第五章:臓器移植に関する教えの歴史

臓器移植は人食いである

 輸血の問題と同様、ものみの塔協会は、最初、臓器移植に対して、大した反対意見は持っていませんでした。たとえば、次に紹介する1961年8月の「ものみの塔」誌の「読者からの質問」では次のように書かれています。

聖書には人が死んだ後、眼を提供して生きている人の移植に使うことに反対しているでしょうか。−L.C.、アメリカ

自分の体やその一部を死後、科学的実験や他人に移植する目的で、科学者たちに自由にさせることを嫌う宗教団体もあります。しかし、これは聖書のどの原則も律法も関係していないように思われます。ですからこれは個人で決定しなければならない事がらです。自分の心と良心が、そうすることに満足をおぼえるならば、そうすることができます。だれもそのことを批判すべきではありません。反対に、そういうことをするのを拒否したからといって、だれもその人を批判すべきではありません。(「ものみの塔」1961年8月1日480頁)

 すなわち、ここでは臓器移植は、「良心の問題」とされており、ものみの塔は特にこれが聖書に反対されている事柄ではないと考えていました。しかし、そのたった6年後の1967年になると、この立場は、やはり、他の医学的な教義と同じように、手のひらを返すように、180度変更されました。1967年11月15日号の「読者からの質問」の欄では、次のような議論が展開されました。

医学研究のために遺体を提供すること、あるいは臓器の移植手術を受けることには、聖書の見地からさしつかえがありますか。−W.L.、アメリカ

‥‥血を食べることは禁じられましたが、人間は動物の肉を食べ動物の命をとって人間の命を支えることを神に許されました。人肉を食べること、生体、死体を問わず別の人間のからだまたはからだの部分によって自分の命を支えることは、その中に含まれていましたか。含まれていません。それはすべての文明人が忌み嫌う人食いの行為です。‥‥病気あるいは欠陥の生じた器官が健康をとりもどすふつうの方法は、栄養分の摂取です。からだは食べた食物を使ってその器官を直し、あるいはいやし、徐々にからだの細胞を更新します。この自然の働きがもはや用をなしていないと判断され、器官を切除して他の人の器官を移植することを医師がすすめるのは、健康回復の近道をとっているにすぎません。この種の手術を受ける人は他の人の肉によって生きることになり、それは人食い的です。エホバは人間が動物の肉を食べることを許されましたが、人の肉の場合それを食べるにしても、あるいは他の人からとられた器官あるいはからだの一部を移植するにしても、人食い的に人の肉を体内にとり入れて命を保たせる行為を許されませんでした。(「ものみの塔」1967年11月15日702頁)

 ここに見るように、ものみの塔協会はこの時点で、臓器移植を「人食い」と規定し、エホバが禁じている行為であると教えました。この後、次に見るように、1980年に教義がまた二転三転するまでの13年間というもの、エホバの証人はちょうど現在の輸血に対する態度と同じようにして、角膜や腎臓等の、安全で日常的に行われるようになった治療法を拒否し続け、正常な視力を得たり、人工透析から解放されたりする機会をのがしました。

 この間、ちょうど予防接種に反対した時と同様、ものみの塔協会の繰り返し使う、科学に基づかない偽医学が、この移植に対する反対キャンペーンにも使われました。たとえば、次の「ものみの塔」誌の記事を見てみましょう。これは、移植手術にともなって、精神状態の異常を起こした例について述べた記事です。

時々気がつかれる奇妙な因子に、いわゆる「人格移植」というものがあります。これは、移植を受けた人が、臓器を提供した人のある種の人格要素を受け取るように見えることです。一人の性的にみだらな女性が、より保守的で態度のよい姉から腎臓の移植を受けた後、彼女は最初、たいへん怒っているように見えました。しかしその後、彼女の行いは姉に似てきました。別の患者は腎臓移植を受けた後、人生に対する見方が変わったと言っています。あるおとなしい人は、移植の後で、提供者と同じ様な攻撃的な性格になりました。この問題は、主に、あるいは全部が、心の問題かもしれません。しかし、少なくとも、聖書は腎臓と人の感情とを関係づけているのは興味があります。(「ものみの塔」1975年9月1日519頁)

 このように、ニュースの中からある医療行為に否定的な記事を、その信憑性も考慮することなく恐怖心を煽る形で宣伝するやり方は、予防接種を否定する時代に繰り返し行われていましたし、ここに見るように臓器移植でも行われていますし、また、後で詳しく見ていくように、輸血の危険性を使って恐怖心をかき立てる宣伝にも使われています。

