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※1999年7月24日に掲載した記事に加筆修正して再録

Column 7:
On the Verge of the Other World (2)

彼岸と此岸のはざまで(2) ―狂気のダイアモンド、シド・バレット [
前編]

*後編に進む*

 

 
シド・バレット。彼はピンク・フロイド で1枚、ソロで2枚のアルバムだけを残して、表の世界から消えていった。ジャニス・ジョップリンジミ・ヘンドリックスのように夭折した天才でもなく、いまだイギリスでひっそり人目を避けて生きる彼を、人々は今も追い求め、その伝説は増幅し続けている。この高い評価の背後にあるのは、単にピンク・フロイドというバンドの初期に対する関心だけではない。そこには、バレットの生み出したアートの世界とカリスマに対する根強い支持をみてとれる。

シド・バレットは、R&Bからサイケに移行していった時代の音楽シーンを象徴する存在であり、同時に彼の芸術は当時ロンドンで沸騰しつつあった新たなアートシーンの一断章でもあった。今回は、世界中に拡散したバレット信仰の震源である67年のイギリスに注目して、バレットというアンダーグラウンドのヒーローが生まれた時代背景を描いてみたい。

若きカリスマ、シド・バレット

時は1961年、場所はイギリス・ケンブリッジのパブ。毎週金曜日、ここにアマチュアのジャズマンたちが集まってセッションを繰り広げるとき、必ず部屋の片隅で一人静かに見学している少年がいた。髪が少し長めだったことを除けば、顔の整った、育ちのよさそうな少年だ。彼は大人とも気さくに接することができ、中年になるジャズ愛好家たちともすぐ仲良くなった。

しばらくすると彼らは、この少年が仲間のドラマーと同じバレットという名字であることを知った。それから大人たちは、彼のことを、シドというドラマーの名前で呼ぶようになった。少年はこのあだ名をあまり気に入らなかったが、まもなく学校の友達にもこのあだ名は伝わって、それ以降彼はシド・バレットになった。

Barrett at three彼の本名はロジャー・キース・バレット、大学町ケンブリッジに1946年に生まれた(写真は3歳のとき)。父親はケンブリッジ大学に勤める病理学者で、家は比較的裕福だったようだ。幼いバレットはひょうきんで、周りを和ませる存在だったという。

イギリスの多くの若者たちが音楽に目覚めた57年のスキッフル・ブームのときは、まだ11歳だった。だが、9歳年上の長兄アランがスキッフル・バンドでサックスを吹き始めたのに影響され、彼はこの頃からポピュラー音楽にはまり始めた。当時の彼のお気に入りは、チャック・ベリーボー・ディドリーバディ・ホリーなど、典型的なロックンロール・ファンだったようだ。

この頃から彼の音楽的知識は、急速に広がっていった。それはバレット家の自由な気風のおかげでもあったようだ。シド・バレットはよく近所の仲間を家に招き入れて、居間のプレイヤーで新しいレコードを聞かせた。彼の母親はそんな習慣を嫌がるどころか、子供たちにお茶とお菓子をふるまって歓迎した。後にピンク・フロイドに加入したデヴィッド・ギルモアは、この頃からバレット家に出入りしていた、バレットの幼友達だ。

高校時代には、シド・バレットの音楽的趣味は、すでにロックンロールを卒業しようとしていた。62年頃に彼がはまっていたのは、ちょうどこの年イギリスでもヒットしたブッカー・T&ザ・MGズ「グリーン・オニオン」だけでなく、マイルズ・デイヴィスジミー・スミスだった。この緩やかなジャズ志向は、ちょうど彼が前述のように地元のジャズクラブに通っていた時期とも重なる。

同じ年彼は、62年にデビューしたばかりのボブ・ディランにも、ラジオを通じて興味を惹かれた。ただディランという珍しい名字では綴りが分からなかったようで、当初「ボブ・ディー・ロン」と覚えて、レコード屋で探すのに苦労したらしい。ディランがイギリスではじめてヒットを記録したのは64年で、当時はまだまだコアなフォーク・ファンの間でしか知られていない存在だった。62年暮にディランが最初のイギリス公演を行ったときは、バレットはさっそく見に行っている。因みに、最近日の目をみた「ボブ・ディランズ・ブルース」は、彼がこのすぐ後の1963年に書いた、バレットの最初期の曲だ。

他方で彼は、その頃自国にやっと登場し始めたビート・グループにも、敏感に反応していた。ビートルズのデビュー・シングル「ラヴ・ミー・ドゥ」にはだいぶ熱をあげ、コンサートのチケットを買ったが、あいにくカレッジの面接の日と重なって行けなかったらしい。ローリング・ストーンズについても、彼らのレコードがまだシングル1枚のみで、ロンドンの外ではおよそ無名だった時期から注目し、ローリング・ストーンズが63年9月から行った初の全国ツアーで、9月30日にケンブリッジの小規模なホールに寄った際に、バレットは見に行っている。

この日会場の後ろの方で見物していたバレットに、休憩時間にミック・ジャガーが、たまたま声をかけたようだ。ジャガーは彼とビールを飲みながら、音楽談議にひとしきり花を咲かせ、そこに加わったビル・ワイマンは、このとき、自分はベースを始めたばかりで、まだうまく弾けないと告白したらしい。

以上のようなバレットの音楽的嗜好から読み取れるのは、新奇なものに対する強い好奇心だ。これは、新しい物に接してその魅力を直感的に感じ取っていく、彼独特のアート感覚の表われだったと言えるだろう。この先天的な感性は、幼い頃から絵を描くのが得意でアートに秀でていた事実と関連しているのかもしれない。このバレットの先取の精神こそが、後にピンク・フロイドを、単なるR&Bバンドではなく、独創的なトータル・アートとしてのパフォーマンスへと導く原動力になったのだ。

彼のこうした側面は、周りの若者たちにはすでに高校時代からカリスマ性として受け止められていた。この頃のバレットを知るギルモアの証言は、ほとんど絶賛に近い。「彼を好きにならない人間は誰もいなかった。彼は外見がよくて、何をやっても素晴らしい才能があった。」 バレットのアート感覚は、ファッションにも表われた。買った服を自己流にアレンジしたり、顔を少し黒くして日焼けにみせたり、ケンブリッジの街の若者の中でも目立つ存在だったようだ。人と同じことをしない個性的な姿勢は、こうして若くして形成された。

