英国が誇るギタリスト、ピーター・グリーン ブリティッシュ・ブルース・ロックの巨星、ピーター・グリーン の復活は事件でした。グリーンが生んだバンド、フリートウッド・マック は、彼がグループを去ってから実に30年足らずを経た1998年、ロックンロールの殿堂入りを果たします。(右の写真) その記念式典には、現在のフリートウッド・マックの面々に招かれて壇上にのぼるグリーンの姿がありました。そしてこの日、同時に殿堂入りしたサンタナが、グリーン原作で彼らがカヴァーした有名曲"Black Magic Woman"を披露する際に、グリーンも演奏に参加します。不意にグループを脱退し、その後長い間ドラッグの後遺症で仙人のような生活を送っている姿しか伝えられてこなかったグリーンが、人前に登場したばかりか演奏活動も再開した、このことは60年代のブリティッシュ・ロックを追いかける者にとっては驚くべき朗報だったのです。
エリック・クラプトンの音楽的成長は彼の人生を節々で襲った悲劇の影響と関連付けて語られてきましたが、ピーター・グリーンもまたスターの栄光を手にしながらそこから離れていく、精神的な闇を抱えて生きてきた人物です。この2人には、共に黒人ブルースに限りない憧憬を抱きながら、まるでブルースに込められた悲哀を自ら背負って身を削ってブルースを極めたような側面があります。グリーンのプロとしてのキャリアは最初から、クラプトンと比較される運命を辿りました。クラプトンの名声に多大な刺激を受けてギタリストの道を歩んでいた彼でしたが、たまたま応募した求人案内を出した相手がジョン・メイオール (下の写真左;右は当時のグリーン)でした。クラプトンが抜けたばかりの彼のバンドで、リード・ギタリストを務めるというのはなかなか厳しい経験だったようです。「クラプトンはどこに行った?」「彼ほど上手くない」といった声を浴びせられながら、グリーンもまたクラプトンの「スローハンド」ばりに早弾きを披露するようになります。しかし、これはグリーンにとって本意ではありませんでした。後に彼は「早弾きして喝采を浴びるのは何でもないんだけど。でも僕はゆっくりと一音一音を感じながら弾くのが好きなんだ。自分の全身から音が出てくるみたいにね。」と語っています。
メイオールのもとを離れてクリームを結成したクラプトンは、ブルースの枠を離れて、いわばジャズ・トリオのテンションを備えた新しいロックへと突き進んでいました。ずっと後にはクラプトンもブルースの基本に戻り、逆にピーター・グリーンも独自の世界を開拓していったわけですが、このときの二人の方向性はずれていました。ブルースの基本を大切にしたかったグリーンは、メイオールのブルースブレイカーズの変化にも違和感を抱き始めました。グリーンが参加したアルバム『ハード・ロード』(1967年)には一部ホーンが使われていますが、彼が脱退した直後の同年6月から正式メンバーに2人のサックス奏者が加わったことからも分かるように、メイオールはギターブルースの枠より広い音楽性を追求し始めていました。当時すでにB・B・キングやボビー・"ブルー"・ブランドなど、ホーンを多用したブルースは本国アメリカでは少なくなかったはずですが、ロンドンの白人ブルース界の一般的な解釈では、ホーンを入れるのはジャズ的で、純粋のブルースではないと考えられていました。同じ時期にメイオールのもとでベースを担当していたジョン・マクヴィーも同様の趣旨の発言をしています。
67年夏にブルースブレイカーズを脱退したピーター・グリーンですが、この時点でフリートウッド・マックの結成を決心してはいなかったようです。メイオールとは決して決裂もせず個人的に恩義を感じていましたし、ブルースの本場シカゴへ修行に行きたいという希望も抱えていました。とはいえ、黒人暴動が激化していた米国の情勢、そしてグリーンの脱退を知ったプロデューサー、マイク・ヴァーノン の熱心な働きかけがあって、彼は結局すでに脱退していたミック・フリートウッドと合流します。フリートウッドは決して技巧派ではなく単純なシャッフルを繰り出すタイプのドラマーですが、このスタイルはグリーンが当時求めていた音楽に合うものでした。この2人に、ヴァーノンが探してきたエルモア・ジェイムズ・フリークのジェレミー・スペンサーを二人目のギタリストに加えて、グループ結成に動き出しました。ベーシストには当初からジョン・マクヴィーを予定していましたが、実際にはマクヴィーがブルースブレイカーズを抜けるのをしばらく渋ったので、約1ヶ月間別のベーシストを入れて活動しています。
