「……出版社の人、ですか?」 「専属カメラマンだよ。期限付きで契約してんの」 思わず訊いた僕の問いに、加東匠(かとうたくみ)なる男はきさくに答えてくれた。 僕はまじまじとその人を見た。 これまで尾崎さんはいろんな人を連れてきて僕に会わせたけど、僕は彼らをいちいち覚えちゃいなかった。この加東さんという人も、何度か顔を合わせてるから覚えたけど、関心なんてまったくなかった。 外見的には、尾崎さんよりもずっと年上に見える。三十代くらいだろうか。雰囲気的にも落ち着いていて、なんか自分に自信を持ってる感じの人だった。でもやっぱり普通のサラリーマンとは全然違う、自由な服装と態度。 ……その出版社の専属カメラマンが、なんだっていうんだろ。 戸惑いながら僕は尾崎さんを見た。 「前に俺が、たまーにモデルもどきの仕事してるって言っただろう? 彼のところでやってるんだよ」 「え、そうなんですか」 へえーとここで関心してる場合じゃない。とてつもなく嫌な予感が僕の中に押し寄せて来る。だから一応予防線を張っておくことにした。 「言っときますけど、僕は絶対に以前の話受けたりしませんから」 「あれ? その時の話、まだ覚えていてくれたんだ?」 尾崎さんがにこやかに応じた。まずい、墓穴掘ったかな。 「写真とか、人前とか、そういうの本当に嫌いですから」 仕事中だから、と僕は慌ててその場を逃げた。あの話はその時限りで終わってたんじゃなかったのか? 意地悪いよなぁ尾崎さんも。なんで何も言わずに勝手にそういう関係の人連れて来たりするかなあ。それも、ずっと正体内緒のまま。 どうりでここんとこ、尾崎さんの連れてくる客の目が妙に僕を見てると思った。 値踏みされてるみたいで気分が悪かった。だいたい僕はモデルなんてガラじゃない。ガリガリに痩せてるし、色は白いし。とても向いてるとは思えない。 尾崎さんも加東さんとか言う人も、今日はそれだけであっさり帰った。尾崎さんも、いったいどういうつもりなんだか。 帰る途中で相沢と約束したパ・ルセに立ち寄る。時間には余裕で間に合っていた。相沢はまだ来てなくて、僕は適当に席を選んで座った。とりあえず、コーヒーを注文する。 値段はそこそこで味は悪くない店だった。だからか人気もある程度高くて、ガラ空きの日はない。でも行列が出来るほど知名度が高いわけでもない。 僕は運ばれてきたコーヒーを飲みながら、なんとなく窓の外を見ていた。 夏は陽が落ちるのが遅いから、まだ少し明るかった。 しばらく待っても相沢が来なかった。どうしたんだろう。 約束すっぽかしたりする奴じゃない。何かあったのかな。 電話を借りてうちにかけた。留守番電話になっていた。 ……帰ってるわけじゃないみたいだ。 席に座ってジッと待ってた。時刻はとうとう八時半になった。 追加注文をして、軽く食事をとる。途中で何度か家に電話したけど、やっぱり誰も出ない。 苛立つよりも不安になった。本当に何かあったのかもしれない。 相沢のバイト先の電話は知っていた。今頃かけて誰か出てくれるかどうかわからなかったけど、一応かけてみる。すぐにかかった。まだ人がいる。 「あぁ、バイトの相沢なら、途中で気分悪くなって早退したけどね」 早退? 受話器を置いた後しばらく、僕は電話の前で立っていた。 確かに今日は朝から調子が悪かった。じゃあ、電話に出る元気がないだけで、うちにいるかもしれない。 僕はすぐに勘定をすませると、慌てて店を出た。 マンションを見上げると、部屋の明りがついている。 やっぱり帰ってた。 三階まであがって部屋の前に来ると、玄関の鍵がかかっていたから開けた。ドアを開けて中に入ると、見知らぬ女物の靴があった。 「……」 台所で何か洗いもののような音がする。 黙ったまま中に入ると、相沢がベッドの中にいた。眠ってる。 僕は寝ている相沢の頬に触れてみた。少し熱がある。 「風邪ですって」 いきなり背後から女の声が聞こえて、僕はぎょっとして振り返った。 スラリとした美人だった。年齢はだいたい僕たちと変わらないくらい。 「仕事中すごく調子が悪そうだったから、あたしが病院に連れてったの。あなたが一緒に暮らしているお友達ね? 久我悟瑠くん、でしたっけ。相沢くんが約束がどうのって言ってたけど、熱があるからとにかく寝かせたの。