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Column 8:
Warner/Reprise Story (2)

ワーナー・リプリーズ物語(2) ―ニール・ヤングとジョニ・ミッチェル 

 

  第5回に、お話したように60年代末から快進撃を続けたリプリーズ・レーベルには、特集を組むに値するミュージシャンがずらりと揃っています。今回はその中から特に2人に絞って、ニール・ヤング ジョニ・ミッチェル に注目してみたいと思います。この2人は数いるアーティストの中でもリプリーズとの関係が深く、いったん袂を分かった後も戻ってきて、今日もこのレーベルに所属しています。作風はだいぶ異なる彼らですが、この2人の出発点はかなり共通しています。彼らは同時代のカナダに生まれ、新展開を見せていたフォークの洗礼を受けながら、ロサンジェルスに流れ着きました。彼らの初期の足跡をたどりながら、リプリーズ・レーベル、そしてロサンジェルス発のシンガーソングライター達が輝いていた時代にもう一つの光をあててみたいと思います。

カナダのフォーク・ミュージック・シーン

カナダ最大の都市トロント。ヤングとミッチェルが60年代半ばにキャリアを積んだ街であり、後に米国で活躍する数々のカナダ人ミュージシャンたちが無名時代を過ごした場所です。当時トロントには若者の音楽の中心地は2ヶ所ありました。一つは、世界一長い通りとしても名高い繁華街、ヤング通り周辺です。こちらにはロックンロールやR&Bを扱うクラブやレコード屋が立ち並び、今も東京で言えば西新宿と六本木を足したような雰囲気が続いています。当時ここで活躍していたグループの一つが、ロニー・ホーキンズ&ザ・ホークス、後のザ・バンドです。またアル・クーパー脱退後にブラッド・スウェット&ティアーズのリード・ヴォーカルになるデヴィッド・クレイトン=トーマスも、このシーンの出身です。ステッペンウルフジョン・ケイはドイツ人ですが、彼の一家の移住先がトロントで、彼もこのヤング界隈で音楽活動を始めました。

Yorkville now大都会トロントの音楽シーンのもう一つの核がヨークヴィル、市の中心街の南西部に位置する地区です。当時この辺りはカナダのフォークの中心地、軒を連ねるコーヒーハウスで無名のフォークシンガーたちが演奏を披露していました。かつてトロントのヒッピーのメッカだったこの地域にも、現在は市の再開発でこぎれいな店が立ち並びますが、それでも今も残るバーレストランでは弾き語りのライヴがよく行われています(写真は現在のヨークヴィル)。ヨークヴィルのフォークシーンから飛び立っていったミュージシャンは、イアン&シルヴィアにはじまって、ゴードン・ライトフットブルース・コックバーンレナード・コーエン、ニール・ヤング、そしてジョニ・ミッチェルなど数多くいます。特に64年に開業したコーヒーハウス「リヴァーボート」には彼らが頻繁に出演し、同クラブは78年に閉店するまでカナダのフォーク界の登竜門の役割を果たしました。

ジョニ・ミッチェルは64年頃、そしてヤングは彼女に約1年遅れてこの街区に拠点を移しています。ミッチェルはフォークシンガーを目指して、アートカレッジを卒業してすぐトロントに移りましたが、最初はミュージシャン組合に入るお金がなく、演奏の機会もないまま、デパートで働いてお金を貯えます。しかも、大学時代の別れた彼氏の子供を宿していた彼女は、65年未婚の母になりました。生活費もなく娘も抱えて困っているところで出会ったのが、同じヨークヴィルで活動していたフォークシンガーのチャック・ミッチェル。2人はすぐ結婚し、夏には五大湖を隔てて対岸になる米国のデトロイトに移り住み、デュオとして活動しました。妻のジョニ・ミッチェルの方が人気が出てきたことへの夫の嫉妬なども原因で、2人の関係は1年半で終わりましたが、ジョニは今日までこのときの名前を使っています。なお、ミッチェルが、かつて未婚の母として産んだ娘がいて、その子を生まれてすぐ養子に出した事実を初めて公にしたのは、94年のインタビューでのこと、かつて密かに"Little Green"で娘のことを歌っていた彼女は、この頃になって娘を探し始め、97年ついに再会を果たしました。

ニール・ヤングはもとからロックンロールの影響を強く受けていた人で、アマチュアバンドでシャドウズのコピーなどをやっていたのですが、65年になってアコースティックなフォークに転身することを決心して、ヨークヴィルに向かっています。エレキからアコースティックへというフォークの時代の流れに逆行するような動きですが、一つには歌詞という観点で考えると、ロックンロールの歌は愛をテーマにした軽い歌詞が多く、当時のヤングにはフォークの方が内省的で成熟した響きをもって聞こえたという違いがあったようです。ヤングはフォーク・クラブに出演するうちに、ボブ・ディランを初めとするフォークにはまりました。当時夫婦でクラブめぐりをしていたジョニ・ミッチェルにもこの頃会っています。ヤングはアコースティックへの転向を歓迎しなかったバンドメンバーたちと別れて、単身でトロントに行きました。

実はちょうどこの頃、スティーヴン・スティルズ が、ヤングとバンドを組むつもりで、ヤングの元の住所に電話をしています。2人は直前の65年春にたまたま同じライヴハウスに出演し、このときフォークを下地にしながら斬新なエレキサウンドでギターを弾きまくるニール・ヤングの演奏にスティルズが衝撃を受け、その後一緒に酒を酌み交わして意気投合していた経緯がありました。しかしスティルズは、ヤングがフォークシンガーを目指してトロントに移ってしまったと聞いて、すっかり失望しました。スティルズにとってみれば、アコースティック・フォークはもう時代遅れで、なぜヤングがあえてアコースティックに戻るのか理解できなかったようです。スティルズは後に、この時のことについてローリング・ストーン誌に、「それでおしまいさ。ニールはボブ・ディランになりたかったし、僕はビートルズになりたかったんだ。」と語っています。

フォークシーンに変化が生まれつつあったのは、実はトロントでも同じでした。ニール・ヤングのソロコンサートは地元紙でもあまり芳しい評価を受けず、彼はあせりを感じ始めます。それまでヨークヴィルとヤング街の音楽シーンは別個に発展していましたが、65年頃にはヤング街のロックンロール系出身でも、フォークを取り込んだフォーク・ロックをやる流れが出ていました。後にモンタレー・ポップ・フェスティヴァルに出演したポーパーズはその先駆けです。逆にフォーク一辺倒だったヨークヴィルにもロックンロール出身のグループが登場し、純粋なフォーク勢を圧迫し出します。ニール・ヤングも急速に下火になるフォーク・シーンで生きのびようと苦労したのでした。ちょうど66年当時、地元紙の取材に答えて、ジョニ・ミッチェルがこう語っています。「フォークが数年前に人気絶頂だったころは、雑誌もフォークを大きく取り上げていたけど、今は音楽記事の注目の的は、ビートルズ系や、バーズラヴィング・スプーンフルよ。」 離婚したミッチェルは、まもなくトム・ラッシュ の勧めでニューヨークに移りました。ニール・ヤングも、アコースティック・シンガーの道はわずか半年で捨てて、65年末にはスティルズを探しに、やはりニューヨークに向かったのです。

