| Updated on June 12, 2003 | |
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*第2部に進む*
| アル・クーパー
幼い頃の彼は、ロックスターになることを夢見ていたはずだ。しかし、体を張ってパフォーマーを務めるよりは、頭の中で熟成させたアイディアを使って本領を発揮するクーパーは、スター街道を目指すには少し知恵が回りすぎたのかもしれない。 彼はいつも、斬新なアイディアに手をつけながらすぐに別の道を歩み始めてしまう。お決まりの芸を繰り返し何年間もやり続ける人生を彼は選べなかった。最近の彼はといえば、もう十年以上にわたってボストンの名門バークリー音楽学校で教壇に立っている。そして、演奏活動の方は年に数回バンドを組んで、気負うこともなく気の合う仲間と演奏を繰り広げてきた。 そのアル・クーパーは数年前からキャリアを回顧する作業を開始し、2年前にその成果を2枚組アンソロジーにまとめた。古巣のコロンビア・レコーズの倉庫に自ら赴いて音源を発掘するという、さすがクーパーらしいこだわりぶりだ。この作業で掘り出した音源から、最近新たに『フィルモアの奇蹟』の姉妹版とも言うべき歴史的なライヴ録音も発表されている。 日本では、そんな彼の最近の動きに、本国アメリカ以上に熱いまなざしが注がれてきた。従来、彼のソロアルバムが一通りCDで揃っていたのも、世界中で日本だけである。そして2003年6月、いよいよアル・クーパーが日本のファンたちの前に姿を現わす。初の来日公演に合わせて、ソニーは彼のCDを新仕様で一斉に再発したばかりだ。4日間のステージで、彼がどんな姿を見せてくれるのか、演奏と歌はもちろん、彼の人柄がにじみ出る語りも要注目である。 ポピュラー音楽界で身につけた素養 アル・クーパーは1944年、ユダヤ人の中流家庭に生まれた。今ではキーボーディストとして名高い彼だが、最初に入れ込んだのは、エレキギターだ。彼もエルヴィス・プレスリーの影響を受けて、ロックンロールに憧れた世代だった。まもなく学校で、同級生とバンドを組む。オーディションに受かって、「ショート・ショーツ」をヒットさせたばかりのローヤル・ティーンズに加入したのが、15歳のときだ。これがプロとしての最初の仕事だった。 1960年頃までには、彼はすでに基本的な音楽的素養を身に付けていたようだ。この年、クーパーはローヤル・ティーンズを抜け、ソングライターを志して活動を始めている。彼は自分で練習したギターのほかに、中学時代にピアノを学んだ。週1回の個人指導だったが、クーパーによれば、ピアノの才能はないと判断されて、代わりに音楽理論を中心に学んだらしい。この経験は、弱冠16歳でプロの作曲活動を始めるのに役立ったはずだ。 当時ニューヨークで、ポピュラー音楽の作曲家志望者が目指すべき場所は、番地で言えばブロードウェイの1600番台、タイムズ・スクエアを少し北にいった辺りだ。この一帯のビルには、何百という音楽出版会社が入っていた。特に有名なのは、ブリル・ビルディング(ブロードウェイ1619番地)、ニール・セダカ、コニー・フランシス、ドリフターズなどの黄金期のアメリカン・ポップスを生んだ、ソングライターたちの本拠地だ。最盛期の1962年の統計では、合計165社の音楽出版社が入居していた。このビルで当時働いていたのは、ジェリー・リーバー&マイク・ストーラー、キャロル・キング&ジェリー・ゴフィン、フィル・スペクターなど、ロック世代にも縁の深い一流ライターたちだ。
アル・クーパーの場合は、アーロン・シュレーダーというライターが所有する出版社とコネを作った。シュレーダーはエルヴィス・プレスリーの「グッド・ラック・チャーム」(62年)を書いた人だ。場所は、ブリル・ビルから数ブロック北、ブロードウェイ1650番地の、これまた音楽出版社の雑居ビルとして有名な建物の中だった。ソウルっぽい味付けのポップス・チューンを書き上げるクーパーの腕前は、この時期に養われたものだ。 とはいえ、このときの仕事はほとんど結果を生まなかった。62年、クーパーは親の強い希望もあり、大学に進学する。音楽専攻にしたのは自分の希望だったが、この1年余りの大学時代を、今のクーパーは無駄な時間だったと振り返っている。課程にはクラシックしかなく、作曲の授業では今までの自分の流儀で曲を書いて、教授からつき返された。結局1年で退学し、ふたたびニューヨークに出る。