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Updated on January 8, 2002 |
Column
5:
Warner/Reprise
Story
ワーナー・リプリーズ物語 ―ロサンジェルスとシンガーソングライターたち
[前編]
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シンガー・ソングライターの時代の到来
この号の特集記事は、次のように記している。「70年代に入って、音楽に急速な変化が起きている。過去1年の間に、以前よりもずっと優しいタイプのロックが、アメリカを席巻し始めた。」 「今日のポピュラー音楽の革新者たちは、エレキ・ギターや、壁一面のラウドスピーカーを捨てて、昔ながらのピアノや、より親密な感じを与えるアコースティック・ギターに乗りかえた。」 「彼らの音楽は、のどかな田舎、カロライナの日差し、バークシャの朝の霜、そういったものに思いを馳せる、一種のアメリカーナ・ロックだ。彼らは、叙情性と私的な自己表現との緊密な結びつき、プライベートな『自分』をこの上なくメロディックに表現することに力を注いでいるようだ。」 この新たなトレンドを牽引したのは、ロサンジェルスに集まったシンガー・ソングライターたちだった。ジェームズ・テイラーは、西海岸に移ってから最初に発表したアルバム『スウィート・ベイビー・ジェイムズ』(1970年)と、その中の収録曲「ファイアー・アンド・レイン」を、共に全米3位に送り込み、一躍全国区で知られる存在になった。(※以下、紫字はワーナー・リプリーズの作品のみ) その直後に始まった全米ツアーのチケットはすべて完売し、71年7月には、次のアルバムの最初のシングル「君の友だち」で初の全米1位に輝く。この曲の原作者キャロル・キングも、同じ頃、ソングライターからソロシンガーへの転身を進めて、セカンド・アルバムの『つづれおり』 (71年)で、15週連続トップという記録的なヒットを達成し、シンガー・ソングライターの時代を代表する存在に躍り出た。 テイラーの「君の友だち」にも参加していたジョニ・ミッチェル
CSNYは、ロック・グループには違いなかったが、その存在は明らかにシンガー・ソングライターの時代を反映する鏡だった。彼らはバンド内で楽器を分担するわけではなく、4人とも作曲とギターの弾き語りを披露できる。その意味で、このバンドは、それぞれ一人立ち可能なシンガー・ソングライターたちが集まった、新時代を象徴するロック・グループだったと言っていい。 以上に述べたアーティストたちの中で、ジェームズ・テイラー、ジョニ・ミッチェル、そしてCSNYのニール・ヤング
この時期ワーナー・リプリーズが抱えていたアーティストのリストは圧巻だ。上の3人の他に、グラム・パーソンズ、エミルー・ハリス、ボニー・レイット、ランディ・ニューマン、ジミー・ウェッブ、ピーター・ゴールウェイ、ジョン・セバスチャン、トレイシー・ネルソン、バーバラ・キース、ライ・クーダー、マリア・マルダー
だが、ワーナー・リプリーズは、最初からロック界を代表するレーベルだったわけではない。むしろ60年代のこのレーベルは、フォークの分野でもロックの分野でも出遅れていた。それでは、この会社はどんな変化を遂げて、新たな時代の音楽を牽引する存在になったのか。その過程を振り返れば、シンガー・ソングライター・ブームを生み出した時代背景と、その震源地となったロサンジェルスの音楽的な土壌もみえてくるはずだ。 60年代半ばのワーナー・ブラザーズは、映画会社としては、すでにハリウッドを代表する大企業だった。だが、レコード会社の方は、まだ従業員わずか30人ほどの弱小レーベルだった。もともとハリウッドのレコード産業は、映画産業に付随して発展したもので、自社映画のサントラを発売する目的で、各映画会社がレコード制作に乗り出したのが始まりだ。 だが、コロンビア、RCA、MGMなどのライバル会社に比べると、ワーナーがワーナー・ブラザーズ・レコーズを設立したのは58年で、明らかに後塵を拝したスタートだった。会社の発足以来、経営状態も思わしくなく、初めて黒字を計上したのは、やっと1962年のことだった。