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Updated on December 29,
2001 ※1999年12月10日に掲載した記事に加筆修正して再録 |
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ダン・ペンの愛する音楽
30年間でアルバムは4枚だけ、98年まではツアーをやったこともなく、今や太鼓腹でオーバーホールを着ている中年男に、なぜこれほど根強い支持者がいるのか、その答えは彼の曲の魅力そのものに隠されている。ペンの仕事には、数々の有名ミュージシャンが惜しみない賛辞を送ってきた。98年にダン・ペン&スプーナー・オールダムにイギリス・ツアーの機会を提供したのは、ロックのルーツに多大な敬意を払ってきたニック・ロウだ。黒人音楽を意識してきた白人ミュージシャンたちがこぞって羨むほど、ソウル・フィーリングが体に染み付いた南部男、それがダン・ペンという人物だ。 ダン・ペンを知る人々は、彼は若い時から音楽的嗜好がしっかり確立していて、揺らがなかったと語っている。わずか18歳のペンがアラバマ州の片田舎のヴァーノンという町から100キロ離れたマッスル・ショールズに出てきて、当時開業したばかりのリック・ホールのスタジオに出入りするようになったとき、ホールは彼の音楽的な早熟ぶりに驚かされたという。ホールは、「彼は(音楽的判断については)誰のいうことも聞かなかった。気に入らないと思えば『腐ってると思うよ。今まで聞いた中でも最低の曲だね。』ときっぱり言う奴だった」と語っている。 そのペンがことあるたびに敬慕の情を隠さないのが、レイ・チャールズとボビー・"ブルー"・ブランドだ。R&Bからソウル・ミュージックを発展させた功労者、そして、はじめてゴスペル唱法をブルースに採り入れたブルースマン、という2人に共通するのは、「ソウルフル」な歌唱だろう。若い頃のダン・ペンは、「俺はボビー・ブルー・ペンだ」と名乗ってみせるほどの惚れ込み様だったらしい。 ダン・ペン(下の左の写真)がしばしば黒いサングラスをかけているのも、ブランドの影響だそうだ。94年に久しぶりのソロ・アルバム『ドゥ・ライト・ウーマン』(右の写真)を制作した際には、彼が特に気に入っているブランドの代表作 『ツー・ステップス・フロム・ザ・ブルース』(61年)(直訳は『ブルースまで後二歩』)のジャケット(中央の写真)を意識して、マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオの前で、黒サングラスをかけて肩にコートをひっかけた姿を、カメラマンに撮らせたらしい。
黒人音楽好きというだけなら、50年代に米南部で幼年期を送った白人ミュージシャンは誰でも口にすることだろう。だが、ダン・ペンほどの徹底ぶりは、なかなか珍しい。彼にはロックンロールの影響は非常に希薄だ。本人によれば、彼も他の南部の若者たちと同様、当初はエルヴィス・プレスリーをはじめとするサン・レコーズの音楽に惹かれたが、プレスリーが青春映画を始める頃から興味が薄れたという。 白人のロックンロールだけでなく、チャック・ベリーさえ興味の対象外だった。「俺のファンク・メーターにひっかからなかったんだ。確かに愛嬌があるし賢いけど、彼は教会に行ったことがないよ。彼の歌を聴いていて一度もそういう感じを受けたことがないもの。俺は声の背後に教会を感じさせないものは、長くは聴かないんだ。ソウルがなきゃね。」 ロックンロールの神様とも称えられるチャック・ベリーをばっさり切り捨てたこのコメントで、ダン・ペンは自分の音楽的ルーツが、ゴスペルを基礎にしたソウル・ミュージックにあることを明確にしている。彼はソウル・ミュージックにおける歌声を重視し、そこに神と向き合うような真摯な音楽的態度を読み取っているようだ。このソウル純粋主義ともいえる姿勢は、ドン・ニックス