デパートのレコード売り場の棚卸しで一時働いた後、数年前と同じブロードウェイ1650番地に戻った。 まもなくクーパーは、ボブ・ブラスとアーウィン・レヴィンという作詞家と組んで、3人で曲作りを始める。このチームで働いた2年余りの期間にパット・ブーンやジーン・ピットニーなどに曲を提供しているが、最大のヒットはゲイリー・ルイス&ザ・プレイボーイズの「恋のダイアモンド・リング」(65年)だ。ただクーパーは、全米1位を記録したこのアイドルっぽいヴァージョンには納得がいかなかったことを、後にあちこちで話している。彼によれば、もとは当時随一の黒人コーラスグループだったドリフターズを念頭に書いた、もっと本格的なR&B物のはずだった。 ドリフターズに採用されずに、ロサンジェルスのスナッフ・ギャレットに売った後で、当時ギャレットのもとで働いていたリオン・ラッセルが全面的にアレンジを加えて、あのヴァージョンになった。クーパー自身は76年のソロ作で初めて自分で歌っているが、こちらはホーンを入れクラヴィネットを弾き鳴らすファンキーなアレンジ、あえて元々の構想とも違うアレンジにしたのは、いかにもひねくれ者のクーパーらしい。 このままなら、アル・クーパーはポピュラー音楽の作曲家か、セッション・ミュージシャンに留まっていたかもしれない。その彼の軌跡を一変させた転機が、1965年のボブ・ディランとのセッションだった。このチャンスは、突然降ってわいた話だったようだ。当時クーパーが曲を売り込みに訪れた相手の中に、プロデューサーのトム・ウィルソンがいた。ウィルソンは、古くはジョン・コルトレーンから近くはサイモン&ガーファンクルまで手掛けていたベテラン・プロデューサーで、ディランは63年から担当していた。後に、アニマルズやソフト・マシーンなどのイギリス勢、あるいはフランク・ザッパ辺りも手掛けている。このウィルソンからある日、クーパーはディランの録音を見学に来ないかと誘われた。そして、結局ハモンド・オルガンで『追憶のハイウェイ61』(65年)(写真)の録音に参加、一躍オルガニストとして有名になるのだ。
フォーク、ロック、ソウル、ブルースがすべて関連し合う今日では想像しにくいが、当時のニューヨークでは、このポップスとフォークとの亀裂は非常に大きかった。フォーク・ファンたちは、純粋にアコースティックなフォークにのめり込み、ウディ・ガスリーをはじめとする先達を崇拝した。彼らは大変な研究熱心で、古い伝承曲を発掘し、戦前に活躍しすでに完全に引退していた黒人フォーク・ブルースマンたちを探し当てた。サン・ハウスは60代、ミシシッピ・ジョン・ハートは70代になってから、突然「再発見」され、若者たちの前に引っ張り出されたのだ。 こんなコアな探究心を旨としていた彼らが、ラジオから流れてくるポップスを受け入れる余地はなかった。彼らは広い意味で、60年代初頭という時代のカウンター・カルチャーを担っていた。メジャー・シーンの音楽を嫌い、髪も服装も自然体を好んだ。かつて左翼政治の牙城だったこの地区の伝統を受け継いで、権力には対抗的、ドラッグもかなり流通していた。このフォーク・シーンが生んだ、異色ながらも最大のスターが、ボブ・ディランだ。62年にデビューして以来、ディランの名前は全米各地からイギリスでも知られ、特にフォーク・コミュニティではすでに神様的な存在だった。 アル・クーパーは、ボブ・ディランの名前は早くから知っていたが、最初は受け付けなかった、と正直に告白している。活動場所は同じニューヨークでも、2人の音楽的背景がそれまで全く異なることを考えれば、当然だ。ただ、65年に『追憶のハイウェイ61』に飛び入り参加するときまでには、クーパーの音楽的嗜好は徐々に変化していた。これは彼の生活態度の変化とも関係していた。ドラッグをやるようになり、ポップスの世界からは次第に気持ちが離れていった。週末だけながらフォーク・クラブに顔を出すようにもなった。そして、ボブ・ディランの音楽も聴き直し始める。表の華やかな世界に惹かれていた時期を卒業して、よりアンダーグラウンドな世界の洗礼を受けていく、その過程で改めてディランに出会ったのだ。 トム・ウィルソンと知り合った頃には、すでにクーパーは、ウィルソンの目には大変なディラン・ファンと映るぐらいになっていた。そのおかげで、ウィルソンに誘われて、ディランの次回作の収録を見学する機会を得る。ここでクーパーの持ち前の押しの強さが、最大限に発揮された。彼はこのチャンスを生かして、録音に参加してしまうつもりでいたのだ。