それでも親会社は、レコード部門を軽視し続けた。63年にリプリーズ・レコーズを吸収合併したときも、ワーナー本社の社長ジャック・ワーナーは、ワーナー・レコーズの社員に何も相談をしなかったという。 このリプリーズはフランク・シナトラが60年に設立した独立系レーベルだったが、このレーベルもまた、当時の経営は不振で、レコード会社としての価値は乏しかった。にもかかわらずジャック・ワーナーが150万ドルを拠出してリプリーズを買い取ったのは、映画スターとしてのフランク・シナトラを獲得したかったからだ。つまり、ワーナーのレコード部門は、映画部門の利益の犠牲になって、採算性の低いレーベルをさらに背負い込むことになったのだ。
64年のビートルズ上陸を転機に、イギリス勢に市場を席巻されたアメリカのポピュラー音楽界は、新たな対応を余儀なくされたが、まだまだ当時のレコード会社の多くは、ロックを忌避する重役に占められていた。アメリカでは、ビートルズの初期のシングルは、EMIと同系列のキャピトルが発売を渋ったために、マイナー・レーベルのヴィージェイからの発売を余儀なくされたのは、よく知られているエピソードだ。 その中でも、ワーナー・ブラザーズは、ロックンロールに近いものにはおよそ手を出さない、かなり保守的なレーベルだった。特に、後から吸収されたリプリーズは、さらに保守的な体質で、オーナーのフランク・シナトラは、当時ロックンロールを、「最も暴力的で醜く、低俗で邪悪な音楽」と呼んで毛嫌いしていたことで有名だ。 だが、モー・オースティンは、この古い体質をいつまでも引きずっていれば、会社の先行きが暗いことに気付いた。何よりもトップ・アイドルだったシナトラのレコード自体、段々売れ行きが下がっていた。オースティンは、新興のロックの分野に進出するしかないという結論に達する。 こうして彼は、シナトラをはじめとする守旧派を説得し、ロック路線の導入に踏み切らせた。オースティン自身が、音楽としてのロックに特別な共感があったわけではなかったが、少なくとも彼の経営感覚に従えば、ロックこそがポピュラー音楽の新たな市場を生み出す新時代のサウンドだったのだ。
彼は60年代前半のロサンジェルス・サウンドを主導したフィル・スペクターの右腕であり、クリスタルズの「ダ・ドゥ・ロン・ロン」(63年)やロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」(63年)などのアレンジを担当した輝かしい実績を持っていた。 しかも、イギリスのロック・ミュージシャンたちが憧れたスペクター・サウンドのスタッフだったおかげで、彼は早くからロックの世界とも接点を持つことができた。特にローリング・ストーンズの面々とは、彼らが初めて渡米した64年6月から親しく交流し、彼らのアルバムの収録にも参加している。例えば、ローリング・ストーンズがアメリカで初めてナンバー1を獲得した「サティスファクション」(65年)では、パーカッションを担当した。 ニッツェはハリウッドの芸能界の基準でみても型破りな人物で、いつも最先端のトレンドに敏感な、目立つ存在だった。当然、長めの髪型やドラッグも早くから試し、自分よりは少し若いロック世代の流行にもアンテナを張っていた。彼は、60年代半ばにモー・オースティンの個人的なアドバイザーになり、オースティンはニッツェを通じて若者文化の最新動向を学んだようだ。 ニッツェは63年以来、ソロ・アーティストとしてリプリーズに在籍したが、レーベルにとって重要だったのは、むしろ彼のもたらす情報の方だった。ニッツェの紹介でリプリーズが獲得することになった最初のミュージシャンは、ソニー&シェールの2人だ。2人はフィル・スペクターのもとで働いていた時に知り合い、64年に結婚していた。 ソニー&シェールを「ロック」と呼ぶには、ちょっと躊躇がいる。だが、少なくとも彼らの音楽は、フィル・スペクターとバーズとの間を結ぶような過渡期のサウンドで、社会的に言っても、ヒッピー文化に連なる新しい時代の到来を感じさせる存在だった。リプリーズは、彼らのデビュー・シングルを含む最初期のレコーディングを手掛けたが、2人が大成功する前に手放してしまった。