ピンク・フロイドの結成

young Syd Barrettシド・バレット(写真)がギタリストとして最初にバンドに加入したのは、16歳のときだ。このグループでベーシストを担当していたのが、高校で2年先輩のロジャー・ウォーターズだった。バレットは64年夏、アート・カレッジに入学するためロンドンに移る。このとき選んだ下宿で、バレットはウォーターズと部屋を分け合う同居人になった。2部屋のアパートに4人で住む構成で、通うカレッジも年次も違ったが、4人とも地元はケンブリッジだった。

まもなくバレットは、ウォーターズが同じ建築学校の仲間と組んでいたバンドに参加する。当時の彼らはローリング・ストーンズのようなR&B系のグループを目指していたようだ。64年後半の約半年間は、クリス・デニスという別のシンガーを加入させて、ミック・ジャガーばりのフロントマンに仕立てようとも試みたが、この方向性はデニスが兵役に就いて脱退したため、中止になった。

65年夏、バレットは在学1年で、カレッジに対する興味を失っていた。特別に優秀でない限り、カレッジを卒業しても美術教師にしかなれないという現実を知って、情熱が褪せてきたのだ。彼が音楽に本格的に打ち込みだしたのは、この頃だ。65年夏までにはバンドのメンバーも固まって、バレットとロジャーズ、それにニック・メイスンリック・ライトという4人組になった。

バレットは、他の3人よりは1、2歳年下だったが、生来のカリスマ性を発揮して、バンドをリードする存在になっていた。ピンク・フロイドという新たなバンド名を考案したのも、シド・バレットだ。よく知られるように、これは彼がレコードの表紙で見かけたピンク・アンダーソンフロイド・カウンシルという2人のブルースマンの名前を繋げて生まれたもので、ナンセンスながらも独創的な、いかにもバレットらしい命名法だった。

当時バレットのアート作品の志向は、より抽象的でアヴァンギャルドな方向に変化しつつあった。古着に浸したペンキをキャンバスに塗りつけるといった実験を始めたのがこの頃だ。彼のアート感覚の変化は、バンドの音楽にも反映されていった。ギターの弦をジッポーのライターで叩いたり、独自のチューニングを試みたり、そして照明を使ったライトショーで演出したりといった、後にピンク・フロイドのトレードマークになる独創性はこの時期に徐々に形成された。月並みなR&Bバンドに過ぎなかったピンク・フロイドは、バレットのさまざまなアイディアに導かれながら、65年末までには独特のアート感覚を放つバンドに変化しようとしていた。

Allen Ginsberg at Royal Albert Hall, 1965折りしも当時のロンドンには、このような斬新さを受け入れる素地が静かに醸成されつつあった。若者の間にロックが定着して数年、メインストリームではモッズ系の音楽やファッションが一大流行を巻き起こしていたこの時期に、アンダーグラウンドでは新たな動きが進んだ。ニューヨークやサンフランシスコの一部で始まったカウンターカルチャーの動きは、60年代半ば、海を渡ってイギリスを訪れる若者たちを通じて、ロンドンに移入される。東洋思想、ビートニク文学、前衛芸術、ヒッピー・ファッション、そしてLSDが、アメリカから続々と持ち込まれ、イギリスのアングラ・シーンに火をつけたのだ。

特に転機になった出来事として知られるのは、1965年6月にアメリカのビート作家たちがイギリスに招かれ、ロイヤル・アルバート・ホールで詩の朗読会を催したことだ(右の写真)アレン・ギンズバーグ(写真右のスーツ姿の人物)をはじめとする彼らの型破りな詩は、会場を埋め尽くしたイギリスの若き世代に鮮烈な印象を与え、既存の枠組みに囚われない新たなアートと人生観を追求する動きの芽をイギリス文化に植え付けた。

胎動し始めたヒッピー文化は、メインストリームに飽き足らない若きインテリたちの関心も惹きつけた。66年半ばにピンク・フロイドのマネジャーになったピーター・ジェナー もその一人だ。彼はケンブリッジ大学卒の若き経済学者で、当時、名門のロンドン・スクール・オヴ・エコノミックス(LSE)で経済学を教えていた。

反体制的なエリートにふさわしく、彼はロンドンのアンダーグラウンド・シーンに早くから注目していた。ジェナーはピンク・フロイドに出会うまで、ロックをほとんど真面目に聴いたことがなかったようだ。ロックとヒッピー文化との接近は、それまでほとんどロックに見向きもしなかったインテリたちを、新世代ロックの世界に巻き込み始めた。後にプログレッシヴ・ロックの時代に顕著になるように、この頃から名門大学出身のエリートやプロのジャズマンたちが参入して、ロック界の人間構成は多様化し始めた。

ジェナーがピンク・フロイドを初めて見たのは、66年6月、マーキー・クラブの「スポンテイニアス・アンダーグラウンド(自然発生したアンダーグラウンド)」というイベントに、彼らが出演していた時だ。このイベントはミュージシャンから、詩人、ボディ・アーティストまで、様々な見世物を集めた催しで、当時、毎週日曜日に、定休日のマーキー・クラブを借りて開催されていた。

当時のタイムズ紙の記事では「誰が参加するのか? 詩人、画家、ポップ歌手、ごろつき、アメリカ人、ホモ、20人の道化、ジャズ・ミュージシャン、殺人者1人、彫刻家、政治家、形容しがたいほど美しい女の子たちなどを招待」と紹介されている。このいかにも怪しげな香りの漂うイベントは、招待状がなければ参加できない特別な集まりで、まさにロンドンのアングラ・シーンの先端をいく催しとして注目を集めた。66年1月30日の第1回目には、ミュージシャンでは、ドノヴァングラハム・ボンド、それにモーズ・アリソンが出演している。

