この話は、[高尾考]には載っているが、ほんとうにあったことかどうか、分か
らない。
ただはっきりしているのは、三代将軍家光から五代綱吉のころにかけて、深草の
元政上人という人が、当時としては最高の文人として日本じゅうに知れ渡り、お
まけに、その人がひじょうな親孝行者で、かれが亡くなるつい前の年まで生きて
いた両親に対し、たいへん孝養を尽くしたという事実は、まぎれもない。
[身延行記(身延道の記)]は、かれが、そのとし七十九才の母のお供をして身
延山へ参詣した紀行文で、身延山からの帰りには江戸へ出、そこで母を彦根藩
の伊井直澄(当時、直澄は幕府の要職にあり、かれの母にとっては甥(おい)に
あたった)の邸に預け、かれ自身は直澄の招請にもかかわらず、貧僧の泊まると
ころではないとして井伊家へは行かず、日本橋の小さな宿に泊った。
かれが後半生を住み、そしてそこで亡くなった京都深草の元政庵は、深草山瑞
光寺という寺の名でいまに残り、その寺院には、かれの遺言どおりの、青竹三本
だけで作られた墓が現存している。
後になって水戸黄門光圀が、楠木正成のため「嗚呼忠臣楠子之墓」を寄進し
たとき、その一対として、「嗚呼孝子元政之墓」を建てたいと瑞光寺に申し入
れたが、寺の和尚が、元政の遺言により青竹三本以上の墓は作れない、と断っ
たため、光圀は、墓の代わりに、元政の母の菩提を弔うための寺を江戸に建立
した、といういきさつがあり、文人としてだけではなく、孝子としても元政は
ひじょうに有名だったらしい。
元政上人自筆の系図によれば、石井家は代々、公家貴族に仕えた官人の家柄で
あるが、父、宗好(元好)がいっとき毛利輝元に仕え、関ヶ原戦にも参加した
のち京都に帰り、梶井宮(いまの三千院)に出仕した。 宗好には七人の子供
があり、長男元秀は伊井直孝のお物頭、長女は直孝の側室(春光院)となって
嗣子直澄を生んだ。
元政もまた、十三才で伊井直孝の小姓として出仕し、二十六才に至るまで江戸
と彦根を往復し、伊井氏のそば近くに仕えた。
その間、姉の生んだ直澄が伊井家の家督を継ぎ、幕閣の有力者に成長した。
井伊家当主の叔父で、しかも文人として世に名高い元政が、当時としては珍し
く成年に達したのち仏門に入ったので、出家の原因に何かがあったに違いない、
と思うのは世のつねの人の性(さが)である。
それが、高尾太夫の悲恋物語りに組み入れられたとしても不思議はない。
さらにまた、年代順にそうとう綿密に残されている元政上人自身による一代記
のなかで、なぜか十九才から二十五才までの五年間の、石井吉兵衛としての行
動はあまりはっきりと語られていない。 ひょっとしてこの間に、何か、かれ
の一生についての重大な出来事があったとも考えられぬことはない。
しかもかれの残した美しい詩文からすれば、必ずしも生涯を仏道のみに精進し
た木石(ぼくせき)であったとは思いがたい。 と、いうような情景も考慮する
と、かれの、この高尾太夫との悲恋物語は、じつはほんとうにあったことかも
知れない、という推理もじゅうぶん成り立つ。
ともあれ、元政上人が、わが妙法寺の鐘銘を作ったのは、かれが三十四才のと
き、つまり深草に元政庵を結んだ翌年のことである。
そしてその詩文を、今日、われわれは妙法寺の鐘銘に見ることができる。
かれの年譜によれば、妙法寺の鐘銘を作った、その年のことは次のように記し
てある。
明歴二年丙申[三四歳] 歳旦「新居」の詩あり、都下に喧伝(けんでん)して
洛陽の紙価 為に貴し。 父母を九条村に迎え奉事す。 秋、洛東に痾(やまい)
を養う・・・。
当時すでに文名をあげ、そして、かれの後半生を悩ませた病気も、そのころす
でに始まっていた。
なお、巷間に伝えられている 「元政上人とは榊原元政のことである」という
説については次のような理由がある。
ずっと後になって姫路榊原藩最後の殿様、榊原政岑(まさみね)が、十代高尾大
夫(通称榊原高尾)を盛大に身請けし、幕閣の忌避に触れて、越後高田に国替
えを命ぜられた、いわゆる榊原騒動と、さらにその後、姫路藩主酒井忠以(ただ
ざね)の弟の酒井忠因が出家して、権大僧都西本願寺准連枝(じゅんれんし)酒井
抱一(ほういつ)上人となり、能楽書画や俳諧和歌狂歌に才能を発揮し、とくに
絵画では宗達光琳の後継者として世に有名になった。(抱一もまた吉原の花魁
を身請けし、手を携えてともに詩文を楽しんだとの説がある。)
遊びの世界で特に名を馳せた榊原政岑と酒井抱一の二人が、どちらも播州姫路に
関連するところから、こうした二つの話を掛け合わせて、姫路の殿様榊原元政が
出家して元政上人になった、という異説がいつのまにか自然に出来あがったらし
い。
吉原三浦屋の榊原高尾は、寛保元年六月四日、出入りの町人日本橋桧物町の久兵
衛名義で、榊原政岑に身請けされたという記録が残っている。身代金二千五百両、
落籍披露として廓中の遊女2000人を総揚げした費用がしめて3000両。
当日は吉原大門の内に白盛砂をしき、高尾は駕籠で廓を出て、池之端の下屋敷へ
運ばれた。
駕籠には榊原家出入りの商人甲斐屋某が付き添い、家臣たちはそのうしろに従っ
て行装華美を極めたという。屋敷ではその夜、何人かの友人大名を招いて祝宴が
ひらかれた。
高尾はそのあと姫路へ連れてゆかれ、殿様のお国替えで越後高田に永く住み、
その地で没したと伝えられるが、不思議にも、彼女の墓と遺品の打掛などが江
戸の某寺院にいまもなおあるという。
(酒井抱一筆 重文 夏秋草図屏風<国立博物館蔵>)
しかし、徳川四天王の一人榊原康政いらい、大名家としての榊原氏に元政と名乗
る人物は存在しない。
追記:
草山集に、書簡「与鵜金平書」と「復鵜金平書」がある。
前者は、「わざわざ寒いなかを遠いところから訪ねてきてくれたが会えず、
済まなかった。つぎ来るときはこういう道順で・・」という文面。後者は、詩林
広記という本を送ってもらったお礼の手紙である。鵜金平が誰であったか分から
ない。
が、妙法寺の北5kmほどの神崎町福本に、江戸時代、川口屋太右衛門と連名で福
本藩札を発行した備前屋金兵衛家があり、歴代、鵜野金平を名乗った。 同家の
先祖かも知れない。
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