67年8月13日、第7回ウィンザー・フェスティヴァル(レディング・フェスティヴァルの前身)でライヴデビューを飾った彼らは、ブルース・ロックの登竜門マーキーをはじめ各地のクラブを精力的に回るかたわら、同年末デビュー・アルバム『ピーター・グリーンズ・フリートウッド・マック』(68年)を録音しました。ライヴ活動ですでに熱心なファンも獲得していた彼らは、デビュー作も全英4位で好調なスタートを切ります。しかし、バンドの成功は同時に、精神性の追求と音楽活動を重ね合わせていたグリーンにとっては大きな矛盾でした。音楽に対する彼のストイックな態度は、マイナー・ブルースで光る丁寧なピッキングにも表われています。彼は当時のインタビューで、ブルースについてこう語りました。「ブルースはギターの弾き方だと考える人もいるけど、そうじゃない。ブルースの本質は『ブルースを持つ』っていうことなんだ。ブルースが備わっていなければ、ブルースを弾いたり歌ったりするのはあきらめた方がいい。」
フリートウッド・マックの魅力
その彼らを真にスターの座に導いたのは、グリーンが書いた"Albatross"(直訳「アホウドリ」)でした。グリーンの温めていたアイディアがやっと形になった68年10月、2日間かけて録音されたこの曲、彼らのそれまでの収録方法だったスタジオライヴ形式ではなく、オーヴァーダブして作られています。フリートウッドのタムタムの上を浮遊する印象的なスライドはスペンサーではなくグリーンのもの、これに新加入の3人目のギタリスト、ダニー・カーワン(右の写真:左から、マクヴィ、カーワン、グリーン、フリートウッド、スペンサー)のフレーズが優しく絡みます。この曲のヒントは様々なところから得たようです。ヴァーノンによれば、グリーンがサント&ジョニーの"Sleepwalk"(59年)のファンで、ハワイアン・スチール・ギターの音色を試したがっていたとのこと。また、グリーン自身は、曲想は小学校時代に読んだ水夫に関する詩と、トラフィックの"Hole in My Shoe"(67年)の中に挿入される少女のセリフ
"I climbed on the back of a giant
albatross ..."(「大きなアホウドリの背中によじ登ったの」)がヒントで、フレーズの一部はクラプトンのギターソロを非常に遅くした感じをイメージしている、と語っています。
全英1位になったこの曲は、ブルース一辺倒だったグループの新たな側面を切り開きました。その方向を導いたのが最もブルースに忠実だったグリーンだったというのは、一見不思議ですが、彼独特のブルース観でいえば、これは自然な流れでした。彼は伝統的な黒人ブルースの形式を踏襲しない音楽でも、本物の「ブルー」な感触を湛えた音楽であればブルースだと考える傾向があったようで、例えばビートルズの"Eleanor Rigby"もブルースに含めていたといいます。音楽的に言えば、"Albatross"はグリーンの作曲家としての成熟を示していました。そしてこの傾向は、次のシングル"Man of the World"でも踏襲され、全英2位を獲得します。
このシングルがイミーディエットからリリースされたことは、バンドの変容の予兆でもありました。"Albatross"の成功の勢いに乗って商業的拡大を目指すマネジャーのクリフォード・デイヴィスの意向で、フリートウッド・マックは結成以来関係の深かったブルー・ホライズンを後にします。新たな名声を素直に喜んで豪奢な趣味を好んだミック・フリートウッドとは対照的に、ピーター・グリーンの音楽ビジネス嫌いはこの頃さらに強まりました。プロデューサーでもあったマイク・ヴァーノンから独立してグリーンがすべての音楽的責任をとらなければならなくなった状況も、負担になりつつありました。またグリーンは、グループのツアーが増えて、創作活動に割く時間が減ったのも不満だったようです。
