linkbanner Updated on February 8, 2003

 

Column 11:
Coping with a Great Loss

リーダー亡き後のバンド ―リトル・フィートとローウェル・ジョージ 

 

 

 

ローウェル・ジョージの理知的な素顔

生前の姿をとらえた写真でみるローウェル・ジョージといえば、たいてい小太りでヒゲをぼさぼさに伸ばし、アメリカの自動車修理工かトラック運転手といった感じの風貌だ。彼の枯れた歌声に、味わい深いスライドプレイ、そしてあの土臭い曲調が揃えば、<南部的>な臭いが立ち込めてくるのも不思議はない。しかし、彼の率いたリトル・フィートが、ロサンジェルスという西海岸の大都会で生まれたグループであることもよく知られている。純粋な南部バンドからは出てこない、様々に意趣を凝らした音作りは、ワーナー所属アーティストの形容詞として使われる「バーバンク・サウンド」の代表例にも挙げられた。

Lowell Georgeローウェル・ジョージは、ハリウッドに生まれ育った都会人だ。父親は毛皮商として成功した実業家で、ハリウッドのスターたちは大事な顧客だった。ラスベガスから峡谷地帯に向かう途中にあるスプリング・マウンテンズ・ランチという広大な牧場は、かつてローウェルの父親が所有し、家畜を飼っていた場所で、現在観光地になっている。ジョージ一家は、ハリウッドを見下ろす高台のマルホランド・ドライヴに住んでいた。このロサンジェルスの高級住宅街は、最近はデヴィッド・リンチがその幽暗な雰囲気を強調して、シュールなストーリーを展開させた舞台だ。

ローウェルは幼少期からいろんな楽器を経験している。5歳でハーモニカのレッスンを受け始め、11歳でギター、高校ではフルートを吹いていた。バンドを始める前の彼の嗜好は、今からみれば、いかにもボヘミアン生活に憧れる裕福な子弟という感じだ。思春期を迎えた1960年代初めのローウェルは、流行のサーフ・ミュージックを嫌っていた。代わりに彼が入れ込んだのは、ジャズだ。

フルートを学んだこともあり、ハービー・マンローランド・カークには、だいぶはまったようだ。ウェスト・コースト・ジャズ全盛期の時代こそ過ぎ去っていたが、60年代初めには、ハリウッドにもまだ、活きのいいジャズクラブが残っていた。ローウェルは仲間とつるんで、一大歓楽街サンセット・ストリップにあるジャズクラブに通っては、生演奏を見ていたようだ。この頃ちょうどLAで活動し始めたレス・マッキャンなども、彼が見に行ったジャズマンの一人だ。

音楽の趣味だけではない。黒のタートルネックにサンダル、ベレー帽という服装も、典型的なビートニクだった。ローウェル・ジョージがこの時期共鳴していたビートの精神は、豊かになったアメリカ社会の価値観に疑問を感じ始めた、一部の若者たちをとりこにしていた。彼らはジーンズとTシャツを拒否し、あえて気取った格好を選んだ。見た目だけでなく、話し方や話題も常に工夫を凝らして、「普通の若者」とは違う生き方を貫こうとした。難解な哲学や文学を紐解き、メインストリームを外れた芸術や音楽を発掘し、ボンゴの伴奏で詩を朗読した。

一緒にリトル・フィートを結成したビル・ペインによれば、ローウェル・ジョージのアパートを初めて訪れたときに書棚に発見したのは、カール・サンドバーグアレン・ギンズバーグの詩集だったらしい。文学や詩を好んだだけでなく、ローウェルは話し方にも特徴があった。長い抽象的な単語を突然会話に織り込むのが癖だった。また、独特のスパイスの効いたユーモアは、活字に残されたインタビューでも垣間見ることができる。こうしたビート的な言語感覚は、ローウェルの書いた歌詞に濃厚に投影されている。『セイリン・シューズ』(72年;写真)の「ティーンエイジ・ナーヴァス・ブレイクダウン」のような歌詞を書けるのは、ローウェル・ジョージか、ボブ・ディランぐらいだ。

Little Feat / Sailin' Shoes「ロックンロールが体に悪い、頭に悪いと主張する奴がいる
心臓に悪い、精神に悪い、難聴者に悪い、盲人に悪い
ときには、気が狂って、馬鹿みたいになってしまう
ときには、気が狂って、よだれをたらしだす

悪徳業者は人を惑わせ、利用し、騙す
条件反射学、確率をいじって
不愉快で騒々しい、とんでもない場所だ
パブロフの犬のように人類を馴らしてしまう
ひどい病い、恐ろしい症状だ
一度かかったら、たいてい一生直らない