この企画を主催したのは、スティーヴ・ストールマンという、当時23歳のアメリカ人だ。彼の兄バーナード・ストールマンは、ニューヨークで弁護士業のかたわら、ESPというユニークな音楽レーベルを経営していた。ESPは当時、アルバート・アイラーオーネット・コールマンサン・ラーといったアヴァンギャルド・ジャズのミュージシャンや、ビートニク系のグループだったファッグズを抱えていた先進的なレーベルだ。スティーヴ・ストールマンは兄のつてを活かして、渡英早々ロンドンのアングラ・シーンに根を下ろし、このカルチャーをさらに活性化する熱意をもって、イベントを企画したのだった。

Peter Jennerピンク・フロイドが「スポンテイニアス・アンダーグラウンド」に最初に出演したのは、66年2月のことだ。ピーター・ジェナーが訪れた6月には、すでに彼らは、この企画の常連になっていた。その晩ジェナーは、大学の期末試験の答案の採点に疲れて、骨休めにたまたまマーキーを訪れたところ、ピンク・フロイドの新奇な演出とノイズに満ちたサウンドの洗礼を受けることになった。

ジェナーは、まもなく彼らのアパートを訪ねて、マネジャーになることを申し出た。ジェナーによれば、66年夏のピンク・フロイドは、バンドの先の展望が見えず、解散も危ぶまれる状況だったらしい。彼はR&Bカヴァーだけにとどまらず、オリジナル曲を書くように激励し、彼らをビートルズより大物にすると豪語したようだ。

バンド側は即答はしなかった。4人はその後しばらく夏休みをとる予定にしていたから、とりあえず秋まで返事を保留にすることにした。ロジャー・ウォーターズが後に語ったところでは、このとき彼はジェナーを密かにドラッグの売人ではないかと勘ぐっていたらしい。とはいえ、バンドは休暇から戻ると、結局ピーター・ジェナーを雇うことに決めた。ジェナーは、まもなく大学の職を辞めて、ブラックヒル・エンタープライズという事務所を設立する(左の写真は90年代のジェナー)。そして、友人のアンドリュー・キングと2人で、66年10月末、正式にピンク・フロイドのマネジャーになった。

2人はさっそく、ピンク・フロイドにデモテープを収録させ、バンドの売り込みの準備にとりかかった。(尚、このとき録音された「アイ・ゲット・ストーンド」[和訳「僕はラリっちゃった」] という曲は、今もって日の目をみていない。) できたデモテープをジェナーが持ち込んだ相手は、友人で当時23歳のジョー・ボイド だ。

ボイドは、後にフェアポート・コンヴェンション ニック・ドレイクを手掛けて有名になったが、彼もまたロンドンのアンダーグラウンド・シーンの動きに注目していたインテリの一人だった。彼はアメリカの出身で、ハーバード大学を出たエリートだ。60年代初頭のフォーク・リヴァイヴァルに関与して音楽業界に入り、その後64年にイギリスに渡って、エレクトラ・レコーズのロンドン事務所のA&Rを任せられた。

ボイドはピンク・フロイドのテープを聞いて、エレクトラの上司に彼らを推薦したが、結局会社側は興味を示さなかったようだ。とはいえ、後述するように、ジョー・ボイドはエレクトラを辞めた後になって、今度は自分でレコーディングを引き受け、ピンク・フロイドの最初のプロデューサーを務めている。

アングラのヒーローに

レコードデビューの機会はまだ開けなかったものの、ピンク・フロイドはまもなくライヴ活動を再開した。ジェナーらが関わり始めた後の彼らは、カウンターカルチャーの前線を担う役割をさらに強めていく。約3ヶ月ぶりのライヴになった9月30日以降、彼らは十数回にわたって、ロンドン・フリー・スクールの主催したイベントに出演している。

この団体は、社会改革の原点は教育にあるという発想に基づいて、左翼系の教育者たちが集まって設立した市民講座で、ピーター・ジェナーは、まだ大学で教鞭をとっていた66年3月に、この自由学校の設立に関わっていた。社会運動との繋がりはともかく、ピンク・フロイドはこの一連のライヴの期間に、アメリカでライトショーを経験した技術者の協力を得ながら、ライトによる演出を進化させていった。

フリー・スクールの運営で中心的役割を果たした一人が、若き写真家ジョン・"ホッピー"・ホプキンズ だった。彼は当時、ロンドンのヒッピー文化を象徴する存在で、アングラ・シーンでは広く知られていた人物だ。ホプキンズは、書店経営者だったバリー・マイルズと一緒に、66年10月、新たなアート誌、「インターナショナル・タイムズ(IT)」を発刊する。これは、ニューヨークの「ビレッジ・ボイス」を意識した、文化評論を中心とする雑誌で、発刊と同時に、ロンドンのヒッピーたちの必読誌になった。

the Roundhouse on Chalk Farm Road, London1966年10月15日、ITの創刊記念パーティーが盛大に開かれる。場所は、ロンドン北西部キャムデンにあったラウンドハウス、名称通り円形で、もとは機関車の倉庫として使われ、60年代半ばからはアート・フォーラムとして使われていた建物だ(写真は現在のラウンドハウス)。徹夜で行われたイベントの目玉は、ピンク・フロイドとソフト・マシーンのライヴ、会場には約2千人が詰めかけたという。

「持ち込み歓迎!毒に花、風船に潜水艦、ロケット船にキャンディー、・・・」「一番短い/露出の多い衣裳にはサプライズあり!」と書かれたフライヤーで集まった参加者は、思い思いの仮装をして会場に訪れた。ポール・マッカートニーはアラブ人の身なりに変装し、マリアン・フェイスフルは尼僧の格好で登場した。ヤードバーズが出演した映画「欲望」(66年)の監督、ミケランジェロ・アントニオーニも会場にいた。

マッカートニーは、ITの創始者バリー・マイルズの親友で、当時ロンドンのヒッピー文化に深くコミットしていた。後にカウンターカルチャーの象徴になるのはジョン・レノンだが、アンダーグラウンドの動向に先に目を向けたのはマッカートニーの方だ。彼は67年6月の雑誌ライフに掲載されたインタビューでは、LSDの服用を堂々と認めたぐらいだ。

