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Updated on December 25, 2001 |
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永遠のヒッピー ジョージ・ハリスンの遺灰が本当にガンジス川に流されたのか、結局その真偽はまだ明らかではない。それでもこんな噂が出回る事実が物語るように、ハリスンは最期までインド文化の熱心な理解者だった。ハレ・クリシュナ、菜食主義、インド音楽、そして最初のインド訪問以後たくわえ始めた口ひげまで、彼の周辺にはインドの影響が随所に残っていた。かつてインドは世界のヒッピーの聖地と目され、60年代後半には多くのロック・ミュージシャンがシタールや東洋思想に熱を上げた。しかし、ラブ&ピース、LSD、そしてサイケの時代の終わりとともに、多くの若者たちもインド・ブームから次第に離れていった。だが、ハリスンの姿勢は筋金入りだった。かつて彼は次のように語ったことがある。 「多くの人にとってはただの流行だったかもしれないけど、僕にはもっと追求してみたい情熱があった。」 彼の生前の志に従って、ハリスンの亡き骸はインドの伝統衣裳に包まれ、ハレ・クリシュナのお経に送られて火葬に付された。
しかし、シャンカールの世界的な知名度を決定的にしたのは何よりも、当時まだ現役でビートルズとして活動していたジョージ・ハリスンとの交流だった。多くのロック・ファンから注目されるようになったシャンカールは、1967年のモンタレー・ポップ・フェスティヴァルに招かれ、続いてウッドストックに出演した69年には、ビルボード誌の「ミュージシャン・オヴ・ザ・イヤー」に選ばれるに至った。 他方で二人の交友関係は、ハリスンにも変化をもたらし始めた。ハリスンが口ひげをはやし始めたとき、当初ビートルズの他のメンバーは相当からかったようだが、アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(67年)を発表する頃までには、他の3人も揃って口ひげを生やし始め(写真)、68年には4人でインドに修行に向かった。 それまでビートルズの年下のメンバーと目されてきたハリスンに、人々はこの頃から次第に、個性と自己主張を見出し始めた。ハリスンの存在感の高まりは、音楽面にも表れた。66年のアルバム『リボルバー』には、ハリスンの作品がはじめて3曲収録され、特に「ラヴ・ユー・トゥ」は、シタールとタブラが前面に出て、ロックにインド伝統音楽の要素を取り込む実験的な作品となった。
ハリスンがシャンカールと初めて直接会ったのは、1966年春、ロンドンでのことだ。この時、シタールを身に付けるには独学では無理だと説かれ、ハリスンはシャンカールに弟子入りを乞いた。これに応えてシャンカールは、「シタールを極めるには、インドの生活のリズムを肌で感じる必要がある」として、ハリスンにインド逗留を強く勧めたのだ。 ビートルズはコンサート活動の休止を決断し、66年8月末のサンフランシスコ公演を最後にライヴ活動から退く。そして、その2週間後、ハリスンはいよいよ念願のシタール修行のため、インドのボンベイに向かった。この旅には、彼以上にインドに入れ込んでいた妻パティも同行した。 2人は偽名で投宿していたにもかかわらず彼らの滞在はすぐ地元紙に知れて、記者会見を余儀なくされたものの、ともかくもハリスン達は7週間余りをシャンカールの教室で、他の200人もの生徒と共にシタールを学んで過ごすことになった。彼は自分の父親ほどの年齢のシャンカールを精神的な導師と慕っていた。他方シャンカールも、ハリスンの熱心さに感銘を受けた。こうして、2人の長年にわたる交友関係が始まった。そしてこのニュースは、世界中の若者達の間に一層のインド・ブームを巻き起こすことになった。 ロック史上最初のチャリティ・コンサート
今からみれば、この問いに対する答えは、端的に言ってシャンカールの影響にほかならない。当時インドに隣接する東パキスタン(現在のバングラデシュ)では、25万にものぼる死者を出した大規模な自然災害と、3月から始まった独立戦争のために、大量の難民が発生していた。自分の親類や友人も巻き込むこの事態に心を痛めたシャンカールは、チャリティ・イベントを開いて義援金を募ることを思いつく。71年6月にシャンカールから協力を依頼されると、ジョージ・ハリスンはすぐ趣旨に賛同して、企画の実現に奔走し始めた。 世界の関心を喚起するために大物を一同に集める計画は、様々な障害にぶつかった。目玉企画にビートルズの再結成が計画されたが、これはポール・マッカートニーの反対で断念せざるを得なかった。ジョン・レノンはソロとして2曲で出演する予定で、リハーサルにも参加したが、レノンと一緒の出演をハリスンに拒否された妻オノ・ヨーコが激しいかんしゃくを起こした結果、レノン夫妻は結局何も告げずにパリに帰ってしまった。ミック・ジャガーはビザが間に合わずに出演できなかった。ボブ・ディランはリハーサル会場には来たものの、最後まで、出演しないと愚痴り続けた。そして、エリック・クラプトンは搭乗予定の飛行機で現われず、本番直前にやっと駆け込みで間に合った。それでも当時のクラプトンは重いドラッグ中毒でコンディションが危ぶまれたため、会場ではジェシ・エド・デイヴィスが代役としてスタンバイしていた。 蓋を開けてみれば、71年8月1日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで開かれた公演は、大成功に終わった。午後2時と7時の2回の公演と翌年春公開された映画、そのサントラ・アルバムを合わせて、今日までに1400万ドルの収益を上げている。アルバムは3枚組ながら全英1位、全米2位を獲得し、73年のグラミー賞の「アルバム・オヴ・ザ・イヤー」に輝いた。 そして、最大の成果はやはり当日のコンサートそのものだった。インド伝統音楽を披露する第一部では、シャンカール率いるインド人ミュージシャン達が白熱の演奏を披露した。演奏を始める前のシャンカールは、聴衆に向かって、「第二部が待ちきれないと思うが、少し辛抱して聞いてくれ」と謙虚に語りかけているが、実際に繰り広げられた、20分に及ぶ息もつかせない繊細ながら熱いジャムには、言葉を要しない説得力があった。
