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Updated on June 24, 2004 |
Column
13:
In
the Footsteps of Rock Giants
巨人の残した足跡 ―レイ・チャールズ
ポピュラー音楽界の巨星、この呼称にレイ・チャールズほどふさわしい人物はいない。大恐慌下の米南部に生まれ、7歳で失明、14歳で孤児になった彼は、音楽に天性の才能を開花させ、19歳で最初のシングルをヒットさせて以来、常に第一線で活躍してきた。 レイ・チャールズは、もう40年も前からすでに、「伝説的な」ミュージシャンだった。ソウルにせよ、ロックにせよ、60年代に発展した「若者の音楽」は、レイの影響を抜きにして語ることはできない。エルヴィス・プレスリー、ジェリー・リー・ルイス、ビートルズ、アレサ・フランクリン、マーヴィン・ゲイ・・・、彼の音楽に魅せられたミュージシャンは数限りない。
しかし、去る6月10日、彼はついに帰らぬ人になってしまった。 レイ・チャールズが残した音楽的な遺産は膨大だ。50年代、60年代に活動を始めたミュージシャンなら、彼の影響を受けていない人物を探す方が難しいぐらいだろう。ここでは特に縁の深いアーティストに絞って、レイ・チャールズの影響の深みと広がりに、改めて注目してみたい。 Beatles - Something (1969) ビートルズは、レイ・チャールズのナンバーを、まだクォーリー・メンと名乗っていた時代から、よくカヴァーしていたようだ。彼らの初期の音源では、レイの「ホワッド・アイ・セイ」や「ハレルヤ・アイ・ラヴ・ハー・ソー」のカヴァーを聴くことができる。 彼らにとって、レイ・チャールズは、アメリカのロックンロールを代表する現役のアイドルの一人だった。そのレイにビートルズの面々がはじめて会ったのは、1962年の暮れだ。ハンブルクのスター・クラブにレギュラー出演していたビートルズは、ある晩レイ・チャールズの前座を務めることになった。ライヴの後、ビートルズはレイ・チャールズと楽屋で歓談する機会に恵まれたらしい。 レイ・チャールズが与えた影響は、ビートルズの音楽が変遷し直球のロックンロールではなくなった後期にも、姿を変えて残っている。例えば、『アビー・ロード』に収録された「サムシング」も、その一例だ。 一般にこの曲は、作曲者のジョージ・ハリスンが妻のパティ・ボイドに捧げた歌と解釈されることが多かった。しかし生前のハリスンは、これはレイ・チャールズが歌うところを想像しながら作った曲で、特にパティを意識したわけではない、と語っている。「サムシング」は、シンガーソングライター的な活動に目覚めたハリスンが、敬愛するソウルの大御所を意識して、真摯に書き上げたスイート・ソウルと言っていいだろう。
コッカーの友人だったハリスンは、本格的なソロデビューを控えた彼に「サムシング」を託したが、それからしばらくコッカーのデビュー作は完成せず(69年11月発表)、結局ビートルズのヴァージョンが先に世に出ることになった(69年9月)。 また、ポール・マッカートニーの場合は、「ロング・アンド・ワインディング・ロード」が、レイ・チャールズを念頭に書いた曲だった事実を明らかにしている。「僕の声は彼と似ていないから、まるでレイ・チャールズみたいには聞こえないけどね。でも心の中で、レイ・チャールズならどうするだろう?なんて考えをめぐらせながら書いたんだ。だからもしかしたら、少しジャズっぽいコード進行あたりは、その影響が表われたのかもしれないね。」 ビートルズのような大物が、曲の元ネタを具体的に明かすのは、決してよくある出来事ではない。ミュージシャンが自分の受けた影響をつい語りたくなってしまう、それほどレイ・チャールズは別格の存在だということかもしれない。 