linkbanner Updated on July 24, 2003

 

Levon Helm
リヴォン・ヘルム


リヴォン・ヘルムは、その夜も、クラブに出演して客の前でドラムを叩いた。不器用だとしても、心を許した朋友に哀弔の意を示すには、それこそが彼らしい表現だったのだ。自分はまだ何とか音楽を続けているよ、そう語りかけるように、黙々とリズムを刻み続けた。1999年12月15日、リック・ダンコが二度と目覚めなかった朝から、まだ5日目のことだった。

Rick Danko, 1998
(写真は、晩年のリック)

その数時間前、同じ日の午後に、リックの音楽葬が執り行われた。場所はウッドストック近郊のベアズヴィル・シアター、参列者は500人にのぼった。リックを偲んで演奏したのは、縁の深かったジョン・セバスチャンアーティー・トラウムケイト・テイラーらだ。

ザ・バンドの生き残った3人の創立メンバーも、久しぶりに顔を合わせた。ロサンジェルスから飛行機で駆けつけたロビー・ロバートソンは弔辞を述べて、彼のようなベーシストと一緒に活動できたことを誇りに思うと語った。

だが、ロビーの言葉を聞きながら、リヴォンは苦々しい思いを抱いていた。なぜリックは早死をしたんだ、なぜ苦労を重ねて死ぬまで働き続けたんだ、それはお前のせいじゃないのか・・・そんな突き刺さるように厳しい問いを胸に、このかつての仲間のことを見つめていた。

2人の仲は決して昔からこんなだったわけではない。ザ・バンドのメンバーで最初に一緒に組んだのは、ロビーとリヴォンだ(写真)。グループに少し遅れて加入したリック・ダンコは、生前こう語っている。「2人の絆は非常に固かった。仲間、いやほとんど家族という感じだった。2人の生み出すエネルギーは、そばでみていてもすごく気持よかったよ。」

Robbie Robertson and Levon Helm

その2人を引き裂いたのは、ザ・バンドの解散だった。ロビーはリヴォンに、毎日ライヴであちこち渡り歩く生活から足を洗いたいと告げた。「いつまでも、こんな生活をしていられないよ。」 それが、ロビーの結論だった。

リヴォンにとって、これは寝耳に水の話だった。ロビーは自分が巡業生活を卒業するだけでなく、ザ・バンドの歴史に美しく幕を引こうと考えていた。リヴォンは猛烈に反発した。

「俺はミュージシャンなんだ。そういう生き方をしたいんだよ。・・・お前のポリシーだか何だか知らないが、バンドの可能性を叩き潰して、俺たちの生き方まで変える権利はないんだ。」 

1976年以来、リヴォンはこの態度を頑なに貫いてきた。『ラスト・ワルツ』は撮影後に多くのオーヴァーダブが行われたが、彼は作業にまったく協力しなかった。94年にザ・バンドがロックンロールの殿堂入りを果たしたときも、リヴォンだけは欠席した。もちろん昨年『ラスト・ワルツ』の完全版がリリースされたときにも、ロビーの横に彼の姿はなかった。かつてのボス、ロニー・ホーキンズをはじめとする身近な人間からは、そろそろ批判の矛を収めたらどうかという忠告も受けたが、今もリヴォンの怒りは収まっていない。

リヴォンの心の叫びは、自分の生き方を賭した悲痛な訴えだ。ミュージシャンはいつまでも路上に立たなければならない、老いぼれて体を壊しても、動けるうちはファンの目の前で音楽を伝え続けたい、そんな真直ぐな思いを抑えつけられたことに対する怒りだ。

何よりも彼は、ロビーの独断ぶりが気に食わなかった。みんなで一緒に作ってきた音楽じゃないか、それをどうして一人でバンドを終わらせ、一人でグループの代弁者になろうとするのか、それがリヴォンには許せなかった。

Robbie Robertson2人の間には、いつしか埋めがたい溝が生まれてしまった。しかし、今から思えば、もともとザ・バンドの魅力というのは、異なる要素の絶妙な結びつきで生まれたものだ。このグループで生粋の南部生まれはリヴォン一人だが、彼だけではザ・バンドの音は生まれない。

リヴォンとリック・ダンコのリズム隊は絶妙に呼吸が合っていた。初期のヴォーカルのメインは、リチャード・マニュエルの甘い歌声だった。ガース・ハドソンは豊穣なオルガンの音色で魅せながら、時にはサックスまで駆使して独創的なアイディアをそっともぐり込ませる名演奏者だ。

そして、ロビー・ロバートソン(写真)の知性こそは、メンバーの多彩な要素を繋ぎとめてザ・バンド独特の世界に仕上げる鍵だった。グループのオリジナル曲の大半を書いたのは、ロビーだ。