アトランティック・レコーズに移って、彼らが大ヒットを飛ばすのは、そのすぐ後の65年夏のことだ。 68年に、ライ・クーダーをワーナー・リプリーズに連れてきたのも、ジャック・ニッツェだった。ニッツェは、作曲とアレンジを担当した「ピンと針」(63年)をはじめとして、ロサンジェルスの生んだ女性歌手、ジャッキー・デシャノンの音楽活動に全面的に関与した時期があったが、そのデシャノンの64年のツアーバンドに加わっていたのがライ・クーダーだ。彼は当時まだ高校に通っていた。 ニッツェは、ライ・クーダーを、ローリング・ストーンズの面々にも紹介している。68年夏にマリアンヌ・フェイスフルの『シスター・モーフィン』の収録を手掛けたときに、セッションにクーダーを起用し、彼をミック・ジャガーたちに引き会わせた。そして、翌年1月には、ロンドンで行われた『レット・イット・ブリード』(69年)の収録にも、クーダーを連れて行っている。ミック・ジャガーが主演したニコラス・ローグ監督の映画「パフォーマンス」(70年)では、サントラをジャック・ニッツェが担当したが、このときもライ・クーダーが参加、アルバムはワーナーから発売された。 ワーナー・リプリーズと契約した後、ライ・クーダーはこのレーベルでのセッション仕事を次々と請け負っている。アーロ・ガスリー、ニール・ヤング、リトル・フィート、マリア・マルダー、ランディ・ニューマン、ゴードン・ライトフットなどは、彼が録音に参加した、ワーナー・リプリーズ所属のミュージシャンのごく一部だ。 ワーナー・リプリーズとの関係でジャック・ニッツェが果たした最大の功績は、ニール・ヤングをこの会社に連れてきたことだろう。2人が最初に協力したのは、ニール・ヤングがバッファロー・スプリングフィールド
ジャック・ニッツェは、ヤングの個人的な相談役になっただけでなく、クレイジー・ホースのメンバーとしてヤングのバックも務めた。当時のニッツェは、このバンドを「アメリカのローリング・ストーンズ」と呼んで、高く評価していたらしい。(写真はクレイジー・ホース、右から2人目の白いコートの人物がジャック・ニッツェ) クレイジー・ホースを離脱した後も、『ハーヴェスト』(1972年)までは、ニール・ヤングの一連の作品に貢献し続けた。
オースティンを慕う彼の思いは実に深く、約30年後の1995年に、オースティンがついにワーナーを去ったときには、後を追うようにワロンカーも翌年退社し、今は2人とも、ドリームワークスSKGレコーズの経営に参画している。 レニー・ワロンカーは、オースティンとは違って、幼少時からハリウッドの世界を間近に見て育った、サラブレッドのような人材だった。彼は若い頃からランボルギーニを乗り回す、いかにもハリウッド育ちの坊ちゃんだったらしい。父親のサイモン・ワロンカーは、映画音楽のビオラ奏者の仕事から独立して、1955年にリバティ・レコーズを設立した人物だ。 レニー・ワロンカーの幼なじみが、ランディ・ニューマンだった。ニューマン家もまたハリウッドの映画音楽に関わる人材を何人も輩出した一族で、ワロンカーの一家とは親しかった。カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)で経営学と音楽を専攻したレニー・ワロンカーは、大学を卒業すると、父親の経営するリバティ・レコーズに身を置いて、ランディ・ニューマンを含む若きソングライターたちの活動を支援していた。 ワロンカーがワーナー・リプリーズで働き始めてすぐ、彼が社内で強く推したグループが、結成されてまもないバッファロー・スプリングフィールドだった。バーズに継ぐフォーク・ロックの旗手と目され、地元ロサンジェルスでのライヴ活動で好評を博していた彼らは、リプリーズ以外にも、エレクトラやダンヒルなど複数のレーベルから接触を受けたと言われる。結局彼らは、最も高い条件を示したアトランティックと契約したが、このエピソードは、ワロンカーの入社で早くもワーナーの体質に変化が表われ始めたことを物語っている。 レニー・ワロンカーが、ワーナーで最初に担当することになったのは、元オータム・レコーズに所属していた3つのグループだった。オータムはトム・ドナヒュー