Humble Pie - I Don't Need No Doctor (1971) ビートルズの「アイ・フィール・ファイン」(64年)は、ボビー・パーカーの「ウォッチ・ユア・ステップ」(61年)を下敷きにしているが、両曲の基本にあるのは、レイ・チャールズの「ホワッド・アイ・セイ」だ。1959年のこの曲で、レイははじめてポップ・チャートにも進出した。キレと粘りのある印象的なリズムは、その後ロックンロールの雛型の一つとして定着し、多くのミュージシャンに採用されることになる。 「ホワッド・アイ・セイ」は、全身を揺さぶるような躍動感に満ちた黒人音楽の魅力を、非常に親しみやすい形で人々に紹介する役目を果たした。「この曲をはじめて聴いたとき、僕は曲が始まった瞬間から叫んでいたよ。なんとも解放的な経験だった。白人中産階級の郊外社会とは別の世界があるんだということを、この音楽が教えてくれたんだ。」と述べたのは、意外にもルー・リードである。
70年代初期のハンブル・パイは、実に脂の乗ったライヴバンドだった。当時彼らは、観客の反応にこたえるうちに、スタジオ盤で発表したオリジナル曲以上に、熱いハードロック・スタイルでカヴァーしたR&Bナンバーを演奏する機会が増えていった。『パフォーマンス―ロッキン・ザ・フィルモア』は、そんな彼らの絶頂期を記録したライヴ盤として、ファンに強く支持されてきたアルバムだ。 71年5月28日・29日の2日間に、ニューヨークのフィルモア・イーストで行われた合計4回の公演から、ベストテイクが集められたもので、もともとはLP2枚組だった。ここで収録7曲中、レイ・チャールズのナンバーが2曲もカヴァーされている。特に最後の「アイ・ドント・ニード・ノー・ドクター」は、レイ自身が66年に発表したヴァージョン以上に、ハンブル・パイの名演によって有名になった曲だ。 見事な手並みで換骨奪胎されたこの曲はもはや彼らのオリジナルともいえるが、ハンブル・パイの面々がレイ・チャールズに格別な愛着があったことは間違いない。それは熱烈なR&B好きとして知られるスティーヴ・マリオットだけでなく、他のメンバーも共有していた趣味だ。ドラムのジェリー・シャーリーは、自分が一番好きなシンガーは、(スティーヴ・マリオットを除けば)レイ・チャールズだと公言している。
『パフォーマンス―ロッキン・ザ・フィルモア』はオーヴァーダブの一切ない、その意味で正真正銘のライヴ盤だ。マネジャーは商業的な理由から、曲を短くすることを勧めたが、メンバーたちはどの部分も削る決断ができず、そのおかげでリスナーは、最長1曲23分に及ぶ、切れ目のない演奏を楽しむことができる。 切り貼りが行われていない証拠として、フランプトンは、「アイ・ドント・ニード・ノー・ドクター」の中で、彼が音痴に歌ってしまった部分が、そのまま残っている事実を挙げている。編集時に気付いて、フランプトンのマイクのトラックは低く抑えたものの、オーディエンスのマイクに拾われた彼の声が、そのまま残ってしまったそうだ。 改めてこの曲を聴き返すと、6分51秒あたりで、マリオットのコールに応えて今度はフランプトンが「アイ・ドント・ニード・ノー・ドクター」と歌うときに、アドリブで歌いまわしを変えようとして、キーを外しているのが分かる。おそらくこれが問題の箇所だろう。こんな事実も、今となっては、かえって曲の臨場感を引き立てるちょっとした逸話だ。 Spencer Davis Group - Georgia on My Mind (1966) 60年代イギリスの若き音楽ファンたちが、レイ・チャールズの音楽を支持したのは、ロックンロール的な躍動感のせいだけではない。彼らはレイの音楽に、人間の内面に届き、魂に響くような深みが備わっていることを、感じ取っていた。例えば、13歳でレイ・チャールズを聞き出したというフリーのポール・ロジャーズは、こう述べている。 「僕らは大人びた音楽を聞いていた。レイ・チャールズの歌は、『今朝起きて、昔の楽しかった日々を思い出したら涙がこぼれた/誰か教えてくれ、これで終わりだろうか/俺はすべてを失って、友達もいないんだ/それでも、今泣いていても無意味だ』っていうんだ。13歳の子供が聞くには、ひどくディープだろ。」 ロジャーズのような青年たちは、同世代の若者とは違う本物の音楽を聞いているという感覚で、R&Bやブルースにのめり込んでいった。ブリティッシュ・ロックのミュージシャンの多くが、このようなサブカルチャーの中で育った。彼らにとってレイ・チャールズは、<ソウル>に響く音楽を全身で表現できる霊媒師のような存在だったのだ。 この感覚は、レイ・チャールズ本人の姿勢とも呼応している。78年に出版された自叙伝の中で、彼はこう記している。
