linkbanner Updated on June 13, 2003


Column 12:

Rock Pioneers from New York

ロックを築いたニューヨーカーたち ―アル・クーパー [
第2部]

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ブラッド・スウェット&ティアーズで試みた実験

Al Kooper with Jimi Hendrix1967年5月にブルース・プロジェクトを後にしたアル・クーパーは、この後2ヶ月ほど地元ニューヨークを離れている。この間に彼は西海岸に赴き、モンタレー・ポップ・フェスティヴァルの運営に関わっていたのだ。ブルース・プロジェクトは出演依頼を受けていたが、すでに脱退してしまったクーパーは、当初参加するよりも見物をして、後は気候のいいカリフォルニアで気分転換をするぐらいのつもりだったらしい。

しかし居候先のデヴィッド・アンダールがフェスティヴァルの運営に携わっていた結果、結局クーパーはステージ副責任者という役職を得て、ステージ機材の借り出しを統括する仕事に駆り出された。尚、アンダールはエレクトラ時代のクーパーの知り合いで、1970年以降はA&Mレコーズでアーティスト発掘を任されて活躍した人物である。

史上初のロック・フェスティヴァルとも謳われるこの歴史的なイヴェントに直接関わっただけでも幸運だが、ここでもクーパーの強気ぶりがさらに発揮された。彼は関係者に勧められるままに、祭典2日目に即席で新たなバンドを組んで、すべり込みでソロ出演したのだ。

翌日最終日には自分が脱退したブルース・プロジェクトが登場するにもかかわらず、ソロの新曲だけでなくブルース・プロジェクト時代の曲も一日先にやってしまったのは、アル・クーパーらしいエピソードだ。彼の出演風景の一部は、ブルース・プロジェクトの演奏とともに、このフェスティヴァルを撮影した映画の完全版DVDボックスの、新たに追加されたアウトテイク集の中に収録されている。(写真は、モンタレーでジミ・ヘンドリックスと一緒にいるクーパー)

ニューヨークに帰ったアル・クーパーは、すぐ友人たちを集めて古巣のカフェ・オー・ゴー・ゴーで3日間、計6回のショーを主催している。出演したのは、ジュディ・コリンズポール・サイモンエリック・アンダースンといった当時のグリニッジ・ヴィレッジを代表する面々だ。告知期間は1ヶ月なかったものの、チケットは全て売り切れ、大盛況だったらしい。ところでこの急ごしらえの企画は、クーパーが今後の活動資金を集めるために、友人たちに無報酬での出演を求めたという、かなり特異な経緯から実現したものだ。いくら神経の太いクーパーだとしても、この時期の必死ぶりは相当なものだろう。彼は次の活動の見通しが立っていなかっただけでなく、カリフォルニアでは妻が別の男のもとに行ってしまっていた。とにかく友人の好意にすがっても資金を集めて、とりあえずイギリスで新境地を開拓しようという、かなり漠然とした構想で、突っ走っていたのだ。

ところが、蓋を開けてみれば、この興行の収益としてクラブオーナーから手渡された金額は、イギリスへの渡航費にも満たなかった。ここまでしても資金が調達できなかった彼に、ショーの当日にクーパーのバックを務めたメンバーで新グループを結成しようと提案したのは、ブルース・プロジェクト時代の同僚、スティーヴ・カッツだ。こうして集まったのが、2人の他に、カッツの友人だったドラマーのボビー・コロンビー、そしてクーパーがカリフォルニアから呼んだ元バッファロー・スプリングフィールドのジム・フィールダーだった。この4人を中心に、クーパーの次の計画が動き出した。

この時点でアル・クーパーは、実際には資金も仲間もなく一向に現実味がなかったにもかかわらず、音楽的に野心的な構想だけは持っていた。それが、ジャズとロックの中間領域に狙いを定めて、強力なホーン隊を配したグループを結成するという、ブルース・プロジェクトの末期から暖めていたアイディアだ。たまたま集まった面子で、しかもまだホーン奏者の知り合いもいない段階で、この企画を推し進めたのは見切り発車に近いが、他に選択肢のなかったクーパーは、この4人にホーンを入れるという方向で、新たなグループの結成を決意した。

