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Updated on September 10, 2005 |
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ニューオーリンズ出身のミュージシャンは、全国的に有名になっても、この街に留まり続ける伝統があった。自宅が水に囲まれる危険を知りながらもファッツ・ドミノが自宅に留まったのは、まさにその表れだ。同じように、ニューオーリンズに対する熱い情熱を持ち続けているのが、この街が生んだ稀代のミュージシャン、アラン・トゥーサンだ(写真右)。彼もまた、ハリケーンをしのぐ覚悟で市内にとどまったが、被害の深刻さゆえに、最終的にはニューオーリンズを脱出することを余儀なくされた。それでも、彼は堤防が決壊してまだ1週間も経たない9月4日には、ラジオのインタビューに答えて、「帰れる状況になったら、すぐにでもニューオーリンズに戻るさ」と語っている。
この折り目正しい態度は、ミュージシャンとして非常に謙虚な姿勢とも相通じているのだろう。彼は自分自身を売り込むことにはあまり興味がなく、基本的に裏方でいる自分で満足していた。彼自身は、「音楽を一緒に演奏するのは楽しいけど、脚光を浴びるのは好きじゃない」と語っている。ソロアルバムを作り出したのは、デモ録音での彼の歌声に感心したプロデューサーに推されてのことだ。彼自身のソロ作品はそれほど売れたことはないが、それはそれで自分で十分納得してやっていることと、考えてよさそうだ。 とはいえ、白人音楽との接点で考えると、彼ほど「ニューオーリンズ」的なサウンドの普及に貢献した人物はいない。70年代半ばにひっぱりだこになった時期を頂点として、一時は彼の手を借りるのがミュージシャンの間のブームだった。ポール・サイモンも、ザ・バンドも、リトル・フィートも、ジョン・メイオールも、ポール・マッカートニーも、アルバート・キングも、皆トゥーサンに協力を仰いだ。98年にはロックンロールの殿堂も果たしたし、音楽界では確実に敬意を集めている。 因みに、彼が殿堂入りしたのは、ノン・パフォーマー部門だ。もちろん、ソロ歌手としてのトゥーサンの成功が、彼の裏方としての名声におよそ及ばないのは明らかだ。ディープなソウルが好きな人からみれば、彼の歌いっぷりは物足りないだろう。だが、アラン・トゥーサンの歌声には、いったん気に入れば決して抗しがたい魅力が備わっている。端正でスムーズな彼の歌唱には、何とも言えない優しさが溢れている。特に、歌ではなく話をしているときの彼の声を聞けば、彼が生まれつき、聞き手の心を容易に溶かしてしまうような実にメロウな声質を持っていることが分かるだろう。 今回は、ニューオーリンズの早い復興を願う思いも込めて、ロック時代の音楽にみられるアラン・トゥーサンの影響について特集してみたい。 ※尚、Allen Toussaintの正しい発音は、本人によれば「アラン・トゥーサント」で、最後の"t"を発音するらしい。だが、ここでは日本での通例に従って、「トゥーサン」という表記を続けることにする。 Rolling Stones "Fortune Teller" アラン・トゥーサンの曲を最も早く取り上げたロック・ミュージシャンは、おそらくローリング・ストーンズだろう。彼らのデビュー年である1963年に収録された「フォーチュン・テラー」がそれだ。この曲はストーンズの最初期のレパートリーの一つで、すでに63年秋の初ツアーで演奏されている。当初はシングル化を予定して録音された音源だがお蔵入りになり、結局翌年1月に発売されたオムニバス盤『サタデー・クラブ』(64年)の中で日の目を見た。ストーンズ単独のアルバムとしては、66年発売の『ゴット・ライヴ・イフ・ユー・ウォント・イット』に収録されたのが初めてだ。このヴァージョンは、63年の収録音源に、グリン・ジョンズの手で、観客の歓声が重ねられたもので、本物のライヴ音源ではないが、今はオーヴァーダブ以前のオリジナル音源も、リマスター盤で割合簡単に聞くことができる。
とはいえ、正直言ってニューオーリンズ系の歌手としても辺境に位置する彼のシングルを、海を渡ったイギリスでいち早く聞き込んで、そのB面曲をカヴァーした辺り、ブルースとR&Bのマニアだったローリング・ストーンズの初期の特徴がよく表れている。まだミック・ジャガーとキース・リチャーズがオリジナル曲を書き始める前の話で、カヴァーとしてはアレンジも、コーラスまで含めて原曲に忠実だ。ストーンズが取り上げたおかげで、この曲は、ザ・フーや、ダウンライナーズ・セクトなどにもカヴァーされることになった。 この曲の魅力はルースなR&Bのリズムだけでなく、歌詞にもある。フォーチュン・テラー(=占い師)に手相を見てもらったら、この女性の占い師は、「あなたは恋をしている」から「次に女の子に会ったら、目を見つめてごらん」と予言した。ところが、そんな意中の女性には全然会わないので、嘘をつかれたと思って、怒ってもう一度占い師のもとを訪れたら、天から啓示を受けたように、ハタと悟って、「あぁ僕はこの占い師と恋に落ちたんだ」と腑におちた・・・そんな、可愛らしい物語だ。アラン・トゥーサンの手並みが発揮された歌詞と言えるだろう。 ローリング・ストーンズは、他にも、バーバラ・リンがニューオーリンズで録音した「オー・ベイビー」(64年)や、アーマ・トーマスの歌で有名になった「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」(64年)などもカヴァーしていて、当時のイギリスのバンドでは、特によくニューオーリンズ物を取り上げていたグループだ。 前者を収録したアルバム『ローリング・ストーンズ No.2』(65年)には、「ペイン・イン・マイ・ハート」も収録されている。この曲はオーティス・レディングのカヴァーで、ローリング・ストーンズによる当初のクレジット表記も、「レディング/ウォルデン」となっていた。(ウォルデンは、当時レディングのマネジャーだった、フィル・ウォルデンのことだ。) だが、今ではよく知られるように、この元ネタは、トゥーサンがナオミ・ネヴィル名義で書いて、アーマ・トーマスが歌った「ルーラー・オヴ・マイ・ハート」(62年)だ。このほとんど一聴して明らかなパクリには、さすがのアラン・トゥーサンも我慢できず、スタックスとオーティス・レディングを相手取り訴訟を起こし、その結果、現在は「ペイン・イン・マイ・ハート」の方もナオミ・ネヴィルが原作者という表記になっている。 Yardbirds "A Certain Girl"