こうしたディープな音楽の洗礼を若くして受けて、レイ・チャールズに惚れこんだイギリスのミュージシャンは、ジョー・コッカーやエリック・バードンをはじめとして数多い。その中でも、スティーヴ・ウィンウッド 1964年にスペンサー・デイヴィス・グループを発掘したクリス・ブラックウェルは、最初にウィンウッドの歌声を聴いたときの印象について、「まるでヘリウムを飲んだレイ・チャールズみたいで、とても信じられなかった」と語っている。当時わずか16歳だったウィンウッドは、レイ・チャールズのように歌える神童として一躍有名になり、その名声はまもなくアメリカにも伝わったのだ。
そのウィンウッドがレイ・チャールズ本人とはじめて面会したのは、この録音から実に27年が経った1993年のことだ。その日、公演でスペインのバルセロナを訪れていた彼は、たまたまレイ・チャールズもバルセロナにいることを知って、レイのライヴ会場に赴いた。それまで一度もレイに声を掛けたことのなかったウィンウッドは、同行したバンドのメンバーに促され、ついに勇気を出して、楽屋まで訪ねることにした。 ところが、ウィンウッドが名前を名乗るのもそこそこ、レイ・チャールズは「やぁ、そうかい。僕のカバンはない?」と言って、旅行ケースを調べ出し、会話はそれっきり続かなかったそうだ。生涯のアイドルとの出会いがこれで終わってしまった彼の落胆は大きかったに違いないが、こんな経験をした後もそのエピソードを照れ臭く語るウィンウッドは、まるで大師匠を前にした見習いのような謙虚さで、ほろ苦くも微笑ましい話だ。 Procol Harum - Christmas Camel (1967) ブリティッシュ・ロックの第1世代は、60年代後半には、R&Bのカヴァーという段階を脱して、徐々に独自の<英国的な>音を生み出していった。スティーヴ・ウィンウッドの場合は、スペンサー・デイヴィス・グループを脱退して、1967年にトラフィックを結成している。同じくレイ・チャールズに強く感化されたゲイリー・ブルッカーも、ほぼ同じ軌跡を辿った人物だ。パラマウンツというなかなか評判のいいR&Bバンドで活躍した後、彼が中心になってプロコル・ハルムを結成したのは、やはり67年のことだ。
彼らのデビュー作は、こうした雑多な要素を取り込んだおかげで、実にユニークな音世界を形成することに成功している。例えば、収録曲の「クリスマス・キャメル」は、ボブ・ディランの「やせっぽちのバラード」をまず思い起こさせるだろう。と同時にゲイリー・ブルッカーの演奏には、レイ・チャールズから受けた薫陶が色濃く残っている。軽く跳ねるピアノのタッチやこぶしの効いた歌いまわしは、やはりレイ譲りだ。 The Band - Tears of Rage (1968) プロコル・ハルムのデビュー作は、海を渡ってザ・バンドにも影響を与えている。そのザ・バンドは、R&Bとボブ・ディランの独特な詩的世界との融合をさらに自然にやってみせた。彼らのデビュー作『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』は、ディランとリチャード・マニュエルが共作した「怒りの涙」で幕開ける。ここでリードをとるマニュエルの歌声は、思いを込めてバラードを歌うレイ・チャールズを明らかに彷彿させる。