ギターを猛練習して、翌日見学先のコロンビア・レコーズのスタジオを早めに訪れた。だが、クーパーは、ここでマイク・ブルームフィールドの卓越した演奏ぶりを見て、ギターで参加する目論見をすぐ断念する。ブルームフィールドは、シカゴの黒人街で本家のブルースマンたちからブルースを学び、この当時はポール・バタフィールド・ブルース・バンドでデビューする準備をしていたところだ。 ここでまだ諦めなかったのが、実にクーパーらしいエピソードだ。彼はディランが新たにオルガンを加えたいと言い出したのを耳にし、その日オルガニストがいなかったのをいいことに、大した説明もせずにオルガンの前に座ってしまった。この時点で彼はピアノの教育は受けていたが、ハモンド・オルガンについてはまったくの素人だった。電源の入れ方も分からずに、ピアニストのポール・グリフィンに手伝ってもらったほどだ。とはいえ、ディランが文句を言わないので、ウィルソンもあえて制止せず、そのままセッションが始まった。「ライク・ア・ローリング・ストーン」だ。クーパーはこのときの状況を後に回想し、バンドの音にかき消されて自分の弾く音は聞こえず、ただただ緊張したまま弾き切った、と語っている。
クーパーは翌日、「トゥームストーン・ブルース」と「クイーン・ジェーン」の録音にも、そのまま参加する。これでクーパーはディランのエレキ時代の到来を象徴する名作『追憶のハイウェイ61』にはっきりと名前を残すことになった。 65年7月25日のニューポート・フォーク・フェスティヴァルでのボブ・ディランの公演という、ロック史に名を残す歴史的事件にも当事者として参加した。(写真; 右端がクーパー、中央がディラン、左端はブルームフィールド) この日ディランははじめて公にエレキ・サウンドを披露し、純粋主義のフォーク・ファンたちから大変なブーイングを浴びせられたのだ。クーパーは、その後のディランの公演にも、9月までは同行している。この頃は、まだディランのバックが後のザ・バンドに決まる前で、クーパーはロビー・ロバートソン(ギター)とリヴォン・ヘルム(ドラム)、それにハーヴェイ・ブルックス(ベース)と一緒に演奏していた。 この後も、ボブ・ディランとはたびたび一緒に仕事をしている。ディランがナッシュヴィル録音したLP2枚組『ブロンド・オン・ブロンド』(66年)に引き続き参加した後、しばらく置いて『新しき夜明け』(70年)の収録に立ち会った。このアルバムのセッションは実質的にクーパーが仕切る羽目になり、ジャケットには「Special thanks to Al Kooper」と記載されている。 70年代には接点のほとんどなかった2人だが、81年『ショット・オヴ・ラヴ』を出した直後のディランに、ツアーメンバーに招かれている。この頃はちょうどディランが、キリスト教に強い共感を寄せていた時期だが、クーパーの参加によって、ディランのレパートリには「ライク・ア・ローリング・ストーン」「女の如く」などの往年の名曲が復活した。最近では、93年のボブ・ディランの活動30周年記念コンサートで、「ライク・ア・ローリング・ストーン」をジョン・メレンキャンプと一緒に演奏し、95年夏にはロンドンで開かれたプリンス・トラスト・コンサートで、久しぶりにボブ・ディランのバックに加わった。 さらなる転機、ブルース・プロジェクト アル・クーパーが飛び入り参加した、ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」は、65年9月全米2位を記録した。40年以上にわたるボブ・ディランのキャリアを振り返っても、最大のヒットだ。この曲で、聴けばすぐ分かる、あの実に単純ながら、渦巻くような独特のオルガンを弾いたクーパーは、「ディランの新サウンドのオルガニスト」というレッテルで、当時一躍有名になった。直前までポップス界の作曲家だった経歴からみれば、大きな転身だ。彼のオルガンの奏法はまったくの即興だったが、この後様々なバンドがあのサウンドを真似するようになる。 本人も65年の後半は、様々なセッションの依頼で、実に忙しく過ごしたようだ。特に、フォーク・シンガーを多数抱え、生き残りを模索していたエレクトラ・レコーズは、新たにディランが成功させた路線をヒントにすべくアル・クーパーを多用した。65年後半の短期間に、クーパーはエレクトラに所属していたトム・ラッシュ、ジュディ・コリンズ、フィル・オックスなどの録音に次々と参加し、さらにエレクトラのレーベル・コンピレーション『ホワッツ・シェイキン』(66年)にもソロで参加した。この他にも、ジョーン・バエズ、サイモン&ガーファンクル、エリック・アンダースン、PPMなど著名なフォーク・ミュージシャンが軒並み、彼を一回は起用している。