オリジナルを歌ったのは、アーニー・Kドゥで、彼こそはアラン・トゥーサンにヒットメイカーとしての名声を最初にもたらした歌手だ。トゥーサンの手がけた「マザー・イン・ロー」が全米1位に輝いたのは1961年、これが彼にとっても、ミニット・レコーズにとっても、最初の大ヒットだった。「ア・サートゥン・ガール」はKドゥの同じ年3枚目のシングルのB面で、このシングルもR&Bチャートでは1位を記録した。 「もうずっと好きな女の子がいるんだけど、名前は教えられない」という明るいラヴソングだが、この曲の魅力を引き立てているのは、アラン・トゥーサンによる軽やかなタッチのピアノだ。ゴスペル出身のKドウのディープな歌声が、トゥーサンの手がけたニューオーリンズ・サウンドと見事にマッチしている。これとヤードバーズのキース・レルフの歌唱を、まともに比べてしまうのは少し酷だろう。よくも悪くも、初期のブリティッシュR&Bというのは、憧れの強さと演奏の実力との間には埋めがたいギャップがあった。とはいえ、少なくともエリック・クラプトンの最初期のギター・ソロを耳にすることができるという点では、貴重な録音だろう。 Georgie Fame "Ride Your Pony" ローリング・ストーンズやヤードバーズがニューオーリンズ物を早々に取り上げたのは、彼らのマニアぶりを証明しているとしても、別に彼らがそれらの曲がニューオーリンズ発だということをきちんと意識していたことは意味しない。この時期のイギリスのR&Bグループの態度は、とにかくアメリカから入ってきたシングルで気に入ったものがあれば、いち早くカヴァーしてみせるという感じで、実際にそれがどこの誰によって収録されたかという情報はほとんど持っていなかった。だから、アラン・トゥーサンという人物の存在も、ナオミ・ネヴィルという作曲者が誰かということも、彼らはおそらく意識していなかっただろう。
この曲のカヴァーを含む、ジョージー・フェイムの4曲入りのEP(66年)は、全英7位を記録した。彼は、60年代半ばにモッズのメッカになったフラミンゴ・クラブのエース的な存在だった。基本的に音楽を真面目に聴くマニアの集う場所だったマーキーと違って、フラミンゴはダンス・オリエンティッドなアップテンポなナンバーが売りだった。特にジョージー・フェイムの愛くるしいルックスと、オルガンの腕前を活かしたソウルフルな演奏は、モッズ達のお気に入りだった。「ライド・ユア・ポニー」でも、原曲を活かしながら、さらにノリのいいパンチの効いたアレンジが施されている。 フラミンゴの興隆は、R&Bに対するイギリス人の接し方を変えた。それまでブルースを中心にしたR&Bへの憧憬というのは、メインストリームのポップスを拒絶したマニア達が真剣に追求する、ほとんど学究的なものだった。ところが、モッズ達は、それよりもアメリカでリアル・タイムで流行っているR&Bを取り入れて、それに合わせて夜通し踊りまくるという、もっと流行重視のスタンスだった。フラミンゴというのは、まさにこの新たなサブカルチャーの発信源で、今では世界中で当たり前になったオールナイトのクラブというスタイルは、このフラミンゴでジョージー・フェイムのバンドが最初に始めたものだ。 モッズ達の貴重な情報源は、当時イギリスにかなりいた駐留米軍の黒人達だ。フラミンゴはアメリカ出身の黒人達、62年までイギリスの植民地だったジャマイカから移住してきた黒人達、あるいは売春婦、ヤクの売人、そんな雑多な職種・人種の人々が集まった、流行の最先端だった。ここから誕生した最大のスターであるジョージー・フェイムは、ほかにも同じくリー・ドーシーの「ド・レ・ミ」(64年、原曲は61年のヒット)などをカヴァーして、ニューオーリンズR&Bのノリのよさを大いに活用している。 モッズ系ということでは、ジーノ・ワシントンはまさに、駐留米軍上がりでロンドンに居ついたという経歴の持ち主だ。その彼が、やはり1966年に「ライド・ユア・ポニー」を録音しているのは、合点のいく繋がりだろう。この曲の歌詞には、それほど含蓄があるわけではなく、全米のあちこちを子馬に乗って渡り歩くという、明るいノリにそれなりにマッチした軽やかな歌詞だ。 The Action "The Land of 1,000 Dances" 64年から67年にかけて活動したジ・アクション(写真)は、モッズ・ブームを語るには欠かせない名前だ。彼らはLPを発表できずに終わったせいもあって知名度は低いが、ポール・ウェラーの心酔ぶりからも分かるように、モッズ系の世界では伝説的な存在だ。なかでも、アメリカ発の同時代のソウル・ミュージックに絞り込んだレパートリー、そしてそれをソウルフルに歌いこなすレグ・キングの歌唱を誇り、彼らは少なくともカヴァー・バンドとしては実力は十分だった。 モッズ・ブームに乗じて人気になったジェージー・フェイムやブライアン・オーガー
この曲はウィルソン・ピケットの66年のエネルギッシュなカヴァーで一躍有名になったが、原曲はクリス・ケナーが63年に発表したものだ。ケナーは当時アメリカで起きていたダンス・ブームを意識して、「ツイスト」「マッシュ・ポテト」「ドゥー・ザ・アリゲーター」など、さまざまな流儀のダンスの名前を歌詞に盛り込んだダンス・ナンバーを書いた。61年にアラン・トゥーサンとのコンビで「アイ・ライク・イット・ライク・ザット」をヒットさせたケナーは、この曲もトゥーサンのもとに持ち込んだ。ケナーの野性的な歌声をバックで支えるのは、ここでもトゥーサンの軽やかなピアノだ。 オリジナルの雰囲気は、ウィルソン・ピケットのヴァージョンとはかなり違う。ケナーの原曲は、黒人霊歌をヒントにした出だしで、「さあこれから連れて行くよ、ベイビー、ある場所に。その場所の名前は、1000種類ものダンスが繰り広げられる『ダンス天国』さ」という語りから始まる。ピケットのヴァージョンで有名な「ナーナナナナー」というスキャットは、原曲には存在しない。 このヴォーカル・アレンジが最初に登場したのは、1965年にカンニバル&ヘッドハンターズというロサンジェルス出身のチカーノ系のバー・バンドがカヴァーしたときだ。冒頭のスキャットは、彼らがステージで演奏しているときに、リード・シンガーのカンニバルこと、フランキー・ガルシアが歌詞を忘れてしまったために、やむなくアドリブで歌ったフレーズだった。この苦肉の策が予想外に観客にウケたので、収録時にもそのまま採用され、このヴァージョンが、翌年のウィルソン・ピケット版にも使われたのだ。ジ・アクションの65年のカヴァーは、この「ナーナナナナー」を含め、カンニバル&ヘッドハンターズのアレンジに非常に近いから、こちらを元ネタにしていたとみて間違いないだろう。 クリス・ケナーは、ウィルソン・ピケットによるカヴァーが大ヒットになった結果、相当な印税が転がり込むことになったが、残念ながら、これは彼の人生の転落のきっかけになった。