こうしてブラッド・スウェット&ティアーズ(以下BSTと省略)(写真、右端がクーパー)が誕生した。67年8月のことだ。このグループこそ、アル・クーパーの積極的な挑戦欲が、最も創造的に使われたプロジェクトと言っていいだろう。サックスと金管楽器を計4人もレギュラー・メンバーにしたロック・グループというのは、それまで存在したことがない。彼らに1年遅れてレコードデビューしたシカゴとともに、「ブラス・ロック」としてもてはやされた所以だ。

Blood, Sweat & Tears結成当初のBSTは、いわばロックとジャズとポップスという3つの要素が、アル・クーパーを通じて融合されたプロジェクトである。構想段階で、クーパーは明らかにジャズを意識していた。彼がヒントにしたサウンドの一つがメイナード・ファーガソン楽団だったことは、比較的よく知られている。ちょうど60年代前半のファーガソンは、ハイノートのトランペットが冴えわたり、最も脂の乗った活動を続けていた頃だ。クーパーの言では、バディ・リッチほど技術的に高度でなくてもいいが、R&B系のホーン・アレンジよりは凝ったもの、というのが彼の目標設定だった。

アル・クーパーが本格的にジャズにはまったのは、まだ作曲家として日々を過ごしていた60年代前半のことだ。生業ではポップスを書くかたわら、趣味ではジャズをかなり精力的に聞き込んでいたらしい。その後、フォークに傾倒しブルース・プロジェクトに加入した時期を挟んで、グループで彼の役割が高まった頃に、ジャズに対する再接近が始まる。在籍の末期には、彼の作曲にもその影響が現われ始めていた。

BSTでクーパーが音楽面で右腕としたのは、コロンビーが連れてきた、フレッド・リプシアスという完全にジャズ畑出身の若きサックスマンだ。後に教則本を多数著し、今は母校バークリー音楽学校で助教授を務め、今度は教員仲間としてふたたびクーパーと同じ場所で働いている。

BSTのもう一つの音楽的背景は、クーパーが約5年のポップス畑の仕事で養った経験だろう。それは一つには、BSTの楽曲でのホーンの使い方に顕著に表われる。そして、もう一つはバンドの組み立て方だ。彼がBSTでとった手法は、ロックの世界では実に異色で、まるで映画の音楽監督のようだ。曲はクーパーのオリジナルとカヴァー曲を揃え、リプシアスと2人でアレンジした。ホーン・セクションの陣容を決めるには、リプシアスのつてと雑誌広告で候補者を集め、オーディションを実施した。

ロックでも新メンバーの採用にオーディションをするのは通常だが、BSTの場合は、並外れて厳正なものだ。2人は曲のアレンジをわざと必要以上に複雑にしておいて、その高いハードルを突破できる演奏家だけを採用するという選抜方法を採ったのだ。こうして新たに選ばれた3人は、いずれも音楽学校でプロ養成の教育を受けた人間ばかりだった。この中には、当時大学を卒業したてで、後にジャズ界で名声を得るランディ・ブレッカーも含まれていた。

リハーサルの手法も系統的で、ロックではあまりに珍しい形態だ。バンドの4人をクーパーが、そしてホーン隊の4人をリプシアスがそれぞれ統括し、2グループは別々に練習し、3日に一度の頻度で全体の音合わせをする、この作業を6週間続けた。67年11月のライヴデビューでは、ホーン隊の前には譜面台を並べた。

音楽的な水準は、こうして確保された。しかし同時に、BSTはあくまでロック・グループだった。確かにバンドの音作りの手法を見ても、アル・クーパーが完全に自分で主導権を掌握するつもりだったのは、明らかだろう。彼はブルース・プロジェクトでの反省を生かし、最初のバンドの最初の会合で、自分がリーダーだと明言している。そうはいっても、このチームは、セッション毎にメンバーを募るセッション・ミュージシャンでも、あるいは、作曲・指揮と演奏とが完全に分業されているオーケストラでもない。あくまで同じグループの仲間として、いったんツアーになれば寝食を共にし、平等な演奏者として舞台に立つはずだった。

