「考えるだけ考えておいてくれないかな」 そう言い残して尾崎さんは帰った。 ひとり部屋の中に残された僕は、座り込んだまま動けなかった。 こんな時、頭の中に出てくる顔はやっぱり相沢だった。 相沢に会いたい。 すごく会いたい。 追い詰められたようにそう思ってから、 突然僕は気がついた。 電話番号を知らないなら、直接会いに行けばいい。 昔のままあの家で暮らしてるのなら、僕はあいつの家を知ってる。 中学の頃、二・三回しか行ったことなかったけど。 あの町の地理は頭の中に染み着いてる。僕の生まれ育った町でもあるからだ。 自分の家には近寄りたくないけど、相沢の家なら行ける。 そう思ったら、僕は立ち上がっていた。 時計を見る。 電車はまだ走ってる時間だった。 懐かしい町に降り立って、僕は戸惑っていた。 夜も遅い時刻、駅前はシンと静まり返っている。都会じゃないから、人通りはほとんどない。店もみんな閉まってるし、道路は空いている。 空気が冷たい。白い息が洩れる。 相沢の家は駅からそう遠くない。十分も歩けば着くと思う。 寒くて上着に埋もれるようにして歩きながら、僕は相沢になんて言おうか考えていた。尾崎さんの提案を受けた方がいいのかどうかも聞きたかった。 反対してくれることを期待してたのかもしれないけど。 相沢の家には迷うことなく着くことができた。二階建ての一軒家。この二階に相沢はいるんだろう。灯りがついてた。 何度かためらって、僕は呼び鈴を押した。 「どちらさまでしょうか」 少ししてインターホンから女の人の声がした。たぶん相沢のお母さんだ。 「あの、久我(くが)と言います。真(しん)くんの中学の時のクラスメートなんですけど……、真くんを呼んでもらえますか?」 声がぎこちなくなった。なに緊張してんだろう、僕は。 相手が沈黙した。 沈黙は長かった。 「おかえりください。真はもう寝ました」 「え?」 ちょっと待って。そんな……ここまで来たのに。 僕は立ち往生した。二階を見上げると、電気がついている。 相沢は灯りをつけたまま寝たりなんかしない。 インターホンは切れていた。僕はもう一度ベルを押すのをためらった。言いようのない不安が、全身を包んだ。 空気は相変わらず冷たい。 もう一度ベルを鳴らす。 「大事な話があるんです。少しでいいんです」 「おかえりください」 冷たい声が僕の耳を刺した。僕は立ちすくむ。時計を持って来なかったことを後悔した。今、いったい何時だろう。電車はまだ走ってるんだろうか。 あまりの寒さに感覚が少し狂って、頭がしっかりと働かない。予想してなかった展開で、僕はどうしたらいいんだろう。 玄関のドアの向こうで何か声が聞こえた。言い争うような声だった。それから少し経って、突然ドアが開いた。顔を出したのは相沢だった。 顔を見たとたん、僕はすごくホッとした。 「……悟瑠」 相沢の表情は沈んでいた。その後ろから彼の母親の声が響く。 「真、帰ってもらいなさい。そんな、先生に暴力を加えて退学になるような子とつきあわないで」 目の前が真っ白になった。 なんで冷たい対応をされたのかがわかった。 ここは狭い町だから、僕の噂が広まっていたんだ。原因も理由も誰も知らなくて、僕が教師を殴って退学になって家出したという事実だけが伝わってる。この町では、僕は「不良」だと思われてる。たぶん……そういうことだ。 「真!」 相沢の母親が彼の腕をつかんだ。ドアを閉めろということらしい。 「不良とつきあうような子に育てた覚えはないわ。そんな子帰してちょうだい。あなたは今が一番大事な時なのよ!」 「やめろよ!」 相沢の声が荒くなった。強引に外に出て無理やりドアを閉めた。僕はそんなやりとりを、茫然として眺めていただけだった。 