マッカートニーはITの積極的な支援者で、ITの売上げに貢献するために、自ら買って出て、67年1月の第6号のインタビューに登場している。このインタビューでは、話題は彼の創作環境から、ジョン・ケージやシュトックハウゼンの話にまで及び、新たな電子音楽の可能性に強い関心を寄せている。まもなく制作の始まった『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(67年)には、マッカートニーのこうした指向が表われることになる。

ラウンドハウスでのライヴは、ピンク・フロイドの評判を一気に高めた。水玉模様を壁に映し出す幻想的な照明、チェルシーで仕入れたカラフルな服装、シド・バレットのトリッピーな即興演奏、そして最大音量のノイズ・・・圧倒的なパフォーマンスは、その日彼らを初めて見た人々も虜にした。このイベントの模様は日刊紙タイムズでも報告され、イギリスのサイケデリック・シーンの幕開けを告げる一大事件となった。

ピンク・フロイドが、その年暮から出演し始めた伝説のUFOクラブもまた、雑誌ITとの関連で始まった。ホプキンズはITの資金を調達するために、新たにコンサートを企画し、ジョー・ボイドに協力を求める。そこでボイドは、ソーホー地区のすぐ近くに、地下のアイリッシュダンス・ホールを見つけ、ここを借り切った。イベントは当初、「アンダーグラウンド・フリーク・アウト(UFO)」という名称で12月23日と30日の2回が予定されていたが、好評を博したために毎週金曜日の営業が定例化し、UFOクラブと呼ばれるようになった。

ピンク・フロイドは67年2月までここに常駐し、その後はソフト・マシーン、プロコル・ハルムアーサー・ブラウン トゥモロウ などの後続バンドが次々と登場し、まもなくUFOクラブは、ブリティッシュ・サイケ・グループの登竜門になった。このオールナイトのイベントには、アングラ・バンドのほかに、前衛ダンサーや詩人なども出演した。トリップした若者たち、幻惑的なライティング、そして汗とドラッグのむせかえるような臭い・・・これらのキーワードが当時のUFOの雰囲気を物語っている。

Technicolor Dreamステージ上のシド・バレットは、観客の方をほとんど向かずに、ギターで様々な実験を繰り広げた。ロジャー・ウォーターズをはじめ他のメンバーは、彼の即興に付いていこうと必死だったようだ。この時期になると、元になったR&Bは、すでに形がなくなるまでに解体され、代わりにバレットのアート世界が展開されていった。型にとらわれない独創的なパフォーマンスに魅せられて、熱烈なファンも増えていった。

UFOでの活動は、サイケ時代に入ったロンドンのインディーズ・シーンの筆頭グループとして、ピンク・フロイドの名声を確立した。ただ、UFOクラブは短命に終わってしった。開業して直後の12月30日には、主催者のジョン・ホプキンズが自宅のアパートでマリファナ所持で逮捕される。そして、半年後の67年6月には禁固9ヶ月の実刑を言い渡されたのだ。

このときバリー・マイルズらはポール・マッカートニーに協力を求め、マッカートニーはビートルズの他のメンバーに相談し、新聞に意見広告を出すことに同意した。7月24日のタイムズ紙に掲載された全面広告では、麻薬のカンナビスを合法化するように訴える意見書にビートルズが名を連ねている。にもかかわらず、警察はUFOクラブの家主にも圧力をかけ、結局UFOは67年9月、もともとの地下のクラブを離れることを余儀なくされた。その後ラウンドハウスに移転して再開されたものの、まもなく10月を最後に、UFOは幕を閉じた。

雑誌ITの方は、警察に睨まれながらも何とか運営を続けていたが、財政的には相変わらず苦境だった。そこでジョン・ホプキンズは、まだ刑を言い渡される前の4月29日に、新たに盛大なイベントを催して資金集めを計画する。それが、有名な「14時間・テクニカラー・ドリーム」だった。

ロンドンのアレクサンドラ・パレスで開かれた一大イベントには、アレクシス・コーナーグラハム・ボンド、ソフト・マシーン、プリティ・シングズ、クレイジー・ワールド・オヴ・アーサー・ブラウン、ヨーコ・オノジョンズ・チルドレンムーヴなど総勢41組が参加したと伝えられる。言ってみればUFOの拡大版だったこの企画は、ロンドンのアングラ・シーン最大のイベントとなった。

ピンク・フロイドは、その日オランダでの公演をこなしてからフェリーで急ぎ帰国し、午前3時半にステージに登場して、トリを務めた。この日のピンク・フロイドの演奏の一部は、後にビデオ『London '66-'67』(95年)で映像として公開されている。外は空も白みかける時間に、シド・バレットたちは、エネルギッシュさと静謐さをあわせ持ったパフォーマンスで、1万人の観衆を魅了し、この歴史的なイベントを締めくくった。

レコード・デビューへ

アングラ・シーンでの人気を確立したピンク・フロイドは、67年1月いよいよレコード制作にとりかかった。年末にエレクトラ・レコーズを辞めたジョー・ボイドは、UFOの常駐DJを務めるかたわら、独立のプロデューサーとしての活動を開始していた。ピーター・ジェナーとアンドリュー・キングは、ピンク・フロイドを彼のもとに送り、1月11日、チェルシーのサウンド・テクニックス・スタジオで収録が始まる。

ボイドが曲の候補を絞り込んで、最終的に1月27日に収録されたのは、「アーノルド・レイン」「キャンディ&ア・カラント・バン」、それにすでに彼らのライヴの定番だった「インターステラー・オーヴァードライヴ」(邦題「星空のドライヴ」)の3曲だった。シングルに収録するのは、最初の2曲に決まった。当時のピンク・フロイドのライヴと比べても、よりポップで実験性を抑えた曲がシングルに選ばれたのは、ヒット曲が必要だというジェナーとキングの判断だった。

ピンク・フロイドを取り巻く状況は、わずか数ヶ月で変化していた。前回のレコーディング時とは異なり、今回は大手のレコード会社が複数アプローチしてきたようだ。結局彼らは、5000ポンド先払いの条件を提示したEMIと契約を結ぶ。因みに、このとき面会したEMIの重役は、彼らに向かって「で、誰がピンクなんだい?」と質問したというエピソードが、 『炎』(75年)の収録曲「葉巻はいかが」の歌詞に登場している。