もともと酒飲みのケナーはさらに酒に溺れ、印税をあてにしては、浪費を続けるようになった。その悪影響はレコーディングやライヴにも表れ始め、シンガーとしての評判も徐々に落としてしまった。68年には未成年との淫行で逮捕され、3年間の牢獄生活を送ることになる。彼は76年、肥満を間接的な要因とする心臓発作で、急死を遂げた。一時は地元では人気スターだった彼だったが、きちんとした葬儀がとりおこなわれることもなかったという。 南部のR&Bシンガーがヒットを出しながら、その後キャリアを維持できなかった例は、他にも多い。アーニー・Kドゥも、「マザー・イン・ロー」のヒット後は、シカゴやニューヨークなど各地の有名なライヴ会場を回り、キャデラックを乗り回す生活を始めたが、それも長く続かなかった。彼は70年代にも再びアラン・トゥーサンと手を組んだが、もはやヒットを飛ばすことはできず、その後はやはり酒に溺れていった。 こうした物悲しい事実を知るにつけ、ヒットの誕生というのが、複数の要素がうまくかみ合って初めて実現した稀な出来事であることが分かる。メンフィスやマッスル・ショールズと同じように、ニューオーリンズにも天性の魅力的な歌声を持った黒人の若者たちが集まったという点は、欠かせない前提条件だ。だが、こうした若者の多くは、自分の歌声をヒットに結びつけるノウハウとは無縁だった。そこにトゥーサンが関わることで、そのままではあまりに垢抜けないワイルドな歌唱も、どこか軽妙で洗練されたタッチに変身した。トゥーサンは、文字通りニューオーリンズ発のソウル・ミュージックを支える、重要な裏方だったのだ。 Frankie Miller "Play Something Sweet (Brickyard Blues)" アラン・トゥーサンの関与した作品は、すでに60年代から白人ミュージシャン達にも注目され始めたが、上に述べたように、この時期の白人の若者達が、アラン・トゥーサンという名前を特に意識していた形跡はみられない。ニューオーリンズ・サウンドというサブジャンルを区別することはなく、黒人R&B一般に対する憧憬という一般的な姿勢の一環として、トゥーサンの作品にも注意を払っていたとみてよさそうだ。 だが、70年代に入ると、この状況はかなり変わってくる。イギリスの場合、73年〜74年までには、トゥーサンは単にカヴァー曲の原作者というだけでなく、イギリスのミュージシャンの音楽制作に実際に協力を要請される、ホットな存在になった。しばしば指摘されてきたように、この時期のイギリスの音楽界には、トゥーサン詣ともいうべき傾向がみられた。フランキー・ミラー
イギリス勢で一番早くトゥーサンに協力を仰いだのは、サンディ・デニーかもしれない。彼女はソロ2作目の『サンディー』(72年)の中の「フォー・ノーバディ・トゥ・ヒア」で、ブラス・アレンジをトゥーサンに依頼した。特筆すべき音源ではないが、オープニングをはじめ全編にわたって、華やかなホーン・アレンジが施されている。収録時のエンジニアだったジョン・ウッドは、トゥーサンは当時「旬のミュージシャン」だったからだと述べている。73年7月のNME誌も、トゥーサンの紹介記事の中で彼を、「現在引っ張りだこのプロデューサーの一人」と形容した。 イギリスでのアラン・トゥーサン人気が73年に急速に高まった一つの重要な背景が、73年春に行われたツアーだろう。この年、彼は旧友のドクター・ジョン ロバート・パーマーをはじめとして、イギリスのR&Bマニアは、すでにニューオーリンズ・サウンドの独特の魅力を、レコードを通じて熟知していた。パーマーの場合は、バンドを独立してソロになった機会を活かして、自らの意思でニューオーリンズに向かった。パーマーに負けないR&Bマニアだったフランキー・ミラーの場合も、トゥーサンという名前は、リー・ドーシーの作品などを通じて、かなり前から把握していた。 だが、所属するレコード会社であるクリサリスに、次のアルバムのプロデューサーに誰を望むかと問われたとき、フランキー・ミラーが挙げた名前は実はトゥーサンだけではなかった。彼は他に、フィル・スペクターとジェリー・ウェクスラーという名前も挙げたという。そもそもミラーは名前は挙げたものの、73年初頭の時点ではトゥーサンはまだ一人も白人ミュージシャンのプロデュースを手がけていなかったから(ドクター・ジョンの『イン・ザ・ライト・プレイス』の発売は73年3月)、トゥーサンが自分のプロデュースを引き受けてくれるとは本気には思っていなかった。 だが、レーベルがトゥーサンの元に送り届けたミラーのデビュー作『ワンス・イン・ア・ブルー・ムーン』(73年)を、トゥーサンは高く評価した。こうして、スコットランド出身の白人歌手とニューオーリンズの名裏方との共演という構想は、実現することになった。ミラーは、トゥーサンのイギリス・ツアーの直後からニューオーリンズでトゥーサンと合流し、ロバート・パーマーやジェス・ローデンに先駆けて、最初にトゥーサンのプロデュースを仰いだイギリス人ミュージシャンとなった。
このアルバムでフランキー・ミラーが不満なのは、トゥーサンとの仕事が終わった後、レーベルの意向で、フィラデルフィアでミキシングが行われた点だ。当時人気を博し始めたフィリー・サウンドの商業的な魅力に惹かれたクリサリス側は、ミラーのテープにフィリー・サウンド流のメロウなミックスを施した。ミラー自身はトゥーサンに対して「できる限り荒削りな感じ」での制作を頼んだのに、それが最終段階で、彼の意向に反してエッジの落とされたサウンドに変わってしまったことに、ミラーはかなりがっかりしたようだ。 とはいえ、舞台裏のさまざまな葛藤にもかかわらず、出来上がったアルバムは、トゥーサンのプロデュース作品の中でも上位に入る優れた出来に仕上がっている。ミラーの持っているオーティス・レディングばりの豪快で黒い歌声は、トゥーサンがR&Bシーンで長年培ってきたアプローチとかなり相性がいい。トゥーサンのお得意のホーンとピアノは全体をある種の共通したグルーヴで楽曲を包み込み、冒頭と最後にフィラーが入っていることもあって、アルバム全体の統一感も高まった。 このアルバムでは、トゥーサンの作曲家としての実力も目立っている。彼は、かつてクリス・ケナーに提供した「シュラー・シュラー」や、彼の代表的バラード「ウィズ・ユー・イン・マインド」など、自信作を惜しみなくミラーに提供した。イントロのすぐ後に収録された「プレイ・サムシング・スウィート(ブリックヤード・ブルース)」は、歌詞も楽曲も特に冴えている。ブルージーさとスイング感をうまく交配した構成は、随所に散りばめられたホーンの効果も相まって、メリハリの効いた仕上がりだ。