因みに、歌唱重視で音楽を評価するという点に限れば、むしろジェリー・ウェクスラーの志向に近いのかもしれない。アトランティック・レコーズの全盛期を築いたウェクスラーは、東部出身のユダヤ人実業家だが、音楽の趣味に関してはソウルに対するこだわりが顕著だ。彼こそが「スワンプ・ミュージック」という言葉を最初に使って、南部出身の白人ミュージシャンたちを積極的に支援した人物だが、彼が高く評価した白人というのは、結局は「歌の歌える」シンガーたちだった。ウェクスラーは、デュエイン・オールマンのギターの腕前を絶賛していたが、そのオールマンでさえも、歌が歌えなかったためについに自分では手掛けず、フィル・ウォルデンに任せている。 「歌にはゴスペルがなければいけない」というダン・ペンの姿勢は、白人ロックに対するためらいのない評価にはっきり表われる。「俺はビートルズの音楽は全然好きじゃなかったし、今でも嫌いなんだ。あいつらがうじ虫の缶を開けてしまったと思ったもんだよ。偉大な黒人のR&Bシンガーたちと比べたらゴミだと思っていた」と、彼の言葉は容赦ない。 ペンがビートルズの存在をはじめて意識したのは、マーティン・ルーサー・キングが暗殺されて、黒人の世界から白人が閉め出される事態になったときだという。それまで頭の中では黒人とほとんど同化していた彼は、一種のアイデンティティ・クライシスに陥り、深い失望に襲われて、ドラッグとアルコールに溺れ始めた。彼が手掛けて67年にデビューしたボックス・トップスというのは、その苦しみの中から生み出された、ビートルズに対する彼なりの回答だったと言えるだろう。
ダン・ペンは、スタックス・レコーズの元スタッフだったチップス・モーマンに勧誘され、66年にマッスル・ショールズを離れて、モーマンがメンフィスで経営していたアメリカン・サウンド・スタジオのスタッフになる。2人が共同で書いた最初の曲が、例の「ダーク・エンド・オヴ・ザ・ストリート」だった。だが、最初は互いに刺激を得ていた2人も、まもなくエゴをぶつけ合うようになる。 ダン・ペンは、モーマンから自立し、一人でプロデュースまで手掛けてみたいと主張し始めた。その彼が本格的に手掛けた、ほぼ最初のアーティストが、ボックス・トップスだ。このバンドは、地元メンフィスのグループで、弱冠16歳でソウルフルなしゃがれ声をもったアレックス・チルトンの歌声が目玉だった。だが、67年に彼らがスタジオに入ったとき、彼らはほとんど曲も用意できていなかったし、演奏のレベルもガレージ・バンドにすぎなかったようだ。 ボックス・トップスのセッションは、ダン・ペンが全面的な主導権をとって行われた。使う曲は彼が選び、演奏には多くの曲でバンドメンバーではなくスタジオ・ミュージシャンを使い、さらにチルトンには歌いまわしも細かく指示した。後にチルトンが、「ボックス・トップスは、ほとんど僕のレコードとは言えないよ。今聴くと、僕には自分じゃなくて、ダン・ペンが聞こえる」と語ったほど、ダン・ペンは仕切り役を積極的に果たしたようだ。 生まれたサウンドは、ブリティッシュ・インヴェイジョンに対するメンフィスの回答ともいうべきもので、厚いホーン・アレンジに南部色が表われている。「ザ・レター」で、「飛行機」という単語の発音をあえて"aeroplane(エアロプレイン)"と、イギリス発音にしたのは、ダン・ペンのアイディアだ。
「ザ・レター」に続くヒット曲をレコード会社から急かされていたペンは、オールダムと何日も新曲を考えていたが、いいアイディアは浮かばなかった。すでに録音のためにスタジオは予約し、ミュージシャンも呼んであったが、午前10時に始まるセッションを前に、その日の早朝になっても曲ができていなかったという。そこで、2人はほとんどあきらめの気持で、スタジオの向かいの食堂に入り、朝食をとった。 そのときオールダムが、テーブルにうつぶして、ふともらした言葉が「赤ん坊のように泣きたい気分だ」という一言だった。この一言にダン・ペンははっとひらめき、2人は急いでスタジオに戻り、わずか1時間半で曲作りを終え、デモテープを制作したとのことだ。1968年4月にリリースされた「クライ・ライク・ア・ベイビー」は、全米2位を記録するヒットになった。 