後からみれば、クーパーのBSTのこの両面的な性格に最初から矛盾が隠れていたとも言えるかもしれない。アル・クーパーの指導者的な発想と、ロック・グループに必要な仲間意識との間には、どうしても乖離があった。クーパーは自分の音楽的なヴィジョンを優先するあまり、バンド仲間との繋がりを軽視してしまう。すでに2人目の妻を迎えていたこともあって、彼はリハーサルとライヴのとき以外はほとんど自宅で過ごしていたようだ。このボタンのかけ違いは、名作『子供たちは人類の父である』(68年)を発表して直後、68年春に突如表面化する。

突然の脱退劇、そして新たな道の模索

Al Kooperクーパーはバンドの水準を上げるために、演奏力のあまり高くないスティーヴ・カッツをメンバーから外すつもりで、密かに他のメンバーに相談を持ちかけていた。ところが、バンドのメンバーが集まった会合で、クーパーの思惑をよそに、ボビー・コロンビーはクーパーの歌唱力のなさを指摘し、専属のシンガーを加入させるように提案する。

これは事実上、クーパーにメンバーの一人という立場を受け入れるか、さもなければ脱退するかという二者択一を迫る通告を意味した。そして、折りしもホレス・シルヴァーにリクルートされるという栄誉を得て別の道に進むところだったブレッカーは別として、他のメンバーはコロンビーの意見の方に従ったのだ。

この事実上のクーデタによって、アル・クーパーは自分が構想した「夢のグループ」からも、わずか半年で脱退することになった。この後、カナダ出身のソウルフルな歌い手、デヴィッド・クレイトン=トーマスを迎え入れたBSTは、2作目で大ヒットを飛ばし、70年にはグラミー賞を受賞したが、そのときにはすでに創始者のアル・クーパーとは縁が切れていた。

BSTでの彼の野心的な実験は、ずっとバンド活動だけを続けてきた人間とは異なる音楽経験を持ち、アイディアも豊かなアル・クーパーにこそ出来た仕事だったが、同時に、ロック的なものに強く惹かれながらも、完全にロックグループに同化できない彼ゆえに、バンドに長い間とどまれないという結末を迎えた、と言っていいだろう。この後70年代には、アル・クーパーも、ポップス畑から飛び立っていった他の才能豊かなソングライターたち(典型的には、キャロル・キング、ランディ・ニューマン、ジミー・ウェップ)と同様に、自分の曲を自分で歌う方向に向かった。

自分の率いたグループから思いがけず追放される格好になったアル・クーパーは、所属のコロンビア・レコーズに相談に訪れた。そして、ロック部門を統括していたクライヴ・デイヴィスに対して、自分を会社所属のプロデューサーに雇わないかと持ちかけたのだ。生活のためとはいえ、彼の行動は常に斬新だ。当時ロック界では、ミュージシャン上がりの社内プロデューサーというのは、やっと出始めたばかりだった。それ以前の目立つ例と言えば、イギリスのアイランドが、スティーヴ・ウィンウッドの実兄のマフ・ウィンウッドを67年に雇ったぐらいだろうか。テッド・テンプルマンがワーナーに入ったのは70年のことだ。

クーパーはBSTのデビュー作で、ジョン・サイモンの仕事ぶりを身近で体験して、初めてプロデュース業の基本を学び取ったようだ。言うまでもなく、ジョン・サイモンは、ザ・バンドやジャニス・ジョップリンのデビュー作を手掛けて一躍有名になったプロデューサーである。クーパーはデイヴィスの説得に成功し、68年から72年までの約5年間、コロンビア・レコーズのニューヨーク本社にオフィスを構えた。

とはいえ、実際にはこの時期の彼は、一連の自分のソロ仕事を別にすれば、プロデューサーとしてはほとんど実績を上げていない。せいぜい、すでに本国イギリスでは発売されていたゾンビーズの最後のアルバム『オデッセイ・アンド・オーラクル』(67年)を強く推薦して、アメリカでもリリースさせたのが目立つぐらいで、本来のプロデュース業は数枚だ。