ザ・バンドがデビュー作の1曲目に「怒りの涙」を持ってきたのは、実に象徴的な行為だった。アメリカン・ミュージックのルーツに根差した楽曲と、崩壊していく親子を親の視点から見つめ直す歌詞は、社会変革を叫び体制と衝突する当時の若者文化と、非常に対照的だった。 これはロック音楽の流れで言えば、アシッドやサイケの全盛期が過ぎて、シンガーソングライターやルーツロックに注目が集まり始める、時代の転換を象徴していた。そして、この転換を圧倒的な説得力をもって示したのが、レイ・チャールズにインスパイアされたリチャード・マニュエルの歌声だったのだ。 静謐で物悲しいヴォーカルをここで披露したマニュエルは、当時まだ22歳だった。彼はレイ・チャールズの大ファンで、ザ・バンドの前身のホークスに加わる前から、すでにレイのカヴァーをやっていたようだ。「僕にはレイ・チャールズと同じ声は出ない。でも、歌詞を歌い込んでいくやり方は、彼と同じなんだ。彼から一番影響を受けたことは、間違いないね。」とは、生前の彼の言葉だ。 オリジナル・メンバーによるザ・バンド最後のスタジオ作となった『アイランド』(77年)には、リチャード・マニュエルが歌う「わが心のジョージア」が収録されている。マニュエル自身が、録音した後のテープを聞き返して涙を流した、というカヴァーだ。亡くなる前年の85年のライヴ録音『ウィスパリング・パインズ』(2002年発表)には、この曲を含め、レイ・チャールズのカヴァーが3曲含まれている。 Van Morrison - I Will Be There (1972) ヴァン・モリソンは、1970年のインタビューで、リチャード・マニュエルと一緒にレイ・チャールズのカヴァー・アルバムを作る計画があると語った。当時モリソンは、ザ・バンドの面々と同じニューヨーク州のウッドストックに住んでいて、2人の親交は厚かったはずだ。この企画はついに日の目を見なかったが、この2人がレイ・チャールズの話で盛り上がったとしても、少しも不思議はない。 ヴァン・モリソンもまた、若い頃にレイ・チャールズの虜になった一人だ。「レイ・チャールズは自分で見つけたんだ。レイ・チャールズの『ライヴ・アット・ニューポート』、あれは一時は何時間も立て続けに聞いていたんだ。」 この頃の思い出は、1986年のアルバム『ノー・グル、ノー・メソッド、ノー・ティーチャー』に収録された「ゴット・トゥ・ゴー・バック」の歌詞にも綴られている。
オリジナル作品では、例えば、72年の『セント・ドミニクの予言』(写真)に収録された「アイ・ウィル・ビー・ゼア」は、レイ・チャールズ流のビッグ・バンド・ジャズに仕上げられている。モリソン特有の<凄み>こそあまり効いていないが、そのぶんかえって彼のルーツをよく伝える曲だ。96年にジョージー・フェイムと作ったジャズ・アルバムで、彼が1曲目にこの曲を再度取り上げたのも、そんな思い入れを感じさせる。 Billy Joel - New York State of Mind (1976) 気難しい性格で知られるヴァン・モリソンも、レイ・チャールズの話題には能弁で、いつか彼と共演したいとたびたび口にしていた。それは、ジョー・コッカーも、スティーヴ・ウィンウッドも同じだ。しかし、彼らは結局、生前のレイと共演する機会には、ついに恵まれなかったようだ。この点、ビリー・ジョエルは、一方的に敬愛するだけでなく、レイ・チャールズと実際に親交を結ぶことができた幸運な人物だ。
その後も2人の交友は続き、1999年に、ビリー・ジョエルがロックンロールの殿堂入りを果たしたときには、式典でジョエルの紹介役を務めたのは、レイ・チャールズその人だった。