ハリスンは厳格とも言える目的意識でこの企画に臨み、リハーサル中はビールを禁止し、また出演を志願したスティーヴン・スティルズ、ママ・キャス、ピーター・フランプトンといったスターの申し出を断った。確かに当日の演奏には粗さやムラも残り、映像のカメラワークにも難があるが、この日のコンサートは、一回のライヴが秘めている潜在的な可能性と、ロック音楽全体の成熟度を証明する出来事になった。 イベントの目的達成には、コンサートが終わった後も解決すべき難問が残っていた。収益金をユニセフに寄付するという当初の計画を実現するには、英米両国の税務当局との交渉が必要になった。主催者側が事前にチャリティの届出をしていなかったことと、このような大規模なチャリティ・コンサートの前例がなかったことで、交渉は難航し、アメリカ側の問題は、フォード大統領の直々の口添えを得てやっと解決に向かった。そして、イギリス側では結局、ハリスンが自腹で100万ドルの小切手を政府に支払う結果になったのだ。 このような一連の問題のために義援金が実際に現地に届くまでに何年も時間が経過してしまったのは残念なことだったが、その後のチャリティ・コンサートでしばしばみられたような、関係者のエゴや欲で当初の目的が台無しになる事態とは無縁だったのは、ひとえにハリスンの人柄の結果だったと言っていい。 さらなる旅路 シャンカールとの交友は、それから30年間、ハリスンが亡くなる直前まで続いた。1974年にハリスンが設立した自主レーベル、ダーク・ホースの第一号アーティストはラヴィ・シャンカールで、彼はハリスンのプロデュースで2枚のアルバムを制作している。また、74年のハリスンの初のワールドツアーには、シャンカールも同行した。1995年には、シャンカールの音楽活動を総括する4枚組ボックスセット『イン・セレブレーション』が、同じくダーク・ホース・レーベルから発売された。続いて97年に登場したシャンカールの新作『チャント・オブ・インディア』は、プロデューサー役を買って出たハリスンの自宅で収録されている。 シャンカールのこのアルバムのリリースに合わせて、同年、2人は揃ってテレビに出演しインタビューを受けている。この中でハリスンは、インド音楽への変わらぬ敬愛の念を繰り返し表明した。インド文化との出会いがハリスンの「意識のかげにある巨大なドアの鍵を開けてくれた」のであり、「一音ごとに非常に繊細な精神的バイブレーションを送り出す」音楽は人生に対する彼の態度を大きく変えたと語っている。 この同じインタビューの中に、同席するシャンカールが、初めてハリスンに出会った頃を振り返って、ビートルズの4人のあまりの人気ぶりに驚いたと述べる場面がある。すると、ハリスンは即座に、スパイス・ガールズをもじって、一言「スパイス・ボーイズ」と口を挟んでいる。彼のこの手のユーモア・センスは、ハリスンの身近にいた人々が揃って証言している。ビートルズのプロデューサーだったジョージ・マーティンはハリスンの死を悼みながら「彼の素晴らしいユーモアのセンスは有名で、一緒のときはいつもよく大笑いしたものだよ」と語っている。 彼の生前最後の録音とされる曲「ホース・トゥ・ザ・ウォーター」(ジュールズ・ホランドの『ジュールズと素晴らしき仲間たち』[2001年]に収録)にも、痛烈なユーモアがこめられている。ハリスンの死期が近いと伝える報道に怒りを露にしていたハリスンは、抗議の意思をこの曲に込めた。「馬を水場に連れて行くことは出来ても、水を飲ませることは出来ない」という英語の諺は「本人にその気がなければ無理強いはできない」という意味で使われるが、この諺をふまえたタイトルには、「本人の意思を無視して勝手に俺を殺すな」というハリスンの気持が表明されている。さらに、この曲のクレジットには、"RIP Ltd. 2001"と記載してある。ここにもまた、「安らかに眠れ」という意の墓碑に刻む言葉"RIP"を使うことで、世間の噂をはね返す遊びが忍ばせてあった。
「ジョージは僕の友人、弟子、そして息子だった。彼は勇敢で美しい心の持ち主で、愛情と子供のようなユーモア、それに深い精神性に満ちていた。僕は亡くなる前日彼に会ったけれど、そのときもとても穏やかで、愛に包まれているようにみえたよ。」 ハリスンのソロ最高傑作とされる『オール・シングズ・マスト・パス』が今年初め、31年ぶりにリマスター再発されたが、これに合わせて起ち上げられたジョージ・ハリスンの公式ページには、今はタイトル曲「オール・シングズ・マスト・パス」の歌詞が、ハリスンの自筆でひっそりと掲げられている。 「すべては去りゆく、すべてに終わりがくるんだ」
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