Appaloosa / Appaloosa (1969)この時期の数少ないプロデュース作の中で、アパルーサというグループとの仕事(69年)には、アル・クーパーの、ビジネスとは無関係に音楽を追求する側面がよく出ている。馬の種類を名前に冠し、ジョン・コンプトンという当時19歳の青年が率いた、このフォーク・グループは、昔も今も無名のままだが、クーパーが全面的にアレンジからプロデュースまで手掛けたサウンドは、意外に面白い。メインの楽器がギターとバイオリンにチェロ、これに臨時のミュージシャンやアレンジを入れて、いろんな音が入り込んでいる。

抒情的な歌声とジャジーなアレンジという組み合わせは、ニック・ドレイクやティム・バックリーに通じる。ボビー・コロンビーをはじめ、後味の悪い別れ方をしたはずのBSTの元同僚も、ここではクーパーに協力した。ヒットを狙っていたとも思えないが、その分クーパーの関わり方は愛情を感じさせ、この後の彼のソロ作を思わせる部分もあちこちにある。特に、クーパーがこの新人のアルバムに寄せたコメントには、気持ちがこもっていた。

さて、プロデュース業がほとんど開店休業の間に、クーパーはいくつか著名なアルバムの録音に参加している。ボブ・ディランのアルバムで一躍有名になり、バンド活動やモンタレー・ポップの仕事で交友関係もかなり広くなっていた彼、ロック史に名を残すレコードにも数多く名前を留めている。ザ・フーの面々とは、ブルース・プロジェクト時代に、フーが米国デビューを飾った67年春のロックショーで一緒になって以来の付き合いで、『ザ・フー・セル・アウト』(67年)にゲスト参加したし、モンタレーで会ったジミ・ヘンドリックスには、金字塔『エレクトリック・レディランド』(68年)のセッションに呼ばれている。

ローリング・ストーンズはモンタレーに事実上の主催者として関与していたから、クーパーは親しい関係で、69年2月に休暇でロンドンに逗留したときに、急きょ呼ばれて『レット・イット・ブリード』(69年)に参加した。同じ年の暮には、キース・リチャーズの誕生日記念のプライヴェート・パーティーにも招かれ、まだ発表前だった「ブラウン・シュガー」をストーンズの面々とエリック・クラプトンで、演奏したらしい。

大当り企画、スーパー・セッション

とはいえ、この時期の彼が最も名をなしたのは、何と言ってもあの一連の「スーパー・セッション」企画だ。数人のミュージシャンを集めて、ジャム・セッションを繰り広げ録音するという発想は、今から見れば何でもないことのようだが、ジャム・セッションがそのままレコードになるのは、ロックというジャンルでは、それまでほぼ前例のなかったことだ。

約1年前にモビー・グレープ『グレープ・ジャム』(68年)というボーナス・レコードがあったが、これは中核のバンドが存在して、それにゲストが加わったもので、アル・クーパー自身も参加している。普段一緒には活動していない面々が、特別共演のライヴ盤でもなく、一度きりのジャムを録音するという文字通りのセッションものは、ロックでは新しかったのだ。

もちろんBSTのときと同様、ジャズの流儀を念頭に置いていたのは、言うまでもない。とはいえ、BSTのときほど、頭の中で寝かせた企画ではなかった。名前だけの社内プロデューサーで暇を持て余していたアル・クーパーの思いつき、というのにほとんど近い。ところが、この企画が当って、彼は後で売れたBSTのアルバムに加えて、2枚目のヒット作に恵まれることになった。日本の用語を使えば、「ニューロックの旗手」として、もてはやされる存在になったのだ。

Al Kooper with Mike Bloomfieldクーパーがセッションの相手に選んだのは、マイク・ブルームフィールド(写真)、65年にディランの『追憶のハイウェイ61』セッションで、クーパーが一瞬のうちに感服させられたギタリストだ。ブルームフィールドはこの後、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドで活躍し、それから67年にエレクトリック・フラッグという自分のバンドを起ち上げながら、まもなくメンバー対立で脱退していた。

