名字帯刀御免          by 中村 健
 
文政6年といえば徳川時代ももうそろそろ終わりに近づいたころ、藩札発
行のお礼として、播州福本藩から 「名字帯刀御免」を頂いた川口屋が、
それから百年も経たずに明治維新に遭遇し、すべてをなくして店をたたん
でしまった。
その盛衰と、周辺社会を描き出して、維新史の側面を考えてみよう、とい
うのが、この物語の目的である。
兵庫県神崎郡、朝来郡の郷土史家たにもいくらか新しい発見をしていた
だけると信じている。
内容の見出しと ホームページのリンクを兼ねて、以下に単語集を記載し
ておく。
  (なお、関連して、ぼくの自叙伝パリ祭の男を読まれたい。)

播州福本藩 川口屋丸尾太右衛門神崎郡神崎町市川町 粟賀藩
藩籍奉還 福崎町図録兵庫の古紙幣申し渡覚え川口屋文書
江戸屋敷類焼 御小姓格 嘉吉の乱赤松・別所・後藤太平記
柳田国男辻川の三木家 竜野の醤油産業生野峠
氷上郡  朝来志 生野銀山丸尾八右衛門
加東郡市場村 近藤亀蔵 酒田本間家丹波柏原加古川市川筋掘削
一柳藩 高瀬舟飾磨津太政官紙幣原六郎   皇太子フェルナンド
旧福本藩史 神功皇后息長王家 中治院家打掛(打ち掛け)明智光秀
波多野秀治澤宣嘉子爵扶桑教台湾人天母教 媽祖 福建省  
終戦 進駐軍天母温泉故宮博物館満身創痍朝来町佐中尊攘運動
横浜正金銀行山陽鉄道播但線新井駅 神子畑川福地川 大屋市場
七卿長州落ち北垣国道戊辰戦争 北海道庁長官幣原内閣 
松本丞治   バイロン卿 生野義挙

神崎郡史・神崎町史・市川町史物語    

播州福本藩川口屋太右衛門
 
 

いまの兵庫県神崎郡神崎町および市川町の区域に、幕末、鳥取池田侯
の支藩で福本一万石というのがあった。


 

城に代わるべき陣屋が旧粟賀村福本にあったため、福本藩または粟賀藩
と称した。(写真は旧福本藩陣屋跡)
鳥取から分藩したときはたしかに一万石強だったが、のちさらに近所の
屋形と吉富に再分家したので、幕末の福本の石高は七千石たらず、
幕制では立藩できず、「交代寄合い」という、「大名家に準ずる旗本」の
扱いであった。

版籍奉還のときは、いちはやく奉還を申し入れたが、万石以下では旧藩
主が華族になれぬとわかり、慌てて鳥取のご本家から名目的に三千石
足してもらい、明治も元年になってから立藩、危ういところで男爵正五位
を頂いたものの、もともと大貧乏の殿様池田徳潤侯、爵位を持ち切れず、
維新後すぐ返上してしまった。
わずかな山林と農業以外には見るべき産業とてない福本藩は、徳川時
代には貧窮の極に達し、文政年間に、大名家に伍して一人前にも藩札
を発行することになった。

ところが何分にも殿様に信用がない。
そこで 藩内の商人に頼んで藩札の保証人になってもらうことにした。 
選ばれた商人は二人、藩庁のある福本村に居を構えた備前屋金兵衛と、
市川中流の川湊に面する福渡村(いまの市川町神崎)川口屋太右衛門
である。

ときは文政五年、「銀五匁」から「銭壱分」に至るまで、計8種類すべての
藩札を発行した。 藩内の通貨をすべて、自藩発行の藩札でうずめるべく
まことに思い切った窮余の政策である。藩財政が、よほど行き詰まって
いたのであろう。 このとき発行した藩札のうちの一枚は、神崎郡福崎
町辻川の郡資料館に展示されている。 全種類8種の写真版について
は,「図録 兵庫の古紙幣」という灘の酒造家の私家本に載せられてい
て、阪神間の公立図書館で見ることができる。  


それらには、
「文政五年八月播州粟賀」の文字と共に、
発行者として「備前屋金兵衛」と、「川口屋太右衛門」
なまえが印刷され、両者が捺印している。

つまり、表向きはこの二人の私幣という事になっていて、
藩庁や藩主のなまえは印刷されていない。 殿様とか、
藩庁に責任はないことになってい、これは他のどこの藩の
藩札も同じ形式で、かならずしも福本藩だけがずる賢いと
いうわけではない。 こうした場合の藩札名義人のことを、
「銀貸し」とよぶ。
(写真は、「銀5匁預」と印刷された福本藩札。)
 

「銀」という硬貨を貸す代わりに、「銀何匁」と明記した兌
換紙幣を印刷して藩に貸すわけだから、「銀貸し」である。
 
当然のこと、殿様は「銀貸し」に頭があがらない。 どこの
藩札でも、発行した藩以外には通用させてはならない、
という厳しいお達しが出るがそれでは不便で、近隣の藩
にも通用させるのが公然の秘密であった。
筆者の祖母(川口屋丸尾本家の北隣に軒をならべていた
「北丸尾」の次女、長女は川口屋11代の妻女)の話では、
福本藩札は信用が薄く、姫路で十文のものが、この藩札
では六文にしか通らなかったとのことである。 いまなら
フィリピンペソが安くなった、というようなものである。  
 