ボックス・トップスとの仕事で、ダン・ペンは白人ロックの世界でも、成功を収めることになった。しかし、彼がボックス・トップスのサウンド以上に、白人ポップスに近づくことは、その後決してなかった。南部青年たちがこぞって西海岸を目指し、朴訥なスプーナー・オールダムさえロサンジェルスに移ったが、ダン・ペンはいつまでも南部にこだわり続けた。彼は、1998年のツアーで訪れるまで、カリフォルニアには一度も行ったことがなかったらしい。マッスル・ショールズの元同僚たちがロック界で活躍し始めた後も、ペンはサザンソウルの衰退を見守るかのように、ひっそりと南部にとどまったのだ。 カントリー・ミュージックの隠し味 ローリング・ストーンズやエリック・クラプトンをはじめ、大半の白人ミュージシャンにとって、黒人音楽は憧れの対象であり、自分たちが容易に到達することはできない世界だった。だが、実際には、ソウル・ミュージックは、表には見えないところで、多くの白人たちが支えていた。それは、単に経営を白人が牛耳っていたということではない。作曲や演奏といった音楽的な部分にも、白人ミュージシャンが多く関わっている。ニューヨークで活躍したドク・ポーマス、バート・バーンズ、キャロル・キングといったソングライターは、その典型例だ。 サザンソウルのように、特にディープで黒人寄りだと目された音楽でも、舞台裏では、ほとんど白人が作っていたと言ってもいい。1960年代の南部には、メンフィスでもマッスル・ショールズでも、黒人音楽を作る側に回った白人がたくさんいた。そうした南部男の代表格とも言えるのが、ダン・ペンだった。 ダン・ペンがマッスル・ショールズで、黒人歌手の裏方として働き始めたとき、ソウル・ミュージックはまだ型が出来上がっていなかった。だからペンたちは、試行錯誤を繰り返して、独自に新たな黒人音楽を開発していくことになった。その結果、マッスル・ショールズ発のソウルには、「白人的」な音楽の要素が自然に入り込んでいる。
事情はメンフィスでも同じで、ハイ・レコーズ、スタックス・レコーズはいずれも、創立当時はカントリー・ミュージックから始まった。白人のバック・ミュージシャンにも、カントリー出身の人間が多かった。サザンソウルの歌手として大成功を収めたジョー・テックスは、「俺の曲では、いつも、半分はソウルのミュージシャン、もう半分はカントリーのミュージシャンっていう手を使っていたよ」と証言している。 また、黒人ミュージシャンで、スタックスのスタッフライターだったデヴィッド・ポーターも、「(アイザック・)ヘイズと俺は、カントリー・ウェスタンの曲を勉強したんだ」と明らかにしたことがある。 ダン・ペンも、彼の生み出した黒人音楽の裏には、カントリーの要素も隠れていることを認めている。「俺たちのR&Bってのは、白人と黒人の混交が要だったんだ。肌の色を超えてお互いに敬意を抱いていたあの雰囲気は、素晴らしかったよ。力の源だった。」「(バックを務めた俺たち白人に)カントリーの要素があるのは、打ち消しようがないね。体に染み付いてるんだから。でも、それを黒人歌手がR&Bに変えるんだ。」 ダン・ペンの楽曲のこうした側面は、彼が自ら歌うソロ作を聴けば、さらに鮮明になるだろう。南部のアメリカ人らしい優しくもったりした彼の歌声を通すと、そこに聞こえてくるのは、粒選りの「カントリー・ソウル」だ。R&B独特のこぶしとゴスペル的なひんやりした響き、それにカントリー的な郷愁を誘う情感、こうしたさまざまな要素が、ダン・ペンの音楽として繋ぎ合わされている。 こうした音楽的特色を説明した、ダン・ペンの独特な表現は見事だ。「俺はレコーディングと空気が関係あるんじゃないかって、常々思っているんだ。海抜の問題があってね、山岳地方に近づくと、空気が薄くなるわけだ。デルタに行けば、今度は濃くなる。で、メンフィスは低地だから、ファンキーで泥臭くなるし、ナッシュヴィルは少し高いから、もう少しクリーンな音になる。マッスル・ショールズはその中間みたいなもんだね、泥臭い方にちょっと近いけど。」 