70年代前半の4年間を西海岸で過ごしたビリー・ジョエルは、ついに嫌気がさして、古巣のニューヨークに舞い戻ってきた。そのときの思いが、「さよならハリウッド」、そしてこの曲を生んだ。「ニューヨークの想い」は、カリフォルニアから帰るグレイハウンド・バスの中で思い付き、ニューヨークの自宅に着くとすぐに、1時間で仕上げたそうだ。 タイトル通り、彼のニューヨークに対する思いは実に熱い。あの大都会に漂う独特の空気を、レイ・チャーズ仕込みのブルージーな感覚と、70年代的な洗練されたスタイルで表現してみせた、ビリー・ジョエルらしい作品だ。 Aretha Franklin - Spirit in the Dark (1971) レイ・チャールズがゲスト参加した音源の中でも、アレサ・フランクリンとのライヴ共演は何度聞いても鳥肌の立つ録音だ。伝説的なコンサート会場だったフィルモア・ウェストで1971年に収録されたこのライヴは、キング・カーティス、コーネル・デュプリー、バーナード・パーディ、ビリー・プレストンをはじめとする職人がバックを固めた、ただでさえ出色の演奏だが、ここにアンコールでレイ・チャールズが登場する瞬間は、ひときわ感動的なハイライトだ。 ソウル界でレイ・チャールズの影響を受けていない人はまずいないだろう。アレサ・フランクリンもまた、レイの後を追ってソウル・ミュージックを発展させた一人だ。まだ12、3歳だった頃に、レイ・チャールズの54年のヒット曲「カム・バック・ベイビー」を最初に聞いた瞬間は、「自分の人生が変わったという感じがするほど、スリリングで忘れられない体験だった」と、述べている。 1975年に出演したテレビ番組では、それまでの生涯で特に思い出に残る経験を司会者に尋ねられて、デトロイトのクラブに姉妹で出演していた頃と、牧師だった父親の教会で歌った思い出を挙げた後で、こう語った。「(思い出深いのは)レイ・チャールズと一緒に歌ったことね。彼は私のヒーロー、インスピレーションだから。」 この1971年2月7日の共演は、前もって予定されたものではなく、たまたま実現した出来事だった。アレサがフィルモアに出演することを知ったレイ・チャールズは、その日アレサには連絡せずに、仲間と一緒にコンサートを見に来ていた。コンサートの最中に、会場にレイがいることを聞いたアレサは、急きょレイを舞台裏に呼び、アンコールの際に彼をステージに連れ出したのだ。
その晩の再演になる「スピリット・イン・ザ・ダーク」で、まずアレサがエレキピアノを弾き、レイがヴォーカルを担当する。 リハーサルなしの登場だっただけに、このときレイ・チャールズは、実はかなり戸惑ったそうだ。曲を聴いてはいたものの、一度も自分で演奏したことはなく、歌詞もあやふやだった。 そのせいで彼は当初、このときの音源がライヴ盤に収録されると聞いて、だいぶ渋り、それをアトランティックのジェリー・ウェクスラーが粘り強く説得したという経緯は、ライナーノーツにある通りだ。しかし、実際の録音では、さすがはソウル界の伝説的パフォーマー、特に後半に移ると、自信たっぷりのアドリブで、アレサとコール&レスポンスを披露している。 曲の途中でレイ・チャールズは、アレサに促されて、アレサと交代でエレキピアノに移る。フレーズを少し奏でるとすぐに、レイはリラックスして、ファンキーで転がり進むようなプレイをみせ始める。ここで、彼の演奏に絶妙に絡んでいくのが、ビリー・プレストンのオルガンだ。この後、アレサもプレストンと連弾でオルガンを弾き始め、3人のキーボードが絡む。そして最後に、アレサが再びエレキピアノに移って、レイ・チャールズは観衆に向かって「スピリットを感じるんだろ」と煽り立て、それに客は大歓声で応える。 Billy Preston - Let's Go Get Stoned (1974) レイ・チャールズが実にスムーズにバンドに溶け込めたのは、ビリー・プレストンという絶好の相方を得たおかげでもある。実に偶然なことに、プレストンは、66年から約3年間レイ・チャールズのバンドの一員だった。だから、チャールズのピアノと絡むのは、お手のものだったはずだ。 プレストンにとってレイ・チャールズはボスであると同時に、生涯の師匠だった。74年のライヴ盤『ライヴ・ヨーロピアン・ツアー』(写真)では、レイの曲「レッツ・ゴー・ゲット・ストーンド」をカヴァーしながら、「これがレイ・チャールズ流さ」と宣言して、レイの声色まで真似てみせる。
