場所

山形:天童、鶴岡
東京:不忍池、アメ横、動物園、美術館、有楽町、新宿、原宿、多摩川、玉川上水、はけ、甲州街道、奥多摩、秋川、五日市、小笠原、
埼玉:狭山、高麗
神奈川:三浦半島、金沢文庫、野猿街道
千葉:安房天津
静岡:修善寺、湯が島、富士五湖
長野:北軽井沢、白馬、木曽
滋賀:余呉湖、琵琶湖、彦根
京都:大原、さがの、河原町、亀岡、宇治、信楽、舞鶴
奈良:奈良、橿原
大阪:生駒、交野、枚方、みのう、五月山、北摂の山々、171号、南港、難波、心斎橋 えびす橋、宋右え門町、三角公園、南海のほう、天王寺 新世界、ジャンジャン横丁、飛田商店街、動物園、鶴橋、河内長野、岸和田、
兵庫:芦屋、六甲、有馬、宝塚、三田、篠山、出石、丹後半島、姫路、明石、須磨、ハーバーランド、南京町、メリケンパーク、ポートアイランド、六甲アイランド、淡路島
和歌山:和歌山、由良、高野山
広島:尾道
高知:中村、四万十川



これらのただの地名の羅列がもたらす喪失感


人の記憶は面白い

ひとで出来事を思い出す人
空気で出来事を思い出す人
風景で出来事を思い出す人
音楽で出来事を思い出す人
言葉で出来事を思い出す人


私はひとを懐かしまない
かわりに場所を懐かしむ

、、のではないか?


ひとも
匂いも
空気の温度も湿度も
天気も風も
風景も
音も

すべて場所の付属物として二次的になつかしまれているにすぎない

、、のではないか?


人は強烈な感情を抱いたときそれを誰かに伝えたくなる
その一部は、人と共通のもので強い共感を得られたりするが
残りは、その人特有のもので、人と共有しようがないものだ


しかし、理屈ではそう思ってもとにかく口走りたくなる時がある
ということで
自分自身のみにしか感慨を与えないはずのこれらの地名の羅列を敢えて並べてみた
だが全部書くと無粋だから一部消すことにしよう
その分喪失感はやわらぐ
中途半端だな


<結論>
やはり俺は猫なのか(「猫は人につかずに場所につく」と言う)


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