苦労したニューヨーク時代

Joni Mitchell in the late 60's2人が向かったニューヨークは、60年代初頭にはフォーク・リヴァイヴァル・ブームの震源地になった土地です。マンハッタンの下町グリニッジ・ヴィレッジ周辺こそがその中心地区で、フォークシンガーを目指していたジョニ・ミッチェル(左の写真)も当然ここを活動の拠点にします。ミッチェルなどロック時代に活躍したシンガーソングライターには、ここで先輩フォークシンガーたちの薫陶を受け、また先輩たちに自分の曲を歌ってもらって世に紹介されたケースが多くあります。例えば、トム・ラッシュの68年のアルバム『サークル・ゲーム』(68年)には、ジョニ・ミッチェルの3曲のほか、まだ無名のジェイムズ・テイラー ジャクソン・ブラウンの曲が収録されました。ミッチェルの曲は本人のデビューより先に、バフィー・セント=マリーや、ジュディ・コリンズデイヴ・ヴァン・ロンクなどの先輩シンガーたちに取り上げられたのです。

因みに、ミッチェルをジュディ・コリンズに紹介したのは、アル・クーパーです。67年春当時、ブルース・プロジェクトを組んでグリニッジ・ヴィレッジ界隈で活動していたクーパーは、最初の結婚に失敗して腐りながら、フォーク・シンガーたちの溜まり場のようになっていたジュディ・コリンズのアパートに転がり込んで、居候していました。ある晩近くのバーで酒を飲んでいると、横の席の若い娘が、ブルース・プロジェクトのドラマーだったロイ・ブルメンフェルドに惚れて、彼の恋人にひどくいじめられたと泣いています。それが、当時ニューヨークに来たばかりのミッチェルでした。この日クーパーは閉店まで彼女のグチに付き合って家に送っていきますが、そこでミッチェルが数曲歌うから聞いてくれないかと言うので、彼女の家にとどまりました。ここでクーパーは下心を実行に移すどころか、ミッチェルの曲に純粋にほれ込みます。彼女の曲がジュディ・コリンズの歌に向いていると思ったクーパーは、早朝にもかかわらずコリンズに電話しました。起こされて不機嫌だったコリンズですが、実はこの日ちょうどコリンズはニューポート・フォーク・フェスティヴァルに出演する予定、クーパーの機転で結局ミッチェルもとりあえずコリンズに同行させることにしました。車の中でコリンズに歌って聞かせたミッチェルは、この日急きょフェスティヴァルに出演したのです。

ミッチェルが第二世代のフォークシンガーとして道を歩みだす少し前に、ニール・ヤングもニューヨークに赴いています。彼は初めて親しくなったアメリカのミュージシャン、スティーヴン・スティルズを探しに訪れたのですが、残念ながらスティルズは新天地を求めて西海岸に向かった直後でした。やむなくヤングは3日でトロントに戻り、再びしばらくフォークシンガーの生活を続けます。スティルズがこの時期西を目指したのは、第5回にご紹介したような、ニューヨークからロサンジェルスへという動きを象徴しています。グリニッジ・ヴィレッジ出身のミュージシャンたちはすでに西への移動を始めていました。特にロジャー・マッギンなどニューヨークのフォーク仲間を含むバーズが、65年夏「ミスター・タンブリン・マン」でフォーク・ロックの時代の到来を告げて以来、その動きは強まり、まもなくママズ&パパズとしてデビューするキャス・エリオットたちも65年8月にはロサンジェルスに向かいました。スティルズは当初は、ニューヨーク初のフォーク・ロック・グループ、ラヴィン・スプーンフルに加入しようと画策しますが失敗、自分でフォーク・ロックをやることにしていました。しかし、前述の通り、パートナーに目論んでいたニール・ヤングの当てがはずれて、結局ロサンジェルスに移動したのでした。

Neil Young in the youthさて、トロントに戻ったニール・ヤング(写真)は相変わらず芽の出ない日々を過ごしますが、そんな66年1月のある日のこと、彼がギターを抱えながらヨークヴィルを歩いていると、ブルース・パーマーに出会いました。ブルース・パーマーはヨークヴィルに出来たゴーゴー・クラブのハウスバンド、マイナー・バーズに加入したばかりでした。先ほど述べたように、この地区にもロック系の波が押し寄せつつあった時期のことです。このグループのヴォーカルは黒人のアメリカ人、リッキー・ジェイムズ・マシューズ、後に80年代にリック・ジェイムズの名でファンクスターとなった人です。リック・ジェイムズとニール・ヤングというのは、今聞くととてもありえない組み合わせですが、このときのヤングはパーマーの誘いを受けて、すぐグループに加入しました。彼らがやっていたのは基本的にローリング・ストーンズ系の音楽で、ヤングが試みていたアコースティック・フォークとは関係がなかったばかりか、ヤングはサイドマンに徹して、自分のオリジナル曲もまったく取り上げられなかったようです。ただこの頃のヤングは仕事がなくきわめて貧しかったようで、エレキ・ギターが買えないために最初は、それまで使っていた12弦のアコギにピックアップを付けて演奏していたとか、他のメンバーの資金援助でやっとリッケンバッカーを手に入れたのです。

ヤングが加入して1ヶ月もしないうちに、彼らは湖を隔ててアメリカ側の対岸、デトロイトにあった大レーベル、モータウンでのレコーディングが実現します。モータウンが契約した最初の白人を含むグループだった彼らは、スモーキー・ロビンソンの監督のもと、さっそくアルバムを録音したのでした。この出来事にバンドが一様に興奮していたのも束の間、リッキー・ジェイムズ・マシューズがスタジオ内で突然逮捕されてしまいます。他のメンバーも知らなかったのですが、実はマシューズは当時徴兵制のあったアメリカで海軍から脱走してカナダに渡っていたのであり、アメリカに戻ったとたん、逮捕されたのでした。この出来事のせいでバンドの録音は宙に浮き、残された録音は今でもモータウンに眠っています。失意のままトロントに逆戻りしたヤングは3月、ブルース・パーマーに対して、「カリフォルニアに行こうぜ」と提案しました。まもなく彼もまた、スティーヴン・スティルズの後を追って、フォーク・ロックの新メッカ、ロサンジェルスに向かいました。

ニューヨークのフォークシーンの変化がヤングとスティルズの再会を妨げたように、ジョニ・ミッチェルもこの変化の影響を受けました。先輩たちが曲を取り上げてくれるおかげで多少の印税収入はありましたが、彼女のようなソロシンガーには難しい時期が訪れようとしていました。当時を振り返ってミッチェルはこう語っています。「あたしは遅く着いたのよ。クラブは閉まり始めていたし、バンドを作るのが新しい流行だったけど、あたしはその気はまだなかった。バンドを使っても音楽の繊細さを損なわないと思えるようになるまでは、5枚もアルバムが必要だったわ。」「ニューヨークで演奏するのは大変だった。毎晩泣いて、あたしは上手いのよと自分に言い聞かせてた。」

リプリーズ・レーベルとの出会い ―ジョニ・ミッチェルの場合

ジョニ・ミッチェルがついにソロデビューするきっかけを作ったのは、彼女のマネジャーになったエリオット・ロバーツです。67年当時まだ23歳だったロバーツは、業界最王手のタレント事務所、ウィリアム・モリスに務めていました。彼は音楽とは無縁でコメディアン担当の社員、カフェ・オー・ゴー・ゴーでミッチェルの演奏を見たのは、コメディーの前座でたまたま彼女が登場したからでした。ほとんど誰も聞いていない彼女の演奏にほれ込んだロバーツは、マネジャーになると申し出て、最初は警戒したミッチェルも彼の行動力と愉快な性格に触れてマネージメントを任せることにします。まもなくロバーツは、事務所を独立してミッチェルの専属になりました。ただロバーツの尽力をもってしても、音楽界の時代の波は厳しくすぐにはレコード契約はとれませんでした。大手のコロンビアやRCAはロック路線を開拓し始めていて、女性のソロシンガーには興味を示さなかったとのこと。