エリック・クラプトンをはじめロック界の第一人者たちを虜にしたザ・バンドの魅力の秘密は、生前のリック・ダンコの次の言葉に隠されている。

「ザ・バンドでは俺たちはいつもお互いの音を聴いて、お互いを補い合って、バランスをとっていたんだ。マーシャル・アンプを並べて耳をつんざく大音量を出すのが流行りだった時期に、俺たちはビッグ・ピンクの地下で、楽器の間のバランスを探っていた。例えば、リヴォンは俺がバックビートを埋める隙間を残しておいてくれた。奴はドラマーってだけじゃなくて、ベーシストの頭を働かせることも出来るからね。」

この絶妙のバランスの後退とともに、ザ・バンドは徐々に輝きを失っていった。最初に解散を言い出す「悪者」の役を演じたのはロビーだったが、自分たちの変化はメンバーがそれぞれに薄々気付いていたのかもしれない。リックは『ラスト・ワルツ』の映像にも記録されているように、メンバーでは一番早くソロ作にとりかかった。ロビーはマーティン・スコーセッシと親交を深め、映画音楽の世界に参入する。

ハリウッドの住人になったロビーに比べれば、他のメンバーのその後の暮らしは決して楽でなかった。『ラスト・ワルツ』や再発されたCDが今後売れても、ロビー以外のメンバーに印税は入らない。彼らはザ・バンドが解散したときに、当座の活動と生活のために、過去の作品の著作権を売るしかなかったのだ。リックのソロ活動は軌道に乗らず、晩年の彼は家も手放して、苦しい生活を強いられた。

リチャード・マニュエルの神経衰弱はザ・バンド時代にすでに表れていたが、グループの解散でそれはさらに強まった。「俺たちはちょっと休暇をとるだけだと思っていたのに」と嘆くリチャードに促されるように、ザ・バンドはロビーを除くメンバーで83年に再結成したが、その3年後リチャードは、ツアー先のホテルで自殺してしまった。その前の晩、彼はリヴォンに「自己嫌悪ほど辛いものはないよ」と語ったという。

ザ・バンドに最も思い入れの強かったリヴォンは、南部系のミュージシャンを集めてソロ活動を始め、78年には来日も果たした。さらに83年からは再結成ザ・バンドを率いて、日本を含む世界各地を公演した。だが、往年のザ・バンドに比べれば、どこか精彩を欠く音になったのは否めない。

久保田麻琴、リヴォン・ヘルム、細野晴臣
(写真は、78年来日時に行われた久保田麻琴『セカンド・ライン』のセッション風景。左から久保田、リヴォン・ヘルム、細野晴臣。)

87年になってやっとソロ活動を始めたロビーは、ハリウッド的とも言うべき人工的な音世界を作り出し、ザ・バンドからの卒業を印象付けた。ロビーが自らの音楽的なルーツを探ったときに辿り着いたのは、ザ・バンド時代に夢中になったカントリーやR&Bよりも、幼年期の記憶に残っていたネイティヴ・アメリカン系の伝統音楽だった。ロビーの母親は、モホーク族の出身だ。

98年の『ジュビレーション』を最後に、再結成ザ・バンドも幕を閉じた。リヴォンはこのアルバムの録音を終えてすぐ、97年夏に病院を訪れる。彼は最近歌うのが辛くなったことに気付いて、診断を受けたのだ。結果は、声帯のガンだった。Amy Helm何とか手術を免れて放射線治療で一応完治したが、今も声はしゃがれていて、普通の会話でも十分に声を出せない。あの燻しの効いた歌声を、彼が取り戻せるかどうか、今は何とも言えない。

それでもリヴォンは音楽を続けている。現在の彼のバンド、バーン・バーナーズでヴォーカルをとるのは、エイミー・ヘルム(写真)、リヴォンがリビー・タイタスと結婚していた時にできた娘だ。彼女も今年33歳、病気の父親を支える頼もしい娘に育った。娘が歌う陰で、そっと自分も一緒に口ずさめるだけでうれしいと、最近のリヴォンは語る。

リヴォンの住まいは、今もウッドストックだ。彼の往年の自宅スタジオは火事で焼失してしまったが、ほとんどそっくりに再現したスタジオが今の家にもある。気さくな性格の彼は、病気になる前は毎年1回、大々的なバーベキュー・パーティーを家で開いて、そこには仲間のミュージシャンだけでなく、修理屋や大工といった街の人々もたくさん集っていた。

歌を歌うのは一苦労になったが、演奏する気力はまだまだ十分だ。音楽仲間が彼の家を訪ねると、リヴォンはすぐドラムに座るか、マンドリンを手にとって、即興で演奏を始めるらしい。ドラムを叩くときのリヴォンは、すごくいい顔をしている。リック・ダンコに目で合図しながらビートを刻んだあの笑顔は、今も健在だ。

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Levon Helm

ロック界に多大な影響を残した
ザ・バンドのドラマー兼シンガー

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