歌詞の方も、恋人の間の駆け引きをコミカルに描いた作りで、「ゼリーみたいに簡単に溶けるぐらい(メロウな曲)」とか、「僕がつい猿みたいににんまりしてしまう(甘い曲)」といった表現には遊び心が溢れている。 この曲はシングル・カットされたものの、ヒットには結びつかなかった。だが、フランキー・ミラーのライヴの重要なレパートリーになり、そして他のミュージシャンによる数々のカヴァーも生み出した。74年に発表されたスリー・ドッグ・ナイトのヴァージョンが、全米33位のヒットになったのをはじめとして、マリア・マルダーやリヴォン・ヘルム、ジェームズ・モンゴメリーなどもこの曲を取り上げている。 アラン・トゥーサン自身は、ついにこの曲をスタジオ録音として発表したことはない。だが、ライヴ・ヴァージョンではいくつかの音源が日の目を見ている。最初に出たのは、トゥーサン自身が編集したオムニバス盤『ニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテージ・フェスティヴァル1976』(76年)の中で、ここにはアーマ・トーマス、アール・キング、プロフェッサー・ロングヘアー、アーニー・Kドウ、リー・ドーシーなどのパフォーマンスと並んで、アラン・トゥーサン自身が演奏した「プレイ・サムシング・スウィート」が収録されている。また、2003年にライノ・レコーズがハンドメイド・シリーズで発表したアラン・トゥーサン・アンソロジーには、1975年に録音されたトゥーサンの未発表のライヴ音源が収録されており、ここでも彼の演奏するこの曲を聞くことができる。 Little Feat "On Your Way Down"
リトル・フィートは、ニューオーリンズ的なサウンドの活用という点では、ロック界でも最も有名なグループだろう。その彼らがアラン・トゥーサンと接点があったのは、決して不思議には聞こえないはずだ。とはいえ、繰り返すまでもなく、リトル・フィートはハリウッド育ちのリーダーを中心にカリフォルニアで生まれたバンドであり、決して南部出身のバンドではない。ファースト・アルバムに如実に表れたように、彼らのサウンドは、ローウェル・ジョージ(写真)のルーツ・ミュージックに対する飽くなき探究心と、都会的な実験性とが組み合わさったユニークなものだった。 リトル・フィートがアラン・トゥーサン物を取り上げたのは、3枚目の『ディキシー・チキン』(73年)のときが最初だ。4曲目に収録された「オン・ユア・ウェイ・ダウン」は、アラン・トゥーサン自身が手がけた73年のリー・ドーシー版や、トゥーサン自身のソロ作『ライフ、ラヴ&フェイス』(72年)のヴァージョンと比べると、ハーモニカやホーンがない分、ギターが前面に出てきている。ぐっとテンションを抑えて重厚に仕上げられた結果、もとはトゥーサン作品とはいえ、リトル・フィートだからこそ生み出せる独特の雰囲気に生まれ変わった。 リトル・フィートはもともとニューオーリンズ色が濃かったわけではない。アメリカの業界の当時の認識では、彼らは「カントリー・ロック」と考えられていた。その彼らが『ディキシー・チキン』でみられたようなセカンド・ライン・ファンクを巧みに取り込んだユニークなサウンドを開発したのは、このアルバムの制作の直前に起きた大幅なメンバーチェンジが一つの契機だったと考えられている。 新しく加入したリズム隊のケニー・グラドニーとサム・クレイトンは、デレイニー&ボニーのバックバンドのメンバーだったが、2人は共にニューオーリンズの出身だ。彼らが加入後、『ディキシー・チキン』収録までの数ヶ月間続いたというジャム・セッションの間に、リトル・フィートがよりファンキーなサウンドに変化していったのは想像に難くない。トゥーサンの「オン・ユア・ウェイ・ダウン」を取り上げたのは、そうしたバンドの成長にしっくり合う選択だった。 実はこの時点では、リトル・フィートの面々とトゥーサンは、直接面識がなかったようだ。その両者を繋いだのが、74年のロバート・パーマーの訪米だった。初のソロ作を作るためにアメリカを訪れた彼は、ローウェル・ジョージを名指しで指名し、さらに彼を伴ってニューオーリンズのアラン・トゥーサンのもとに向かった。こうしてパーマーの『スニーキン・サリー・スルー・ジ・アリー』(74年)では、トゥーサン+ミーターズ+ローウェル・ジョージという夢の共演が実現した。ただし、このときロバート・パーマーは正式に労働ビザを取得していなかったせいで、アメリカで収録を行った証拠を隠すためにアルバムのクレジットからトゥーサン以下、参加者の名前をすべて記載していない(詳しくは、こちらを参照)。 このセッションで初めてトゥーサンとミーターズに会ったローウェル・ジョージは、トゥーサンがプロデュースした、ミーターズの次の作品『リジュヴェネイション』(74年)にゲスト参加している。こちらもクレジットがないので詳細は不明だが、例えば「ジャスト・キスト・マイ・ベイビー」では、ローウェル・ジョージのスライドギターとバックコーラスが聞ける。 これらのセッションをきっかけに、リトル・フィートとアラン・トゥーサンとの関係は、深まったようだ。『ディキシー・チキン』の次の、『フィーツ・ドント・フェイル・ミー・ナウ』(邦題『アメイジング!』)(74年)の制作に際しては、後に編集盤『ホイ・ホイ!』(邦題『軌跡』)で発表されたように、アラン・トゥーサンがホーン・アレンジを施した、いたってファンキーなヴァージョンの「ロックンロール・ドクター」も制作された。この時のマスターテープは、ローウェル・ジョージがうっかり電車に置き忘れたが、幸運にも数週間後に手元に戻ったとのことだ。さらに、2000年に発売されたリトル・フィートのボックスセット(『ホットケイクス&アウトテイクス』)には、リトル・フィートが『アメイジング!』収録の候補曲としてデモ録音した、「ブリックヤード・ブルース」(=「プレイ・サムシング・スウィート」)のカヴァーが含まれている。