Pink Floyd / The First 3 Singles (1997)3月11日のシングル発売に当たって、保守的なEMIは、この曲は決してトリップ効果を狙ったものではないと、わざわざ発表した。にもかかわらず、女装趣味を歌う「アーノルド・レイン」は、発売と同時にちょっとしたセンセーションを巻き起こし、若者文化を支持していたはずの海賊ラジオ局、ラジオ・ロンドンは放送を禁止した。ただ、公共放送のBBCラジオはこの曲を流し続け、4月にはチャートを20位まで昇る。この曲でピンク・フロイドは、アンダーグラウンドにとどまらず、イギリス全国で名前を知られた新人バンドに変わった(写真は、初期シングル3枚6曲を集めた編集盤 [97年] のジャケット)

「アーノルド・レインには奇妙な趣味があった/月の光の当る物干しにかかった服を集めて/彼にはよく似合っていた」・・・今から聞けば、決して悪趣味には聞こえないが、さすがに、サイケ・ポップな音に乗せてこんな歌詞を明るく歌ってしまうのは、かなり独創的だ。

曲のイメージは、実話に基づいている。ケンブリッジには女子大があって、バレットとウォーターズの実家も女子大生を下宿させていたらしい。そのため家の物干しには、いつも女性のブラジャーや下着が並んでいた。その洗い物が、夜のうちに誰かに盗まれてしまうことが時々あったという。そこでバレットはアーノルド・レインという架空の人物を設定し、その男が下着を自分で試着してみるという、どこか寓話的な歌詞に作り上げた。

ラヴソングが主流だったそれまでのブリティッシュ・ロックからみれば風変わりなテーマを、いかにも自然に持ち込んでしまったのは、ロック史に対するバレットの大きな貢献だったと言えるだろう。彼の独特の感性は、同じ頃ニューヨークで活動を始めたヴェルヴェット・アンダーグラウンドとともに、ロックの詩想を広げる「革命」を引き起こした。後にプログレッシヴ・ロックで顕著になる、詩的でときに難解な歌詞を乗せるトレンドは、ポップセンスと独創性のある詩的感覚を兼ね備えたバレットの手で、先鞭がつけられたと言っていい。

サウンドは、キャッチーなメロディーも、コーラスの入れ方も、確かにビート・グループの伝統を感じさせる。ギターの音を歪ませたのも、すでにザ・フークリエイションといったモッズ・バンドが試みていた実験の延長だった。しかし、当時最先端の技術でエコーをかけた、頭を揺さぶるような幻惑的な音は、やはり新たなサウンドの到来を感じさせるオリジナルな響きだ。

もう一つ注目すべきなのは、リック・ライトのオルガン・プレイだろう。初期のブリティッシュ・ロックでは、ソウル・ジャズやR&Bの影響を強く受けた奏法が主流だったが、それと比べればピンク・フロイドのオルガンは、不気味と言ってもいいほどの歪み具合だ。直前にロンドンで流行っていたモッズ系のヒップな音にはほど遠い。ここには、後にプログレッシヴ・ロックで多用される奏法の原型をみることができる。

因みに60年代後半のブリティッシュ・ロックに訪れた、オルガン・サウンドの変化は、実に顕著だ。共にジョン・ロードがオルガンを弾いているアートウッズディープ・パープル、60年代のマンフレッド・マンと70年代のマンフレッド・マン・アース・バンドロッド・アージェントゾンビーズ時代とアージェント時代、それぞれを聞き比べてみれば、この違いは明らかだろう。

デビュー・シングルのB面に収録されたのは「キャンディ&ア・カラント・バン」で、「飴玉とカラント入りのパン」というタイトルは、無垢な印象を与える。実はこの曲の原題は、「レッツ・ロール・アナザー・ワン」、和訳すれば「もう1本巻こう」だった。これでは明らかにマリファナを連想させるため、バレットの反対にもかかわらず、タイトルと歌詞が変更されたらしい。

Pink Floydさて、シングルを発表したピンク・フロイドは、いよいよ精力的にライヴ活動に取り組む。4月6日に、BBCテレビの音楽番組「トップ・オヴ・ザ・ポップス」に出演したのを皮切りに、以後たびたびテレビ出演を果たし、人気は地方にも広まっていった。ただ、「アーノルド・レイン」の成功は、逆にバンドに難しい試練も与えたようだ。このシングルで彼らを気に入った新しいファン層は、彼らの大音響のライヴ・パフォーマンスに驚かされ、ときには否定的な反応に出会うこともあったらしい。

5月12日には、5月1日にオープンしたばかりのクイーン・エリザベス・ホールで、ライヴを行う名誉に恵まれた。このホールはテムズ川南岸のローヤル・フェスティバル・ホールに隣接した建てられた収容約900人の小ホールで、主にクラシックの室内楽などに使われるはずの会場だったが、ここにロック・グループとして真っ先に登場したのが、ピンク・フロイドだった。

「ゲームズ・フォー・メイ」と題されたライヴを前に、彼らは数日コンサート活動を休んで、リハーサルを行う。会場には巨大なスピーカーを設置し、当日は機械を使ってシャボン玉を客席に送り出した。空中のシャボン玉が、映写機から映し出される映像と照明の光を反射して、幻想的な雰囲気を生み出す趣向だった。さらに、ステージからはスイセンの花を投げるという演出も準備した。

このコンサートに対するシド・バレットの意気込みは十分で、イベントの名前を冠した「ゲームズ・フォー・メイ」という新曲も用意して臨んでいる。この曲を短くアレンジし直したのが、セカンド・シングルになった「シー・エミリー・プレイ」だ。この曲の収録に際して、EMIはジョー・ボイドを外して、社内プロデューサーのノーマン・スミスを起用する。当時のイギリスでは、独立系のプロデューサーよりも自社の社員を使う傾向がまだまだ強かったのだ。ところが、EMIのアビー・ロード・スタジオでは彼らの独特なサウンドをうまくレコーディングで再現できず、結局スミスは、ジョー・ボイドの本拠地だったサウンド・テクニックス・スタジオに移って、収録を行っている。