精神的に安らぎを失いつつあったグリーンは、前年にサンフランシスコで覚えたドラッグに深くはまっていったようです。緩く白いローブを着て、長髪に無精ひげという風貌に変わり始めたのも、この時期です。この年ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズが溺死し、サイケに浸ったロック界に暗い影が忍び寄りつつあった、そんな時代の変化がグリーンの周辺にも及びつつありました。11月に全英2位を獲得した大作"Oh Well"は、プログレの勃興期を反映する9分近い曲、かつ米国ツアーを通じて開発したよりハード・エッジなサウンドを披露した名作ですが、この曲の歌詞は前半が「生まれつきの自分は仕方がない/俺は歌えないし、かっこよくもないし、足はみすぼらしい」と自己否定に満ちていて、それに対する答えのように後半では「神に語りかけた、きっと分かってくれるって思っていたから/神は『私のそばにいなさい、おまえを導いてあげよう』と言ってくれた」と展開します。精神性を追求するグリーンの姿が、ここには記録されていました。
69年を通じてバンドを積極的に無料コンサートに出演させたピーター・グリーンは、ついに70年春にはインタビューに答えて収入の大半を寄付するという考えを明らかにします。(左の写真は70年当時のグリーン) まるで金儲けという罪悪の罪滅ぼしをするように、金を稼げばその分余計に貧しい人々を援助できるというチャリティの発想に目覚めたのでした。彼個人としては、成功によって汚れてしまった自分を清める儀式を必要としていたのかもしれません。しかし、グループの他のメンバーは彼の辿りついた境地についていくことができず、グリーンは大いに失望します。金を毛嫌う彼の心境は、在籍時最後のシングル"Green Manalishi"(全英10位)に歌いこまれています。このおどろおどろしくも猛々しくもある名曲の神秘的なタイトルは英語で"greenbacks"(裏が緑)とも呼ばれる米ドル、つまりお金を指しています。この頃おそらくドラッグの影響もあって悪夢に襲われたグリーンは、悪夢の強烈な印象と実生活に対する嫌悪感を繋ぎ合わせて、頭が二股に分かれた一種の悪魔の権化のような存在が、望んでもないのに忍び寄ってくると歌ったようです。70年3月、ヨーロッパツアーの最中に、グリーンはミュンヘンで脱退の意向を他のメンバーに告げました。同5月を最後にグループを去ったとき彼は、まだ23才でした。
栄光を断ち切って
ピーター・グリーンの脱退はグループにとって重大な試練でした。音楽的に秀でたフロントマンがいなくなっただけでなく、彼が抜けた経緯の心理的打撃も大きかったのです。そして消えたグリーンの存在は、残された2人のギタリストの軌跡にも影を落としていました。もともとグリーンのサポートを期待されて加入したジェレミー・スペンサーは、当初こそエルモア・ジェイムズの真似とひょうきんなロックンロール・ナンバーで人気がありましたが、それ以上のネタも生まれず音楽的幅に限界が出てきたことは明らかでした。音楽的に完ぺきを目指すグリーンのまなざしも厳しく、特に3人目のギタリストとしてダニー・カーワンが加入してからは、ますます居場所がなくなっていました。前述の"Oh Well"などを収録した3枚目の『ゼン・プレイ・オン』(69年)では、収録にも参加していませんし、この頃のライヴではスペンサーはすでにグリーンとカーワンのジャムの連続に入り込む余地はなく、彼はスライドギターを披露するときと、いわゆるボードビルのパロディーショーで余興をやるとき以外は、舞台から引っ込んでいる状態だったのです。
グリーンの脱退後ふたたび責任の重くなったスペンサーは、彼の後を埋める役は自分には出来そうにない、と語っています。そして70年初頭のこと、グループが3度目の全米ツアーでロサンジェルスを訪れているときに、ホテルから本屋に向かったスペンサーはそのまま失踪しました。警察の捜索の末、5日後に彼はチルドレン・オヴ・ゴッドというカルト教団のコミューンに住んでいることが分かります。マネジャーのクリフォード・デイヴィスが説得に訪れましたが、彼はすでに洗脳を受けた後で、頭髪も丸めて表情も変貌していたといいます。スペンサーは今も教団に所属したままですが、後に音楽活動を再開し、現在も続けています。なお、スペンサーの失踪を受けて71年初頭、急きょグリーンは要請されてフリートウッド・マックに6週間だけ復帰しています。この頃のグリーンはすでに有名ナンバーを演奏することには興味を失い、即興演奏を好み、他のメンバーを苦労させたようです。ツアー最終日の2月27日、ニューヨークのフィルモア・イーストでのライヴでは、"Black Magic Woman"1曲を4時間にわたって展開させ、朝4時まで演奏しつづけたと言われています。