この曲は、もちろん一般には、ボズ・スキャッグズのカヴァーの方が有名だろう。彼の大出世作『シルク・ディグリーズ』(76年)では、ローウェル・ジョージのヴァージョンよりも一足先に発表された、透明感のあるカヴァーが聞ける(尚、こちらの方は、邦題は「あの娘に何をさせたいんだ」となっている)。スキャッグズもまた相当なR&Bマニアであり、彼が早くからトゥーサンに注目していたのは間違いない。アルバム『マイ・タイム』(72年)では、トゥーサンがリー・ドーシーに提供した「フリーダム・フォー・ザ・スタリオン」を、次の『スロー・ダンサー』(74年)では、トゥーサンがアーロン・ネヴィルに提供した「ハーキュリーズ」(邦題「ヘラクレス」)をカヴァーした。 ボニー・レイットもまた、アルバム『ホーム・プレート』(75年)の1曲目で、「ホワット・ドゥ・ユー・ウォント・ザ・ガール・トゥ・ドゥ?」を、今度は女性の立場から、「ガール」の部分だけを「ボーイ」に変えてカヴァーしている。そもそもレイットは、その一枚前のアルバム『ストリートライツ』(74年)を制作する際に、プロデューサー候補としてアラン・トゥーサンの名前を検討したほどだ。結局は、ジェリー・ラゴヴォイを選んだものの、収録曲としてはトゥーサンが70年のソロ作『フロム・ア・ウィスパー・トゥ・ア・スクリーム』で発表した「ホワット・イズ・サクセス」を取り上げてカヴァーしている。 ボニー・レイットはローウェル・ジョージやビル・ペインの親友で、リトル・フィートとは近い関係にあった。おそらくアラン・トゥーサンに対する高い評価というのは、彼ら周辺のミュージシャン仲間では広く共有されていたとみていいだろう。例えば、ワーナー社内でローウェル・ジョージの重要な協力者だったヴァン・ダイク・パークスは、自らのソロ作『ディスカヴァー・アメリカ』(72年)で、2曲もトゥーサンの曲を取り上げている。「オカペラ」と「リヴァーボート」がそれだ。 The Band "Life Is a Carnival"
おそらくこの『イエス・ウィー・キャン』こそ、ロック界にトゥーサンの名前を浸透させた最も重要な作品だったように思える。このアルバム自体は、ソウルの分野にはまだ弱かったポリドールの発売で、満足なプロモーションを得られなかったこともあり、あまり売れなかったが、少なくとも音楽シーンに注意を払っている通の間では、高い評価を得たようだ。ヴァン・ダイク・パークスのような人が反応したのはまさにその例であり、同じくかなりコアなR&Bマニアだったロバート・パーマーが、前出の「スニーキン・サリー・・・」と「リヴァーボート」という2曲を、このアルバムからカヴァーしたのも、同様の反応を感じさせる。 なぜ、このアルバムが特にトゥーサン・サウンドを印象付けることになったのか。それは、トゥーサンが60年代から手がけてきたリー・ドーシーの楽曲の変化を見れば、割合容易に理解できる。60年代にドーシーに提供された曲は、基本的にはメンフィスやモータウンなどのメジャーなR&Bシーンとかなり似たサウンドだった。確かによく聞けば、トゥーサンのピアノにはプロフェッサー・ロングヘアーやファッツ・ドミノの影響が表れ、ホーン・アレンジにも一定の特色が表れているが、それでも一聴して他の地域と違いが顕著なほど明らかな個性はない。 ところが、69年辺りから、トゥーサンの手がけるドーシーの曲では、「セカンド・ライン・ファンク」と呼ばれるリズムが強調されるようになった。この変化の背後には、ミーターズをバックバンドとして使う方式の確立があった。ミーターズのドラマーであるジギー・モデリスティは「セカンド・ライン・ドラミング」の元祖とも呼ばれるが、彼によれば、ミーターズの面々はそれぞれにトゥーサンのもとで働いたことはあっても、4人全員が一緒になってトゥーサンのセッションに参加した最初の曲は、ドーシーの「エヴリシング・アイ・ドゥ・ゴナ・ビー・ファンキー」(69年)だったらしい。 「セカンド・ライン」というリズム自体は、ニューオーリンズに昔から根付くもので、スタイルも一様ではない。だが、ミーターズ+トゥーサンという組み合わせで生み出されたファンクは、その中でも特に人々の耳を捕らえる印象的なサウンドとして受け止められた。これは、70年前後のソウル音楽界を見渡した場合、メンフィスのハイ・サウンドやフィラデルフィアのフィリー・ソウルといった、ソウル界の当時最新の流行と匹敵するだけの個性を備えたサウンドが、ニューオーリンズから発信され始めたことを意味する。そして、この変化を、一部の耳の肥えた白人ミュージシャン達がとらえて、さっそく自分達の音楽に取り入れ始めたのだ。 アメリカで言えば、アラン・トゥーサンの魅力を白人の音楽ファンに広く紹介したのは、何と言ってもザ・バンドだった。その彼らの場合も、トゥーサンのサウンドに注目し始めたのは、まさにこの頃だった。特にリック・ダンコとリヴォン・ヘルムは、リー・ドーシーの『イエス・ウィー・キャン』が気に入って、2人でウッドストックのスタジオで、これに触発されたリズムを実験してみた。こうして誕生したのが、ザ・バンドの4作目『カフーツ』(71年)の冒頭曲「ライフ・イズ・ア・カーニヴァル」のリズム・パターンだった。 この曲にホーンを加えようと思い立ったときに、彼らがアラン・トゥーサンその人に白羽の矢を立てたのは、こう考えれば自然の流れだったのかもしれない。とはいえ、トゥーサンが白人ミュージシャンのバックで仕事をしたのはおそらくこれが初めてで、その意味ではロック史の上でも特筆すべき出来事だった。トゥーサンがロビー・ロバートソンと顔合わせしたとき、彼はザ・バンドの音を一度も聞いたことがなかった。だが、トゥーサンは彼と会ってすぐ、スムーズにいい関係を築くことができたという。 トゥーサンは、次のように語っている。「コミュニケーションは非常にうまくいった。楽器の使い方は僕のそれまでの手法とは少し違ったけど、それはロビーと話し合って決めたんだ。」「ホーンを入れる際には、ザ・バンドのもともとのサウンドを損なわないように、すごく気を使ったんだ。」「ロビー・ロバートソンは曲の出来上がりのイメージをしっかり思い描いておく人間で、ロバートソンがあれだけきれいな絵を描き上げた後の仕事だったから、アレンジ自体は割と簡単だった。」
ニューオーリンズの街角から湧き出てきたようなサウンドに支えられながら、歌詞は、賑やかで雑多なストリートのイメージを描き出す。「ヘイ、お客さん、格安の腕時計が欲しくないかい?(在庫は)俺の腕に巻いてあるのが6個、それから足の周りにもう2個あるよ。」 ロバートソンによれば、このアルバムのテーマは、カーニヴァルのような昔ながらの伝統の喪失であり、1曲目に当たるこの曲は、伝統の豊かさを活き活きとした音像で再現してみせた。 ロバートソンの構想力もさることながら、それに応えてわずか数日で、このホーン・アレンジを仕上げたアラン・トゥーサンもまた一流の職人だろう。ホーンに耳を合わせて聞き直してみれば、後から加えられたホーンがいかに重要な役割を果たしているか分かるはずだ。彼が「イエス・ウィー・キャン」でみせたホーン・アレンジとも共通する、絶妙なタイミングで差し込まれるホーンが実に効果的だ。 このホーンを操る腕前こそ、トゥーサンが高く評価される一つの要因だ。トゥーサン自身は、こう語る。「僕は昔からホーンが好きでね。一般的なホーンの使い方はおとなしいものだけど、実際にはもっといろいろ出来るんだ。僕が録音するときは、ホーンを強調するために相対的にギターを抑えることになる。それに、ホーンには、僕が求めるフィーリングを曲に植え込む力があるんだ。」 「ライフ・イズ・ア・カーニヴァル」での協力は、両者にとって満足のいく成果を生んだ。そして、同じ年の暮、ザ・バンドがニューヨークで4日間の特別公演を行うことになったとき、彼らは新たな試みとして、アラン・トゥーサンに依頼して、既発表曲にホーンを加えた新ヴァージョンで演奏を披露するアイディアを思いついた。その成果が言うまでもなく、ザ・バンド初のライヴ盤『ロック・オヴ・エイジズ』(72年)(写真)である。