彼は、表にみえないところでも、カントリー音楽の手法をヒントにしていた。マッスル・ショールズのレコーディング・セッションは、ミュージシャンにあまり細かい指示を与えず、「○○なフィーリングで」といったおおざっぱな指示で済ませることが多かった。これは、ダン・ペンによれば、即興の持ち味を期待できるからで、彼はこうした手法をナッシュヴィルのセッションのやり方から学んだようだ。 このように、ダン・ペンの音楽の秘訣は、R&Bとゴスペルだけでなく、カントリーの要素も加味した、独特のミクスチャー感覚にある。それはアメリカ南部でこそ誕生したサウンドと言ってもいい。同時に、各要素の濃淡こそ曲によって変わってくるが、どの曲も歌唱を重視して作られているという点では、ダン・ペンの音楽は終始一貫している。 歌手としてのダン・ペン ダン・ペンは、裏方としてだけでなく、歌手としても秀でていることは、よく知られるところだ。アトランティック・ソウルの全盛期を築いたジェリー・ウェクスラーは、かつてダン・ペンのことを、「自分の知る白人シンガーの中のうちで最高の歌手だ」と褒め称えた。また、ダン・ペンがデモ段階で先に曲を歌ってみせると、本番で歌うはずの黒人歌手たちは、白人の彼がそこまで歌えるのをみて大いに発奮したという。
当時ダン・ペンが、マッスル・ショールズで組んだグループが、マーク・ファイヴだった。しかし、高校を卒業したダン・ペンは、いったんバンド活動を辞め、書店に就職している。今日まで連れ添っている夫人リンダとの結婚を控え、生活を支える必要があったためだ。だが結局、3ヶ月でうんざりして、マッスル・ショールズに戻ってきた。それからは、マーク・ファイヴに復帰するかたわら、リック・ホールが始めたフェイム・スタジオのスタッフとして、曲作りに励むことになる。 ダン・ペンはその後数年間、作曲に専念していたが、65年にもふたたびソロ・シングルを数枚出している。フェイムで働くスタッフが次々とナッシュヴィルをはじめとする都会に移って行く中で、リック・ホールはダン・ペンを引きとめようと考えて、ペンに久しぶりにレコード発表の機会を与えたらしい。65年には、スプーナー・オールダムと共作した「レッツ・ドゥー・イット・オーヴァー」がジョー・サイモンの歌でヒットし、ダン・ペンがソウル・ミュージックの作曲家として一人立ちする見込みが、はじめて現実味を帯びてきたからだ。 ソロ歌手としてブレイクすることはなかったが、60年代後半のダン・ペンは、多産なソングライターとして、当初はマッスル・ショールズで、そして66年からはメンフィスで、実に忙しく活躍した。アレサ・フランクリンの「ドゥ・ライト・ウーマン」をはじめとする数々の名曲が生まれたのが、この時期だ。(写真は65年当時、前列左からジュニア・ロウ、ダン・ペン、ドニー・フリッツ、後列左からスプーナー・オールダム、ロジャー・ホーキンズ) この間、ダン・ペンのソロ活動は、ほとんど休止していた。68年にアトランティックからシングルを1枚出した以外は、作曲とプロデュースに専念していた。その彼がふたたび自分の音楽活動に取り組み始めたのは、69年にビューティフル・サウンズという自分のスタジオを、メンフィス市内に設立してからのことだ。アルバム制作は70年頃には始まっていたようで、ロサンジェルスにあったハッピー・タイガーというレコード会社からシングルを先行発売している。しかし、この会社がまもなく倒産したため、アルバム発表が遅れることになった。