ダニー・カーワンの人生もまた、グリーンの存在の影響を強く受けていました。18歳でグループに加入した彼は、他のメンバーと並ぶと、まるで拉致されてきた子供のようだと言われた童顔ですが(右の写真)、彼のギターはフリートウッド・マックに重要な貢献をしました。しかし、もともとグリーンのギターに憧れ、彼の庇護のもとで成長してきた彼は、グリーン脱退後は、バンドの不安を一身に背負ったように、アルコールとドラッグに溺れ、急速にすさんでいきました。他のメンバーの手に負えなくなったカーワンは、1972年に解雇されます。その後しばらくソロ活動を続けた彼ですが、今はホームレスとしてロンドンの街で暮らしていると伝えられています。
そして、グリーンですが、彼のお金に固執しない利他的な考え方はますます進展し、コマーシャルな音楽からは関心が離れていきました。動物愛護に目覚めた彼は動物園に雇ってもらおうとしたり、貧困撲滅運動をを展開するウォー・オン・ウォントに多額の寄付をしたり、彼の慈善精神は続きました。71年に出会ったイラク系ユダヤ人女性との交際中も、朝目覚めて突然イスラエルに赴くことを決心し、数週間イスラエルの集団農場で暮らしたり、彼女が初めてまともに作ったクリスマス・ディナーを見て、ベジタリアンでいかなきゃ駄目だと主張し、ターキーを玄関から外に投げてしまったりしたのです。グリーンはドラッグ治療を受けながらも不安定な精神状態が続き、体型も急速に太っていきました。75年9月、予定されていた2人の結婚式のわずか2日前、彼女はグリーンのもとを去りました。
表舞台から消えてひっそり暮らしていたピーター・グリーンが新聞ネタになったのは、1977年のこと。グリーンが彼に印税を支払おうとする会計士を銃で脅した疑いで逮捕されたからでした。タブロイド誌をはじめ新聞各紙は、墜ちたロックスターの現在を対象にゴシップ記事を書きたてました。この事件で一時収監されたグリーンには、精神病院での治療を命じる判決が下りますが、むしろマスコミの報道合戦の影響の方が大きなダメージでした。そしてこの事件で、多くの人々は伝説のギタリストの変貌した姿を知り愕然としました。このときグリーンは、年額にして3万ポンドになるフリートウッド・マック時代の印税を受け取らないと断固主張して、元マネジャーのクリフォード・デイヴィスと会計士を脅したようですが、新聞では銃を持ち出したように書かれましたが、実際には口で脅しただけだったようです。いずれにしても、過去の栄光からの報酬を不浄のお金とみなして拒絶する彼の態度は、正常だと受け止められなかったのです。
とはいえ、その後病院で集中的な治療を受けたグリーンの調子は、少しずつながら傍で見ていた人間に分かるほど好転したようです。以前より弟の病状を見守っていたマイケル・グリーンが知り合いのレコード会社を紹介すると、ピーター・グリーンは音楽活動に関心を示します。こうして1977年秋に行われた録音の成果が、アルバム『イン・ザ・スカイズ』(79年)でした。当時ダニー・ハサウェイなどが気に入っていたというグリーンは、本作ではブルースよりもジャズ・ファンクに近い音を聞かせます。グリーンに必要以上にプレッシャをかけず、集まったミュージシャンたちとただ自由にジャムできる環境を用意した成果が表われています。テープ交換中にグリーンがすごくいいリフを弾き出したので、テープを付け替えてからもう一度弾いてくれと頼んでもグリーンは覚えていないといった状態ではありましたが、完成作品にはグリーンらしいフレーズも随所で聞けます。バックで参加したのはまず、キャメルで活躍していたピート・バーデンズ(キーボード)、グリーンが66年春プロギタリストとして初めて参加したグループのリーダーがバーデンズだったという関係がありました。グリーンのソロデビュー作『エンド・オヴ・ザ・ゲーム』(70年)にも参加していたスノウィー・ホワイト(ギター)、あるいは、イギリスを中心に活動しミック・テイラーから今井美樹のバックまでこなす日本人ベーシスト、クマ原田も参加しています。アルバムは全英33位を記録し、グリーン人気が衰えていなかった西ドイツではトップ10に数ヶ月とどまりました。
しかし、グリーンの一時的復帰はここまででした。彼の状態は復調にはほど遠かったのです。ライヴもこの時期数回企画されましたが、とても人前で演奏できる状態ではなかったといいます。この後グリーンは80年代半ばまでに5枚のアルバムを出すかなり多作の活動を行いますが、実際にはスタジオにひどく長い爪のまま登場したり、演奏のコンディションも日によってまちまちだったといいます。この時期の作品に兄のマイケル・グリーン作の曲が多かったのもこのためです。また、グリーンのビジネス嫌いは相変わらずでした。78年初頭ミック・フリートウッドの紹介で、ワーナー・レコーズとのソロ契約がまとまりそうになりましたが、契約金をもらう段になってグリーンは音楽で金をもらうのは悪魔のすることだと主張して契約を結びませんでした。