尚、後にトゥモロウを手掛けたマーク・ワーツの証言によれば、EMIでピンク・フロイドを推して契約まで運んだのは、ワーツなのだという。そして、彼の推薦でノーマン・スミスがプロデューサーに選ばれたということらしい。

「シー・エミリー・プレイ」は、エミリーという少女にまつわる夢幻的な歌詞だ。邦題では「エミリーはプレイガール」と訳されたこともあるが、これでは内容に全くそぐわない。歌詞には、「明日まで他人の夢に身を託し」「日が暮れると、悲しい目で木々を見つめ」「地面を引きずるガウンを身にまとい」「川面を永遠に漂う」という幻想的なイメージが繰り返し登場する。バレット自身は、たまたま夜空の下で寝ていたときに、森の中を一糸も身にまとわずさまよう女の子を目撃して、着想を得たと語っている。

Miss Emily in the 60sだが長い間、このイメージは、LSDに影響されたバレットの幻覚の投影だという解釈も根強かった。ところが99年、この曲のモデルになったと思われる人物が、初めてインタビューに応じている。彼女はエミリー・ヤングという女性で、今は彫刻家として活躍している。まだ15歳だった頃に、よくピンク・フロイドのライヴに行っていたが、シド・バレットと直接の面識はないという。彼女は貴族の家系だったために、当時はグルーピーの中でも特別な扱いを受けていたようだ(写真は、この女性の60年代の写真)

「シー・エミリー・プレイ」のサウンドは、メロディーこそ相変わらずキャッチーだが、前作と比べれば一段と実験的だ。何といっても冒頭と間奏でバレットのギターが舞い上がるように高揚し、それに歪んだオルガンが絡むのが強烈で、本格的なサイケを感じさせる。発売当時メロディー・メイカー誌に寄稿して、「あの恐るべきオルガンは彼らしかいない。こういう音を出すのは彼らだけで、非常に特徴的なサウンドだ。『アーノルド・レイン』と比べると、こちらの方がずっといい。前作が売れたとしたら、この曲はもっと売れるはずだ」と論評したのは、プロコル・ハルムゲイリー・ブレッカーだ。

ブレッカーの予言通り、6月16日に発売された「シー・エミリー・プレイ」は、最高位6位を記録した。ピンク・フロイドは、実にそれから12年後のアルバム『ウォール』 (79年)のときまでシングル・ヒットがない。その意味でも、この曲はまだポップ・グループ的な要素も残っていたバレット時代のピンク・フロイドの代表曲だ。

屈指の傑作の誕生

ドラッグとの関連性に神経質になっていたEMIも、シングルのヒットを受けて、ピンク・フロイドのアルバム・デビューを許可する。収録場所はアビー・ロード・スタジオで、プロデューサーは引き続きノーマン・スミスが担当したが、この録音作業は、スミスにとって頭痛の連続だったようだ。LSDの悪影響が表に見え始めたシド・バレットは、仕事に神経を集中できなくなっていた。バレットは録音中に勝手に歌詞を変えてしまい、コントロール・ルームからの指示にも従わなかったという。彼は、機材のレバーを適当に上下させて、たまたま気に入ったセッティングで収録を行うという、気まぐれともいえる方法を貫いた。この状況をみて、スミスはバレットの才能に疑いを抱かざるを得なかった。

だが、当時のピンク・フロイドの中心は明らかにバレットだった。彼の端正な容姿はバンドの人気の一大要因だったし、音楽的に言っても、彼の独特なアート世界がピンク・フロイドのトレードマークだった。そもそも、この頃の他のメンバーは、ミュージシャンとしてもまだまだ未熟で、バレットの存在に頼るしかなかったようだ。バレット以外に曲を書いたことのある人間はリック・ライトぐらいで、当時のロジャー・ウォーターズは、ベースのチューニングもままならなかったという。

ウォーターズは、後に1987年のインタビューで、次のように述べている。

「シドはこの世に二度と出てこないライターだった。彼の狂った洞察力と認識力を、他の人間が手に入れようしたって無駄だよ。実際、僕は自分におよそ洞察力があるなんて、長い間考えた事もなかったんだ。シドには、自分自身や周りの人間の意識の陰にあるものを表現する能力があって、そのことに僕はいつも敬意を抱いてきた。僕が多少とも似たようなことが出来るようになるまでには、15年もかかった。」

「でも、シドは、どうしてあんなふうに物事を見抜くことが出来たんだろう? この問いは、アーティストはなぜアーティストなんだ?と聞いているようなものなんだ。アーティストっていうのは、単純に、他の人とは違った形で物事を感じ、見ることができるんだよ。」

Piper at the Gates of Dawnファースト・アルバム 『夜明けの口笛吹き』は、1967年8月5日、ついに発表された。このアルバムは、イギリスのポピュラー音楽界が先進的な実験性をみせ始めた、ブリティッシュ・サイケ時代の金字塔と呼んでいい。

折しも、2ヶ月前には、ビートルズが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を発表していたが、『サージェント・・・』が、メインストリーム側から出発した革新性の追求だったとすれば、『夜明けの口笛吹き』は、アンダーグラウンドの雄が実験性を保ちながらメインストリームに挑戦した試みだった。

もちろん、UFOでピンク・フロイドが披露していたアヴァンギャルドな実験的パフォーマンスを知るコアなファンからみれば、このアルバムはあまりにおとなしかった。収録曲は、1曲を除けば、長くてもせいぜい4分強だ。後にピート・タウンゼントが、当時このアルバムに対して抱いた印象を、「とんでもないくそだと思った。彼らが生でやっていることとは全然関係なかったからね」と語ったように、ピンク・フロイドがライヴで見せていたスペーシーな長丁場のジャムを再現するサウンドではなかった。

それでも、あくまでヒットを目指そうとするレーベルの意向が、必ずしもマイナスにのみ働いたとは言い切れない。ここでバレットは、プロデューサーのスミスのサポートで、単なるアヴァンギャルドではなく、サイケデリックながらポップな曲を書けるソングライターとしての才能を開花させている。「黒と緑のかかし」("Scarecrow")や、伝説の小人ノームを歌った「地の精」("The Gnome")では、彼の寓話的な感性が発揮される。このイギリス回帰的な傾向は、イギリスのサイケに独特な現象で、後に続いたプログレシッヴ・ロックにも受け継がれていった路線だ。