相沢は罰が悪そうな顔で僕を見て、いきなり腕をつかんで歩き出した。僕は声をかけられず、相沢はひたすら無言だった。 歩いている間に、妙な場所に入っていた。相沢が足を止めた時、目の前にあるのはホテルだった。 ……ラブホテルだった。 「相沢?」 「電車、もうないだろ? 外にいたら凍える。一応、金持ってきてるから」 振り向きもしないで相沢はそう言って、僕の腕をつかんだまま中に入った。 ……こういうホテルは、忘れたい記憶が溢れてた。否応なく、カラダを売ってた過去を思いださせた。苦い気持ちで相沢について行く。 部屋に入るなり、相沢はベッドに座る。つられて僕も並んで座った。 「……ごめん。迷惑かけたね」 謝ると、相沢が戸惑ったように僕を見た。 「謝らなきゃいけないのはこっちだ。うちの親って、結構他人の話を鵜呑みにする悪いクセあってさ……。近所から変な話仕入れては、それをまた他所に蒔いてる。専業主婦ってのはたぶん、暇なんだよ。昔から住んでるから、知り合いばっかいるだろ? だから余計、どこの家がどうしたこうしたって話に夢中になるんだよ」 「うちの親……どうしてんのかな」 「ついでだから、会いに行くか?」 僕は左右に首を振った。 会いたくなかった。 「相沢は大事にされてんだね。期待されてるんだよ。だから僕みたいな奴と関わりあいになったりすると、親は心配すんだよ。普通そうだよね。退学になるような奴とはつきあわせたくないのが親だよ」 「悟瑠」 相沢の腕が僕の身体にまわった。抱きしめてくれる腕が力強かった。 「僕が、家を飛び出してからやってたことなんか知ったら、ますます遠ざけようとするだろうね。やっぱり彼らから見れば、僕は不良かもしれない。相沢の進路を邪魔してるのかも……」 「もういい」 相沢の腕は暖かかった。外で冷えた身体には最適だった。顔が近づいてきて、唇が塞がれる。素直に僕は受け入れた。 相沢に相談しちゃいけないのかもしれない。よく考えたら相沢は受験生だ。大学に行かなきゃならない。どう見ても、僕の存在は邪魔だ。 ずっと彼に甘えてきた。もう潮時だろうか。彼の人生の邪魔をしないためにも、もう会わない方がいいのかもしれない。 気がついたらベッドの上に倒されていた。上着を脱がされて、相沢の手が裾から入り込む。キスの雨が降ってきて、僕はクラクラした。 そう言えば相沢は、僕がなにしに来たのか訊かないな……ふとそう思ったけど、じきに何も考えられなくなった。 隣に眠る相沢の顔を眺めながら、僕はぼんやりとしていた。 僕と相沢の関係は恋人なんだろうか。 それとも友達の延長線上なんだろうか。 相沢が僕をなんだと思っているのか、実はよくわからない。 僕たちはまだ十八歳で、まだ高校三年生でしかない。中学から高校、大学にかけて、男なんてのはエッチなことで頭がいっぱいの年頃だ。欲望が満たされるのと愛情とがごっちゃになりやすい。 相沢は単に、僕に欲情してるだけなのかな。 それならそれでも別によかった。理由はなんでも、相沢が傍にいてくれればいいから。 「うわっ」 いきなり身体を引き寄せられて、僕は思い切りびっくりした。 「相沢……?」 いつの間に起きたのか、相沢が僕の上にのしかかった。 「用があって来たんだろ? それとも相談?」 ドキッとした。 「寝てなかったの?」 「寝てたよ。少しだけ」 すぐ傍に相沢の顔があった。僕の微妙な表情の変化も見逃すまいとしてるみたいに。 「いつ言うかいつ言うかって待ってたけど、待ってたら朝になりそうだからな」 「寝た方がいいよ。明日も学校あるだろ?」 「俺に言いたいこと、あったんだろ?」 「……」 僕は息をついて、身体の力を抜いた。 実はまだ迷っていた。 言うか言わないかを。 「……しばらく、尾崎さんのところに、やっかいになるかもしれない」 「え?」 