ザ・ストリーツ』を、カートムから発表した。
同じ年には、映画「リターン・オヴ・スーパーフライ」のサントラにも4曲提供する。この映画は映画「スーパーフライ」の続編という位置付けで、旧作の方はカーティスの担当したサントラで話題になった。
サントラ盤の発売が予定されていた8月13日、カーティス・メイフィールドはニューヨークの野外ステージに出演することになっていた。5年ぶりの新作発表に合わせたライヴ活動の一環で、アメリカ国内ではほぼ10年ぶりの表舞台、その後はヨーロッパツアーの予定も決まっていた。
この日のライヴは、ニューヨーク州議会上院議員のマーティン・マーコウィッツが毎年夏に主催している無料コンサート・シリーズの一環で、ブルックリンのウィンゲート・パークで行われた。同じ日に出演したのは、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ、イントルーダーズ、デルフォニックスで、カーティスはトリを務めることになっていた。
13日の朝、アトランタの事務所に残っていたトッド・メイフィールドは、ニューヨーク市内を車で移動中の父親に電話を掛けた。後にトッドが語ったところによれば、このとき2人は次のような会話を交わしたという。「そっちの天気はどうだい?」「曇り気味かな。ちょっと暑くてぼんやりした天気だ。」「分かってると思うけど、契約書には、雨が降ったときはステージをやらなくても、出演料はもらえることになっているからな、親父。」「ああ、分かってるさ。」
夜7時半にコンサートが始まる頃までには、ニューヨークの空はすっかり曇っていた。ハロルド・メルヴィンが出演を終えた一時間後には、今にも雨が降りそうな天気だった。主催者のマーコウィッツは、コンサートの途中で雨が降り出すのを予想して、早めに目玉のカーティスを登場させることにする。すぐ雨が降ってきて公演が中止になっても、カーティス目当てで集まった客に、1、2曲はカーティスの歌声を聴いてもらえるからだ。当日会場のグラウンドには、約1万人の観客が詰め掛けていた。
辺りの風は強くなり、嵐が近づこうとしていた。とはいえ、メイフィールドたちは、悪天候自体をそれほど危惧していなかったようだ。先にバックバンドがステージに上がり、「スーパーフライ」のイントロを演奏し始めた。まもなくシンバルが強風に煽られ、ドラマーはシンバルを押さえながら片腕でドラムを叩き続ける。バンドの演奏をバックにカーティスが遅れてステージに上がり、中央に向かう。マイクを手渡そうとするマーコウィッツに後数メートルというときに、その事件は起きた。
野外ステージを照らしていた照明用の櫓が強風で揺れ、突如ステージ中央に転倒したのだ。マーコウィッツとカーティスの2人は、叩き飛ばされた。動けなかったのは、カーティスの方だ。ドラマーに「大丈夫か?」と聞かれたカーティスは、「だと思う。けど、動けない」とつぶやいて、そのまま意識を失ってしまった。この事故でカーティスは一命はとりとめたものの、脊椎を損傷し、手足がすべて麻痺した状態に陥ることになる。
その後の療養生活は実に厳しいものだった。1ヶ月後に物理療法を始めたが、体が以前のように動くようになる見込みはなかった。アトランタにある全米有数の脊椎センターで4ヶ月間リハビリ治療を受け、その後アトランタの自宅に移されて療養を続けたが、治療費は莫大なものだった。「ピープル・ゲット・レディ」をはじめとする過去の代表曲の印税で、なんとか賄った。
おそらく最も大変だったのは、カーティス自身の心の中だ。事故から数年後、やっとマスコミに当時のことを語り始めたカーティスは、事故に遭って最初に心に決めたのは「生き続けよう」ということだったと述べている。最初は、体が動けないだけなら、不自由でも何とか生きられるという楽観もあった。だが、実際には合併症からくるさまざまな痛みに絶えず襲われた。
この状況に意志が挫けそうになったことを、カーティスは正直に告白している。「ときどき目に涙がわいてくるのは仕方ない。心ではいろんなことをやりたいと思っても、体がいうことをきかないんだ。だから、『もういい、そろそろ終わりにしたい』という気持と常に葛藤してる。耐えなきゃいけないんだ。それまでいつも自立して生きてきた人間が、完全に人に頼らなきゃ生きられないっていうのは辛いことだよ。」