他方、2曲目の「ルシファー・サム」や9曲目「第24章」からは、中国の占星術、易経に対する傾倒がうかがえる。「第24章」とは、まさに易の解説書の第24章のことで、人生の変転を告げる占いの文句が歌詞に引用されている。神秘思想や東洋趣味は、当時英米のヒッピーに広く共有された関心だった。ロンドンには66年2月、前出のバリー・マイルズらが新たに、「インディカ」という書店を開店させたが、ここはビートニク文学やアート本に加えて、仏教や東洋思想などの関連本も揃えて、バレットだけでなく、スモール・フェイシズ、ビートルズのメンバーなど、多くのミュージシャンも通っていた。

とはいえ、バレット時代のピンク・フロイドの尖った感性を最もよく伝えるのは、やはり「星空のドライヴ」("Intersteller Drive")だろう。10分弱に及ぶこの曲は、収録曲の中でも最もライヴ感を湛えた個性的なサウンドで、当時の彼らのライヴでも人気のあった曲だ。曲の冒頭と最後に出てくるメインのリフは、アメリカ西海岸で活躍していたラヴが66年に発表したデビュー・シングル「マイ・リトル・レッド・ブック」から借りたもので、マネジャーのピーター・ジェナーがある日、この曲のリフをバレットに鼻歌で聞かせたところ、それに触発されたバレットが即興的にギターを演奏するうちに「星空のドライヴ」に発展したと言われている。

ドラッグに蝕まれて

アルバム『夜明けの口笛吹き』で、シド・バレットは、粗削りながら天才的な閃きを放って、ブリティッシュ・ロックの先端をいくサイケ・サウンドを世に送り出した。しかし同時に、その非凡な感性は、LSDがもたらす幻惑の世界に、人並み以上に彼が惹きつけられていく結果ももたらした。マリファナはすでに高校時代に体験していたバレットだが、彼が最初にLSDを試したのは65年、地元ケンブリッジの友人宅でのことだったという。

若い頃から新奇なものに惹かれてきたバレットは、その後LSDのもたらす非日常的な体験に深くはまっていった。66年までには、私生活の彼の周りにはドラッグ仲間やグルーピーが取り巻き、マリファナとLSDは生活の欠かせない一部になった。ピンク・フロイドの他のメンバーもドラッグをやらないわけではなかったが、バレットのやり方は比べ物にならなかったという。ロジャー・ウォーターズは、スタジオではドラッグを使用しないように、バレットをたびたび諭していたようだ。

67年当時、イギリスのアシッド・カルチャーに最も近いと目されたバンドが、ピンク・フロイドだった。67年2月5日付のゴシップ週刊誌「ニューズ・オヴ・ザ・ワールド」には、「サイケ体験― ポップ・スターとドラッグ」というタイトルの記事が掲載された。これは、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズとミック・ジャガーがドラッグ所持で逮捕される事件のきっかけになった記事だ。その中でピンク・フロイドのライトショーは、LSDの力を借りたトリップ感覚と関連付けられている。

実際これは事実の誤認ではなく、ファンやメンバーがLSDをやっていたというだけでなく、当初ライトショーの技術を彼らに指導したのは、アメリカでLSDの公用をおおっぴらに宣伝していたティモシー・リアリーが主催した、アシッド・テストのイベントに直接関与していたアメリカ人だった。66年にLSDが非合法化され、当局の取締りが厳しくなった後も、バレットたちが逮捕されなかったのは、むしろ好運にすぎなかったのかもしれない。

当時のバレットを取り巻く環境には、ドラッグを容認するどころか、推奨する雰囲気があったことも記憶に留めておく必要がある。マネジャーのピーター・ジェナーや、UFOを主催したジョン・ホプキンズらは、LSDを精神の解放、さらには社会の変革と結びつけて考える、急進的な考え方の人々だった。前述の通り、ポール・マッカートニーはこの思想に共鳴する立場を雑誌で語って物議を醸した。さらに、シド・バレットの周りには、彼をグルーピーやカリスマと崇める人々が多く集まり、当然彼らは好んでLSDを服用していた。

Syd Barrettドラッグの多用が、傍目にもわかる変化を、シド・バレットにもたらしたのは、67年春のことだった。デヴィッド・ギルモアは、「シー・エミリー・プレイ」を録音している最中のピンク・フロイドを、スタジオに訪ねたときに、旧友の変化に初めて気付いた。このとき、彼のことを思い出せずにただじっと見つめるバレットの目つきに、ギルモアは愕然としたという。同じ頃、バレットに会った妹のローズマリーも、「自分の知っている兄がいなくなってしまった」という印象を受けた、と語っている。その数ヵ月後には、ジョー・ボイドも、バレットの目からかつての輝きが失われて、彼が朦朧としてることに気づいたという。

バレットの変調は、音楽活動にも影響を及ぼし始めた。初の海外ツアーになるはずだった8月下旬のドイツ公演が直前にキャンセルになると、マスコミは彼の脱退を噂したが、マネジャーのアンドリュー・キングは、単に疲れて休養が必要なだけだと発表し、メンバーをスペインに休暇に連れて行った。実際はこのときバレットは、神経衰弱に陥って、家に引きこもってしまう状態だったという。それでも、周囲はバレットの状態を、まだそれほど深刻には受け止めず、9月には、北欧とアイルランドでツアーを行った。

10月末からの初のアメリカ公演は、バンドの将来を左右する重要なイベントになるはずだった。しかし、バレットの抱えた問題の深刻さが露呈したのも、この海外ツアー中だった。カリフォルニアのサンフランシスコでは、当時沸騰するサイケ・シーンのメッカである、フィルモア・ウェストとウィンターランドに出演したが、バレットは弦が弛んでいるのも気にせずに、ギターをかき鳴らしている状態だったという。