思わぬことを聞いたような顔で、相沢が驚く。 「ちょっと事情があって、アパートに帰れなくなったから」 「……事情って、なんだよ」 僕はためらった。 「でも尾崎さんは変な人じゃないから。相沢は心配してくれなくても大丈夫……」 「事情ってなんだ」 相沢の口調が強くなった。 手首を強くつかまれてて、少し痛かった。 何度かためらって、僕はようやく口を開く。かつての生活指導の教師のこと。偶然にも再会してしまったこと。そして……何をされたか。尾崎さんと一緒の時に、また遭遇したこと。それで僕が怖くなったことと、尾崎さんが安全のためにも家に来ないかと誘ってくれたこと。もちろんそれは、新しいアパート見つけるまでの話だってこと。 相沢の表情が苦くなっていった。 「なんで黙ってた? そんなことがあったのに」 僕は相沢から視線をそらした。とても正視できなかった。 「……知られるのが怖かったんだ。もうそいつには会わないと思ってたし……」 「だけど実際は……っ」 「相沢が心配してくれるのは嬉しい。けど、もう僕のところに来るのはしばらく止した方がいいと思う。しばらくは尾崎さんのところで暮らすことになると思うし、相沢は受験が終わるまで、僕とはかかわらない方がいい」 僕が言うだけ言うと、相沢は納得いかない顔をした。 「ちょっと待てよ。なにひとりで勝手に決めてんだよ。確かに俺は受験あるけど、そんなにハイレベルな大学行くつもりじゃないし、今の成績ならちゃんと目的のところに入れる自信だってあるんだ。だいたい何で、俺じゃなくて他の男に頼ろうとするんだ、悟瑠はっ」 言ってから、相沢の表情がわずかに曇った。苦笑いする。 「そりゃあ俺はまだガキだけど? 親のスネかじって学校行ってる子供だから、頼りにならないって思われるのも仕方ないけどさ……」 「そんなこと言ってないだろ? 今までずっと助けてくれたじゃない。ずっと相沢には助けられてたんだよ、僕は。だけどこれ以上迷惑かけらんないと思って」 「おまえのことは全部、俺がなんとかしたかったんだ」 「……」 僕は口をつぐんだ。相沢の真剣な眼差しが真っ向から見つめてきた。 ……好きな人にそんな風に言ってもらえることは、幸せなんだろうね。 だけど、なんだか胸がいたい。 どうしてかなんて、わからない。 「……相沢が、僕のこと考えてくれて、僕のためになんかしてくれて、それで僕はだいぶ救われてる。今の僕はもう大丈夫だから、相沢はもう少し、自分のこと考えててよ。今が大事な時期だってこと、忘れないでよ」 「忘れてないよ。……わかった。決めた」 唐突に相沢が言った。……決めた? 「大学入ったら俺、家を出て部屋借りるから。学生の身分で自力で部屋借りるのはまだ無理だから、結局親を言いくるめなきゃならないけど。とにかくふたりで暮らせるだけの広さ、確保するから。一緒に住もう」 「え……?」 びっくりして、思わず相沢をまじまじと見つめてしまった。 「だから、それまでの間、その尾崎って人に世話になることも許すから。あと数ヵ月だよな。昨日見たところ、確かにちゃんとした人みたいだったし。心配もあるけど……。ただひとつ約束してほしい」 「……な、なに?」 「絶対に浮気はしないこと」 「う、うん」 相沢のペースで話が進んでしまった。 僕は圧倒されていた。 相沢って……けっこう強引だよなぁ。 「おまえの安全が一番大事だし、今の俺じゃどうにもできないから、アパートから離れて尾崎さんの家に世話になるのは仕方がない。だけど俺は行くからな? 他人の家だろうとなんだろうと。俺がやたら訪ねれば、手を出される心配もないだろうし」 ……相沢ってやっぱり、しっかりしてる……。 思わず、すごいなって感心してしまった。 |