ホーンを加えるというのは、このライヴの最大の目玉だった。ところが、すでに準備段階から、悪運が彼らを見舞った。アラン・トゥーサンは指定された11曲分のアレンジを譜面にして、それを携えてニューヨーク州のウッドストックでザ・バンドの面々と合流する手はずになっていた。だが、仕上がった譜面を入れたトゥーサンのカバンが、空港での荷物受け取りの際に、間違って他の人に持っていかれてしまったのだ。その結果、トゥーサンは雪の降るウッドストックの小屋に一人こもって、急きょすべての譜面を頭から書き下ろす羽目になった。 さすがのトゥーサンも着いてすぐは、スムーズに書き進められなかったらしい。耳が何かの感染症で腫れてしまって、医者を呼ばなければならなくなるという、さらなるハプニングもあった。でも一度軌道に乗った後のトゥーサンは、ロバートソンの言葉を借りれば「啓示を受けたように」、見事なアレンジを一気に仕上げた。テープレコーダーでザ・バンドの録音を聞きながら、楽器は一切使わずに、頭だけを使って次々と音符を譜面に記していくトゥーサンの姿は、リック・ダンコの目から見れば「天才」に他ならなかった。 さまざまなハプニングにもかかわらず、最終的な仕上がりは、大成功だった。ザ・バンドがそれまでに発売した4枚のスタジオ盤の収録曲は、原曲の魅力が損われることなく、トゥーサンの手によって新たに生まれ変わった。初めて生でホーン隊を引き連れたザ・バンドの演奏は、今にも目に浮かぶほど活き活きとしている。「WS・ウォルコット・メディシン・ショー」の歯切れのいいホーン・アレンジ、そして間奏部でガース・ハドソンがオルガンを離れてサックスを携えステージ中央に出てきたときの大歓声、その後ろからきれいに整列したホーン隊がさらに観客を煽る、そんな様子を思い浮かべてほしい。そして、ロビー・ロバートソンが提案したという、古き良きアメリカを思わせるようなのびやかなホーンに続いて、あの特徴的なピアノのイントロで、「オールド・ディキシー・タウン」が始まったときの客の興奮ぶり・・・映像で見られないのが残念なほどだ。 トゥーサンのアレンジは、まるで最初からこれらの曲がホーンを加えるのを予定して書かれたと思わせるほど、うまく絡み合っている。彼のホーンの使い方は、サザンソウルのように単純に上からかぶさってくるだけでなく、背景から忍び寄る感じ、ほとんどリズム楽器のように切れ味よく差し込むパターン、あるいはメロディーを受け継いで余韻を生み出すパターンなど、実に変幻自在だ。まるでゴスペルのコール&レスポンスをホーンでやったような絡みつき方をする。 特に『ロック・オヴ・エイジズ』での仕事ぶりは、彼の過去の仕事からさらにもう一歩先に進んだ感じだ。トゥーサン自身の言葉では、「まるで自分がザ・バンドの使う楽器の一つになった気分」だったのだという。実際、トゥーサンは、コンサート当日も、ステージ上のホーン隊の横で席に座って、万が一のときの指示を与えるつもりで待機していたほどだ。 このライヴ・アルバムの成功で、アラン・トゥーサンは、ロック界でも最も評価されるホーン・アレンジャーという地位を名実ともに確立した。98年1月12日には、トゥーサンはロックンロールの殿堂入りを果たす。このときプレゼンターを務めたのは、他でもないロビー・ロバートソンだった。 Dr. John "What Comes Around (Goes Around)"
その2人が久しぶりに再会したのは、ザ・バンドの『ロック・オヴ・エイジズ』のおかげだ。トゥーサンがウッドストックに滞在したとき、ちょうどドクター・ジョンはこの街の住人だった。当時ドクター・ジョンは、ザ・バンドと同じくアルバート・グロスマンのマネージメントを受けていたのだ。この再会から生まれたのが、ドクター・ジョンの人気作で、トゥーサンとミーターズが全面的に参加した『イン・ザ・ライト・プレイス』(73年)だった(詳しくは、こちらを参照)。 トゥーサンによれば、彼とドクター・ジョンの共演というのは、当時ドクター・ジョンが所属していたアトランティック・レコーズの重鎮、ジェリー・ウェクスラーの示唆だったらしい。ドクター・ジョンの代表曲の一つになった「サッチ・ア・ナイト」は、彼が書き溜めてあった曲のストックの中から、プロデュースを務めたトゥーサンが選び出して、録音することを強力に薦めたナンバーだ。ドクター・ジョン自身は、トゥーサンのおかげで、この曲は「古き良きミュージック・ホール」的な雰囲気に作り上げられたと、謝意を示している。 ドクター・ジョンによれば、そもそもザ・バンドの曲のうちの少なくとも数曲は、彼らがドクター・ジョンと一緒にスタジオでジャムをやりながら完成していったらしい。そうした作業の成果が『ロック・オヴ・エイジズ』に反映しているとドクター・ジョンは主張しているから、あるいはこのアルバムで初出の「ドント・ドゥー・イット」のようなニューオーリンズ色の濃いアプローチは、ドクター・ジョンの影響もあったのかもしれない。 すでに述べたように、『イン・ザ・ライト・プレイス』を出した後、ドクター・ジョンは、ミーターズをバックに従えて、アメリカだけでなく欧州でもツアーを行った。これはニューオーリンズ・レビューというコンセプトで、前述の通り、アラン・トゥーサンも少なくともツアーの一部に参加し、プロフェッサー・ロングヘアーまでも引っ張り出して行われた。ドクター・ジョンがいくつものテレビ番組に出演し、全国的に名前を広めたのもこの時期のことだ。