当時レイ・チャールズは、ビリー・プレストンを愛弟子のように可愛がっていた。彼はプレストンのことを「僕の足跡を受け継ぐことになる男」として紹介したこともあるぐらいだ。 そう考えると、ビートルズが最後のアルバムでプレストンを起用したことも、プレストンを通じてレイ・チャールズ的な要素を取り込んだ、と解釈していいのかもしれない。そもそもジョージ・ハリスンが、69年1月下旬に、プレストンを急きょ「ゲット・バック」の収録に呼び込んだのは、ロンドンで開かれたレイ・チャールズの公演がきっかけだった。このステージでオルガンを弾くプレストンに改めて感銘を受けたハリスンは、翌日彼をビートルズのセッションに借り出したのだ。 因みに、ビリー・プレストンがビートルズの面々と最初に会ったのは、1962年秋、彼がまだリトル・リチャードのバックバンドにいたときのことだ。当時プレストンとハリスンはそれぞれまだ16歳と19歳で、お互いバンド内で一番若かったこともあって、すぐ仲良くなったらしい。ある晩、ハリスンはたまたまオルガンがまだステージに残っているのをみて、プレストンにゲストとしてビートルズと一緒に演奏するように勧めた。しかし、プレストンはリトル・リチャードに叱られるからと言って断った。その後6年余り経ってやっと、共演が実現したことになる。 今月10日、レイ・チャールズの突然の訃報に接したビリー・プレストンは、あまりのショックに、ついにコメントも発表できなかった。現在腎臓を故障している彼は、6月18日の葬儀にも、医者の指示で、出られなかった。出席を止められたプレストンは、この日の朝、まるで子供のように泣きじゃくったという。それほど彼は、レイのことを心から慕っていた。 Willie Nelson - Georgia on My Mind (1978) R&Bの中だけでもすでにレイ・チャールズの功績は量りしれないが、それだけで彼を語り終えては、この「アメリカン・ミュージックの巨人」に対する正当な評価とは言えないだろう。 レイの影響は実にさまざまなジャンルに及んでいる。ジャズ・オルガンのジミー・マッグリフはレイの「アイ・ガッタ・ウーマン」のカヴァーでプロデビューし、メイシオ・パーカーは最も影響を受けたミュージシャンとしてレイの名前を挙げている。ニューオーリンズR&Bの重鎮、アラン・トゥーサンのピアノは、地元ニューオーリンズの音楽的伝統だけでなく、明らかにレイ・チャールズの影響を受けているし、ジャマイカでは、ボブ・マーリーもトゥーツ・ヒバート(トゥーツ&ザ・メイタルズ)も、レイ・チャールズを聞き込んでいた。 しかし、ジャンルの垣根を超えた交流の中でも、レイ・チャールズが最も縁が深かったのは、カントリー・ミュージックだろう。1959年に、ハンク・スノウの「アイム・ムーヴィン・オン」をカヴァーしたのを最初に、それ以降、レイはたびたびカントリー・ソングを取り上げてきた。彼のカントリー物を網羅したという触れ込みのボックスセット『コンプリート・カントリー&ウェスタン・レコーディングズ、1959〜1986』(1998年)に収録された曲の総数は、実に91曲にのぼっている。 1960年、当時29歳だったレイは、アトランティック・レーベルを離れ、ABCパラマウントに移籍した。創作活動と金銭面との両方で、アーティストとしての自立を追求した末の決断だった。62年に相次いで発表された『モダン・サウンズ・イン・カントリー&ウェスタン・ミュージック〜Vol.1&2』は、この移籍が生んだ最大の成果であり、彼の生涯を通じての大ヒット作となる。なかでもドン・ギブソン原作の「愛さずにいられない」の成功で、彼の名前はいよいよ本格的に白人にも知られるようになった。 レイ・チャールズが最初にカントリーに触れたのは、幼少時のラジオ番組だった。しかし、彼がカントリー・クラシックのカヴァーに挑戦したのは、個々の曲に特に思い入れがあったというよりも、カントリーというジャンルに対して一般的な共感を抱いていたからだ。レイは、人間の感情を見事に表現する点で、カントリーとブルースは根が同じものだと感じていた。