彼が、はじめて自分のスタジオを手に入れて、プロダクションの面白さに目覚め、音楽的な幅を広げようとする野心があったのは間違いない。それは同時に、ダン・ペンのキャリアの転機も意味した。60年代のペンは、黒人音楽に対する限りない愛情を曲に注いできた。だが、前述のように、60年代末までには、アメリカにおける人種融和の夢は、もろくも壊れてしまっていた。 「突然俺たちは締め出されたんだ、黒人の住む地域とかそういう所からね。」 ダン・ペンは、当時の様子をこう振り返る。ペンはもはやソウル・ミュージックの書き手というだけで、生きていくことは、精神的にも経済的にも難しくなってしまった。 その意味で、『ノーバディーズ・フール』は、あくまで白人である自分にどんな音楽が作れるのか、そうした音楽的な挑戦にダン・ペンが取り組んだ作品でもあった。アルバムの最後に収録された「スキン」(=肌)というタイトルのダン・ペンの語りは、人種を超えた交流という60年代の夢に捧げられたレクイエムと言ってもいいだろう。 この作品が商業的には不発に終わった後、ダン・ペンは、その後20年余りもソロ作を発表していない。だが実は、94年の『ドゥ・ライト・ウーマン』の前に、ダン・ペンは2枚のアルバムを作っている。彼は『ノーバディーズ・フール』を作り終えてすぐに、セカンド・アルバムの制作に取りかかった。これは、『Emmet the Singing Ranger Live in the Woods』というタイトルで、ファーストに引き続きベル・レコーズから発売される予定だった。 プロデュースは、メンフィスが地元のジム・ディッキンソンが担当した。当時ペンとディッキンソンは親しく交流していたようで、ディッキンソンが共同プロデュースしたライ・クーダーの『流れ者の物語(ブーマーズ・ストーリー)』(72年)には、ダン・ペンがゲスト・ヴォーカルとして参加している。だが、アルバムの完成後、ペンとディッキンソンが金銭面の条件でもめたらしく、結局ダン・ペンのセカンド・アルバムは、お蔵入りになってしまった。 もう一つの幻のアルバムは、1982年に作られている。この作品は、宗教的なゴスペル・アルバムで、メンフィス時代の旧友チップス・モーマンが制作に協力したようだ。ダン・ペンは、この頃キリスト教の信仰に目覚め、ボーン・アゲン・クリスチャンになった。当時アメリカでは、ベビー・ブーム世代を中心に、キリスト教を再発見しボーン・アゲン・クリスチャンを名乗る社会現象が進行し、ミュージシャンでは、ボブ・ディラン、ロジャー・マッギン、マリア・マルダー、ボニー・ブラムレットなども、この時期に信仰に目覚めている。 だが、ダン・ペンのこの作品も、発売元が見つからないままに、お蔵入りになったようだ。彼は、80年代を通じて表舞台からは離れ、ナッシュヴィルでひっそり過ごした。しかし、彼が沈黙を保っている間も、ペンの60年代を中心とした仕事は、ファンの記憶から消えることはなかった。90年代に入って、彼がファンの前に姿を現わしたとき、ダン・ペンは熱烈な歓迎を受けることになる。 表舞台に姿を現わしたダン・ペン
この日のライヴを見に来ていたレコード会社の人間の打診を受けて、その3年後には、21年ぶりのソロ・アルバム『ドゥ・ライト・ウーマン』が完成した。このアルバムは、ダン・ペンのファンにとっては実に画期的で、ペンの完全復活を知ることができただけでなく、タイトル曲をはじめとする彼の名曲を本人が歌ったヴァージョンをはじめて耳にすることができたのだ。 録音はダン・ペンの原点であるマッスル・ショールズで行われ、オールダムはもちろんのこと、デヴィッド・ブリッグズ、ジミー・ジョンソン、デヴィッド・フッド、ロジャー・ホーキンズといった往年のマッスル・ショールズ組が、総出で参加している。さらにボビー・エモンズ、レジー・ヤングといったメンフィス時代のペンの元同僚、あるいはナッシュヴィルに移ってからたびたび一緒に仕事をしているゲイリー・ニコルソンなども加わって、ダン・ペンのキャリアを総括するような陣容になった。 このアルバムの制作は、同窓会のような非常に寛いだ雰囲気で行われたという。70年代以降、ダン・ペンのキャリアは決して華やかではなかった。彼の60年代の同僚たちが、各地に散らばってそれぞれに活動の場所を見つけたなか、ダン・ペンは衰退するサザンソウルを見守るかのように、ひっそりと作曲を続けた。その彼にとって、『ドゥ・ライト・ウーマン』の収録は、楽しかった60年代の記憶を呼び覚ますものだったはずだ。 