この不思議な名前のアルバム・タイトルは、ドクター・ジョンによれば、まず「デシティヴリー(desitively)」というのが、「デフィニットリー(definitely)」(=確実に)と「ポジティヴリー(positively)」(肯定的に)を組み合わせた造語で、「ボナルー」の方はニューオーリンズ独特のクレオール語で「楽しい時間、いい物」を意味するということだ。後者の方は、2002年から開催されているジャム・バンドが一堂に会するボナルー・ミュージック・フェスティヴァルで、お馴染みの単語かもしれない。従って、この題名は、「間違いなくイカシた音楽」という趣旨を、ニューオーリンズ流に表現したということになる。ジャケットのイラストの方は、ドクター・ジョンが「断然ボナルーな男」を気取って、着飾っているという設定だ。 残念ながらこの作品は商業的には成功せず、ドクター・ジョンはアトランティックからの移籍を余儀なくされたが、音楽的な内容では、本人が今でも自信作と認める仕上がりだ。特に3曲目の「ホワット・カムズ・アラウンド」は、ドクター・ジョン自身がお気に入りと称する曲であり、寛いだ雰囲気のニューオーリンズ・ファンクとはまた別の魅力を放っている。ちょうど同じ頃にスライ・ストーンやカーティス・メイフィールドが発表したようなダークな粘っこさをもったゲットー系のファンクだ。ドクター・ジョンはこの曲を70年にすでに発表しているが、このオリジナル・ヴァージョンと比べれば、アラン・トゥーサンとのコラボレーションが先進的なアプローチを生み出したのは実に明白だ。 トゥーサンとミーターズにドクター・ジョンという豪華な組み合わせが関わったアルバムといえば、キング・ビスケット・ボーイこと、リチャード・ニューウェルのソロ作『キング・ビスケット・ボーイ』(74年)も思い出される。この作品は、カナダが生んだ一二を争う名ブルース・ハーピストであるニューウェルが、トゥーサンの全面的なバックアップを受けて制作したもので、歌手としての彼の魅力も存分に発揮されている。ドクター・ジョンは、「リヴァーボート」のカヴァーにゲスト・ギタリストとして参加した。 Labelle "Lady Marmalade" 『デシティヴリー・ボナルー』は、マイアミのクライテリア・スタジオで、ホーンとリズム・セクションが収録され、残りの作業はすべてニューオーリンズで行われた。このとき使われたのが、今や伝説となったシーセイント・スタジオである(写真)。住所は、「3809 Clematis St., New Orleans, LA 70122」で、観光地として有名なフレンチ・クォーターから北東に数キロ行った場所に位置する。 アラン・トゥーサンは、1973年、長年のビジネス・パートナーだったマーシャル・シーホーンと一緒に、このスタジオを設立した。ニューオーリンズ市内では初めて24トラックの録音設備を備え、当時の基準では最新式のスタジオだった。「シーセイント(Sea-Saint)」という名前は、トゥーサン(Tousaint)とシーホーン(Sehorn)の名前を組み合わせたものだ。 従来トゥーサンは、ニューオーリンズを本拠地にしながらも、実際はアトランタでの録音も多かった。例えば、ミーターズの『ルッカ・パイ・パイ』(70年)がそうだし、前出のフランキー・ミラーの『ハイ・ライフ』もアトランタ録音だ。ミラーのアルバムがアトランタで収録され、しかもミーターズがバックを務めなかったのは、要は彼がアメリカを訪れた73年前半にはまだシーセイント・スタジオの活動が始まっていなかったからだ。この頃、ミーターズはまだドクター・ジョンと一緒にツアー中だったはずだ。 だが、シーセイントの完成で、この後のトゥーサンは、ここを仕事場にして活躍するようになった。すでに触れた音源で言えば、ロバート・パーマー、バジャー、キング・ビスケット・ボーイなどのアルバムがここで制作された。そして、このスタジオから生まれた最初の大ヒット曲が、75年3月に全米1位に輝いた、ラベルの「レディー・マーマレイド」だ。
代わりにレコード会社側が指名したのがアラン・トゥーサンだった。シーセイント・スタジオでミーターズをバックに仕上げられた『ナイトバーズ』(74年)は、ラベルに大成功をもたらしただけでなく、トゥーサンの仕事という点でも新境地を思わせる。あの宇宙服のようなぶっ飛んだ衣裳とけばけばしい化粧でイメージチェンジを図った3人に合わせるように、音もトゥーサン物にしてはいつになくコマーシャルで、キャッチーなダンス・ナンバーに溢れている。だが、熱くソウルフルな歌唱の背後では、ホーンにしても、ピアノにしても、明らかに職人芸を感じさせる丁寧な仕事がなされている。 ミーターズとしてセッションに参加したモデリスティによれば、トゥーサンとの仕事は通常は譜面を渡されて事前にきっちり計画された状態で行われきたが、このラベルのアルバムの場合には、もう少し自由裁量が与えられ、スタジオでのジャムという要素もあったようだ。普段のトゥーサンの作品と比べると、どこか抑えが外れて過剰とも言える演奏になったのは、こうした事情もあったのかもしれない。 上述のようにアルバム冒頭曲の「レディー・マーマレイド」は大ヒットを記録したが、この曲はトゥーサンが書いたものではなく、レーベルが起用を拒否したボブ・クルーの作品だ。レーベルは彼をプロデューサーに選ばなかった代償として、ラベルにクルーの曲をいくつか録音させることにしたのだ。「レディー・マーマレイド」は、もともとクルーがイレヴンス・アワー(The Eleventh Hour)というスタジオ・グループに提供する歌として、グループのヴォーカリストであり、かつクルーの作曲のパートナーでもあったケニー・ノーランと一緒に書いたものだった。 この曲のインパクトは相当なものだ。圧倒的なファンク・グルーヴに乗せて繰り返される歌詞は、なぜかサビはフランス語、それに「ギッチャ・ギッチャ・ヤ・ヤ・ダ・ダ」というよく分からないコーラスもエキゾチックで、不思議な魅力に溢れている。サビのフランス語は、「今晩あたしと寝たい?」という甘い誘惑の言葉で、スキャットの部分の方は「get your pleasure here, daddy」(=ここで思いっきり快感を味わいなさいよ)を崩して発音した、これまた誘惑の言葉だ。歌詞全体は、レディー・マーマレイドという名前のニューオーリンズの娼婦を主人公にしたもので、ニューオーリンズという街自体のどこか妖しい魅力を、歓楽街のイメージとうまく重ねて作り上げてある。 他人の書いた曲とはいえ、トゥーサンの仕事は手抜きがない。一聴して耳に残るリズム自体はシンプルで覚えやすいが、バックでピアノが奏でる旋律は、美しく昇降する。ホーンはシャウト系のヴォーカルを支えて、曲に絶妙なアクセントを与えている。自分のスタイルを押し付けるというよりは、ミュージシャンの希望に合わせて自分の力を最大限出してみせるトゥーサンのプロフェッショナルぶりが感じられる出来だ。 The Wings (Paul McCartney) "Rock Show" すでに業界人の間では高い評価を獲得していたアラン・トゥーサンだったが、ラベルの『ナイトバーズ』のヒットで、彼の名声はさらに確実なものになった。そして、この成功は、さらなるビッグ・スターをニューオーリンズに招き寄せることになった。あのポール・マッカートニーが「レディ・マーマレイド」を気に入って、この曲がヒットした直後に急きょニューオーリンズまでやってきたのだ。マッカートニーは純粋にニューオーリンズという街を見てみたかったようだが、同時にイギリスの高い税率を避けるためにアメリカでのレコード制作を望んだという事情もあったようだ。 