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Updated on July 24, 1998 |
Special
Column:
Getting
Away from Blues
ブルースから逃れて ―ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ
Additional
Notes (by Musashi)
ブルースブレイカーズの発売レーベル ブルースブレイカーズは最初はレーベルが転々としていますが、これは初期ブリティッシュ・ブルースの模索の過程そのものを表していると言えるでしょう。ブルースが売れるジャンルにはほど遠かった64年春、メイオールたちに目をつけたのは、メイオールと同様、初期のブルース・マニアと呼んでいいマイク・ヴァーノン(Mike Vernon)でした。"R&B Monthly"という自主制作の雑誌を発行してロンドンのブルースシーンを見て回っていた彼は、63年にデッカ・レコーズに雇われ、ブルース系のミュージシャンのスカウトを任せられていました。ブルースブレイカーズのデビュー・シングル、そしてデビュー・アルバムは、ヴァーノンのプロデュースで、デッカから発売されました。しかし、デビュー・アルバムのセールスがこけた(1年で約1000枚の売り上げ)ため、65年にはデッカとの契約は更新されませんでした。 レーベルがないままのブルースブレイカーズにはクラプトンが加入しますが、ここで彼らに興味を抱いたのは、当時ローリング・ストーンズのマネジャーで、イミーディエット・レーベルを設立したばかりのアンドリュー・オールダムでした。メイオールらは、65年にここから1枚シングルを出しています。 一方、ブルースブレイカーズをデッカに戻すことに熱心だったヴァーノンは、クラプトン人気もあってクラブを埋め尽くす観衆を集めるようになっていた同バンドのライヴに、デッカの重役を引っ張り出し、やっとデッカに再契約させました。(この後、イミーディエットから、クラプトン復帰後の最初のシングルになるはずだった"On Top Of The World"は発売をキャンセルされ、後にイミーディエットのブルース・アンソロジー『Anthology Of British Blues』に収録されました。) デッカとは69年のアルバム『Blues From Lauren Canyon』まで契約を続け、この後メイオールは、ロサンジェルスに移ると同時に、ポリドールに移籍しました。 |