そのミッチェルとロバーツをロサンジェルスに呼んだのは、バーズを脱退した直後のデヴィッド・クロスビーです。ミッチェルがフロリダにミニ・ツアーに出たときに、たまたまクロスビーが彼女の演奏を見て2人は知り合います。すぐ恋に落ちた2人は、エリオット・ロバーツも説得してロサンジェルスに移り、ローレル・キャニオンで一緒に暮らし始めました。デヴィッド・クロスビーはバーズのなかでも最初からカリフォルニア生まれで、ロサンジェルスでは非常に顔の効く存在だったようです。彼が口を利いた相手が、第5回にご紹介したリプリーズ・レーベルに入ったばかりのアンディ・ウィッカムでした。トム・ラッシュが歌った彼女の曲も聞き知っていたウィッカムの後押しで、ミッチェルは68年リプリーズと契約します。リプリーズがローレル・キャニオンのヒッピー・コミュニティに足場を作って最初の成果が、ミッチェルの獲得だったと言えます。

ところで、ロサンジェルスに定着する直前、ジョニ・ミッチェルは渡英して、インクレディブル・ストリング・バンドのツアーの前座を務めています。これはもともと米国東海岸のフォークシーンの出身で、当時エレクトラ・レコーズで独立プロデューサーになっていたジョー・ボイドが起用したもの、恐らくミッチェルを熱心にサポートしていたトム・ラッシュがボイドと大学時代の親友だったという経緯も関係があるでしょう。ボイドはミッチェルがイギリスで録音したデモテープを、デビュー前のフェアポート・コンヴェンションに聞かせた結果、彼らはデビュー・アルバム『フェアポート・コンヴェンション』(68年)に2曲ミッチェルの曲を取り上げています。68年9月に再度ロンドンを訪れたミッチェルは、今度はローヤル・アルバート・ホールで、アル・スチュアートとフェアポート・コンヴェンションと同じ舞台に立ちました。

Joni Mitchell / Joni Mitchellさて、ワーナーからのデビュー『ジョニ・ミッチェル』(68年;写真)は、デヴィッド・クロスビー自らがプロデュースをかって出て、サンセット・スタジオで録音されました。とはいえ、後にクロスビー本人が語ったように、音の面では彼はほとんど関与していないようです。実は彼は録音の知識が乏しく、近くに住んでいたスタジオ・エンジニアのジョン・ヒーニーに助けを求めたとのこと。このヒーニーはエレクトラの専属のスタッフでしたから、本当は他社に所属するミッチェルの制作に関われるはずがありませんでしたが、クロスビーのたっての願いで、真夜中に密かにリミックスを行いました。エレクトラの幹部には最近まで内緒になっていた話で、もちろんレコードのクレジットにも表われていません。ただ、レコード会社との関係では、クロスビーという大物のバックアップを受けたことは、新人のミッチェルにとっては幸運なことでした。ミッチェルの理解では、フォーク・ロックの時代にもかかわらず、彼女が基本的にアコースティックの弾き語りで録音できたのは、クロスビーのおかげだとのこと。

リプリーズ・レーベルとの出会い ―ニール・ヤングの場合

Neil's hearse所属したグループが突然空中分解してしまったニール・ヤングは、バンド仲間のブルース・パーマーを誘って、今度こそアメリカを目指しました。バンドの機材を売って揃えた資金でヤングが買ったのは、霊柩車。なかなか奇抜な利用法ですが、霊柩車は6人乗りで、外から見えないし、さらに棺桶を乗せる台のおかげで車の後部から楽器や機材を楽に出し入れできたという理由で、ヤングは昔から霊柩車がお気に入りでした。(写真はヤングの初代の霊柩車、中央がヤング。) この車に他に男1人、女3人を乗せて、総勢6人ではるばる5000キロかなたのロサンジェルスに向かったのです。彼らはもちろんビザを持たず違法入国でしたので、チェックが手ぬるいという噂だった税関のある地点まで遠回りをして、なんとかアメリカへと越境します。3月半ばに発って、目的地にやっとたどり着いたのは66年4月1日、すでに他の4人はすべて途中で脱落していました。

ヤングとパーマーは頼りのスティーヴン・スティルズを探して、ロサンジェルス中のクラブを当って探し回ります。しかし、本人に会わないどころか、スティルズを知る人にも会えないまま1週間が過ぎました。そのとき、バッファロー・スプリングフィールド 結成の秘話として有名な、あの出来事が起きたのです。2人が諦めてサンフランシスコに北上しようと北向きに進路をとったそのとき、スティルズたちが同じサンセット通りの反対車線を走っていたとか。道が渋滞だったこと、そしてヤングが黒い霊柩車という目立つ車に乗っていたことが幸いして、スティルズはヤングの車に気づいたそうです。もしやと思ってナンバープレートを見ると、オンタリオ・ナンバー、すぐ車を降りて、彼らはこの奇跡的な再会を祝ったのでした。

バーズに続く、ロサンジェルス生まれのフォーク・ロック・グループとして伝説的な、バッファロー・スプリングフィールドは、昨年ボックスセットにまとめられたように優れた作品を生みましたが、予想外に短命で、アルバム3枚、ヒット曲1本だけを残して68年には解散しました。グループの行路に最初に影を落とした事件は、67年初めにブルース・パーマーがカナダに追い出されたことでした。パーマーはメンバーのなかでも特にドラッグにはまっていて、おとり捜査にひっかかってドラッグ所持で逮捕されるのですが、このとき違法入国者であることが分かり、カナダに強制的に追放されたのです。数ヵ月後に帰ってきたものの、まもなくまた逮捕され、68年1月にはバンドを脱退しています。

しかし、バンドの基盤を脅かした最大の要因は、ニール・ヤングとスティーヴン・スティルズの確執でしょう。この2人は共に他人に譲らない性格、2人の個性は、かみ合えばグループの一番の魅力だったと同時に、衝突すれば手をつけられない対立に至ったのです。もともとリード・ギターはヤングの役目でしたが、ギターの腕前が上達し、さらにクリームエリック・クラプトンに刺激されてギター・ヒーローの時代の到来を予感したスティルズは、ステージでヤングと張り合ってリードをとろうとするようになりました。67年5月末、モンタレー・ポップ・フェスティヴァルを目前に一時脱退したのを皮切りに、その後ニール・ヤングは何回かバンドを出たり入ったりしています。まもなくスティルズとヤングは一緒に録音をせず、自分の曲には自分用のミュージシャンを集めてバラバラに録音する状態になり、ステージ上での2人のギターバトルも混乱をきわめ、しばしばその対立は楽屋での殴り合いにまで発展していました。

68年5月5日、ロサンジェルスで行われたコンサートを最後に、活動期間2年でグループが解散する頃には、ニール・ヤングはすでにソロ活動の準備を進めていました。ソロになった彼のマネジャーになったのが、前述のエリオット・ロバーツです。2人を引き合わせたのは、ジョニ・ミッチェルでした。彼女がデビュー・アルバムを制作しているとき、同じサンセット・スタジオでバッファロー・スプリングフィールドが最後のアルバム『ラスト・タイム・アラウンド』(68年)を録音しているのを知って、旧知のヤングに声をかけようとミッチェルが出向いて、このときロバーツを紹介したのです。エリオット・ロバーツは結局、わずか数週間ながら、崩壊寸前のこのグループ全体のマネジャーを務めています。そして最終的にグループを脱退したヤングは、その後一人でロバーツの事務所を訪れマネージメントを依頼しました。以来今日まで続いている2人の長い関係が、このとき始まったのです。