クーパーはブルース・プロジェクト時代に、バターフィールドのバンドとは何度も一緒になっている。また、エレクトリック・フラッグは、クーパーが裏方を務めたモンタレー・ポップで華々しくデビューしたバンドで、ホーン隊を入れた編成になるということで、ちょうどBSTの構想を暖めていたクーパーは、興味深々で近くから見物していた。

ブルームフィールドが同じユダヤ系ということもあって、クーパーはギタープレイに敬意を抱くとともに、かなり親近感も持っていたようだ。電話でセッション録音の話を打診すると、ブルームフィールドは気楽に快諾し、自分の住んでいる西海岸でやってくれとだけ希望した。セッションはベースとドラムを加えた4人編成で、ロサンジェルスのコロンビア・レコーズのスタジオで行われた。この日のために、クーパーはプール付きの一軒家も借りている。

68年5月28日、1日目のセッションにはバリー・ゴールドバーグもゲストで参加し、計9時間セッションを続けて、アルバム半分用を録り終えた。ところが、ここでブルームフィールドが突飛な行動をとったことで、結果としてこのセッションはさらに即興性が高まることになる。

この後の話はよく知られている。翌朝目覚めたクーパーは、まもなく隣室で寝ていたはずのブルームフィールドが、すでに居ないことに気付いた。この日、彼は「よく眠れなかったから、帰るよ。すまない」というメモを封筒に残して、いきなり姿を消していたのだ。ショックから立ち直り、気を取り直したアル・クーパーは、西海岸の主だったギタリストに思いつく限り次々と電話を始めた。そのリストの中には、スティーヴ・ミラージェリー・ガルシア(グレイトフル・デッド)、ランディ・カリフォルニア(スピリッツ)などの名前があった。昼から作業を始めて、やっと午後5時に承諾を得たのが、バッファロー・スプリングフィールドを解散したばかりのスティーヴン・スティルズだった。

ジャムの相手としては申し分ないが、問題はスティルズがアトランティックという他社所属のミュージシャンだったことだ。クーパーはアトランティックの社長に電話を掛けたが、すでに退社時間を過ぎていた。結局、見切りでジャムをやってしまったわけだが、この問題は、後でクロスビー・スティルズ&ナッシュが結成されたときに、コロンビアに所属していたグレアム・ナッシュを引き渡すのと引き換えで帳消しにするという形で決着することで、両社が合意したようだ。

出来上がったテープは、クーパーがニューヨークでヴォーカルとホーンを入れ、その6週間後、発売の運びとなった。『スーパー・セッション』(68年)という歴史的な名前を付けたのは、当時のコロンビア副社長だ。蓋を開けてみれば、レコードは全米11位のヒット作、経費はわずか1万3千ドル、実労働は録音2日と編集作業という、思いがけないヒットだった。

Al Kooper & Mike Bloomfield / The Lost Concert Tapes 12/13/68この成功に乗じる格好で、アル・クーパーはその約2カ月後、9月下旬にサンフランシスコのフィルモアを予約し、今度はライヴ盤としていわば続編を出すことにした。組む相手は再度ブルームフィールド、前回途中で離脱した負い目もあって、参加を快諾した。前回の代役スティーヴン・スティルズの方は、このときちょうどCSNの準備真っ最中で、参加していない。本番は3日間の予定だったが、3日目に再びブルームフィールドが姿を消し、前回と同じように代役を探して電話をかけまくる羽目になった。今回のライヴには、スティーヴ・ミラー、エルヴィン・ビショップ、それにデビュー前のカルロス・サンタナが出演している。

誕生した2枚組ライヴ盤は、原題では『ライヴの冒険』、邦題では『フィルモアの奇蹟』(69年)と名付けられ、いずれにしてもロックが輝いていたあの時代に何かが起きていたことを常に思い出させる、一つの時代を刻んだレコードである。そして、今年突如登場したもう一枚のクーパー&ブルームフィールド物『フィルモア・イーストの奇蹟』(2003年)(写真)は、サンフランシスコのライヴの2カ月半後、68年12月13日、14日の2日間に行われたライヴの音源だ。このライヴ盤発売の背景は、クーパー自身がライナーノートに詳しく記している。

