時事小言
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5月12日 Timesお前もか
5月11日付のNew York Timesは、記事の盗用、引用の捏造の疑いが持たれて辞職した元記者に関する調査結果を公表し、その事実を認めた。

同日付のNew York Times、Washington Post、および5月13日付の読売新聞によると、元Timesの記者は、約4年間で、少なくとも36の記事で、他紙からの盗用、引用のでっちあげを繰り返していたという。彼は現場にも行かず、ネットで他紙の記事やAPなどの配信を盗用し、記事を書いていた。例えば、イラクで戦死した兵士の父親の取材でクリーブランドに行かなければならなかった時、実際はニューヨークにいたにもかかわらず、他紙の記事を盗用し、あたかも現地で父親から話を聞いたように記事を書いていたという。ひとりの人間が亡くなったことに関する取材で、こんなことを平気でやってしまう神経が私には理解できない。さらにこの元記者の記事はいいかげんで、彼がTimesに在籍した約4年の間に、50回もの訂正が必要だったという。

はっきり言って、この人物は今までも記者ではなかったし、これからも永遠に記者になるべきではない。こんな人物を記者とは呼べない。記者にとってもっとも重要なことは、読者に事実を伝えることだ。それが読者との暗黙の信頼関係の基礎にあるものだ。確かに事実確認がうまくいかず、デッドラインのプレッシャーのもと、パニックに陥ることもあるだろう。しかし、故意で事実を曲げることは絶対に許されない。この人物の場合は、プレッシャー云々の問題ではないだろう。確信犯であり、ある意味、虚言癖のように病的なものかもしれない。

以前から問題が指摘されていたにもかかわらず、彼を放置し続けた、Timesのエディター達の責任も重い。背景には、彼は黒人だったので、ニュースルームの多様化という観点から、彼の問題行動に目をつぶっていた、ということがあるのではないかとも指摘されている。これはかなりアメリカ的な問題だが、私は、プロフェッショナルである以上、人種など関係なく、プロとして認められたものだけが記者になるべきだと考える。もしTimesのエディターたちの間にそんな意識があったのだとしたら、彼らもまたエディター失格であり、潔くTimesを去るべきだ。元記者の犯した、盗用、でっちあげの期間の長さ、量の膨大さを考えると、これは元記者個人の問題ではなく、Timesのマネジメントの問題だ。問題を徹底的に追及し、もしジャーナリズムとして正しくないカルチャーがTimesにあるのだとしたら、それを変革しない限り、この世界一の新聞が、再び読者の信頼を得る日は永遠に来ないだろう。


5月3日 「われら」と「彼ら」

過日、今働いている新聞社のエディターから、「ミッチ、イラクとの戦争をどう思う」と尋ねられた。「間違っていると思います」と私は答えた。「じゃあ、何故われわれはイラクにいるんだろう?」そう尋ねられて、一瞬、私はきょとんとした。「え?われわれ?」と思ったためだ。エディターは、「何故アメリカ軍はイラクにいるんだろう?」と言い換えた。私は、「アメリカの利益のため、あるいはブッシュ政権の利益のためでしょう。少なくとも、イラクの人たちのためではないと思います。」と答えた。「俺もそう思う」とエディターは返し、会話は終わった。

これは個人的な会話だったから、特に問題はないと思うが、ジャーナリストにとって、「われら」「彼ら」という考え方は、特に戦争中は危険な概念だと思える。つまり、「われら」という言葉は、自らと軍を一体化させる言葉であるし、「彼ら」と相手国を表現することは、敵方であることを暗示するからだ。これらの言葉によって、ジャーナリストもまた戦争の当事者となってしまう。客観報道という、ジャーナリストのあるべき理想を捨てて(客観報道については、純粋な客観的報道はあり得ないゆえ、絵空事だと批判する人も多いが、私はそうは思わない。それを目指してこそ、バランスのとれた報道が成立すると考えるからだ。)。

原寿雄(元共同通信社編集主幹)は、著書の中で、ジャーナリストの国籍について述べている(1997年、「ジャーナリズムの思想」、岩波新書)。「ジャーナリストには国籍がある。ジャーナリズムが、自国中心のナショナリズムに陥りやすいのは、世界共通の危険性である。エスノセンタリズムは先進国、第三世界を問わず、ジャーナリズムの属性といっても過言ではない。」彼は続ける、「国籍は報道陣に先入観を与え、真実追求をゆがめやすい。しかも、ジャーナリストにとって自分の国籍を自覚することはなかなかむずかしい。その点がいっそう問題である。」