同時に彼は、落ち込みそうになる気持をこらえながら、運命に抗わずに穏やかに日々を過ごす生き方を実践した。その背後には、不自由になった彼を献身的に支えてくれる妻をはじめとする周りの人々への感謝の気持も働いていた。「僕は一度死んで、また目が覚めたようなもので、そのとき、見知らぬ人達も含めて皆が、僕に愛を注いでくれるのを感じたんだ。」
「生き長らえるってことは、要は年取りながら生きることさ。それと、家族が増えるってことかな。後はどうせもともと何も保障なんかされてないんだ。」「だから、僕はとにかく前向きに生きるさ。まぁ元気でやってるよ。」
悲劇に見舞われたカーティス・メイフィールドを勇気付けるかのように、音楽業界は遅ればせながら次々と彼の過去の功績に敬意を表し始めた。ロックンロールの殿堂は、カーティスが在籍したインプレッションズを91年、そしてカーティス個人を99年に、それぞれ殿堂入りさせた。トリビュート盤も2枚制作され、アレサ・フランクリンからエリック・クラプトンまで錚々たるミュージシャンが彼の曲をカヴァーした。
そして、95年のグラミー賞授賞式で生涯功労賞が授与されたときには、車椅子姿ながら、カーティス本人が久しぶりに公の場に登場する。黒人の苦悩を投影しながらも同朋を励ます音楽を世に送り続けたミュージシャンとしてのカーティスの過去と、自らの悲劇的な出来事を乗り越えて生き続ける現在の彼の姿とが重なり合った瞬間だった。
96年に『ニュー・ワールド・オーダー』という新作が発表されたのは、ほとんど奇蹟のような出来事だった。数行毎しか歌えないカーティスをスタッフは辛抱強く待って、別々に録音された断片をパンチインという録音技術でうまく繋げ合わせた。この作業を、ナラダ・マイケル・ウォルデンやロジャー・トラウトマンといった一線で活躍する後輩たちが支えた。カーティスに対する人々の敬愛と、最新技術が生み出した復活作だった。
トレードマークだったギターも弾けなくなってしまった。大きな声を上げるのも難しかった。それでもカーティスの歌声には、芯が通っている。聞く者の心を少しだけ明るくできる優しさを湛えている。最後の新作だと密かに心に決めて仕上げたアルバムには、稀代の表現者としてのソウルが込められていた。
「自分が駄目な奴だと思ったら、自分をマシにすることさ
いつも幼稚に振舞っていたら、誰も心の内なんか分かってくれない
いつもいざこざとけんかばかり、それで本当に心の平和を求めているのかい
子供の頃を思い出すんだ、何をやっても楽しんでただろう?」
「太陽の輝きを見るために、ときには外に出てごらん
別に物事を分かろうとか理解するためじゃない
気持を安らかにして、これからのことを祈りながら
人生の意味を少し見つめるために
「人生を知るのは、実際には辛いことさ
でも、あきらめちゃえと思っても、駄目じゃないかと思うんだ
止まるのはよすよ、立ち止まらない
楽しんだっていいのさ、それがなくなったら人生はひどくつまらなくなる
だから気楽に、ありのままで」
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語りかけるような歌声は、説教よりも力強く響いてくるはずだ。
それから3年後、1999年12月26日、カーティス・メイフィールドは自宅に近いジョージア州の病院で息を引き取った。亡くなったときは、まだ57歳だ。ただ彼の体を襲っていた苦痛を思えば、ファンの目には、よく頑張ったと映ったはずだ。後には、彼の音楽だけが残っている。「君をとても誇りに思うんだ」「さあ、用意はいいかい、列車が来るよ」「前に進むんだ」・・・
亡くなる2年前のインタビューで、彼はこんな言葉を残している。「辛いこともあるけど、人間はちょっと笑ってみたり、泣くことを覚えたりの毎日だ。大事なのは単純なことさ。大地で生活しているってことは、それだけですごく力強いことなんだ。」 カーティス・メイフィールドは、自分の苦しみに向き合っているときも、人々に勇気を分け与えてくれる、そんな温かい空気に満ちた人だった。
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