音楽的に言えば、この頃のニール・ヤングはジャック・ニッツェのレコーディング技術を高く評価していました。(第5回参照) すでにヤングは67年に、ニッツェの協力を得てソロ・アルバムを作ろうとしていましたが、この時はグループが所属していたアトランティックが、彼をソロとしてデビューさせることを拒みました。バンド解散後のエリオット・ロバーツの最初の仕事は、ヤングのアトランティックとの契約を終えることでした。そして、ロバーツがジョニ・ミッチェルをワーナー・リプリーズと契約させていたこと、そしてジャック・ニッツェが同社を強く勧めたことが重なって、ニール・ヤングはアンディ・ウィッカムを通じて、リプリーズと契約を結びます。リプリーズからの先行収入でヤングは、ローレル・キャニオンよりさらに奥まって田舎びていたトパンガ・キャニオンに家を購入し、恋人と一緒に暮らし始めました。そして翌1月には、初のソロ作 『ニール・ヤング』(69年)を発表したのでした。

リプリーズ・レーベルでの仕事 ―ジョニ・ミッチェルの場合

ワーナー・リプリーズには有能なスタッフがすでに揃いつつあり、同社と契約したソロミュージシャンの多くが彼らの力を借りてレコーディングを行い、いわばワーナー的なサウンドの要素を取り入れましたが、その点でヤングとミッチェルは最初から自らのヴィジョンを持って、レーベルからかなり自立した作品作りをしてきた点でも共通しています。とはいえ、私生活では常に我が道を行き、偏屈との噂も多かったヤングに比べると、ミッチェルの方は、ローレル・キャニオンに住みだしたことの影響を圧倒的に強く受けています。すでにみたように元々惚れっぽい性格の彼女は、ロサンジェルスに移ってからも仲間のミュージシャンたちと恋愛遍歴をたどり、その移り変わりが音楽にも反映しました。

最初の結婚についてファースト・アルバムの"I Had a King"「私の王様」)で、「もう戻れないの/私の鍵はそのドアには合わない/私の考えはあの人には合わない/無理なの、無理なの」と追憶した彼女は、69年には恋人クロスビーと別れて、新たにグレアム・ナッシュと同居します。ホリーズを解散してアメリカに移ったナッシュはミッチェルの新居に移り住み、ここでの2人の生活は、以前述べたようにクロスビー・スティルズ・ナッシュ&ヤング (以下CSNY)の"Our House"に歌われました。ミッチェルの方は、3作目の『レディズ・オヴ・ザ・キャニオン』(70年)の中で、ナッシュの愛称をタイトルに冠した"Willy"で、「ウィリーは私の子供で、私のパパ/私は一生彼のもの」とナッシュへの愛を語りました。弾き語りのスタイルを相変わらず踏襲しているものの、バックコーラスやホーンも時々入れて、全体的にリズミックな感じが少し出ています。本人がロサンジェルスに住んで、ロック系の仲間に囲まれている環境に影響されたと語った通り、ローレル・キャニオンの住人になった彼女を象徴するような音作りになりました。

実際この頃、彼女はクロスビー・スティルズ&ナッシュ(以下CSN)と一緒にツアーを回っていましたし、このアルバムでも「ルックアウト・マウンテン・ユナイテッド・ダウンステアズ・クワイア」という仮名で、"Circle Game"に彼らのバックコーラスに加わっています。(ローレル・キャニオンにルックアウト・マウンテン・ロードという道路があります。) この曲はニール・ヤングが1964年、19歳のときに書いた曲"Sugar Mountain"に対する返答歌として、ミッチェルが65年に書いたもの。上記の通り、トム・ラッシュが68年にタイトル・トラックに取り上げた曲です。ヤングが20歳になって失われる青春時代を追憶するのに対して、ミッチェルは「月日がめぐって、今少年は20歳/昔の夢の輝きは失われてしまったかもしれないけど/まだ新しい夢がある、もしかしたらもっといい夢がたくさん」と励ますように歌います。ちょうど中島みゆきが「時代」(75年)で「まわるまわるよ、時代はまわる」と歌ったのとほぼ同じように、「戻ることはできない、振り返ることしか/私たちの来た道を/サークルゲームのように、まわりまわって、まわり続ける」と締めくくっています。

Matala Beach of Creteナッシュとの幸せな関係は1970年までに終わりました。ミッチェルは、第4作『ブルー』(71年)の"My Old Man"で「市役所からの紙切れなんかなくても/二人の絆は固くて本物」だったのに、独り身だと「ベッドは広すぎるし/フライパンも大きすぎる」と歌います。同じ作品の"All I Want"で新しい恋を求める気持ちを情感豊かに吐露した彼女の生活を、新たに占めるようになったのは、ジェイムズ・テイラーの存在でした。この頃音楽業界に疲れを感じ始めていたミッチェルは、しばらく静養したいと考えていました。1970年1月ロンドン公演の後、これでもうコンサートをやらないと宣言した彼女は、この年の前半、ヨーロッパを旅行しています。クレタ島のマタラで数週間を過ごした時に、彼女と一緒にいたのは、まだほとんど無名だったジェイムズ・テイラーでした。今もホテルのない美しい自然が残されたこのビーチには、当時ヒッピーたちが集ったとのこと、ミッチェルたちも服を身に付けずに泳いで楽しんだようです(写真は現在のマタラ・ビーチ)。この時の思い出は『ブルー』の中の"Carey"に歌われました。

サビで高く舞い上がるミッチェルの声が印象的な"California"も同じ旅行中に書かれた曲、ジェイムズ・テイラーが伴奏で参加、さらにスティール・ギターの名手スニーキー・ピートが活躍します。「パリの公園に腰掛けて」ミッチェルは祖国の「ニュースを読み」ますが、時はベトナム戦争末期、「みるからに悪いニュースばかり」です。「彼らは平和をもたらす気なんかない」「それは私たちの仲間が持った夢に過ぎなかった」と社会的なコメントまで踏み込みます。でも異国で祖国の悪い知らせを目にしながら、やはり彼女の思いはカリフォルニアに向かうばかり。「家に帰るわ/大好きな仲間に会いに行くの/サンセット(通り)の豚にだってキスするわよ/カリフォルニア、今から帰るところよ」 『ブルー』は全英3位、全米15位を獲得し、ミッチェルの初期の傑作という評価を得ています。

ミッチェルとテイラーの絆は、この頃の彼女の様々な音楽活動にも表れています。70年10月29日にミッチェルはロンドンを再び訪れて、テイラーと2人でロイヤル・アルバート・ホールで共演しました。翌年4月発売になったキャロル・キングの代表作『つづれおり』(71年)には2人とも参加し、同5月発売のテイラーの『マッド・スライド・スリム』(71年)でも"You've Got a Friend"にミッチェルがコーラスを入れています。70年を通じて続いた2人の関係は、私生活のみならず音楽的にもお互いを認め合う深い結びつきだったと伝えられています。それだけに71年に訪れた別れは、双方にとって辛い出来事だったようです。特にジョニ・ミッチェルがこの出来事から立ち直るのに精神的に苦しんだことは、当時のインタビューや楽曲にも表れていました。別れの一つの原因は、昔から女好きのテイラーの浮気が度重なり、ミッチェルが許せなかったとのこと。そして彼女は彼女で、相手に詰め寄ってしまう勝気な性格だったことが互いの関係を急速に冷めさせました。