寝ようとしないから水に少し睡眠薬混ぜちゃったわよ」 「相沢と……同じバイトの人ですか」 なんで睡眠薬なんか持ってるんだろうと思ったけど、そこまで突っ込んだことは訊けなかった。 「何回も電話がかかってきて、うるさかったわ。あなたね?」 僕の質問には答えずに、少し苛立った口調で彼女は言った。 「いつ相沢くんが起きちゃうか、ひやひやしたわよ」 「……えっと、あのですね、とりあえず相沢は僕が面倒見ますから、もうこんな時間だし、今日は面倒見てくれてありがとう。ええと、途中まで送った方がいいかな」 少しキツイ感じがするけど、女の子だし。 彼女はやや睨むような目で僕を見た。けど、そういう顔なのかもしれない。「かよわい」とか「かわいらしい」とか、そんな感じじゃないからだ。 「結構よ。ひとりで帰れるわ」 くるりと身をひるがえすと、さっさと靴を履いて出て行ってしまった。 どっちかって言うと、面倒見よさそうなタイプじゃないよなぁ。 そう言えばさっき、台所で洗いものの音がした。僕は行ってみた。台所が綺麗に片付いている。別に僕らは散らかす方じゃないけど、一瞬「負けた」と思った。 部屋に戻って相沢の様子を見る。睡眠薬が入ってるんじゃ、朝まで起きないかもしれない。いつもは一緒に寝るベッドは相沢に渡して、僕はタオルケットとクッションをひっぱり出して床で寝ることにした。 何かに呼ばれるような気がして、僕はゆっくりと目を開ける。いつの間にか朝になってて、部屋が明るい。声のする方へなにげなく視線を向けると、相沢がいた。 「あ、おはよ」 起きてて大丈夫なの?と訊こうとしたけど、先に相沢が口を開いた。 「昨日はごめん。俺、知らないうちに寝ちゃったみたいで、気がついたら朝だった」 「熱、ひいた?」 「うん、一応。まさか風邪だとは思わなくて、約束すっぽかして、本当にごめん」 「それはいいよ。今日はどうする? 休む?」 今日は月曜日だ。相沢は学校がある。 電話が鳴った。 僕が起きあがるより早く、相沢が受話器を取った。 「え?」 驚いたような声。電話の向こうの声って聞こえないから、何の話かわからない。 「いや、そんな、悪いからいいよ」 困ったような声で断わってる。誰からだろう。 「じゃあまた今度ね」 受話器を置いた。 「だれ?」 「バイト先の子」 昨日の女の子が脳裏に浮かんだ。まさか、ね。 「なに? 昨日具合悪かったから、ごはんでも作りに行きましょうか?とかそういうの?」 相沢がどきっとした顔をした。図星みたいだった。 「昨日の子?」 「会ったのか?」 「帰って来たらいたんだ。おまえが寝ないから、睡眠薬盛ったって」 「それでか……」 相沢が小さく唸った。 「おまえに気があるんじゃないの? じゃなきゃ、台所の片付けまでやらないだろ」 「そんなことしてったのか?」 相沢が困惑したような顔をした。 「僕のこと、一緒に暮らしてるお友達、だと思ってるわけだから、フリーだと思われてるかもね」 「おいおい」 「なんで部屋に入れたの?」 「強引だったんだ。送ってくれなくていいって俺は言ったぞ」 僕はため息をついた。これは本格的かもしれない。 でも不思議なことじゃない。相沢を好きだと思う人、それも女の子がいないわけないじゃないか。ふいに中学時代のことを思い出した。バレンタインの時期になると、僕も相沢も机や下駄箱にチョコが結構はいっていた。数かぞえて、他の友達もまじえて誰が一番たくさんもらったか、競った覚えもある。 「とりあえず、今日は休んで、ゆっくり風邪なおせよ」 バイト、どうしようか。一日くらい休んでも問題ないとは思うけど……。 考えてたら、突然、呼び鈴が鳴った。玄関には僕が向かった。覗き穴を見ると、誰もいない……。 鎖をかけたままドアを開いた。 「ちょっと、なんで鎖なんかかけてんのよ。はずしなさいよ」 聞き覚えのある声だった。ちょっと待ってよ。いったいどこから電話かけてきたんだ? 戸惑いながらも鎖をはずしてドアを開けると、昨日の女の子は断わりもなくズカズカと中へ入ってきた。……確かに強引かも。 「……高永(たかなが)さん」 茫然としたのは相沢も一緒だった。 「神無(かんな)よ」 名前で呼ばれたいらしい。別にどうでもよかったけど、これでフルネームがわかった。 よく見ると、両手には買い物してきたような荷物がある。中身は食料品だ。 「風邪ひいてる時は栄養つけなくちゃいけないの。カロリー計算してきたわ。