この3バンドのうちでも、移籍後に最も成功したのが、ティキスだった。ハーパーズ・ビザール
リオン・ラッセルは、リバティ・レコーズにソングライターとして登録していたから、ワロンカーとは前からの知り合いだった。ラッセルは当時すでに、ロサンジェルス音楽界で有名な存在で、この頃はあらゆるセッションに引っ張りだこだった。次世代のポピュラー音楽をまるごと体現したようなこのヒップスターを起用することは、新路線を目指すワーナー・リプリーズにとっても不可欠の選択だっただろう。 ニューマンとパークスの方は、当時ほとんど無名のソングライターだった。ワロンカーはニューマンの才能を熱烈に信じ、ワーナーに入社してほどなく、ニューマンをレーベルに連れてきた。ヴァン・ダイク・パークスは、彼が初めて書いた曲「ハイ・コイン」をジャッキー・デシャノンがリバティ・レコーズのシングルで歌っていたから、ワロンカーは早くから彼の存在を知っていたようだ。この曲は、ハーパーズ・ビザールにも提供され、同じくワロンカーがプロデュースした第2作『エニシング・ゴーズ』(67年)に収録されている。 パークス自身は、彼がワロンカーに注目されたのは、ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンと一緒に仕事をした経歴のおかげだろうという推測を披露している。彼は66年から67年初頭にかけて、稀代のソングライターだったウィルソンのパートナーとして、幻のアルバム『スマイル』の制作に全面的に関わっていた。結果として、作品は90年代になるまでお蔵入りしてしまったが、この仕事がパークスの名声を高めたのは間違いない。 ランディ・ニューマンとヴァン・ダイク・パークスは、その後もワーナーにとどまり、このレーベルのブレーンとして重要な役割を果たすことになる。ワーナーは、2人のソロ活動の拠点でもあった。ニューマンのデビュー作『ランディ・ニューマン』(68年)、およびパークスの『ソング・サイクル』(68年)はいずれも、彼らの作曲の粋をみせる意欲作だったが、同時代のアシッド・ロックやシンガーソングライターたちの作品とはおよそ毛並みの違う音楽で、ロック世代の若者たちを惹きつけるには不適だった。 それでもワーナーが、彼らにソロ活動の機会を提供し続けたのは、ソロ活動でスターになることはなくても、彼らの音楽的な貢献がレーベルの他のミュージシャンの成功に大いに役立つことを知っていたからだ。例えば、初期のライ・クーダーやリトル・フィートは、ヴァン・ダイク・パークスのアイディアを大いに活用している。 有能なミュージシャンにソロ活動の機会を与えると同時に、音楽制作のスタッフとしてレーベルで活用するという手法は、モー・オースティンの編み出した知恵でもあった。彼はハリウッドの映画産業の観察を通じて、人気スターを起用できない低予算の映画でも、安定したスタッフ陣を使えば、作品の質を一定以上に保つができると悟ったらしい。 その結果、60年代末以降のワーナーは、ヒットを飛ばせないミュージシャンでも、ソロ契約でレーベルに繋ぎ止めて、彼らの職人としての技能を活用するようになった。ニューマンやパークスに加え、ジャック・ニッツェ、ジミー・ウェッブ、ライ・クーダー、ローウェル・ジョージなどはいずれも、こうしたミュージシャン兼社内スタッフとしてワーナーで活躍した人材だ。
タイトルマンは60年代半ばには、やはりリバティ・レコーズで働いていて、レニー・ワロンカーにとっては、その頃から弟分のような存在だったようだ。彼がワーナーに雇われて最初期に手掛けた作品が、リトル・フィートのデビュー作『リトル・フィート』(71年)だ。 タイトルマンは、リトル・フィートのローウェル・ジョージとは、セッションマン時代からの知り合いで、最初はとても仲がよかったらしい。ところが、アルバムの収録が始まると、2人は方針の違いで衝突してしまった。そのため、彼らの2作目『セイリン・シューズ』(72年)の途中からは、テッド・テンプルマンがプロデューサー役を引き継いでいる。 タイトルマンはその後、ライ・クーダー、ジェームズ・テイラー、リッキー・リー・ジョーンズ
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