ミッチェルの当時の複雑な心境は74年のインタビューに表れています。テイラーの不貞をまだ許せなかったのか、ミッチェルは、テイラーとの恋愛関係が彼女の名声にプラスになったかと記者に聞かれて、「そうは思わないわ。彼は全く無名だったし。あたしの方が彼のキャリアを助けたのかしら?」と答えました。しかし、それに続けて、「クリエイティヴな人間どうしが一緒になると、絆がお互いの刺激になるの。ロック界では仲間内で一緒になったり離れたりというのが日常茶飯事、そこからたくさんの美しい音楽が生まれたわ。そして、美しい音楽だけじゃなくて、たくさんの苦しみもそこから生まれるの。」と語ったのです。

Joni Mitchell / For the Rosesミッチェルは71年ローレル・キャニオンの家を売却し、カナダのヴァンクーヴァーに移り住みました。川縁の自然に囲まれた新居で、彼女は約1年間別れとハリウッドの喧噪から身を遠ざけてひっそり暮らします。この間にテイラーは新しく会ったカーリー・サイモンとの愛を急速に深め、72年11月には結婚しました。ミッチェルが約1年半ぶりの作品『バラにおくる』(72年)でカムバックしたときも、テイラーとの別れはアルバムのあちこちに影を落としていました。"See You Sometime"は、まだ相手が自分の所に戻ってくる期待をこめた内容で、「折れなくてもいいのよ、私はあなたにまた会いたいだけ」「自分の名前をまた変える気持ちにはまだなれないの/でも、あなたの財産とか名声が目当てでもないわ/だって、私も自分で築いたし/ただ、いつかまた会いたいだけなの」と訴えかけます。また、"You Turn Me On, I'm a Radio"「恋するラジオ」)は、別れた恋人に対する未練を託した歌詞で、自分をラジオになぞらえて、「ダイヤルしてちょうだい、あなたを愛しているから」「愛はまだ溢れているの/頭では忘れようとしてるかもしれないけど/あなたの気持ちはまだ冷めてない/ラジオ局に電話して/まだ繋がるから」と歌います。

タイトル曲の「バラにおくる」は、もっと直接的です。この歌では「大きなテレビ画面に映るようになった」相手に対して、昔一緒に「腰掛けて、愛の歌を作っていたころを思い出して」と歌いかけます。単に愛を取り戻したいというだけでなく、純粋に音楽を慈しんでいた無名時代の気持ちを取り戻して欲しいというメッセージが率直に歌いこまれます。「今のあなたはマスコミのためにパーティーで演奏し/あなたを切り刻んでしまう人たちのために仕事をしている」「あなたが崇められる旨味を覚えだしたとたんに/彼らはハンマーを持ち出すわ、それに板と釘も」 自分の苦しみや歓びを音楽に昇華させていく、それこそシンガーソングライターたるミッチェルの魅力であり、同時代のアメリカ人たちの共感を呼び起こした理由でした。その意味でジェイムズ・テイラーとジョニ・ミッチェルは音楽的によく似た性格を持っていました。ワーナーが生んだ2人の偉大な才能は激しく惹かれあいながら、互いの個性はお互いを受け止めることができなかったのです。この2人の傷が癒えて、ふたたび友達として音楽的にも交流し始めるのは、80年代初頭のことです。

そしてまた、『バラにおくる』はミッチェルが、リプリーズを離れた最初の作品になりました。背景には、私生活の変化のほかに、マネジャーのエリオット・ロバーツとそのパートナー、デヴィッド・ゲフィン が新しいレコード会社、アサイラム・レコーズを設立したという事情がありました。今やスティーヴン・スピルバーグ監督と組んで娯楽業界に君臨するゲフィンは、もともとはロバーツと同じ、ニューヨークのタレント事務所ウィリアム・モリスの出身で、ローラ・ニーロのマネージメントから音楽業界に入りました。ビジネスにきわめて有能なこの人物は、ロバーツが師と仰いできた存在で、メンバーの所属レーベルがバラバラだったクロスビー・スティルズ&ナッシュの契約に困ったときに、ロバーツが助けを求めて彼らをアトランティックに契約させたのもゲフィンです。ゲフィンは69年ごろには西海岸に移り、ロバーツと共同で、ゲフィン=ロバーツというマネージメント事務所を設立し、ここにジョニ・ミッチェルも、ニール・ヤングも、そしてCSNも所属したのです。そしてゲフィンがジャクソン・ブラウンをデビューさせるために、自ら設立したのがアサイラム・レコーズで、まもなくここからはリンダ・ロンシュタットイーグルズが輩出され、西海岸のロックシーンを席巻するワーナー・リプリーズの座を脅かす存在になりました。

ゲフィンとロバーツの2人は、アーティストに付き添って実際にマネージするのはロバーツ、事務所に残って業務をするのがゲフィンという分業をとっていましたが、ミッチェルもデヴィッド・ゲフィンとは親しくなったようです。カナダに移り住んでからは、録音でロサンジェルスに来るときは、ゲフィンの家に逗留していました。74年に発表した曲"Free Man in Paris"「パリの自由人」)で歌われているのもゲフィンで、2人が一緒にヨーロッパ旅行をした時のゲフィンの姿を歌っています。彼女がリプリーズと手を切ったもう一つの理由は、ワーナーで付いた自分のイメージにあまり満足していなかったこともあるようです。ワーナーはミッチェルの無垢な弾き語りという印象を、積極的に売り込んで宣伝していました。彼女の曲"Both Sides, Now"「青春の光と影」)でジュディ・コリンズが全米8位のヒットを飛ばしたのに、同じ68年に出たミッチェル本人のデビュー作の売れ行きが芳しくなったのを受けて、ワーナーは「ジョニ・ミッチェルは90%ヴァージン」という広告を出しました。これはコリンズに比べてミッチェルは、まだ10分の1しかレコードが売れていないという意味だったのですが、それでも清純なイメージだからこそ、それをあえて汚す言葉でファン心理をくすぐる、というどぎつい手法について、ミッチェル本人は後にすごく傷ついたと語っています。

Joni Mitchell in nudeより大きな文脈としては、ワーナーが手探りでロックに手を出し始め、ロサンジェルスに集まったヒッピーたちと一生懸命接点を持とうとしていた時期の、アット・ホームな雰囲気が数年で急速に薄れ、新路線の成功とともに大会社に変わっていたことがあるようです。ゲフィンが新レーベルにあえて「アサイラム(避難所)」という名前を付けたのも、無名ながら才能のあるミュージシャンたちの安心して音楽を作れる場所を用意したいという意味をこめたものでした。かつてワーナー・リプリーズにあった共同体的な雰囲気が、新たなアサイラムにはあったようで、まもなくデビュー前のジャクソン・ブラウン、グレン・フライ、リンダ・ロンシュタット、トム・ウェイツなどが、この会社の事務所でたむろするようになりました。ジョニ・ミッチェル自身もまた、初期の弾き語り中心から、まもなくLAエクスプレスをバックに付けて、サウンドを変身させ、さらなる成功へと歩みだします。『バラにおくる』の内ジャケでは、ワーナー時代の自分、そしてジェイムズ・テイラーの思い出に囚われた自分を否定するかのように、遠景とはいえ後ろ向きのフルヌードを載せたのです(写真)。ミッチェルはその後アサイラムに続いてゲフィン・レコーズに移籍し、デヴィッド・ゲフィンと行動を共にしました。彼女が再びワーナー・リプリーズに戻ってきたのは94年、曲の権利をめぐってもめたゲフィンと手を切った後のことでした。