十代の神経衰弱
十代の神経衰弱」

アップテンポなロックンロールに乗せて、「悪徳の(unscrupulous)」や「条件反射学」といった固い言葉を、当たり前のように歌ってしまうのは、実にユニークだ。ロック音楽の害を説く心理学者たちを皮肉るのに、あえて彼らの語彙を利用し、並みならぬ能弁さで扱き下ろした。

また、ローウェルの持ち出す対比も、奇妙なのに見事だ。「ターバンを巻いたご婦人に、コカインの木」「あなたがディクシーのチキンになってくれるなら、あたしはテネシーの羊」 こうしたローウェルの曲作りの特徴を、生前のネオン・パークは、「論理的な繋がりを組み立て、その後で要になる奇妙な要素を差し込む」と形容した。そのネオン・パークは、ローウェルの歌詞に負けないシュールさを誇る、一連のアルバム・ジャケを手掛けた人だ。

ローウェルのビート的な探究心は、もちろん音楽にも向けられた。60年代初頭の全国的なフォーク・リヴァイヴァルで発掘されたフォーク・ブルースを、彼も研究した。ライ・クーダーには及ばないとしても、非西洋的な楽器への関心も、人並み以上だ。インド音楽を世界的に有名にしたラヴィ・シャンカールからは、68年頃に約一年間、シタールのレッスンを受けている。シャンカールは67年にロサンジェルスに移り住み、ここにインド音楽の教室を開いていた。東洋音階に興味を抱いていたローウェルは、矢野顕子のデビュー作『ジャパニーズ・ガール』(76年)では、尺八も吹いた。フルートとサックスの演奏能力を生かして、新たに実験してみたというところだろうか。

バンド・リーダーとしてのローウェル・ジョージ

リトル・フィートは、他の多くのロック・グループに比べても民主的な方だ。音楽的にはメンバーがそれぞれ様々な要素を持ち込んだし、バンドの活動についても一人が独断的に主導することはなかった。リーダーを正式に決めたこともない。しかし同時に、70年代のこのバンドの核を占めていたのが、生前のローウェル・ジョージだったのも事実だ。69年夏にフランク・ザッパのもとを離れ、自分のグループの結成に向けて準備を始めたローウェルに、ミュージシャンたちが合流して、リトル・フィートが誕生した。

ローウェルは、腕力に頼りながらメンバーを圧倒して統率するタイプのリーダーではない。それでも彼には、確かにカリスマがあった。それは威力というより魅力と言った方がいいだろうか。きつい皮肉や機才ぶりも、彼のあのどこか愛嬌のある表情では、誰も憎むわけにはいかなかった。プラモデルやラジコン好きの彼は、近所の子供からも人気を集めたらしい。彼を身近に知る者が口を揃えるのは、生前のローウェルが実に理知的で、アイディアの豊かな人間だったということだ。作曲をはじめ様々な場面でひらめきを見せる彼に、メンバーは一目を置いていた。音楽的イディオムの蓄積がもともと豊富だっただけではない。スライドギターや録音技術のように、後から本腰を入れたものでも、人並みを超える域に達した。

リトル・フィートは決して売れたグループではない。特に、デビュー作『リトル・フィート〜ファースト』(71年)が商業的に不発に終わった後は、ワーナーに捨てられる寸前だった。しかし、ローウェル・ジョージを社内に残すことには、会社はメリットを見出していたようだ。ワーナーはライ・クーダーやランディ・ニューマンのように、ずっと売れなかったアーティストもレーベルに残し、その代わり彼らの腕前を他のアーティストの裏方として活用した会社だ。それに、ローウェルの「セイリン・シューズ」を最初に取り上げたヴァン・ダイク・パークスのように、社内の理解者もいた。

ワーナー社内にとどまらず、LAの音楽コミュニティでは、ローウェル・ジョージはかなりの評価を得ていた。多彩な音楽に関心を持ち、的確なセッション仕事の出来るローウェルは、「ヒップな」存在と目された。地元育ちであることも手伝って、知り合いは社外にも多かった。ジョン・セバスチャンジャクソン・ブラウンボニー・レイットリンダ・ロンシュタットなどは親友だった。ローウェルは、新人の世話も買って出た。バーバラ・キースヴァレリー・カーターリッキー・リー・ジョーンズなどは彼が手助けした後輩の女性シンガーたちだ。