実際彼の周りには、彼の名声とお金にすがろうとする人間が寄り付いてきたのも事実です。80年代半ばにグリーンが二流ミュージシャンたちと活動を強いられたのもそうした事情でしたし、あるいは彼の金を目当てにしたグルーピーたちも付きまとっていました。78年にグリーンが結婚した女性も残念ながらこうした存在の一人で、娘を一人もうけたもののすぐ破局を迎えています。80年代後半のグリーンは音楽活動から手を引き、ほとんど一日中無気力で生活し、爪も伸び放題、近所の子供たちにからかわれながらの一人暮らしが続きました。1992年にはピーター・グリーンの名前を騙ってサイン会を行う偽者も出てきました。彼は数年後新聞に真相を暴かれるまでには、ピーター・グリーンを装ってレコード契約の契約金まで手に入れていたのです。
生まれ変わったグリーン
1996年5月5日、マンチェスターから東方に位置するバクストンという街のオペラハウスで毎年行われているアレクシス・コーナー記念コンサートの出演者リストに、ピーター・グリーンの名前がありました。実に12年ぶりに表舞台に立つ彼のコンディションを見守る1000人余りの聴衆と居並ぶコーナー門下のミュージシャンたちを前に"Black Magic Woman"を含む5曲を無事演奏したのです。このときバックを務めたのは、ナイジェル・ワトソン(ギター)、コージー・パウエル(ドラムズ)、ニール・マレイ(ベース)、まもなく彼らはピーター・グリーン・スプリンター・グループという名前で本格的に活動を始めることになります。
この前年の3月グリーンは、友人でクリフォード・デイヴィスの元妻のミッチ・レイノルズの訪問を受けます。グリーンの状態を心配した彼女は、彼を家に招き、副作用の強い治療薬も徐々に減らしていくようサポートしました。彼女の兄弟がナイジェル・ワトソンで、彼は70年代初期にコンガ奏者としてグリーンと暫く活動したことがありました。グリーンはワトソンの自宅に引き取られ、ワトソンの妻はグリーンの長い爪を切り、彼に身の回りのマナーを一から教えるなど献身的にリハビリを支えます。そしてついに95年夏、ワトソンの勧めでギターを手にとったグリーンは、少しずつ練習を始めました。最初は思うように弾けないことに苛立ちを見せ、すぐ止めてしまったグリーンですが、1ヶ月ほどして自信を取り戻し始めます。こうしてグリーンの復帰は、全くビジネスと関係なく、彼自身の健康状態を心配する友人たちの支えで可能になった出来事でした。その頃ギター製作会社のギブソンが、グリーンにグリーン・モデルのレスポールの製作を承認してもらおうとコンタクトをとります。そしてその一環として、1996年2月のフランクフルト・ミュージック・フェアにグリーンは、ギブソンの依頼で最初の復帰の舞台を踏んだのでした。
ちょうどこの直前には、グリーンの復活を待ち望むように、彼の過去の仕事に敬意を捧げた作品が相次いで発表されていました。95年10月に発売になった『ラトルスネイク・ギター〜ミュージック・オヴ・ピーター・グリーン』は、グリーンの身近で彼を支えたことのあるスノウィー・ホワイトや、ジェスロ・タル出身のイアン・アンダーソン、ミック・エイブラムズ、サヴォイ・ブラウンのキム・シモンズといった同時代のミュージシャンたち、あるいはグリーンの音楽を聴いてプロになったミスター・ビッグのビリー・シーハンといった人まで、実に多彩なゲスト陣による奥深く力の入ったトリビュートに出来上がりました。特にここでの録音のすぐ後に亡くなったロリー・ギャラガーの出演は感銘深いもの、後にグリーンは彼の葬儀にも参列したほか、97年にはギャラガー追悼コンサートにも出演しています。この企画にこれだけの人々が次々と集まっただけでも、グリーンの影響力の深さを感じさせる出来事になりました。