今回のイラク戦争でも、FOXをはじめ、CNNなどアメリカのメディア(とくにテレビ)は、愛国的、あるいはブッシュ政権の考え方に沿った報道を続けた。メディアは、それが国益にかなうと考えているのだろう(もっとうがった考え方をすれは、アメリカメディアは、戦争産業に属する企業に所有されていたり、何がしかの関係を持っていたりするので、国益すら考えていないのかもしれないが)。こうした報道は、短期的には、時の政権との関係を良好に保つかもしれないが、長期的には、決してアメリカの利益にならないと思われる。

911以後、アメリカは世界のことが分かっていない、という議論があった(実際、平均的なアメリカ人は、世界のほかの国にも、そこで何が起こっているのかにも興味がないように思える。ジャーナリストしかり。)。だから、何故中東の人たちがアメリカを憎んでいるのか分からないと。これには、メディアの責任も大きい。アメリカで、CBSやNBCといったネットワークニュースを見ると、海外のニュースはほとんど報道されない。アメリカ人が興味を持っていないから、テレビも報道しないのか、テレビが報道しないから、アメリカ人は興味を持たないのかは分からないが。そのうえ、戦争になったら、アメリカ的な単一的な視点でしかそれを描かないのであれば、アメリカの孤立はますます深まるばかりだろう。

原寿雄も前掲書の中で引用しているが、前回の湾岸戦争の際、こんなことがあった。CBSの有名アンカー(ニュースキャスター)Dan Ratherは、終戦時に、泣きながら米軍の司令官と握手しこう言った。”Congratulations on a job wonderfully done.”イラク人が何人死んでも、その生活がめちゃくちゃにされても、Ratherにとってはアメリカ軍の行動は、”wonderfully done”だったんだろう。一方、イギリスのBBCは1982年のフォークランド紛争の際、時のサッチャー政権にどれほど非難されても、「アルゼンチン軍」「イギリス軍」という言葉を使い、決して「わが軍」「敵軍」という言葉は使わなかった。当時は、BBCは愛国的ではないと非難されたが、現在は多くのメディアがその用語法に従っていることを考えてみても、時代を先取りした、あるべきメディアの姿だったといっていいだろう。

冷戦終結後のglobalizationの動きは、世界におけるアメリカの一人勝ちを促進した。アメリカのメディアもそれを側面からサポートしたといえるだろう。世界の警察を自負するアメリカが、今では、世界に紛争を引き起こす張本人になってしまっている。こういう時代だからこそ、アメリカメディアには、ブッシュ政権内の世界制覇論者であるネオコンサーバティブ(ネオコン)の動きを注視し、彼らの暴走を抑える働きを期待したい。それがアメリカの利益にもかなうことだし、世界にも利益をもたらすと考える。


4月10日 本当に米英が正しいのか?

4月11日付の社説、[イラク戦争]「正しかった米英の歴史的決断」で読売新聞は、イラク攻撃に踏み切った英米の判断を、手放しで称えている。「長期にわたる圧政から解き放たれた人々の様子」と「人的犠牲は最小限に抑えられた」ことがその根拠のようだが、本当にそうだろうか?

まず、いくら自国にとって脅威となり得る兵器を持っている国に対してであっても、攻撃を受ける前に他国を攻撃するという政策が許容されるものなのかどうか。現在までのところ、アメリカが戦争を始める大義名分となった大量破壊兵器は発見されていないようだが、仮に今後発見されたとしても、それは、アメリカが嘘をついて戦争に突入したのではないことの証明にはなるかもしれないが、戦争自体を正当化するものとはならない。

フセイン政権の圧制に苦しめられたイラクの人たちが、解放された気持ちを抱いているのは確かだろう。しかし、それは独裁者からの自由がもたらされるであろうことに対してのものであって、米英の攻撃を肯定してのものではないと思われる。4月11日の朝日新聞のオンラインニュースでは、イラクからの日本人ジャーナリストの報告として、「大統領像が引き倒されたパレスチナ・ホテル前の広場で、米兵に手を振っていた市民は200人ぐらいで全体からみれば少数だ」と報道されている。つまり、結果として、イラクの人たちが解放されたとしても、彼らが戦争自体を肯定しているわけではないだろう。それは、読売曰く「最小限」であるとされる、犠牲者数をみると、されに強く感じられる。

Iran Body Countによると、アメリカ中部時間の4月10日現在で、民間人の犠牲者は、最大で1388人、最小で1152人だとされている。この数字が果たして、少ないといえるのか。戦争が長期化した場合に比べれば、「最小限」かもしれない。しかし、米英がイラクを攻撃しなければ、犠牲にならずに済んだ人たちだ。しかも、マクロでみれば少ないといえるのかもしれないが、肉親を失った人々からみれば、かけがえのない家族や友人だ。さらにいえば、もし日本人が1000人以上犠牲になったとしたら、それでも読売新聞は、「最小限の人的犠牲」といえるのだろうか。