Little Featリトル・フィートでローウェル・ジョージに次ぐ立場にあったビル・ペインは、ある意味でローウェルと、心理的に最も複雑な関係を持った人間だろう。一方で、ビル・ペインはローウェルに強い敬意を抱いてきた一人だ。彼がフランク・ザッパに自分を売り込むつもりでいたときに、まだザッパのもとにいたローウェルに初めて出会った。4歳年上のローウェルには、ペインにはなじみの少なかった世界の知識が溢れていた。最初のアパート訪問で、彼の所蔵する本とレコードに感心しただけでなく、それ以来同じようなことを何度も経験した。

他方で、活動の方向性でバンド内に亀裂が表われ始めたとき、一番ぶつかったのは、ローウェルとビル・ペインだ。それは一つには、もともとキーボード奏者として自信があり、しかも20代半ばになって音楽的な自己主張を高めたビル・ペインの強気な姿勢の表われだった。スタジオでは曲の方向をめぐって、ローウェルとペインが衝突する場面が増えた。ペインはこの頃、自分の役割がバンド内で低く評価されているという不満を、公に語っている。ポール・バレールも、70年代半ば以降には、ペインに次ぐ位置まで、バンド内の存在感を高めつつあった。彼は、昔リトル・フィートにベーシストとして応募し、オーディションで2回落とされた後に、72年からギタリストとして加入していた。

しかし、もう一つには、長年続けてきたドラッグと酒の大量消費が、ローウェル・ジョージの体に悪影響をみせ始めたという事情がある。かつて自分たちの音楽を「砕けたモザイク」と表現したローウェルは、アイディアの断片を持ち出すときに、独創的なひらめきを見せる人だった。だが、その断片を繋げて曲やアルバムに作り上げていくヴィジョンも必要だ。集中力を失い始めたローウェルに、メンバーたちは、彼が何を目指しているのか分からずに、まごついてしまう場面が増えた。観客を前にしたコンサートでも、76年辺りからはローウェルの気乗りしない様子が目撃されている。

彼が最も活躍した『セイリン・シューズ』(72年)と『ディキシー・チキン』(73年)という2大傑作を頂点に、ローウェルの音楽的な寄与の比重は段々下降していく。音楽面でも運営面でも、バンドを一つにまとめていく役割を、次第に果たせなくなったのだ。それを徐々に補って、事実上バンドのまとめ役になっていったのが、ビル・ペインだ。しかし、ペインがグループを乗っ取る野心で動いていたと考えるのは、少し実情と違うだろう。後にペインとバレルは、自分たちの働きを増やすように求めたのはローウェル自身だったと反論しているが、実際ローウェルには明らかに自ら退いていった側面があった。

当時ローリング・ストーン誌が使った、ローウェルは「リトル・フィートから隠遁」した、という表現はそれほど的外れではない。体調と精神状態の悪化だけが、直接の原因ではないだろう。ローウェルはバンドの発展を祈りながらも、他方で常に、商業的成功にシニカルな態度をみせてきた。これは、ビートニクとして青年期を過ごした名残りでもあるし、またドラッグの影響もあったかもしれない。フリートウッド・マックのピーター・グリーンや、エレクトリック・フラッグのマイク・ブルームフィールドの身の振り方に似たものを感じさせる心の動きだ。

解散、ソロ活動、そして突然訪れた死

もう限界だと告げたのは、ビル・ペインからだった。『ダウン・オン・ザ・ファーム』(79年)の制作中、1978年秋のことだ。肝炎による入院の影響も重なって、バンド内での存在感が非常に薄くなっていたローウェル・ジョージは、ライヴ盤『ウェイティング・フォー・コロンブス』(78年)で再び表に戻ろうと試みている。この作品に続き『ダウン…』でも、ローウェルは編集作業をほとんど一人で進めていた。移動式の録音設備を使って、ロサンジェルス郊外の自宅で一人精力的に作業を続けた。

Lowell George performing集に対する凝りぶりは数年前のローウェルなら当たり前のことだった。スタジオで録音した基本トラックは、ローウェルの徹夜仕事を経ると、翌日にはまったく別のサウンドに聞こえることがよくあったらしい。以前は、周囲の人間は、彼に任せておけば大丈夫だという完全な信頼を寄せていた。しかし、『ダウン…』でのローウェルの仕事ぶりには、ペインは疑問を抱かざるを得なかったようだ。彼は、録音にあれだけ神経質だったローウェルが、このときはマイクの配置にも十分配慮しなくなったことに気付いていた。