折りしも、長い間アコースティック・サウンドしか認めなかった厳格なフォーク・シーンも、64年辺りから徐々に変化の兆しを見せていた。ティム・ハーディンや、ジョン・セバスチャンのラヴィン・スプーンフルが先鞭を付けて、フォーク出身でもエレキ・サウンドを取り入れるミュージシャンが少しずつ出てきたのだ。これは、ボブ・ディランのエレキ化が大々的に話題になる以前からの動きだった。カルブもこの動きに呼応して、65年からエレキに移って、ダニー・カルブ・カルテットを始めた。このバンドが発展して生まれたのが、ブルース・プロジェクトだ。 アル・クーパーは、65年9月、例のディラン・セッションの契機を作ってくれたプロデューサー、トム・ウィルソンの依頼で、デビュー前のこのグループのセッションに参加した。そして、最初は他の仕事と同じく、一度きりの雇われ仕事のつもりで参加したのに、バンド側に打診されて、結局そのまま、このグループの正式メンバーになることに決めたのだ。 クーパーはこの年フォークに接近し、ディランとの仕事もしたとはいえ、ブルース・プロジェクトへの参加は、彼の人生の新たな転機だったと言っていいだろう。カルブもユダヤ人だったということを除けば、音楽的背景に共通するものはほとんどない。すでに述べたように、カルブはフォーク・シーンの本流から出てきたギタリストだ。そして、カルブが少し前に加入させたもう一人のギタリスト、スティーヴ・カッツも同じくフォーク出身で、ブルース・プロジェクトに加わるまでは、エレキで弾いたことは一度もなかった。 2人とも数年前までは、フォーク界で一時流行ったジャグ・ミュージックをやっていた。戦前の黒人たちが安価な楽器で間に合わせていた伝統を引き継いで、洗濯板やたらいを活用して大人数で演奏する、そんな寛いだ素朴な音楽スタイルだ。カッツは、ジョン・セバスチャンやマリア・マルダーが在籍したイーヴン・ダズン・ジャグ・バンドの出身、これと人気を競い合っていたデイヴ・ヴァン・ロンク率いるジャグ・バンドの方には、カルブが在籍していた。したがって、ブルース・プロジェクトというバンドは、フォーク・シーンの遺産と、メジャーなポップス界の体験者との遭遇という側面を持っていた。このことが、このグループのサウンドを、非常に多彩でユニークなものにした主因だろう。 結成当初のブルース・プロジェクトは、フォーク・シーンで他のメンバーが培った素養を、アル・クーパーが急いで吸収するという形で始まった。後にブルースを好んでレパートリに入れ、B・B・キングなどとも共演したクーパーだが、このときはまだブルースを真面目に聞いたことがなかったのだ。彼は、ダニー・カルブに何時間も弾き語ってもらいながら、短期間で集中的にブルースを学んだ。クーパーにとって新しかったのは、音楽的体験だけではない。それまで時々しかグリニッジ・ヴィレッジに足を踏み入れていなかった彼は、このグループに入って初めて、この地区の住人になり、本当の意味で対抗文化の洗礼を受けた。 バンド・デビューと新たな旅路 ブルース・プロジェクトは65年秋に、カフェ・オー・ゴー・ゴーに出演し、ハウスバンドの座を獲得する。もともとジャズ・クラブだったこの店は、ブルース・プロジェクトを皮切りに、66年以降エレキ・ブルースやサイケデリック・ロックを積極的に取り上げた。いわばニューヨークで、フォークからロックへの橋渡し役をした場所だ。最盛期には、クリームもジミ・ヘンドリックスも出演し、67年にはエリック・クラプトンとB・B・キングがここで初めて共演している。今はもう残っていないが、収容人数300人、ニューヨーク大学周辺で、ワシントン・スクエアの数ブロック南、ブリーカー通りに面した地下のクラブだった。 65年暮、トム・ウィルソンと、彼の新たな移籍先だったヴァーヴ/フォークウェイズ・レコーズは、このクラブのオーナーと共同で、ブルース・プロジェクトを大々的に売り出す企画を考案した。それが65年11月の最終週にカフェ・オー・ゴー・ゴーで開かれた「ブルース・バッグ」と題された4日間の連続公演だ。前評判は上々で、チケットは連日売り切れる盛況だったらしい。