戦争は常に罪もない犠牲者を生み出す。その多寡にかかわらず、その何倍もの人々の悲しみをも生み出す。戦争を全くこの世からなくすことはできないだろうし、全ての戦争が悪だと言い切ることも私にはできない。しかし、それをなくすために最大限の努力をしていくことが、私たち人類に課せられた使命であることは間違いない。


3月24日 開戦

ついにアメリカのイラク攻撃が始まった。イラクが大量破壊兵器を持っている証拠も、イラクとアルカイダとのつながりを示す証拠も示されないまま、フセイン政権の潜在的危険性を過大に評価した(あくまで表向きの理由としてだが)ブッシュ政権が、大義なき戦争を開始した。中東に集まったアメリカ兵を、全く使わずに帰還させることはありえないことなので、攻撃は間違いなく開始されるとは思っていたが、国連の枠組みも、国際法も、アメリカだけには適用されないということか。

CNNをはじめとするアメリカのメディアは、連日イラク攻撃の報道を続けている。爆撃を受けて煙を上げるイラクの街が繰り返しオンエアされている。イラクの人々は連日、生きた心地のしない毎日を送っていることだろう。

ここアメリカでは、戦争などまったく感じることのできない日常が、変わることなく続いている。確かに、テレビを見たり、新聞をひろげたりすれば戦争を感じることはできるが、イラクの人々に恐怖を与える戦争も、アメリカにとっては、遠い国での出来事でしかないようだ。

最近、続けて、キャンパスでの反戦活動の記事を書いたので、色々な教授に話を聞く機会があった。そのうちの一人は、アメリカ人の戦争体験の欠如が、戦争に強く反対しない土壌を作り出しているのでは、と話してくれた。私には、その言葉が非常に説得力を持っているように感じられた。School of Journalismの教室では、この戦争について色々語られるものの、実際キャンパスでは、戦争よりも、春休みに何をするかということの方が、はるかに重要なテーマであるように思われる。

「戦時下」にあって、これほど国内が平和な状態である国は、この世界にもごくわずかしかないだろう。遠い国で自国が始めた戦争が続き、そして終わる。しかしアメリカ人は、それを意識する必要もなく、春休みを楽しみ、いつものようにあらゆるものを大量消費して生きていく。イラクの人々がこの戦争で苦しんでいることを感じることもなく。この国で、イラク人とアメリカ人との対照的な戦争による影響を考えた時、戦争というものの悲しみが、されに強く感じられる。


1月27日 Two-value orientation

Two-value orientationとは、世の中の物事の全てを「善」または「悪」の二分法で理解することである。1月27日付のNew York Timesの記事、'Blair Pays a Price at Home for Supporting Bush on Iraq'の中で、イギリスのブレア首相は、このような考え方をする人間との引用がある。なぜブレア首相が国内での人気を犠牲にしてまで、アメリカのイラクへの攻撃的な姿勢を支持するのかという疑問について、彼は心から、イラクに対して強硬姿勢をとる事、あるいはイラクを攻撃することは正しいと信じているようだと記述されている。つまり、サダムは悪、我々は善。アメリカのブッシュ大統領も、ブレア首相に負けない二分法論者といえるだろう。911の同時多発テロの後、彼は演説の中で、”Either you are with us, or you are with the terrorists.”と述べている。「俺たちの仲間にならなければ、テロリストの仲間だとみなすぞ!!」というわけである。

しかしこの世の中のことで、そんなに単純に善悪で割り切れることがあるだろうか?例えば、通り魔が、何の罪もない子供を殺害したとする。この場合は、多分100%に近い割合で、通り魔が悪と言えるだろう。しかし、いじめにあって苦しんでいた子が、思い余っていじめっ子に怪我をさせた場合。これは、法律の上からいえばいじめられた子が悪なのかもしれないが、道徳的にはむしろいじめっ子が悪ではないのか?このように、日々我々の周りで起こっていることでも、完全に善悪で割り切ることはすごく難しい。ましてや、多くの国の利害が錯綜する国際紛争の場では、絶対的な悪や絶対的な善など存在しないのではないかと思われる。そうした場では、結局力のあるものが善悪を決めることとなる。そうであるならば、いわゆる力のある国のリーダーには、最大限国際平和を尊重する、理性的な判断が求められる。