プロモーションのためにセットされたテレビ出演でも、バレットの不調は明らかだ。全国放送の音楽番組「アメリカン・バンドスタンド」では、「シー・エミリー・プレイ」を口パクで演奏する段取りになっていたが、本番の映像で口を動かしているのは、ロジャー・ウォーターズだ。これは、収録のときにバレットが口パクをこばんだために、やむなくウォーターズが代役になったらしい。同じく国民的人気のあった「パット・ブーン・ショー」にも出演したが、このときのバレットは、司会のブーンに質問を投げかけられても、虚ろな様子で何も返事をしなかった。結局、彼らはツアー後半に予定されていたシカゴとニューヨークでのライヴをキャンセルし、イギリスに戻る羽目になった。

帰国直後に発売されたシングル「アップルズ・アンド・オレンジズ」の制作は、以前にも増して困難な作業だったという。明確なアイディアを示せなくなったバレットを前にして、プロデューサーのスミスが何とかバレットの意図するところを手繰りだすようにして作り上げたこのシングルは、11月18日に発売されたものの、チャートインできなかった。この作品は、シド・バレットがピンク・フロイドの一員として発表した最後のシングルになった。





―本文の関連作品―

Pink Floyd 1967: The First 3 Singles (1997) Amazon.co.jp
  1992年にEMIが実に8枚組という巨大なボックスセットを発売した際に、ボーナス・ディスクとして、バレット在籍時の最初期の3枚のシングル両面を収めたCDが付録になった。この6曲のうち実に4曲までがそれまで公式にCD化されていなかったため、これは貴重な音源となったが、8枚組を買わされるのを嫌ったファンから、ボーナス盤だけを別個にリリースしてほしいという要望が高まっていた。その待望のEPが97年、バンドの結成30周年を記念して限定発売で登場したもの。

モッズ・サイケの代表曲"Arnold Layne"はもちろんのこと、6曲ともサイケ時代の貴重な記録。"Apples and Oranges"は買い物に勤しむ女の子を歌った愛らしい作品で、エキセントリックに高まっていくバレットのヴォーカルが印象的。"Paint Box"はリック・ライトらしいメランコリックな曲。今回のアルバム・カヴァーにも使われた、オリジナルのシングル・ジャケに登場する、バレットの子供っぽいイラストにも注目。

Pink Floyd London '66-'67 [video] (1995) Amazon.co.jp
  ピンク・フロイド / ロンドン 1966-1967 [ビデオ] Amazon.co.jp
 

シド・バレット在籍時代のピンク・フロイドのライヴを記録した貴重なビデオ作品。この映像は映像作家のピーター・ホワイトヘッドがロンドンのポップ・カルチャーを収めたドキュメンタリー映画"Tonite Let's All Make Love in London"(67年)の為に撮影したもので、映画には使われなかったものを再編集してリリースした模様。

鋭く迫ってくる"Intersteller Overdrive"の演奏をバックに、UFOで踊るモッドなファッションに身をまとった女たちや、当時のファッション記事の映像、そして67年1月の最初のレコード・セッションの模様を織り交ぜた映像が続く。バレットの目つきはいたって正常な様子で、途中でギターの上でライターをスライドさせているのが見られる。約18分間にわたって音と光とイメージの醸し出す幻想空間はひたすら圧巻。ビデオの後半は4月のテクニカラー・ドリームでの映像と、このビデオで初公開された音源"Nick's Boogie"の収録風景。トリップ感の強いインストでバレットが弦をゆるめたり、ギターのボディを指で叩いたり、ブリッジの上でピックを上下させたり、様々なトリックを使っているのが記録されている。コンサートの映像の方には、頭に鉄のかごをかぶった奇怪な格好をした男や踊り狂う女などの様子が描かれ、そこにジョン・レノンの姿も見られます。この日出演していたヨーコ・オノが撮った映像も織り込まれている。

Pink Floyd The Piper at the Gates of Dawn (1967)

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  ピンク・フロイド / 夜明けの口笛吹き Amazon.co.jp
  ピンク・フロイドの記念すべきデビュー作。作曲・歌詞から工夫に満ちたギタープレイまで随所に、当時名実ともにリーダーだったシド・バレットのひらめきを聴き取ることができる。アルバムのタイトル「夜明けの口笛吹き」は、ケネス・グレアムが書いた児童文学作品"The Wind in the Willows" (『柳の風』)の中の、ある章のタイトルから採られた。なお、日本盤発売当時の邦題は『サイケデリックの新鋭』。

"Astronomy Domine"はトランス・サウンドのイントロが一転して、力強くもオフ・ビートでミニマルなリフに移行するのが痛快。"Lucifer Sam"の探偵映画のように迫ってくる邪悪なワウワウ・サウンド、そして間奏のフィードバックも独特。"Flaming"の歌詞のユーモラスな詩情は、バレットの寓話を語るような歌声とライトの漂うオルガンによって巧妙に表現される。この辺りまではまだ、ポップな音作りのビート・バンドの形式を何とか踏襲している本作も、"Pow R. Toc H."のスペーシーなジャムに至ると、浮遊するギターとオルガン、それに「トイ・トイ」「チッチ」といった意味不明の発声で、曲構造がすっかり崩されていく。そして、いよいよ"Interstellar Overdrive"。冒頭はパンキッシュにも聞こえるリフで入るが、数分もしないうちに不気味ながら同時に至福を感じさせるサウンドの迷宮に誘い込まれる。冒頭のリフが戻って来たときには増幅されたエコーに頭を洗われるよう。因みに最終的に収録されたこのテイクは、2つの別テイクをダブル・トラックにして重ねているため、さらに奇妙なサウンドに仕上がったとのこと。続く"The Gnome"との対照も見事。本文で触れたように、この曲や"Scarecrow"のように童心と牧歌的風景を感じさせる音は、バレットが得意とするもう一つの曲想だった。最後の曲"Bike"の前半のシンプルな歌詞と曲は、後のバレットのソロを予想させる作り。この純情な歌詞をしれっと歌ってしまうのも、バレットならではの芸当かもしれない。「自転車があるんだ/よかったら乗ってくれていいよ/かごにベルがついてるよ/ほかに飾りもね/君にあげてもいいんだけど、借り物なんだ」

 

*後編に進む*

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