とはいえ、このときマッカートニーがウィングズを引き連れて収録したアルバム『ヴィーナス&マーズ』(75年)については、トゥーサンの直接の寄与はわずかだ。マッカートニーらは75年1月16日から2月24日まで、約1ヶ月間シーセイント・スタジオを利用して、収録曲の大半を録音したが、特に音楽的にトゥーサンやミーターズとの共演を期待したわけではなく、基本的にはスタジオを借り切って自分たちで作業を行った。アルバム全体をロックショーに仕立てるというマッカートニーの明確な目標がある以上、あえてニューオーリンズ色を強調する意図はなかったようだ。 それでもアラン・トゥーサンは、イントロの次に収録された曲「ロック・ショー」の一部の収録には参加し、お得意の転がるピアノ・プレイを披露している。もし、このセッションから生まれた曲で、ニューオーリンズを直接意識した曲があるとすれば、それはアウトテイクとなった「マイ・カーニヴァル」という曲だ。(85年にシングルB面曲として初発表、現在は『ヴィーナス&マーズ』のボーナストラックとしても収録されている。)
この後3月にはグループはロサンジェルスに場所を移して、アルバムを完成させた。3月24日には、ロサンジェルスの南に位置するロング・ビーチに浮かぶ豪華客船クイーン・メリー号の上で、盛大なアルバム完成記念パーティーが催される。この日は、ニューオーリンズでの収録を祝って、リー・ドーシー、アーニー・Kドウ、プロフェッサー・ロングヘア、チョコレート・ミルク、そしてミーターズといったアラン・トゥーサンと縁の深いアーティストが次々ステージで演奏を披露した。 パーティーに招かれた招待客は、ジョージ・ハリスン、ボブ・ディラン、キャロル・キング、ジョニ・ミッチェル、ジミー・ペイジなど、実に豪華な顔ぶれだったという。この日のライヴ演奏の模様は、プロフェッサー・ロングヘアーのものが78年、ミーターズのものは92年に、それぞれ『ライヴ・オン・ザ・クイーン・メリー』という別々のレコードとして発売されている。マッカートニーはこの後のツアーで、ミーターズを前座に起用することも一時検討したらしい。ミーターズは75年にはローリング・ストーンズの前座を実際に務めたことを考えても、いかにニューオーリンズ・ファンクがこの当時熱い注目を浴びていたのかが分かる。 Elvis Costello "Deep Dark Truthful Mirror" とはいえ、音楽の流行に流行り廃れがあるのは常のことだ。トゥーサン・サウンドの場合も、人気のピークは70年代半ばだったと言えるだろう。そうは言っても、アラン・トゥーサンの仕事は、80年代以降も絶えることがなかった。彼は自ら公言するように、とにかく音楽に携わっているのが生きがいで、一日中作曲に取り組んでも苦にならない人物であり、人気の浮き沈みに一喜一憂することもなく、コンスタントに音楽を生み出し続けた。70年代に有名だった数々の録音スタジオが経営難に陥ったのと対照的に、トゥーサンは、ごく最近までシーセイント・スタジオを変わりなく維持してきた。 60年代、70年代に築かれた彼の名声は、黄金時代のソウル・ミュージックに憧れを持つ後続世代の白人ロッカー達にも、自然と受け継がれた。77年にレコードデビューしたエルヴィス・コステロは、ニューウェイヴ世代の中でも、とりわけルーツ・ミュージックに対する造詣が深いミュージシャンだ。4作目の『ゲット・ハッピー!』(80年)でソウル好きぶりを存分に発揮した彼にとって、アラン・トゥーサンという名前は当然の知識だったようだ。 1982年のアメリカツアー中に、コステロはヨーコ・オノからレコーディングの依頼を受けた。オノの50歳の誕生日を記念して発表される予定になっていた、彼女の曲のカヴァー・アルバム『エヴリー・マン・ラヴズ・ア・ウーマン』(84年)にコステロも参加して欲しいと頼まれたのだ。オノ側はニューヨークで直接会うことを提案したが、ツアー日程上その時期にニューヨークに立ち寄るのは難しかった。そこでコステロはツアーの途上で、適切なスタジオに入って録音を行うことを提案する。 このときコステロが挙げた候補地がメンフィスかニューオーリンズで、しかも彼はソウル好きぶりを発揮して、メンフィスならウィリー・ミッチェル(ハイ・レコーズの名物プロデューサー)、ニューオーリンズならアラン・トゥーサンというプロデューサーの名前も指定したのだ。結局、オノ側の事務所の手配によって、ニューオーリンズでの録音が決まった。こうしてコステロは、82年夏、急きょトゥーサンのもとを訪れることになった。
ほとんど抜き打ちだった最初の訪問と違って、88年の2回目のニューオーリンズ訪問は、前もって計画がなされた。主要な目的は、アルバム『スパイク』(89年)(写真)の制作で、ダーティ・ダズン・ブラス・バンドのホーン・パートを録音することで、ニューオーリンズ郊外にあったサウスレイク・スタジオで収録が行われた。ダーティ・ダズンが参加した4曲のうち、「チューイング・ガム」には、ネヴィル・ブラザーズのバックで長年ドラムを叩いているウィリー・グリーンがゲスト参加した。コステロは、82年にニューオーリンズ滞在中に見たネヴィル・ブラザーズのライヴで、彼のドラミングが気に入ったらしい。 ダーティ・ダズンとのセッションのうち、「ディープ・ダーク・トゥルースフル・ミラー」の録音には、アラン・トゥーサンもゲスト参加し、ピアノ演奏を披露している。コステロが「並はずれた演奏」と形容するように、この曲は何と言ってもトゥーサンのピアノが聞き物だ。トゥーサンは厳粛なゴスペル調から、中間部の即興的なフレーズ、さらにはスタッカートまで、自在に変化をみせ、ピアニストとしての彼の面目躍如たる活躍をみせる。コステロのほとんどシュールリアリスティックな歌詞が、ほとんど端正にも聞こえる音で表現されるに至ったのは、トゥーサンの力量であり、同時にコステロの配役の勝利だったと言えるだろう。
昨年は、ジャズ物の企画で『ゴーイング・プレイシズ』(2004年)という新譜も発売した(こちらを参照)。彼の旺盛な創作欲は、彼がこよなく愛するニューオーリンズの街を突如として襲ったハリケーンの打撃にもかかわらず、衰えることを知らないようだ。冒頭で紹介した被災の直後のラジオ出演で、彼は変わることない甘い声で、「絶望だって心の動きなんだ。だから、ある意味では、それも創作のインスピレーションになるよ」と、前向きに語っていた。すでに67歳になった今も、まだまだ引退する気はなく、これからも彼の周辺からは目を離せないことになりそうだ。
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