ブッシュ大統領、そしてブレア首相。いずれもイラクへの武力行使に強い影響力を持つ人物である。ところが彼らは、上述のとおり危険なtwo-value orientation思想の持ち主である。実際彼らの思想がそうなのか、彼らにとっての利益を考えた場合(ここでの利益とは決してアメリカやイギリスの国益ではない。彼らの私益である)、そう振舞った方が得だからそうしているのかは分からない。ただ、そんな単純な割り切りで世界平和を犠牲にする政治家たちを、我々はしっかり見ておかなければならない。

私の好きな作家、遠藤周作の「悲しみの歌」の中にひとりの新聞記者が登場する。彼は記事の中で、戦時中に生体解剖にかかわった医師を糾弾する。当時の状況、医師の心情などにまったく考えが及ばずに、単純な二元論で、結果として医師を死に追いやる。政治家は自己の利益のために、安易に善悪を語る。例えそれが国際平和にかかわることであったとしても。記者はどうか?複雑な事象を十分説明し切れているだろうか?残念ながら疑問だ。特に国際紛争にかかわる報道においては、内容が複雑すぎるため、当事国が善悪に単純化されることが多い(例えば、Hume, Mick (1997) ‘Whose war is it anyway?: the dangers of journalism of attachment’ (London: BM InformInc))。アメリカが、イラクは大量破壊兵器を持っており、真に世界平和への脅威となっているという明確な証拠も示さず、雰囲気で攻撃に持っていこうとしているように、政治家が真実を曖昧にしようとしたり、事実を歪曲したりしようとするのであれば、ジャーナリズムは人々に事実を伝えることに努めなければならない。ジャーナリズムの役割は、善悪を判断することではない。人々に判断できるだけの材料を提供することだ。上記のNew York Timesの記事を読んでそんなことを考えた。


12月19日 日本

しばらく落ち込んでいた間に、多くの友達がメールをくれて、そのおかげで、今はかなり回復した。それは私に、友達たちのありがたさを改めて感じさせると同時に、私にとっての日本の存在をも再発見させた。

北アイルランド、アメリカと、海外での生活がかなり長期にわたっているが、正直、日本が恋しいと感じたことはあまりなかった。大きな理由のひとつは、私は、あまり東京が好きではなかったということがある。毎日満員電車に揺られて会社へ行き、好きでもない仕事を深夜までして、また満員電車で帰宅。そんな日常が嫌だった。だから、東京の印象は、会社生活とだぶり、それが私を東京嫌いにさせていた。

確かに東京は、人間性を欠如させるような側面を持っている。住環境もいいとはいえないだろう。でも、そこでは、僕が大切に思う人たちが働き、そして生活している。そんな風に考えたとき、私が東京を嫌っていたのは、自分自身の過去を嫌っていたのだということに気付いた。自分の不幸な過去をすべて東京のせいにするのは、fairではないだろう。そして、そんな自分の過去も、多くの素晴らしい人たちとの出会いがあったし、私を成長させてくれたということもまた事実だ。だから今アメリカで、日本について改めて考えている。

今でも、国としての日本にはたくさん不満がある。政府の国民に対する不誠実さ、その外交姿勢などなど。でも、個々の日本人を見つめた時、やっぱり自分は日本が、そして日本人が好きなんだと思う。真面目で、几帳面で、ちょっと優柔不断だけど、親切な日本人。外国で生活していると、そんな日本人の特徴がよく分かる。排他的で、融通がきかない、なんていう悪い部分も付け加えなくてはならないかもしれない。でも、私は日本人が好きなんだと思う。

これからも多くの日本人以外の人と出会うだろう。そうした人たちを、日本人とは別の人たちとして接するつもりはない。国籍がどこであろうとも、私にとっては、大きな意味はない。でも、やはり日本、そして日本人は、私にとっては特別であり、永遠なんだろう。いいところも悪いところもひっくるめて、私は今後も日本とつきあっていくつもりだし、その関係は変わらないだろう。日本を「祖国」として強く意識したことはないし、それほど強い愛国心を持っているわけでもない。でも、私が愛する多くの人たちが属する国、そして私を育んでくれた国。そのことは変わりようがないし、私が日本人であることも、また変えようのない事実だ。あと何年生きられるのか分からないが、私の人生を少しでもこの国を良くすることに役立てたいし、この国の人たちが幸せになることに役立てたい。今、そんなことを考えている。