そして、もう1枚はゲイリー・ムーア が単独でアルバム1枚まるごとグリーンに捧げた『ブルース・フォー・グリーニー』(95年)です。60年代にグリーンに見出されてキャリアを歩みだしたムーアの、グリーンに捧げる思いは真摯で情熱的です。わずか12歳のときにグリーンの演奏に打ちのめされ、後に彼の最初のプロ・バンドだったスキッド・ロウは、フリートウッド・マックの前座を務めてグリーンの目にとまりました。ムーアはグリーンからもらったレスポールを使ってこのトリビュート・アルバムを完成し、そのライナーノーツにこう書いています。「これはトリビュートじゃなく、ピーターへの感謝状なんだ。長年にわたって、僕も含め世界中の人たちにインスピレーションを与えてきてくれたことへのね。」 そしてこのアルバムの発売と同時に行われたショーを、復帰直前のピーター・グリーンが舞台裏から見ていました。彼はグリーンの面倒を見始めていたレイノルズとワトソンに説得されて、会場に赴いたのです。ビデオにも収められたこのライヴの最後で、グリーンは舞台に招き入れられ、ムーアの温かい歓待を受けます。ギターこそ手にしていないものの、グリーンが表舞台に姿を見せた最初の瞬間でした。
スプリンター・グループでライヴ活動を再開したグリーンは、97年には復帰後初のアルバム『ピーター・グリーン・スプリンター・グループ』(97年)を発表します。その後パウエルとマレイは脱退し、そのパウエルが98年には不慮の自動車事故で亡くなるといった事件も起きましたが、グループはコンスタントに活動を続け、昨年までに計6枚のアルバムを発表しています。グリーンは今も名声と金に固執する音楽界には否定的で、自らの過去の名曲でもかつてのフレーズを弾こうとしません。ただ今のグリーンは自分を神格化しようとするファンたちの目を、かつてよりも落ち着いてかわせるようになったようです。観客も変わりました。かつてのグルーピーのように厚かましく熱狂的に迫ってくるファンよりも、グリーンが一人苦闘していた時期をそれぞれに人生のドラマと立ち向かいながら歩んできた人々が、現在のグリーンの姿に自分の人生を静かに重ねるように温かく見守ってくれるようになりました。グリーンがかつて若くして語っていた「ブルースは心だ」という思いが、やっと聞き手たちにも共有されるようになったのかもしれません。
<本文に登場する作品から>
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John Mayall &
the Bluesbreakers/Hard Road (1967) |
CDNOW |
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ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ/ハード・ロード |
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メイオールのイギリス時代の最高傑作とも目される1枚。ピーター・グリーンはプロ活動を始めてこの時わずか1年余りですが、すでに存在感を見せています。グリーン歌唱が2曲、作曲が2曲、そのうちの1つのインスト曲"Supernatural"でのサステインを効かせた音は、後の"Black
Magic Woman"、ひいてはサンタナに繋がる音の原型です。 |
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Fleetwood Mac/English Rose (1969) |
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フリートウッド・マック/英吉利の薔薇 |
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これは本国イギリスでの2作目『ミスター・ワンダフル』の代わりに米国でツアーに合わせてリリースされたもの、日本ではデビュー作になりました。演奏にはまずブラスが4本入ったほか、全4曲は新入りで録音当時まだ18歳だったダニー・カーワンが書いたもの。さらに、ジェレミー・スペンサーのピアノが上達しないので頼まれたというクリスティン・パーフェクト、後にジョン・マクヴィ夫人になってこのグループの欠かせない一員になった彼女が最初にゲスト参加した作品でもあります。ミック・フリートウッドの女装が強烈なジャケも有名。 |
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Fleetwood Mac/Then Play On (1970) |
CDNOW |
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フリートウッド・マック/ゼン・プレイ・オン |