リプリーズ・レーベルでの仕事 ―ニール・ヤングの場合

第5回でご紹介したように、ニール・ヤングのソロ第1作『ニール・ヤング』(69年)は、本人が非常に神経質になって作ったせいか、音楽的にもセールス的にも満足のいかない結果に終わりました。彼が弾き語りで行ったミニツアーは観客もまばら、しかもクラブに出演できたのはそもそも、マネジャーのエリオット・ロバーツがジョニ・ミッチェルの出演を約束したのと引き換えという有り様だったのです。ヤングはデビュー・アルバムをリミックスし直して同年11月に再リリースしてもらうほど、納得がいっていなかったようです。この後の、ヤングの変わり身は電光石火のごとき早さでした。ソロツアーの翌週には、新たにクレイジー・ホースをバックに従えた陣容でツアーを開始、同じメンバーとの新曲のレコーディングも始めて、5月には新作『ニール・ヤング・ウィズ・クレイジー・ホース』(69年)を発表しました。前作から実にわずか4ヶ月という短い期間でのセカンド・アルバムの発売でした。

結果的にこの転換こそが、今日まで衰えない、根強いニール・ヤング人気を決定付けたと言えます。代表曲"Cinamon Girl"にあるのは生々しいエレクトリック・サウンド、グランジ・ロックなどという言葉が存在するずっと前から内面から煽るようなロックの魔力が実現していました。あるいは9分を超える"Down by the River"は、後にクレイジー・ホースの特徴になったジャム・プレイに通じるセッションです。当時のギターヒーローといえば、早弾きの出来るテクニック満点のブルースロック系ばかり、その中でニール・ヤングはもっと粗くとも現実感をもって迫ってくる絶妙のヤング節を生んで、確実にファンを広げました。90年代になってパール・ジャムなどが熱い敬愛を持ってトリビュートしたサウンドが、この作品に詰まっています。

ヤング専属のバックバンドとして、今日に至るまで活動をともにしてきたクレイジー・ホースは、もともとロケッツという名前でロサンジェルスで活動していたグループでした。彼らは68年に『ロケッツ』というアルバムをバリー・ゴールドバーグのプロデュースで制作しています。ヤングがまだバッファロー・スプリングフィールドにいた67年ごろ、彼らのライヴを見て気に入ったとのこと、中心メンバーのダニー・ウィットンビリー・タルボットが一緒に住んでいたローレル・キャニオンの家に、ヤングはよく出入りして演奏したりドラッグをやったりしたとのこと。前述の通りバッファロー・スプリングフィールド内部の摩擦が激しかったこともあり、彼らとの時間はヤングにとって寛げる瞬間だったようです。彼らは69年2月中旬のニューヨークのクラブ出演で、ヤングのバックを務め、そのままアルバムの録音にも参加しました。彼らのサウンドは、ニッティ・グリッティ・ダート・バンドから彼らを経て、ポコイーグルズにまで連なる、ヒッピー時代のLAが生んだカントリー・ロックの系譜で重要な位置を占めます。

幸先のよくないソロ活動のスタートを切っていたヤングにとって、彼らとの協力は個人的にも非常に満足のいくものだったようです。翌年70年に彼はローリング・ストーン誌のインタビューに答えて、クレイジー・ホースとの録音では初期のビートルズにも通じるようなバンドの一体感が得られた、と満足気に語っています。「ライヴでやって、歌も演奏も全部一緒にやると、すごくリアルな感じになるんだ」と生っぽい音の魅力を訴えました。様々な録音技術に凝って苦労した1枚目とは打って変わって、納得のいくサウンドを見つけたヤングの姿が記録されています。特にダニー・ウィットンはヤングとギターで絡み合えただけでなく、ヤングにもっと歌に自信を持つように勧めるなど個人的にも気のおけない仲でした。それだけにウィットンがドラッグにはまり過ぎてまともに演奏できなくなった時には、ヤングのショックと怒りは大きかったようです。グループとしての2作目『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』(70年)がまだ完成していない70年5月下旬、彼は一度バンドに解雇を申し付けます。これはウィットンに事態の深刻さを分からせるショック療法の意味もあったようです。

いずれにしても、残りの録音は、当時クロスビー・スティルズ・ナッシュ&ヤングで一緒に活動していたスティーヴン・スティルズとグレッグ・リーヴズの協力を急きょ得て続けられました。また、まだ無名だったニルス・ロフグレンも参加しています。ロフグレンは、ヤングの前年のツアー中に、ワシントンでいきなり楽屋を訪ねて自分を売り込んであったとのことで、ヤングにも強い印象に残したようです。ただしヤングはロフグレンに得意のギターを弾かせずに、あえて彼が弾いたことのなかったピアノを急きょ習わせて演奏に参加させました。数ヵ月後反省したウィットンもバックヴォーカルなどで遅れて参加、タルボットとジャック・ニッツェも加わって、名作『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』は完成しました。70年9月に発売され、全米8位を記録して、ヤングにとっては初のトップ10入りの作品になりました。なお、アルバム制作の経緯もあり、クレイジー・ホースとの関係がぎくしゃくしていたニール・ヤングは、同年秋からのツアーはソロで行っています。12月ニューヨークの権威あるカーネギー・ホールに2日間登場したヤングは、カナダから家族を全員招待しました。このとき兄に対して、「カーネギーでやるのはお金の問題じゃない。やることだけですごいんだ。」とスタートしての成功を望んでいた気持ちを素直に表現しています。

クレイジー・ホースとの初期の2作での成功をもたらしたもう一つの要因は、69年に参加したクロスビー・スティルズ・ナッシュ&ヤングでの活動が彼に対する注目を一躍高めたことにあります。CSNはグループ第1作『クロスビー・スティルズ&ナッシュ』(69年)を5月に発表した後、ツアーのためにサポートメンバーを必要としていました。ギターもキーボードも担当できる人物ということで最初に打診されたのはスティーヴ・ウィンウッドでしたが、彼はブラインド・フェイスの全米ツアーを始めるところ、また次に声を掛けられたポール・バタフィールド・ブルース・バンドマーク・ナフタリンにも断られました。ニール・ヤングを加入させるというアイディアはCSNと契約していたアトランティック・レコーズの社長アーメット・アーティガンの秘策だったようです。アーティガンはCSNとヤングの共通のマネジャーだったゲフィンとロバーツの2人を口説き、次いでスティルズを乗り気にさせました。当初ナッシュは反対したようですが、まもなくスティルズが使いになってヤングの意向を打診します。