11月25日 ひとり

最近、私生活で色々辛いことがあって、ここ3週間ほどずっと落ち込み気味だ。そんな状況を知った、仲のよいアメリカ人の友達が、ちょくちょく気晴らしに外出するのにつき合ってくれている。そんな友達を心からありがたく思う。しかし、一人住まいのアパートに帰ると、やはり孤独を感じる。確かに友達は結構いる。パーティーや食事にもよく誘われるし、またその誘いに応じることも多い。それでも、そうした仲間とのひと時を終え帰宅すると、またひとりきりの世界に戻ってしまう、ということの繰り返しだ。

理由のひとつに言葉の壁があるかもしれない。自分の思うことは伝えられるし、伝わっていると思うが、やはり日本語で話すようには、微妙なニュアンスは伝えきれないので、その点での不完全燃焼感が残る。また、完全な一人暮らしだということも、孤独を感じる理由のひとつだろう。日本にいるときは家族と一緒だったし、北アイルランドでも、ひとつのフラットを数人でシェアする生活だったので、すぐに誰かと話をすることができた。しかし今回は、一人用のアパートで、近所に友達もいないので、かなり隔絶された生活だ。しかも、日本の友達と話をしたくても、時差の問題で、うまく連絡をとることができない。そんな状況が、孤独感に拍車をかける。

しかし、とよく考えてみると、日本で働いていたときもやはり孤独だったのでは、とも思える。毎日朝から深夜まで働いて、家には寝るためだけに帰るような日々だった。周囲に同僚や家族はいても、うまくコミュニケーションをとる余裕もなく、結局はひとりだったのでは、と。これは環境の問題というよりも、私自身の問題かもしれない。精神的に余裕のない状況に追い込まれると、自分の殻に閉じこもって、さらに自分を追いつめてしまう。そしてさらに状況を悪くする。今もそんな状態に陥りつつあるのかもしれない。

自分がひとりだと思うことは、すごく辛いことだ。どんな人間でも、程度の差はあれ、社会とのかかわりの中で生きている。だから、ひとりきりであるということは、そうした人間生活から隔絶した、いってみれば非人間的生活であると考えられるからだ。昔、ドラマの中の台詞で、「大学を卒業するときは社会に出るのが怖かった。だけど今は、社会から出るのが怖い」というのがあった。こうした考えの背景には、「社会」というものは、必ずしも温かく私たちを包んでくれないにしても、人間たるものが属するべき共同体だと考えられていることがあるのだろう。今私が陥っている「ひとり感」は、そうした社会からの離脱とは同じものではないかもしれない。しかし、本来持っているべき仲間を持っていない状況が「ひとり感」だとすれば、本来あるべき(と考えられている)姿ではないという点で共通性はあるだろう。

しかし、「社会」という器は一種の虚構ではないのか。会社にしても、それ以外の組織にしても、自分が抱いている強い帰属意識ほどには、個人を重要視していないことは、多くの人が感じるところだろう。家族や友人関係というものも、場合によっては虚構でありうるのかもしれない。しかしそこでは、それ以外の組織よりは構成者が重要な地位を占めている。ひょっとしたら、会社などとの差はその程度の差ではないのか。そうかもしれない。しかし、家族や友人との関係には、愛、友情など合理的には割に合わないと思われる要素が含まれている。そして私は、そうしたものが、人生の中で一番大切なものだと思っている。愛や友情は、どんなにお金を出しても手に入れられないものだし、また、どんな貧しい人でも持ちうるものだ。それだけで本当に幸せだといえるのかどうかは、私にはまだ分からない。でも、私はそれを一番に考えたい。

そんな価値観をもっている私には、今の状況はさらに辛い。愛や友情といったものを身近に感じられずにいるからだ。しかし、人に愛や友情を与えたいと思うのであれば、この経験は貴重なものになるだろう。それらを感じることのできない状況を知っている人間は、そのような状況にある人を思いやることができると思うからだ。今は本当に辛い。この辛さが永遠に続くのでは、と思えるほどだ。でも、きっと光が見える日がくるだろう。そして、その時には、今よりももっと他の人を思いやれるようになっていたい。自分の会社人生に別れを告げた時に、自分のためだけに生きる人生にも別れを告げたつもりだ。今は、少しでも人の役に立てるよう、少しでも人に愛や友情を与えられるような人生を目指して歩いている。まだまだ煩悩が多くて、そんなかっこよくはいっていない。でもいつか、いつかそんなことができたら。そして、できれば自分の人生も、ひとりからふたりへ、そして三人へと歩める日がくることを願っている。