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グループ時代にグリーンの力が最も存分に発揮されたアルバム。ここでピーター・グリーンは作曲の幅を広げただけでなく、他の英国ロックのブルースギタリストと違い、歌えるギタリストだったことを証明しています。伝統的ブルースの再評価からスタートしたグループは本作ではオリジナルな作風に発展し、"Oh
Well"や"Rattlesnake Shake"といった名作を生み出しました。後者は荒々しいサウンドに見合う露骨な歌詞、「ミック(・フリートウッド)は女がいなくたって構いやしない/家に帰りゃこするんだ/ガラガラヘビ・シェイクだぜ/ブルースを噴き出すんだ/そら、いけ」と動物的なまでに野蛮です。 |
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Fleetwood Mac/The Complete Blue Horizon
Sessions: 1967-1969 (1999) |
CDNOW |
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グリーン在籍時代のスタジオ音源のうち1969年までのブルー・ホライズン所属時の音源は、未発表のものを含めすべてこのボックスに収められました。6枚組で約40ドルというお買い得、オリジナルのフリートウッド・マックの粋を証明するセットです。 |
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Fleetwood Mac/The Vaudeville Years, 1968-1970,
Vols.1 & 2 (1998, 2001) |
CDNOW |
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グリーン在籍時、リプリーズに移ってからの『ゼン・プレイ・オン』時代の未発表音源を集めた2組の2枚組セット。 |
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Fleetwood Mac/Live at the Boston Tea
Party, Part One: February 1970 (1998) |
CDNOW |
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フリートウッド・マック/ライヴ・アット・ザ・ボストン・ティー・パーティー・パート1 |
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ライヴ・ジャムバンドという性格も強めつつあった、グリーン脱退直前のフリートウッド・マックの演奏の極みが聴けます。以前85年にリリースされた際には含まれていなかった約25分間の"Rattlesnake
Shake"では、スタジオ盤では必ずしも出きっていなかったこの曲の可能性が存分に引き出されます。連夜の公演から他にパート2、パート3が出ています。 |
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Peter Green/In the Skies (1979) |
CDNOW |
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ピーター・グリーン/虚空のギター |
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どうしても出来にむらのあったソロ時代ですが、その中では特に評価の高い1枚。もともとメロウな曲にも強みを見せていたグリーンが、ここではメロウ・ファンクとでもいうべき音色を披露します。恐らく様々なテイクを繋いで編集した部分もあるはずですが、全体を漂うゆったりした雰囲気は落ち着いた味わいがあります。グリーン個人の状況に思いを寄せなくても、純粋に音楽として聞ける余地が十分ある作品です。 |
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Gary Moore/Blues for Greeny (1995) |
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ゲイリー・ムーア/ブルーズ・フォー・グリーニー |