単純な病人食作らないから安心して。こういう時はやっぱり女の子が必要なのよ」 ……ものすごく積極的な人かも。 相沢が困った目で僕を見た。僕が何か誤解をしたら、という心配をしてるのがありありとわかる。 「あのさ、高永さん」 「神無、よ」 「気持ちは非常にありがたいんだけど、もう風邪なおったから」 「一日やそこらで風邪なんて治らないわよ。ちょっと台所借りるわね。まだ何も食べてないでしょ?」 台所に向かおうとして、彼女は初めて目に入ったみたいに僕を見た。 「悪いけど、相沢くんのしか作らないから。あなたは外で食べてきてよね。だいたい、友達ってのはこういう時、気をつかうものよ。女が来てんだから」 ……どう対処したらいいんだ? これは。 「わかった」なんて、あっさりと部屋を出るわけにいかない。あの子はすっかり彼女気取りだ。 勝手に台所に荷物を運びこんで、高永神無は勝手に料理をはじめた。 相沢がこっちに来た。僕の手首をつかんで「出てかなくていいから」って言った。 「彼女には悪いけど、本当のこと言うしかないな」 少し気が強いけど尽くす女、しかも美人、ってのは魅力あるような気もするけど、相沢はそれで心がぐらついたりはしないみたいだった。 僕の心もぐらつかなかった。昔は女の子が好きだったような気がしたんだけどな。 相沢が台所に行く。 「話があるんだけど、高永さん」 「神無よ」 「料理作んなくていいから、ちょっとこっち来て」 台所から出てきた彼女は、非常に不満そうな顔をしていた。料理を中断されたのが気に食わなかったらしい。僕がまだいるのを知って、さらに不機嫌そうになった。 「とにかく座って」 部屋の真ん中で三人して座る。 「前に、俺は友達とふたりで暮らしてるって言ったことあると思うけど、実は彼、友達じゃないんだ」 高永神無が怪訝そうな顔をする。じゃあいったいなに?って訊きたそうな表情。 困ったように相沢が僕を一瞬見る。確かに他人には言いにくいだろう。 「高校の頃からね、俺たち付き合ってるんだ。その、友達としてじゃなく、恋人としてね」 神無がギョッとした。 「うそ」 「嘘じゃない」 「そんなフリ方ってある? あたしが嫌ならちゃんとそう言えばいいじゃない。なんなのよその理由。ふざけないでよ」 まともな反応だとは思う。まずは口実だと思うだろう。 現実的に目の前にあることじゃない。男同士の恋人関係なんて。 相沢も僕も、困ったように目くばせした。これ以上、どう説明したらいいだろう。 このまま怒って帰ってくれてもいいんだけどな。 フルための口実だと誤解したまま。 彼女はジッと相沢を見据えた。 「あたしのどこが嫌? ちゃんとはっきり言って。じゃなきゃ納得いかない。悪いとこあるなら直すから。相沢くんの好みの女になるから」 ……そういう問題じゃないんだよなー……。 「他に付き合ってる人、いるんだ。だから高永さんとは付き合えないんだよ」 相沢が言った。そうだよな、別に僕じゃなくても、他に付き合ってる人がいるって言えば納得してくれるだろう。 「どんな人? 一度会っておく必要があるわ。本当にあなたにふさわしい人なのかどうか、見極めなきゃ」 がっくりと僕たちは肩を落とした。これは厄介な相手だ。とことん突き詰めなきゃ気が済まないタイプ。完全に納得できないとひかないタイプ。諦めるということを知らない。 「ねえ、彼女、いつから知り合いなの?」 こっそりと相沢に訊いた。彼女には筒抜けだけど、なぜか声をひそめてしまう。 「一ヵ月前に今のバイト先に来た」 そうか、そんなに最近なのか。 たった一月で相沢に惚れたのか。 じゃあ、一月分の相沢しか知らないんだ。 ちょっと意地悪な気持ちが僕の中に芽生えた。中学の頃から相沢を知ってるという優越感だった。性格悪いな、僕も。 でもこの彼女だと、本当のことを理解しても攻撃先が僕になるだけかもしれない。相沢に幻滅するか、なにがなんでも別れさせようとするかのどっちかだ。そんな気がする。 「女の本当のよさを知らないだけなのよ」とかそんな台詞を吐きそうだ。 相沢もそう思ったのかもしれない。僕のことはそれ以上話さなかった。強引に「本当に駄目だから」と荷物と一緒に追い出すことしかできなかった。 冷たい仕打ちかもしれない。けど、そこまでしないと諦めそうにない。 余計な期待かける方が残酷だから。そう、僕が尾崎さんにやったみたいに。 |