ヤングはバッファロー・スプリングフィールドでいがみ合いながらも競争したスティルズとの活動再開に魅力を感じていましたし、CSNのアルバムも高く評価していました。それと同時に、自分を売り込むことを知っていたヤングは、この機会を有効に利用しました。まずただのサポートではなく、自分の名前が3人と並んで掲げられることを要求します。また、クレイジー・ホースとのソロ活動を同時並行で進めることも認めさせます。彼の『・・・ウィズ・クレイジー・ホース』が完成するまではCSNの3人にアルバム制作を待たせました。さらに、グループが4人になって2回目のライヴになる桧舞台、ウッドストック・フェスティヴァルについては、ヤングは映画化しないことを条件にCSNYでの出演を承諾します。彼はフェスティヴァルというものが一般にサウンドも悪く、開催の趣旨もまやかしが多いということに嫌気がさしていたようです。そのせいでCSNYは映画『ウッドストック』の主題歌を歌いながら、映像には登場しません。「アメリカのビートルズ」とも期待された4人のパートナーシップは71年春には早くも崩れましたが、この活動で、ニール・ヤングのソロ活動が急速に人気を集めたのは間違いありません。

ソロに戻ったヤングは71年2月、カントリー・ミュージックの本場ナッシュヴィルで、ジョニー・キャッシュが司会していたTV音楽番組『ジョニー・キャッシュ・ショー』の収録に参加します。このときの番組の共演者がジェイムズ・テイラーとリンダ・ロンシュタット、この機会に曲の録音をしようと考えたヤングはスタジオを押さえて、2人もセッションに招きました。現地でリクルートしたセッション・プレイヤーがティム・ドラモンド(ベース)とベン・キース(スチールギター)、まもなくヤングの新たなサポートメンバーになり、後に数々のミュージシャンのセッションで活躍する2人でした。ここでほぼ収録された新作『ハーヴェスト』(72年)は、全米・全英両チャートで1位を獲得し、ニール・ヤングの最も成功したアルバムになります。ナッシュヴィルという環境を活かして作られたカントリー・ロックの名盤として、現在も語り継がれています。

late Danny Whittenヤングがクレイジー・ホースとの関係を復活させようとしたのは、72年秋のことでした。ヤングはダニー・ウィットン(写真)の回復を助けるという意図もあって、ドラッグをやらないことを条件に彼をセッションに呼びます。しかし体調も回復しつつあると聞いていたウィットンの状態は、ヘロインは絶ったものの他のドラッグに手をだしていて、噂よりも悪かったようです。失望したヤングは、ウィットンを解雇、飛行機のチケットと50ドルを与えて、サンタクルーズの空港まで車で送り届けました。11月18日ロサンジェルスに飛行機で着いたその日、ウィットンはもらった金で純度の高いヘロインを買い、その晩亡くなりました。ヤングはその後リズム・ギターの代役を入れずにツアーを行い、74年末に、新しくフランク・"ポンチョ"・サンペドロが加入するまで、クレイジー・ホースと一緒の活動はしていません。

この頃ヤングは脊椎の持病で入院し、また、72年に生まれた子供は脳性小児麻痺に冒されていることが分かります。この時期のヤングは『ハーヴェスト』(72年)の大成功にも関わらず、人生に苛立ちを抱え、アルコールに溺れます。ツアーで会場一杯の観客を見ても客と気持ちが通じていないという気持ちは拭えず、その不満はたびたびコンサート中のMCにも表れました。73年に公開された自伝的な映画『ジャーニー・スルー・ザ・パスト』はワーナーが配給を拒否し、やっと自前でダラス映画祭に出品したものの評価を得られませんでした。さらに、喉の調子が悪化して、歌っても声がかすれてしまっただけでなく、周りの人間ともあまり話さなくなりました。ソロデビュー以来ずっと協力を得てきたジャック・ニッツェと縁を切ったのもこの頃です。ヤングもまた、抱えこんだ苦しみを乗り越えながら音楽活動を続けていく、栄光と悲劇が隣り合わせになったミュージシャンたちの道を歩み始めていました。

リプリーズ時代のゴードン・ライトフット

トロントのヨークヴィルから出発してリプリーズに辿りついた、この点でヤングとミッチェルの2人と共通するもう一人のカナダ人ミュージシャンが、ゴードン・ライトフット です。ローレル・キャニオン文化がミッチェルとヤングの音楽的成長を助けたとすれば、ライトフットもまたロサンジェルス行きによって成功を得た人物でした。リプリーズ移籍第1弾のシングル"If You Could Read My Mind"(邦題「心に秘めた思い」)は全米5位に上昇し、この曲が収録されたアルバムSit Down Young Stranger(71年)は発売後に、このシングルと同じタイトルに変更され、全米12位を獲得しました。もともとトロントのヨークヴィルで活動していたライトフットは、ボブ・ディランやピーター・ポール&マリーなどを扱っていた大物マネジャーのアルバート・グロスマンの目にとまり、65年ニューヨーク・デビュー、翌年ユナイテッド・アーティスツからデビュー作『ライトフット!』(66年)を発表しています。この後同レーベルから計5枚を出しますが、カナダでは名声は確立したものの、アメリカ市場ではまだ知られていなかったところで、リプリーズに移籍したのです。

自己主張が強くレーベルが音楽的にはあまり介入できなかったヤングとミッチェルの場合とは違って、ライトフットは最初からワーナー・リプリーズの人材を最大限に活用して変身を図っています。71年のアルバムのプロデュースはレニー・ワロンカー と、後にアース・ウィンド&ファイアボズ・スキャッグズとの仕事で有名になったワーナーのスタッフ、ジョー・ウィザート。バックにはジョン・セバスチャンヴァン・ダイク・パークスライ・クーダーと、当時ワーナーが抱えていた玄人セッションマンたちが参加し、ニック・デカロランディ・ニューマンがストリング・アレンジを手掛けています。このワーナー工房ともいうべき職人仕事はライトフット最大のヒット作で、同じくワロンカーがプロデュースした『サン・ダウン』(74年)でも踏襲されています。ライトフットのリプリーズ第1作に見られた、フォーク歌手をロック的なリズムを取り込んだシンガーソングライターに変身させながら、例えばドラムズをいれずに、もともとの繊細で温かい素朴さを大事にするというワーナーの手法は、他にもアーロ・ガスリー『アリスのレストラン』(67年)などに使われ、成功を収めています。