10月28日 メジャーの実力

史上初めて、ワイルドカードから勝ちあがったチーム同士の対戦となったメジャーリーグベースボールのワールドシリーズは、エンジェルスがジャイアンツを破って、初の王者に輝いた。第6戦で5点差をひっくり返した勢いが、わずかに、Bonds率いるジャイアンツの力を上回った。敗れたとはいえ、ジャイアンツの主砲Bondsの打撃は圧巻だった。シリーズでの、打率.471、ホームラン4本の活躍は、地味なチーム同士の戦いに華やかさを与えた。エンジェルス投手陣の度重なる敬遠にもリズムを狂わさずに、最後まで自分の打撃を続けたのは、メジャーリーグNo.1の大打者の名にふさわしい活躍だった。

夏にアメリカに来てからシリーズ終了まで、メジャーリーグの野球を観て感じたことをまとめてみたい。まず、投手にしても打者にしても、一流と呼ばれる選手たちは、何よりパワーが並ではない。Bondsの飛距離やダイヤモンドバックスのJohnsonの速球を見ると、やはり先天的な身体能力の違いを感じる。日本でこれほどの選手は見たことがないし、これからもなかなか現れないだろう。日本のプロ野球との違いは、結局何十年も言われているように、「パワー」に尽きると思う。

一方で、走塁や戦術面では、メジャーはかなり粗さが目立つ。外野フライでランナーがベースに戻れずにアウトになるケースや、明らかに暴走と思われる本塁突入もかなり見かける。これらは積極さの裏返しともいえるが。また、攻撃は、エンドランやバントなどを効果的に使っているとはいえず、そのためにチャンスをつぶしてしまうケースが少なくない。外野守備もお粗末だ。特にクッションボールの処理は、日本の外野手に比べて、相当レベルが低いように感じる。

メジャーのすごさ、粗さ両面を考えて、もし日米の王座決定戦が開かれたら、と考えてみると、日本のチームにも十分勝機があると思われる。特に、今年のメジャーの王者エンジェルスが仮に巨人と戦ったらと考えると、私は巨人が勝つのではないかと思う。ただし、それは巨人だからである。日本の一流打者がそろい、好投手が投げ、優れた戦術で戦えば可能かもしれないということだ。上述のように、投手、打者ともパワーあふれるメジャーの選手は、やはり全体の実力としては、日本プロ野球よりはるかに上だ。

こちらの報道では、巨人の松井がヤンキースに入団するとの噂だが、松井はアベレージも残せるし、長打も期待できる打者なので、本塁打数はだいぶ減るだろうが、メジャーで十分活躍できると思う。個人的には、いつでも試合の見られる、カージナルスに来てもらえるとありがたいのだが。いずれにせよ、イチローに匹敵する活躍を期待しているし、それができる打者だ。近鉄の中村に関しては、正直未知数だ。波に乗れば、持ち前の思い切りのいい打撃で、40本くらいホームランを打ちそうな気もするが、力対力の勝負では負けていないメジャーの投手に位負けするようだと、並以下の打者に成り下がる可能性もある。とにかく、一人でも多くの日本人選手がメジャーに登場して、在米の日本人ファンを楽しませてほしい。

最後にメジャー式の応援について。彼らは、いわゆる鳴り物での応援はせず、拍手、ブーイング、歓声で試合を盛り上げる。ホームでの試合はほとんど地元のファンがシートを独占し、ホームチームにとっては、10人目の選手として貢献する。個人的には、断然メジャー式の応援が好きだ。打球音、捕球音、文句を言っている選手など、野球を「音」でも楽しめることを教えてくれる。「音」に関して言えば、こちらの野球中継では、ベンチ内での選手の会話やスライディングの音などがオンエアされ、それが野球をより身近に感じさせてくれる。

アメリカでは野球の季節が終わり、日本でも終わりに近づいている。野球ファンにとっては寂しいが、ポストシーズンのトレード、ドラフトなど他の楽しみもある。さて、来年は何人の日本人選手がメジャーに挑戦するのか。結果はどうあれ、挑戦自体素晴らしいことなので、メジャーリーガー達に気後れすることなく、新しい世界での野球を楽しんでほしいと思う。末筆ながら、日本人選手にメジャーへの道を開いた野茂投手が、古巣のドジャースに戻って、今年また見事な活躍を収めたことに敬意を表する。イチローの活躍のため、日本ではあまり大きく報じられないが、これほどの長期に渡ってメジャーの第一線で活躍するというのは、アメリカ人にとっても難しいことだ。Johnsonに比べればまだまだ若いので、更なる飛躍を期待している。


10月19日 メディアに疑問を

10月14日のNew York Timesに「THEY’RE SELLING WAR. WE’RE NOT BUYING.」と題された、イラクとの交戦反対の前面意見広告が掲載された。掲載者は、Business Leaders for Sensible Prioritiesという企業経営者や退役軍人が構成する団体だ。広告の中では、プッシュ政権の対イラク政策が、商品に例えられて、ひどい副作用を伴うものなので、警告が貼付されなくてはならないとされ、彼らは4つの警告を発する。Warning: War will wreck economy以下、war will breed terrorism, war will discredit America in the world’s eyes, war will take a terrible toll in human life。アメリカではたまにこうした意見広告を見かけるが、最近の日本の新聞ではどうなのだろうか(しばらく日本の新聞を購読していないもので…)?