ある日、ペインはローウェルに今のやり方がおかしいと率直に指摘した。しかし、彼は耳を貸さなかった。最後にペインがローウェルとじっくり話したのは、78年11月、アメリカ東部をツアーしていたときのことだ。ペインは意を固めて、ローウェルに自分の思いを語った。以前の彼の仕事がいかに輝いていたか、今でも人間としてミュージシャンとして、彼をいかに敬愛しているか、そしてドラッグとアルコールが彼の才能をいかに蝕んでいるか、数時間にわたって語ったらしい。最後にペインは、でもこれ以上は一緒にやっていけない、このツアーを最後にリトル・フィートを抜けると告げた。7月の日本公演から、わずか4ヵ月後のことだった。

この後、ローウェル・ジョージは、『ダウン…』の編集作業を途中にして、4年越しで取り組んでいたソロアルバム『イート・イット・ヒア〜特別料理』(79年)をついに完成させた。ローウェルのソロ活動にリトル・フィートのメンバーはほとんど関与することなく、79年6月から始まったソロ・ツアーには、フレッド・タケットが集めたミュージシャンが同行する。

この頃、ビル・ペインとポール・バレールは新たなバンドを組むつもりで、すでにメンバーを集める作業を始めていた。ローウェルがリトル・フィートをどうするつもりだったのか、正確には分からない。6月のインタビューでは、グループは解散したと語る一方で、新メンバーを入れて再出発する可能性も示唆している。

79年6月28日、ローウェルはワシントンDCでソロライヴを行った。ポトマック川の対岸、ヴァージニア州アーリントンのマリオット・ホテルで、明け方床に就いたローウェルは、しばらくして目を覚まし、妻に胸の痛みを訴えた。駆けつけたマネジャーと2人で、苦しそうなローウェルの体を押し、寝返りをさせる。しかし、まもなく医師が到着したときには、すでに呼吸は停止していた。すぐアーリントン病院に運ばれたが、午後1時死亡が告げられた。享年34歳、リトル・フィートでデビューして8年目のことだった。ローウェルの遺体は火葬され、遺骨は西海岸で太平洋にまかれている。

残された元メンバーの思い

ローウェルの死は、あまりに突然の知らせだった。体調不良は伝えられていたが、ソロ活動を始めてマスコミの取材にも積極的に答えていた矢先の出来事である。ショックを受けたのはファンだけでなく、リトル・フィートの元仲間たちもそうだった。ビル・ペインはローウェルを悼む催しを開く考えを決め、まもなく準備に取り掛かった。メインで出演することに決まったのは、ボニー・レイット、ジャクソン・ブラウン、リンダ・ロンシュタット、エミルー・ハリス、そしてニコレット・ラーソン、いずれも当時のLAを代表するシンガーソングライターたちだ。ゲストには、マイク・マクドナルドタワー・オヴ・パワーのホーン隊も参加した。

リトル・フィートはこの機会に一時再結成し、出演歌手たちのバックバンドを務めることも決まった。8月4日ロサンジェルス・フォーラムで開かれた追悼コンサートには、約2万人の観客が訪れたと伝えられている。収益金は、ローウェルの残された家族、妻と4人の子供に渡された。その翌日、ジャクソン・ブラウンは、親友ローウェルの死を悼んで新曲を書く。翌年『ホールド・アウト』(80年)に収録された「オブ・ミッシング・パーソンズ」がそれだ。この曲は、当時5歳になるローウェルの末娘イナラ・ジョージに捧げられている。出だしはこうだ。

「君のお父さんは酔っ払いだった
ロックンロールをやっていたんだ
飛んだり跳ねたり
すっかりジプシーの魂に身を委ねて
音楽が彼の天使だった
そして悲しみは彼の星
後を追いかける僕たちは
あそこまでたどり着けるだろうか」

この後ビル・ペインは、ローウェル・ジョージがやり残した『ダウン・オン・ザ・ファーム』を完成させている。ローウェルの残した音源は、ヴォーカルもギターも雑でそのままでは使えない状態だったと伝えられる。テープを切り貼りして繋ぎ合わせ、ギターに関してはフレッド・タケットの協力も仰ぎ、生前のローウェルに出来るだけ似たサウンドを作った。録音にはローウェルの遺品のギターとアンプを使ったようだ。プロデュースのクレジットには「ローウェル・ジョージ…友人からの協力を得て」と記してある。その翌年には未発表音源を発掘した『軌跡』(81年)(原題「ホイ・ホイ!」)も出た。バンドの歴史最後の作品として、前作はふさわしくないと考えたビル・ペインが、過去の音源を掘り起こした、回顧的な仕事だった。