どちらも「人生の真相」に迫る本物の音楽だというのが、生前の彼の理解だったのだ。 レイ・チャールズがABCレコーズに対し、カントリーのカヴァーだけでアルバムを作りたいと告げたとき、会社側は従来からのファンを失う恐れがあると難色を示した。しかしレイは、自分の音楽的な幅を広げるには、このアプローチが必要だと信じて、方針を変えなかった。彼は、レコード会社に送らせた150曲ほどの候補を一つ一つ聞いて、自分の心に響くものを選んでいった。 レイ・チャールズの初期のカントリー・カヴァーは、オーケストラあるいはビッグ・バンドを使った大々的なアレンジで、音に関する限りカントリー色は希薄だ。それでも彼の仕事がカントリー・ミュージックに与えた影響は大きかった。レイのヴァージョンがヒットしたことで、カントリーははじめてアメリカン・ミュージックの中で重要な地位を占めることができるようになった。トラヴィス・トリットやヴィンス・ギルをはじめとして、レイ・チャールズの功績を称えるカントリー・シンガーは、今も数多い。 レイのカントリー・カヴァー第2弾になった『カントリー&ウェスタン・ミーツ・リズム&ブルース』(1965年)では、オーケストレーションも少し抑えられ、カントリーっぽさが増したが、このアルバムに刺激を受けたのが、当時大学を中退してニューヨークに出たばかりのグラム・パーソンズだった。後に彼が発表したカントリー・ロック・サウンドが、R&Bフレイバーの濃厚なカントリーに仕上がっているのも、決して偶然ではない。
この曲の録音は、テキサス州にあるネルソン所有の牧場で行われたが、このとき2人は個人的にも親しくなり、その後何度もコンサートやイベントで共演している。牧場でチェスの対戦をして過ごした思い出を、生前のレイはこう記している。「数日ウィリーと一緒に、チェスばっかりやってたよ。僕の方がチェスがうまいってことを、奴が認めさえすれば、僕らはとってもいい関係なんだ。」 レイ・チャールズは、83年にCBSナッシュヴィルに移籍したが、カントリーに傾斜した同社と彼が契約することになったのは、ウィリー・ネルソンの後押しが大きかったようだ。社長のリック・ブラックバーンは、ネルソンがレイのファンだと語るのを聞いて、はじめてレイ・チャールズの獲得に興味を持ったと述べている。
ネルソンがレイ・チャールズを強く意識していたかどうかは不明だが、レイの出世作「わが心のジョージア」をネルソンもカヴァーしてみせたのは興味深い符合だ。オリジナルなアレンジには、レイのヴァージョンに負けない魅力がある。ピアノとストリングスの活用は共通しているが、こちらはテンポはぐっと落とし、素朴なギターとブッカーTのオルガンが優しく伴奏する中、ウィリー・ネルソンが訥々とした歌い方でノスタルジーを醸し出す。この曲のカヴァーは何百と存在するが、ネルソンのカヴァーはレイ・チャールズに匹敵する数少ない好作品だ。 6月18日、ロサンジェルスの教会で執り行われた葬儀では、クリント・イーストウッドの次が、ウィリー・ネルソンが弔意を示す番だった。彼はピアノの伴奏に従って、ごくごくゆっくりとしたテンポで、「わが心のジョージア」を歌った。途切れ途切れに歌詞を繰り出していたネルソンは、途中で詰まりそうになったが、最後まで歌いきった。そして、親友レイ・チャールズと戦ったチェスの思い出を語った。 生前のレイが自慢したように、チェスではいつもレイに負けていたと認めた後で、ネルソンは、こう締めくくった。「でもな、レイ、今度対戦するときは、部屋の電気を点けてもいいかい?」 弔辞を終えた偉大なミュージシャンは、先に逝ったもう一人の偉大なミュージシャンの棺を前に、力尽きて静かにうなだれた。(写真; 左はジェシー・ジャクソン) 73歳で生涯を閉じたレイ・チャールズは、音楽界、そして音楽ファンに測りしれないほど大きな遺産を残していった。 ―本文の関連作品―
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Ray Charles (1930 - 2004)