この団体はNew York Timesに広告を掲載できるくらいだから、おそらく比較的豊かな活動資金があると思われる。こうした団体だけではなく、Columbiaの街角でも、数人のグループが「戦争反対」のプラカードを持って、道路沿いに1日中立っている姿をたまに見かける。多分彼らの小規模な「デモ」は、劇的な効果はないだろう。ただ、反対だと思ったらどんな小規模でも行動を起こす、その考え方は、民主主義においては大切な要素だと思う。

昨年の読売新聞の世論調査によると、87%の回答者が新聞を、大いに(21.9%)、だいたい(65.1%)信頼できるとしている(WEB OJO、
http://adv.yomiuri.co.jp/ojo/02number/200111/11toku3.html)。
単純に情報を得る手段としてメディアに頼るのは構わない。ただ信頼し過ぎないように注意を促したい。第一に、メディアは必ずしも真実を伝えないし、誤った情報を掲載あるいは放送しても、なかなか認めようとしない(例えば、松本サリン事件に関する、同志社大学、渡辺ゼミによる調査、
http://www1.doshisha.ac.jp/~twatanab/postgraduate/nohara/sarin.html)。よって、読者、視聴者には、なかなかメディアの不確かさが伝わらない。第二に、メディアは社会の支配層、政府、官僚、大企業などの思想を反映しがちである。日々報道されるニュースのほとんどは、そうした支配層によって発表されたものであり、それが、客観的な記事として報じられる(原寿雄、1997年、ジャーナリズムの思想p.156)。これには、取材源となれあいになりがちな、日本の記者クラブ制度が影響を及ぼしていると思われる。一方で、社会の中の少数派、立場の弱い人々の考えはなかなか反映されない。

そうした点から考えると、メディアの報道を鵜呑みにして、ある事柄に対する自分の考え方を形成するのは、きわめて偏ったものとなりうる。より幅広く物事を判断するために、インターネットを活用するのもひとつの手段だ。大手メディアの記事だけに頼らず、他の団体のあるいは個人の意見を聞いてみると、それまで見えなかったものが見えてくることがある。ただし、ネット上には、きわめて極端な意見(差別的、極右、極左など)も含まれているので、その点には注意しなければならないが。

支配層は、常にメディアを直接的、間接的に操作しようとしているし、メディアもその圧力に抗しきれていない(あるいは抗しようとしない)。よって、メディアによって形成されたマジョリティは、必ずしも公正なものでない。より適切な判断を下すために、少数者の意見に耳を傾けてみることも大切だと思う。健全な民主主義のためには、私たちも少しエネルギーを使わなくてはならない。


10月8日 P.S. 醜いアメリカ人

過日、メジャーリーグベースボールのバリー・ボンズが600号ホームランを打った時、その
ホームランボールをめぐって、何人ものアメリカ人が、外野スタンドでちょっとした乱闘騒ぎ
を起こした。CNNはそれを取り上げて、「Ugly American」と題して報じていた。このボールは、何億円という金額で売れる可能性があった
ので気持ちは分からないではないが、やはり見苦しかった…。


10月8日 醜い日本人

日本では旧聞に属する話だろうが、今日図書館で新聞を読んでいて、再度この「事件」に
出会ったので、少しコメントしたい。

輸入豚肉などを国産と偽装していた北海道西友元町店の購入客への返金に若者らが殺到
し、返金額が販売額の約3.5倍になったという件(9月30日付毎日新聞)。レシートなしで、
アルバイトするより多くのお金を手にすることができるとなれば、少しくらいの不心得ものが
不正にそれを手にしようとすることは、西友側も予測していただろう。しかし、誰はばかるこ
となく携帯電話で連絡を取り合い、受け取る理由もないお金欲しさに若者が押し寄せたり、
何十万円も請求する者が現れるとは予想できなかっただろう。日本人の文化(少なくともか
つて存在した)では考えられない現象だと思われるからだ。

