思考ゲーム、

 自分の本質って何だ?

「自分の本質って何だ?」
って考えている存在が自分の本質だ。

でも、それは既に過去のことで、現在は
「自分の本質って何だ?
って考えている存在が自分の本質だ。」
って考えている存在が自分の本質だ。

でも、それは既に過去のことで、現在は
「自分の本質って何だ?
って考えている存在が自分の本質だ。
って考えている存在が自分の本質だ。」
って考えている存在が自分の本質だ。

でもそれは既に過去のことで、、、

、、と考えてるのが自分の本質
、、と考えてるのが自分の本質
、、と考えてるのが自分の本質
、、と考えてるのが自分の本質
、、
この永久循環を繰り返す。
決して自分の本質にたどり着けない。

このプロセスを分解してみる。

自分の本質は二つの自分に分けられるのではないか?

「自分の本質って何だ?」って考えている存在は
思考し、実感し、行動決定する「主体者としての自分」。

そして、
「自分の本質って何だ?って考えている存在が自分の本質だ。」
という回答を提示したのは
自分の思考と行動を外から眺めている「観察者としての自分」。

その両者によりプロセスは下記のように進行する、

(1)主体者が「自分の本質って何だ?」という疑問を実感する
(2)観察者が主体者を観察しあなたの本質はこれですよ、と提示する
(3)主体者は提示された情報をもとに新たなる自分を実感をする

ここに存在するパラドクスは、
主体者の時間(1)における自分の本質が
時間(3)においてやっと実感される
というギャップである。

だから、
自分は
自分がある瞬間に
実感していることを
実感しているというふうに
実感することは
できない。



ただ、面白いのはこの思考ゲームのたどり着く結末。

、、と考えてるのが自分の本質
、、と考えてるのが自分の本質
、、

と、
永久循環を素早く繰り返していると
主体者と観察者がだんだん近づいて来るように感じてくる。
どうもこの両者はある程度相手の役割を果たすことが出来る存在のように思える。

そして、とても不思議な感覚が訪れる。

その感覚は2つに分けられるようだ。

一つめは、
狭い部屋に一人で座っていてふと振り返ったら間近に誰か他人が座っていた、
という感覚。

もう一つは、
長い眠りから覚めた、
という感覚。

不思議だ。

だが、この感覚はとても単純に解釈することができる。

前者は
「主体者としての自分」が刹那的に観察者の能力を獲得して
「観察者としての自分」を観察してしまった、
という機能的逆転。

後者は、
「観察者としての自分」が刹那的に主体者の能力を獲得して
自身の存在に目覚めてしまった、
という機能的逆転。


または、
この不思議な感覚を敢えて二つに分解して解釈してみたが、
両者の融合、
というような感覚でもある。

両者が思考ゲームの循環の結果十分に近づき、融合して互いの能力を交換するのかもしれない。

とにかく不思議だ、
なにか不気味だがそれ以上に嬉しい、
新たな存在を自分の中に発見した感覚と、
長い眠りから覚めた感覚が。
一瞬にせよ本当の自分をつかみかけた感じがする。


だが、それは、長くは続かない。
数秒から数分で消える。

もどかしい。


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