<本文に登場する作品から>

Neil Young with Crazy HorseEverybody Knows This Is Nowhere (1969) CDNOW
  ニール・ヤング/ニール・ヤング・ウィズ・クレイジー・ホース Amazon.co.jp
  ニール・ヤングのソロ2作目にして初期の傑作の一つ。粗削りな音作りと程よくメランコリックな曲調、エネルギーと郷愁の微妙なバランスが成功しています。後にヤングのライヴの定番になる"Cinnamon Girl"など、アメリカン・ロックの一つの定型を築いた作品。
Neil YoungAfter the Gold Rush (1970) CDNOW
  ニール・ヤング/アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ Amazon.co.jp
  レコーディングに参加したニルス・ロフグレンが「体からしたたるように」次々と作曲していたと証言するように、創作欲が旺盛で勢いがある頃のヤングの作品。ヤングは自分の独特な歌声にますます自信をつけた様子、また哀愁と温かみが同居する独自の曲世界を作り上げ、人気を得ました。夢と理想に燃えていた60年代を回顧するようなほろ苦い感覚が、時代ともマッチしたのかもしれません。ヤングの攻撃的なギターソロが印象的な"Southern Man"は、南部を人種差別のはびこる遅れた世界として描く歌詞で、後にレナード・スキナードが反論して"Sweet Home Alabama"を書いたことでも有名です。
Neil YoungHarvest (1972) CDNOW
  ニール・ヤング/ハーヴェスト Amazon.co.jp
  ニール・ヤングがものにした幾つかのスタイルを統合し、商業的にも大成功した、初期ヤングの集大成ともいうべき作品。偶然実現したナッシュヴィル訪問を活かして、アコギにシンプルなリズム隊、これにハーモニカとスチール・ギターというカントリー・スタイルで録音され、カントリー・ロックの名盤とも目されています。"A Man Needs a Maid"に明確な言及があるように、当時付き合っていた女優のキャリー・スノッドグレスとの恋を背景に、淡い情熱を秘めたラヴソングが中心。"the Needle and the Damage Done"(直訳「針と、起きてしまったダメージ」)はクレイジー・ホースのダニー・ウィットンがドラッグに溺れていくのを辛い思いで見つめている内容です。2曲で入るオーケストレーションはジャック・ニッツェの手によるもの。
Neil Young & the Crazy HorseYear of the Horse [video] (1999) CDNOW
  ニール・ヤング&ザ・クレイジー・ホース/馬年:イヤー・オヴ・ザ・ホース Amazon.co.jp
  ロードムービーで定評があり、ロック音楽にも造詣が深いジム・ジャームッシュ監督が撮影したドキュメンタリー映画。97年に行われたニール・ヤング&ザ・クレイジー・ホースの欧州ツアーの映像に、メンバーのインタビュー、さらに76年と86年の過去のツアー映像を差し込んで制作されました。撮影はあえて8ミリや16ミリフィルムを使用し最終的に35ミリにブローアップする手法をとり、意図的に粒子の粗い映像を作っていますが、ヤングたちの音をよく理解するジャームッシュならではの選択でしょうか。1997年公開。
Joni MitchellJoni Mitchell (1968) CDNOW
  ジョニ・ミッチェル/ジョニ・ミッチェル Amazon.co.jp
  デビュー作にして、音楽に真剣に向き合うミッチェルの姿勢がよく表れた作品。クレジットの最後に「言葉を愛することを教えてくれたクラッツマン先生に捧げる」と記して、自分のかつての国語の先生に敬意を表していることからも分かるように、イメージの豊かな歌詞が紡ぎ出す詩情に溢れています。A面に「都会に来た」、B面に「都会を出て海岸へ」という見出しがついているように、緩いコンセプトで各曲が繋ぎ合わされています。歌詞の魅力を引き出す伴奏はシンプルななかにも独特なコード進行が光ります。全体に内省的なムードのなかで、軽快な"Night in the City"。ミッチェルによると当時のL.A.でのライヴでは軽快で楽しい曲の方が客に受けるので、生演奏ではそちらの方が多かったとのこと。"Song to a Seagull"は、ミッチェル本人が描いたアルバムジャケットに、舞うかもめの群れによって印字されています。"Cactus Tree"はボブ・ディランの映画"Don't Look Back"(1967)に刺激されて生まれたとか。
Joni MitchellLadies of the Canyon (1970) CDNOW
  ジョニ・ミッチェル/レディズ・オブ・ザ・キャニオン Amazon.co.jp
  ミッチェルがさらなる成熟を見せた3枚目、彼女のキャリアで初のヒット作でした。歌声は透明感と艶やかさが増して表現力があります。バックのアレンジもより多彩になり、後のジャズ路線にも繋がるインスト部分の工夫も目立ちます。当時関係の深かったCSNとの繋がりも濃厚で、軽快なヒット曲"Big Yellow Taxi"はCSNっぽいギターで始まり、また映画「いちご白書」で使われたバフィ・セント=メリーのカヴァーで有名な"The Circle Game"には彼らのコーラスが加わります。"Woodstock"はミッチェルの書いたウッドストック・フェスティバル賛歌、映画版で使われたCSNのカヴァーよりも哀愁を帯びたエレピの弾き語りで歌い上げます。なお、彼女自身は、翌日のテレビ出演に間に合わなくなるのを気にして結局参加せず、デヴィッド・ゲフィンのニューヨークのアパートでテレビ画面に釘付けになりながら、この曲を書いたとのこと。"Conversation"の最後のサックスはジム・ホーン、また"Ladies of the Canyon"などのコーラスはサスカトゥーンズとクレジットされていますが、これはジョニ・ミッチェル自身の声を重ねたものです。
Joni MitchellBlue (1971) CDNOW
  ジョニ・ミッチェル/ブルー Amazon.co.jp
  ミッチェルの評価を決定付けた4作目。ジャケットの、憂いをたたえたミッチェルのポートレートは、タイトルとマッチしています。一つの恋が終わり、次の情熱的な恋が始まる私生活を反映したのか、ピアノに乗せた告白的な語りと、ギターの軽いシャッフルで彩りを添えた明るい気持ちの発露、脆さと軽やかさが微妙に同居して非常に表情豊かに出来上がっています。"Little Green"は1967年に作られた曲、ここに歌われた娘が、後に彼女が養子に出した実の娘をモデルにしていたことが分かりました。グレアム・ナッシュを歌った"My Old Man"にみられる曲進行にはジャズ的な素養が顔を出しています。すでにアコースティック・フォークの枠を破って、ミッチェル印の芸術の粋に達した作品です。
Joni MitchellFor the Roses (1972) CDNOW
  ジョニ・ミッチェル/バラにおくる Amazon.co.jp
  レーベルでも私生活でも転換を迎えた5作目。ピアノの弾き語りとジャズっぽいナンバーがほとんどを占めています。ロサンジェルスの音楽業界と都会的生活に嫌気がさしたことは、"Banquet"や、別れた恋人ジェイムズ・テイラーを意識した"For the Roses"などの歌詞に表れています。ジャズ的な"Coal Blue Steel and Sweet Fire"ではアコギがジェイムズ・バートンの弾くエレキ・ギターと掛け合い、かつ後にLAエクスプレスを率いるトム・スコットがサックスソロを披露します。同じ系統の"Barangrill"ではスコットは今度は、フルートソロを聞かせます。ストリングなどを入れてカラフルな間奏を入れた"Judgment of the Moon and Stars"はベートーベンにトリビュートした曲です。
Gordon LightfootSundown (1974) CDNOW
  ゴードン・ライトフット/サンダウン
  男臭くアウトドア的なフォークの世界をワーナー・リプリーズの制作陣が最大限に演出した、ライトフットの代表作。アコースティックで素朴な味わいを邪魔せずに加えられた、ニック・デカロの指揮したストリングズや効果音、そしてジム・ゴードンのドラミングなどがうまい効果を生んでいます。大ヒット曲"Sundown"はこの路線が効を奏し、今日でも人気です。




<関連のリンク>

The Official Neil Young Website: ニール・ヤングの公式ページ(英語)

Neil Young @Reprise Records: ニール・ヤングの所属レーベルサイト(英語)

HyperRust Never Sleeps: Unofficial Neil Young Pages: ニール・ヤングの網羅的なファンサイト(英語)

The Bridge School: ヤング夫妻が主宰するブリッジ・スクールの公式ページ (英語)

Neil Young @黒鯛はチヌ?: ニール・ヤングのファンサイト(日本語)

Joni Mitchell.com: ジョニ・ミッチェルの公認ファンサイト (英語) 

Joni Mitchell @West Coast Rock: ジョニ・ミッチェルの紹介サイト (日本語)

Gordon Lightfoot @Reprise: 所属するリプリーズ・レーベルにおけるゴードン・ライトフットの公式ホームページ(英語) 

Lightfoot! - The Gordon Lightfoot Internet Companion: ゴードン・ライトフットに関する網羅的なファンサイト(英語)

 

 

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