もとは『スーパー・セッション』のヒットの波に乗って、これでもう一枚ライヴ盤を作るつもりだったらしい。しかし、結局この音源はそれから30年間も行方不明になっていた。クーパーが自分のアンソロジーを制作するときに、一生懸命に探して、99年についに発見された音源が今年初発売の運びになったものである。リミックスにはビル・シムジクという懐かしい名前も挙がっている。イーグルズやJ・ガイルズ・バンドなどとの仕事で有名なシムジクは、クーパーとはB・B・キング物以来の仲だ。

Johnny Winter / Johnny Winter (1969)アル・クーパーは、この音源が当時日の目を見なかった理由として、会場の録音体制の不備、あるいは雇われたバックメンバーのうち特にドラマーがブルース物にうまくついていけなかったといった問題点を挙げている。実際、B・Bの「イッツ・マイ・オウン・フォールト」は、クーパーが解説するように、7分半辺りからワルツのリズムにブルースのフレーズが乗るところなど、チグハグな感じもする。

しかし、この曲はこのアルバムの最大の聞きどころであり、この1枚に歴史的価値を与えている。この曲はブルームフィールドが連れ出した白子の天才ギタリスト、ジョニー・ウィンター(写真)がプロデビューするきっかけになった記念すべき演奏で、地元テキサスとシカゴで下積みしたウィンターが、クーパーの言葉を使えば「人生を賭けて」ギタープレイと歌声を披露している。この日の演奏を生で見たコロンビア・レコーズの重役は、その3日後にはジョニー・ウィンターと契約し、ウィンターは翌年コロンビアから華々しくデビューすることになる。

その他にも、このライヴ盤、時代の記録という点も含めて考えれば、魅力は尽きない。生前のブルームフィールドの性格をよく表すのは、彼の冒頭のMCだ。通例フィルモアではオーナーのビル・グレアムが悦に入って出演アーティストを紹介していたが、サンフランシスコの『フィルモアの奇蹟』とまったく同じ展開で、この日もブルームフィールドはマイクを奪って自分で説明をしている。その内容はアル・クーパーと彼がそれまでで合計8回一緒に演奏したということを丁寧に説明するものだが、生真面目さがかえってどこか可笑しいMCだ。自分が2回も突然仕事を放り出した事実を、まるで悪びれずに解説しているのも、実にブルームフィールドらしい。

もちろん聞きどころは、彼の艶やかなギタープレイである。リズム・セクションとの絡みという点では不満は残るが、この日のブルームフィールド自身の状態はすごくいい。因みに、アル・クーパーの力添えもあって、現在コロンビア・レコーズは、故ブルームフィールドのボックスセットを企画しているらしい。来年にも発売予定との情報だ。

「恋のダイアモンド・リング」から、ディランとの仕事、ブルース・プロジェクト、BSTを経て、一連のスーパー・セッション物・・・一つ一つの活動の期間はかなり短いが、アル・クーパーの瞬時の輝きぶりは他の追随を容易に許さないものだ。言葉は悪いが、冷静にみればギターもオルガンも歌も決して最高峰のアーティストではない。しかし、ロック史の数々の重要な場面にこれだけ関わって、独創的な働きを果たしてきたのは、驚くべき能力と強運の持ち主だと言っていい。すでに多くを成し遂げたクーパー、このときまだ25歳だった。


―本文の関連作品―

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  Va. / コンプリート・モンタレー・ポップ・フェスティヴァル

  ※従来のフェスティヴァルの映像に、未発表シーンを集めた3枚目を追加した決定版  
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  ※アメリカ盤は2000年のリマスター版、ボーナストラック付き/日本盤は2003年紙ジャケ版  
Al Kooper, Mike Bloomfield, Stephen Stiils Super Session (1968)

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  ※2003年のリマスター版、ボーナストラック付き/日本盤は2003年紙ジャケ版  
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  マイク・ブルームフィールド、アル・クーパー / フィルモアの奇蹟  ※2003年紙ジャケ版 Amazon.co.jp
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