前座としてマディ・ウォーターズやジョン・リー・フッカーが20分演奏し、その後、ブルース・プロジェクトが出演するという構成だった。 本家の大物ブルースマンが前座で、駆け出しの白人バンドがトリというのは、今考えれば奇妙に聞こえるが、当時のアメリカではまだ、黒人のエレキ・ブルースが広く売れていなかったことを思い出す必要がある。フォーク・ブームに乗った白人の若者が懸命に発掘したのはアコースティックなブルースで、サン・ハウスのような枯れた戦前ブルースの方が、むしろ人気があった。65〜66年にはチェス・レコーズは、マディ、ハウリン・ウルフ、ジョン・リー・フッカーらモダン・ブルースの代表格を、次々と『リアル・フォーク・ブルース』という同じタイトルのアルバムで宣伝し、何とか白人の間に市場を開拓しようとしていたのだ。 今のようにマディ・ウォーターズらの名前が定着したのは、イギリスのブルース・ブームが逆流して、エレキ・ブルースにスポットライトが当ってからだ。その意味で、アメリカでは、このブルース・プロジェクト、あるいはシカゴのポール・バタフィールド・ブルース・バンドのような白人バンドが、エレキ・ブルースの普及に大いに貢献した。こうした事情のおかげで、アル・クーパーは、ブルースを本格的に習い始めてわずか数ヶ月で、本物の黒人ブルースマンと身近に接し、ブルース・ピアノの第一人者だったオーティス・スパンから直接手ほどきを受ける機会にも恵まれたのである。 この1週間公演の録音を収めたライヴ盤が、彼らのデビュー作になる予定だった。しかし、活動が軌道に乗り出した65年暮、ヴォーカルのトミー・フランダーズが脱退、それ以前の音源をそのままリリースするわけにはいかなくなった。そのため、レコードでは何も説明していないが、66年に入ってから再度カフェ・オー・ゴー・ゴーで連日公演をやって、新録している。ただ、この公演はラジオで告知して、昼の3時からという変則的な時間に無料コンサートとして開かれた。そのためか最終的に発表されたデビュー・アルバム『ライヴ・アット・ザ・カフェ・オー・ゴー・ゴー』(66年)では、特にアルバム前半部分の観客の反応は微妙だ。後半にフランダーズのヴォーカル曲が集中しているのをみても、LPのA面分がフランダーズ脱退後の昼間のライヴ、B面が宣伝通り「ブルース・バッグ」で収録されたものだろう。 ところで、フランダーズの脱退は、ブルース・プロジェクトの方向性が徐々に変わっていく契機になった。レーベル側の最初の目論見は、トミー・フランダーズを前面に出して、ローリング・ストーンズに対するアメリカ側の回答を目指す、というものだった。彼の離脱後は、残されたメンバーは音楽的により積極的に貢献する必要が高まった。特に、当初は後から入ったメンバーという立場だったアル・クーパーは、ヴォーカルを分担したのみならず、しばらく休止していた作曲活動を再開し、バンドに新たな要素を持ち込み始めた。 グループ2作目と3作目はアル・クーパーの曲がかなりを占めている。「フルート・シング」のジャズ・ロック、「ノー・タイム・ライク・ザ・ライト・タイム」のサイケ・ポップなどは、明らかにクーパーが持ち込んだ要素だ。すでにここでは、ブルースやフォークのカヴァーという発想からは遠く離れてしまっている。ブルース・プロジェクトが、アメリカ発のブルース・ロックの先駆者として、シカゴ出身のポール・バターフィールド・ブルース・バンドと並び称されながら、ブルース純粋主義にはほど遠い、実に多様なイディオムを使いこなすグループに発展したのは、クーパーの存在が大きい。 バンドにまだ勢いがあるのにアル・クーパーが脱退することになったのも、彼の旺盛な創作欲が最大の要因だった。ブルースのカヴァーに飽き足らず、自分が吸収してきた様々な音楽的要素を組み込んで新しい音楽を作りたい、そんな欲求を満たすには、ブルース・プロジェクトという枠はすでに狭苦しくなっていた。新曲の録音にホーンを3人参加させたいと主張した時、ダニー・カルブはバンドの方向性が著しく変わるのを嫌がった。クーパーの頭の中にあった音楽を実現するには、彼は新たな旅に出るしかなかった。それにドラッグの影響で、神経的にも大分まいっていた時期だ。別の土地で新しい音を目指すという漠然とした考えを脳裏に浮かべながら、彼はモンタレー・ポップ・フェスティヴァル前夜のロサンジェルスに向かった。1967年5月のことである。 ―本文の関連作品―
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