Bill Payne at the keyboardsローウェルの死で、ペインとバレールの新グループの計画も立ち消えになった。元リトル・フィートのメンバーはそれぞれにセッション仕事を見つけて、散り散りになる。特にキーボード奏者として高い評価を獲得したビル・ペイン(写真)は、忙しくセッションやツアーに参加した。

ローウェルの亡くなった翌年には、リンダ・ロンシュタットのツアーに同行している。彼らがワシントンDCでコンサートを開いた夜、ロンシュタットは「ウィリン」を歌った。リトル・フィートの出発点になったローウェルの代表曲、後でロンシュタットがカヴァーして有名にした曲だ。

「ウィリン」の演奏が始まると、観客はいっせいに静かになって、ライターに火を灯して揺らし始めた。ワシントンDCは、かつて『アメイジング!』(74年)の録音で、リトル・フィートが近くのスタジオで8ヶ月を過ごし、何度もライヴを開いた場所だ。『ウェイティング・フォー・コロンブス』のときも、熱烈なファンの多いこの地を、ライヴ収録の会場の一つに選んでいる。

この晩、ペインのピアノで曲が閉じたとき、1万8千人の観衆が割れんばかりの拍手を贈ったという。そして、誰が始めたのか、会場の人々が一緒になって叫び始めた。「フィート! フィート! フィート! フィート! フィート! ・・・」 このとき、舞台にいたドラマーのラス・カンケルはビル・ペインに声をかけた。「君たちはこの街で一体何をしたんだ?」 そのときビル・ペインは目に涙を浮かべていた。

その後リトル・フィートは、ローウェルの死から8年を経て、再結成する。バンドの長年の協力者フレッド・タケットが正式に加入し、79年当初ペインとバレールの新バンドに参加する予定だったクレイグ・フラーが加えられた。95年からはフラーに代わって女性歌手のショーン・マーフィーが参加し、現在のラインアップになっている。すでにローウェルが去ってから24年、ペインとバレールの二頭体制も定着した。もうアルバムがチャート入りすることもない。でも、精力的にライヴを続けるこのグループは、強力な草の根のファンが安定した人気を支えている。

Inara George nowそれでも、このバンドには、今もローウェルの影が付きまとっている。20年以上経っても、ファンやマスコミがローウェル・ジョージの姿を追い求めることに、現在のメンバーは嫌気を感じたこともあるだろう。ライヴで特に盛り上がるのは、再結成後の曲よりはやはり、かつてローウェルが在籍したときのナンバーだ。しかし、彼の記憶を一番忘れられないのは、10年近くの密な時間を共有した彼ら自身のはずだ。最近の彼らは新たな活動に並行して、昔の音源を掘り起こし、世に送り出す作業を続けている。日本で企画されたローウェルの追悼アルバム『ロックンロール・ドクター』(97年)では、ボニー・レイットをヴォーカルに迎え、「コールド・コールド・コールド」を再演した。

この追悼盤の最後を飾るのは、ローウェルの愛娘イナラ・ジョージ(写真)だ。ジャクソン・ブラウンが曲を贈ったときから歳月は経過し、このときすでに23歳だった。ここでは父親の書いた「トラブル」を、ヴァン・ダイク・パークスとライ・クーダーのサポートで、じっくりと歌い綴った。彼女は96年にロードというバンドでデビューし、2001年にはメリックというグループでレコードも出したが、現在は解散し次の活動準備を進めている。追悼アルバムの最後では、生前のローウェルの肉声を3秒間だけ聴ける。「これで終わり、これがロックンロール天国さ」 落ち着きを払いながらおどけてみせる、あの声だ。ローウェル・ジョージは、アメリカン・ロックの豊かさとスリル、そして楽しさを世に伝えた人だった。



―本文の関連作品―

Little Feat Sailin' Shoes (1972) Amazon.co.jp
  リトル・フィート / セイリン・シューズ Amazon.co.jp
Little Feat Waiting for Columbus [Deluxe Edition] (1978 & 2002) Amazon.co.jp
  リトル・フィート / ウェイティング・フォー・コロンブス(デラックス・エディション) Amazon.co.jp
Lowell George Thanks, I'll Eat It Here (1979)

Amazon.co.jp

  ローウェル・ジョージ /イート・イット・ヒア〜特別料理 Amazon.co.jp
Various Artists Rock and Roll Doctor: Lowell George Tribute Album (1997) Amazon.co.jp
  リトル・フィートほか / ロックンロール・ドクター〜ローウェル・ジョージ・トリビュート・アルバム Amazon.co.jp
 

 

home