藩札発行の翌年、つまり文政六年未年の暮れも迫った十
二月、川口屋太右衛門こと福渡村吉兵衛〔吉平〕に、藩庁
から文書による有難いお達しがあった。

   
              申し渡覚え
                  福渡村吉兵衛

         その方儀 御勝手方御用向き                   
         出精致し候条
         御聞に達し 依って名字帯刀           
         之を御免 仰せ付け候
         右の条とし仰せ出し候也
            未年十二月
  
巻き紙に毛筆の、お家流で書かれたこの通達書は、はげしい虫食い状
態ながら、市川町大字神崎字福渡の川口屋丸尾家(丸尾恭子)に、い
まなお保存されている。  講談本に出てきたり、いまでも古い家柄を誇
る人たちが口にする、いわゆる「名字帯刀お許し」なるものは、このよう
な片々たる一書簡に過ぎず、それがまことに有り難いお墨付きとして随
喜の涙を流したりするわけだが、殿様にとっては、何のことはない、紙
切れ一枚書くだけで、コストはただにひとしい。
文政五年八月と表に印刷された福本藩札は、名塩紙の手配から始まる
から、実際に流通しはじめたのは、おそらく文政六年で、つまりこの年に
藩札発行の反対給付として、福渡村の吉兵衛、つまり後の丸尾太右衛
門朝定に藩主池田氏が、ふところの痛まぬお礼をしたというわけだろう。
名字帯刀の話などはあちこちでよく聞くが、実際にこうした「お墨付き
という現物証拠が見られるのは、郷土史家の間でも、どちらかといえば珍
しい。
このとき併せて、殿様から「御紋付 御小袖 一」を拝領した。
それを着込み、大刀を前に置いた画像が残されている。着用した着物は
丸尾家の定紋「三つ鱗」であるにもかかわらず、裃が池田氏の「揚羽蝶」
紋になっているところから察するに、拝領した御紋付とは裃のことらしい。
     
 
 現存する「川口屋文書」には、ほかにも次のようなものがある。

     覚え
    一、金 百六十両也
    右は江戸
    御屋敷御類焼に付き 御普請
    に之を献上致し 即ち御用弁に
    相成り候もの也
     天保十二辛丑年 御奉行
             安田紋太
             多田半右衛門
    丸尾太右衛門殿
江戸藩屋敷が類焼し、再建資金に困ったものと見える。当時、福本藩池田氏の
江戸藩邸は芝愛宕下にあったが、この160両で、交替寄合格の準大名屋敷が建
ったらしい。それにしてもこの文書、標準的なお家流(青蓮院流)とはいえ、
見事に躍動していて、祐筆の書く楽しさが満ち溢れている。お家流は公用書体だ
が、それなりにカリグラフィー(装飾文字)としての面白さがある。 
明治新政府になって「お家流」は強制的に廃止され、新政府の公用文字として別
の書体が模索されたらしい。維新の川口屋当主丸尾浅七が、飾磨県第拾大区第二
小区17カ村の「地券掛付属」を拝命したときの辞令(上図右側)があるが、それは、
「地券掛り」の「掛」の字が、いまどき珍しい略字<挂>になっていたりして、
中国の簡体文字や、戦後日本のかな文字運動を彷彿とさせる。両者を比較されたい。
なお、「掛」と「挂」は、もともと同義文字。                             
 
          

       申し渡し覚え
  丸尾太右衛門へ
  其の方儀 常々御為筋
心掛け御用弁厚く相□□致
出精し候条御満足遊ばされ
就ては旧家之儀もあり
従来之功分も
思し召され依って親吉兵衛通り
この度間御小姓格
仰せ付けられ候
右之段 仰せ出され候也
天保十二年辛丑年 多田半右衛門
         安田紋太  
(天保12年、9代太右衛門別家創設。 次男浅七が襲名と同時に小姓格、
つまり侍分にしてもらった。)
 

     申し渡し覚え
 丸尾太右衛門へ

 其の方儀御勝手方御用
 従来出精致し昨年江戸
 御震火之砌格別に□□
 献金致し候条厚くご満足
 思し召し候依って此の度御駕籠弐人
 扶持下し置かれ候
 右の趣きに仰せ出で遣わさる也
      巳八月二十八日
            森岡久米之助
            牛尾巌之丞
                   
またしても江戸御屋敷で火事があり、献金をしてくれて有り難い。お礼に

駕籠お供の費用として二人扶持の給料 出す、とのこと。

壱人扶持は1日当たり米5合だから、ここでは下男の給料として1日米1升

ずつ下さる、というわけ。おカネを寄付してくれた銀主方に僅かな給料を

渡すというのもヘンだが、だからといって給料も決めない召抱えも不自然。

お伴の駕籠代、つまり、「車馬賃」という名目で二人扶持を出すというわけ。
 
       

近年発見された、別家初代丸尾太治平朝孝(8代太右衛門朝定の長男)
の系図書によれば、  
太治平ゆえありて別家。父太右衛門ともに来たりて家務を見、
ついに当家に隠居たり
とあるから、藩札を発行した8代太右衛門は、藩札発行19年の後、長男
の別家を機に家督を次男浅七に譲り、隣りに建てた別家に隠居したもの
とみえる。

戦前われわれが「隠居」とよび、そこはかって福本の殿様出御の折りの
休憩所であったと伝えられていた隣家は、別家太治平の居所であると同
時に、藩侯が、隠居した太右衛門老人にお金の無心をいいに訪れる場所
でもあったらしい。
第二次大戦中、その家には川口屋11代襄太郎の義弟で、旧鶴居村長の
上野利平氏が住んでいた。
 

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苗字帯刀御免