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ゲイリー・ムーアが師匠グリーンの曲の中でも、ブルース色の濃い曲を中心に集めてカヴァーした作品。90年代に入ってブルースに回帰していた時期の、脂の乗ったムーアの演奏が聞けます。95年のグリーン本人が一瞬登場するライヴビデオもあり。 |
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Various Artists/Rattlesnake Guitar: The
Music of Peter Green (1995) |
CDNOW |
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グリーンの復帰の兆しも全然ない時期で、それほど売れるとも思えない企画でしたが、その分グリーンの楽曲を純粋に慈しむ人々が集まって2枚組分もの作品に仕上がりました。グリーンの曲が甦ったということもさることながら、暫く名前を見なかったイギリスのミュージシャンたちが一同に会しているのも興味をそそりました。クリームの作詞家だったピート・ブラウンが制作に深く関与しています。ミック・エイブラムズやハーヴェイ・マンデルが結構頑張っていますし、"Green
Manalishi"を原曲以上におどろおどろしく歌うアーサー・ブラウンは適任です。イアン・アンダーソンのバロック調の"Man
of the World"から、ビリー・シーハンの威勢のいい"Oh
Well"、ポール・ジョーンズのハープがリードギターの代わりをする"Albatross"まで様々なアレンジが楽しめます。後に
Peter Green Songbook の別名でも発売されました。 |
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Peter Green
Splinter Group/Destiny Road (1999) |
CDNOW |
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ピーター・グリーン・スプリンター・グループ/デスティニー・ロード |
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「スプリンター・グループ」(派生した集団)という臨時のような名前を冠しながら作品もこれでついに4枚目、もはやピーター・グリーンの復帰は一時的現象ではないことを教えてくれる、かなり安心して聞ける1枚です。今やしゃがれているグリーンの声は渋い味わいをかもし出していますし、バンド全体も腕が上がったようです。復帰後初めてのグリーン作になる"Tribal
Dance"はジャズインスト調です。シークレット・トラックは"Man
of the World"のインストというのも憎い。 |
<関連のリンク>
Peter Green
Splinter Group - The Official Site: ピーター・グリーン・スプリンター・グループの公式ページ(英語)
Peter Green
Splinter Group - The Official Album Site: ピーター・グリーン・スプリンター・グループの所属レーベルにおける公式ページ(英語)
Peter Green
Splinter Group: ピーター・グリーン・スプリンター・グループのビクター・エンターテイメントにおける公式ページ(日本語)
Greeny Room: ピーター・グリーンのファンサイト(日本語)
Rokket WEB: 1999年来日時のピーター・グリーンと、シーナ&ザ・ロケッツ、Char の記念写真(日本語)
The Penguin -
Everything That Is Fleetwood Mac: フリートウッド・マックの網羅的なファンサイト(英語)
Fleetwood Mac:
フリートウッド・マックの網羅的なファンサイト(日本語)
John Mayall.com:
ジョン・メイオールの公式ページ(英語)
John Mayall.net:
ジョン・メイオールに関する詳細なファンサイト(英語)
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