古きよき時代の日本人の美徳であった、「人様に迷惑をかけない」あるいは「世間体」など
という言葉は、もう誰も見向きもしない時代遅れの観念なのだろうか。もちろんそうした観念
はよい面ばかりではない。何かにつけ他人の目を気にする消極的態度につながるし、個性
を失わせる原因にもなり得る。極言すれば、誤ったマジョリティーの行動を指摘できず、全体
主義の萌芽となる可能性すらある。ただ、日本人の若干の偏狭さを取り除けば、世間=公
というものを尊重する気持ちは、いわゆるグローバライゼーションで世界が身近になってい
る今、他国の文化を尊重したり、多民族を理解したりするうえで、むしろ大切な観念になっ
てきているともいえる。生活様式ばかりグローバライズされて、心はむしろ自己中心主義に
陥っているとすれば、自国中心主義と批判されているどこかの国と変わらないのかもしれ
ない。

過去の思い出は過剰に美化されるのと同様、私も「古きよき日本」を美化し過ぎているのか
もしれない。ただ、世界の多くの人は今でも、日本人は自国の文化を大切にし、礼儀正しく、
勤勉であると思っている。そのような考えにとらわれる必要はないが、美しいと思われてい
るもの、少なくとも私がそう思えるものが消え去っていくのはやはり寂しい。


9月30日 米軍基地問題と人種的優越意識

先日ある会合に出席し、韓国人の友人と日韓の様々な問題について話していたところ、
彼女が、韓国における米軍基地問題について話してくれた。彼女の話によると、日本で
沖縄が抱えている問題同様、韓国でも米軍人によって殺人、強盗、レイプなど、あらゆ
る犯罪が引き起こされており、韓国人の反米感情は相当強いという。

その席にドイツ人の友達も同席しており、韓国人の友人がドイツではどうなのか尋ねた
ところ、米軍による犯罪などほとんど聞いたことがないという。ドイツにも米軍基地はあり
状況は同じはずなのに、予想外の答えが返ってきたので、「何で?」と韓国人の友人は
驚いていたが、同様にドイツ人の友人も「何でそんなことが起こっているの?」と驚いて
いた。


このような状況の違いには、ふたつの理由があるのではないかと考えられる。ひとつは
地位協定の問題。毎日新聞(2001年02月17日付社説)によると、ドイツも日韓と同じよ
うに米軍と地位協定を結んでいるが、粘り強い交渉の結果、1993年、地位協定に、ドイ
ツ国内法優位の原則に基づく各種規制を盛り込むことに成功したという。一方、日韓に
おけるそれは、土地提供、裁判権などにおいて、両国にとってかなり不利な内容となっ
ている。日本と韓国の地位協定の違いについては、「米軍(米国)から見た条約内容の
観点は次元的に同一であり、その下で、程度の差として韓米間の条約は日米間の条約
よりも韓国にとって劣悪である」(都裕史、2000年08月1日
http://www1.jca.apc.org/iken30/
News2/N61/N61-11.htm
)という指摘がある。
地位協定を改定し、ドイツなみの規制を設けない限り、日韓における米軍人による犯罪
の問題は根本的には解決しないと思われる。

もうひとつの理由は、人種的優越意識の問題。アメリカ人の、ヨーロッパ人であるドイツ人
に対する意識と、アジア人である日本人、韓国人に対する意識には違いがあるのでは
ないかという点である。この点について、東アジア、東南アジアへの多くの旅行経験を
持ち、アジアに関しての知識も豊富なアメリカ人の友人に尋ねてみた。彼曰く、そうした
意識の違いは否定できないという。さらに彼は以下のように指摘した。「確かにアメリカ
はドイツ・日本と戦争したが、両国に対する意識は大きく違っていた。ドイツに対しては、
結局は仲間うちの戦いと感じている側面があったが、日本に対しては人種的差別意識が
強く働いていた」。

どの民族も、程度の差こそあれ、他民族に対してある程度の偏見なり差別意識は持って
いると思う。例えば、日本人以外のアジア人に対して優越感を抱いている日本人は少な
くないのではないだろうか。そして、国際紛争に関心を持っている私には、そうした人種
的差別意識が究極的には、直接、間接に戦争・紛争の原因となっているように思われる。
人間の意識を変えることは容易ではない。だから、まったく差別のない世界をつくること
は不可能に近いかもしれない。しかし、日韓あるいは米軍基地を抱えている他の国々で
起こっている米軍人による犯罪の問題は、地位協定の改定という技術的な部分でかなり
解決できるはずだ。改定には外交交渉が必要となるので、複雑な問題であるのは分かる。
ただ、民族の意識を変えるという壮大な問題に比べれば難しいことではない。当該国の
政府が、自国民の人権をどれだけ重要だと考えるか次第だろう。
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