ダン・ペンは、「ユー・レフト・ザ・ウォーター・ランニング」、「ダーク・エンド・オヴ・ザ・ストリート」、そして「ドゥ・ライト・ウーマン」の3曲の収録を、最終日までとっておいた。最後の「ドゥ・ライト・ウーマン」の収録が始まったときは、夜の10時を回っていた。この様子をスタジオで見学していた記者によれば、特別な指示を交わさなくても、あうんの呼吸で進むレコーディングは実に見事だったという。 出来上がったアルバム『ドゥ・ライト・ウーマン』には、心を許し合ったミュージシャンたちが生み出す暖かいグルーヴが詰まっている。この作品を聴けば、ダン・ペンの音楽と人柄こそが、往年のマッスル・ショールズのサウンドをまとめ上げる要だったことに、改めて気付かされるはずだ。 「ドゥ・ライト・ウーマン」の3番目のテイクを終えて、もうそれ以上録り直す必要がないことは、誰もが分かっていた。でも、録音を聞き直したダン・ペンが、「もう1回やろう」と言い出したとき、誰も反対せずに、また最初から演奏が始まったという。参加していた彼らには、演奏を続けている間だけは、往年のマッスル・ショールズに存在した、あのマジカルな瞬間を取り戻すことができることが、分かっていたのかもしれない。 表舞台にふたたび顔を出したダン・ペンは、一般のファンだけでなく、他のミュージシャンたちを喜ばせた。冒頭で述べたニック・ロウもその一人だ。彼は98年のアメリカツアーに際して、ダン・ペン&スプーナー・オールダムを前座に起用した。2人を目当てに会場に足を運ぶ人々も少なくなく、カリフォルニアでは歌手のヒューイ・ルイスも会場を訪れ、その後のインタビューでは熱烈なファンぶりをみせている。 2人はさらにイギリスとアイルランドをツアーし、このときの模様は、初のライヴ盤『モーメンツ・フロム・ディス・シアター』(99年)に収録されている。そして、翌99年、いよいよ日本でも公演を行った。ダン・ペンの歌とアコースティック・ギター、それにスプーナー・オールダムのキーボードのみという、きわめてシンプルなスタイルは、逆にペン&オールダムの曲そのものの芳醇な魅力を引き出し、2人は会場の観客から熱い拍手を浴びることになった。(このときの模様については、こちらのページを参照。)
本人がデモ録音と位置付けているだけに、楽器は最小限で録音もシンプル、ペンの歌がメインになっている。リズム・ボックスを使ったサウンドは、サザンソウルというよりもむしろ、ブラック・コンテンポラリーの感覚に近いところがある。その一方で、収録曲のうち2曲は、本物の教会のパイプオルガンを使った、神聖な感触をたたえた作品だ。アルバム最後の「ホールディング・オン・トゥ・ゴッド」でダン・ペンは、「この痛みも、神をひたすら信じれば消え去る」と歌って、クリスチャンらしい敬虔さを表明している。 ノスタルジックな「メンフィス・メロディー」は、60年代の古き良き時代を思わせるメンフィス賛歌だ。メンフィス・メロディーを口ずさみながら、オープンカーで街を渡り歩く。街角で車を停めて、建物から漏れ聞こえてくるウィリー・ミッチェルのバンドの演奏を見る。次は、リブステーキで有名なレストラン、ランデヴーに行って、夜を語り明かす。マクルモア・アヴェニューのスタックス・レコーズに行ったら、スティーヴ・クロッパーと"ダック"・ダンの様子を見に行く。 まるで映画のように活き活きとした描写からは、街を気楽に闊歩し、少し歩けば音楽仲間に出会うといった生活を送っていた、昔のダン・ペンを想像することが出来る。歌はさらに続き、舞台は本拠地のアメリカン・サウンド・スタジオに移る。「よう、Mr.チップス。どこに行ってたんだい?」とペンが語りかける相手は、チップス・モーマンだ。「誰かレジー(・ヤング)を見なかったかい、あのメンフィス・メロディーを演奏してもらいたいんだよ。」 還暦を迎えたダン・ペンは、過去の思い出につきまとう辛い気持を乗り越えて、昔を穏やかに懐かしむ境地に達したようだ。今も休むことなく曲を書き続けている彼の活躍からは、まだまだ目が離せない。
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