 このような偽科学に基づいた、ものみの塔協会の宣伝の裏には、更に根の深いオカルト的ともいえる、ものみの塔特有の人体、医学、健康に関する不可解な見方があります。例えば次ぎに紹介する心臓に関する見方は、機械的な聖書の逐語解釈を奨励する、ものみの塔ならではの見方です。

‥‥聖書は象徴的な思いについて述べていないのと全く同様、生理的な意味のあるいは文字通りの心臓と対照区別して、象徴的なまた霊的な心臓については述べていません。従ってわたしたちは、文字通りの心臓を、正統的生理学が見るように、単なる肉のポンプと見たいとは思いません。大部分の精神科医や心理学者は、心を細かく分類しすぎる傾向があり、肉の心臓からの影響をわずかしか考慮しません。かれらは「心」という言葉を単なるたとえと見なして、われわれの血をポンプする臓器をさして使う言葉とは区別します。‥‥ 心臓は驚くべき構造を持った筋肉のポンプですが、もっと重要なことに、わたしたちの感情的および動気付けの能力がその中に組み込まれているのです。愛、憎しみ、欲望(良いものと悪いもの)、あるものを他のものより好むこと、野望、恐れ、つまりわたしたちの愛情や欲望との関係で、わたしたちを動気付けるのに資するすべてのものは心から発しています。(「ものみの塔」1971年3月1日134頁)

 執筆者の一人は、この記事が出たあとの同じ年の夏の「神の名」大会での劇をおぼえています。その劇では巨大な、光り輝く、心臓が脳と話す劇で、その例えから、わたしたちエホバの証人は心臓の機能について、しっかり覚えることになっていたのです。もちろん、少しでも医学や科学の知識があって心臓のことを知っているエホバの証人はこの教えに、恥をかくせませんでした。この例は、何百万人という世界中のエホバの証人の生死を決めるこれらの医学の教義が、このような偽科学、偽医学を説いてまわる少数の人間によって支配されている現実の危険を、あらためて浮き彫りにするものでしょう。

 この1971年の「ものみの塔」誌の心臓に関する議論は、そのまま心臓移植の非難に直結されています。

これらの患者は提供者から与えられた血液のポンプは持っていますが、それでは彼らは「心」を持っていると言えるだけの全ての要素を持っているでしょううか。一つだけ確かなことは、自分自身の心臓を失うことで、彼らは自分の中に何年もかかってを築き上げ、人格に関して自分が誰であるかを決める、「心」の能力を奪い去られたのです。(「ものみの塔」1971年3月1日133頁)

 ものみの塔協会によれば、心臓移植を受けた人は自分の「心」が無くなるという議論です。これは、上に述べた人格は心臓にあるという、ものみの塔の「医学説」に基づく心臓移植の非難に繰り返し使われる議論でした。後で、ものみの塔協会の、非科学的恐怖心を煽る宣伝の手法については別に検討を加えますが、第二章で見た種痘の恐怖を煽る同じ手法が、臓器移植に対しても使われています。同じ「ものみの塔」誌1971年3月1日号では、心臓移植を受けた患者に精神異常を来す患者が出ていることを紹介したニュースを大々的に取り上げています。

 問題なのは、ここで医学的な論争を繰り広げることではなく、医学的な論文の評価の仕方を全く知らない一般のエホバの証人に対して、このような治療の合併症を取り上げた記事を一方的に紹介する、ものみの塔協会の態度そのものなのです。どのような治療にも、ほとんど必ずといって良いほど、副作用や合併症があり、世界中の医師たちはそれを互いに報告しあって、より問題の少ない、よりよい治療をめざしています。もちろんそこには、合併症に関する報告だけでなく、どれだけその治療が有効であったかを報告する記事も、より多くあるはずです。それを一切伝えずに、否定的な記事を一方的に雑誌に載せて、世界中の何百万人のエホバの証人に一斉に「霊的食物」として与えるその過程は、巧みな大衆心理の操作法を使った、大衆マインド・コントロールと言うことができないでしょうか。

 もう一つの例を見てみましょう。「目ざめよ」誌の「世界展望」という欄は、長年にわたってこの大衆の心理操作の目的で使われてきました。ここでは、ものみの塔協会が、世界中のエホバの証人に知らせたいニュースを厳選して紹介するもので、ものみの塔協会の主張を裏付けするようなニュースが主に掲載されています。この1961年から1980年の間の輸血も臓器移植も両方とも禁止されていた時代には、この両方の恐怖心を一緒に煽る記事が度々登場しました。

輸血の恐怖

ヴィースバーデナー・キュリエの報告によると、ドイツのキール大学診療所では去年、二人の赤ん坊が輸血により梅毒に感染しました。どこから感染したかわからないので、少なくとも関係した一つの家族は、互いに相手が不義を冒したと非難しあって、離婚の危機になりました。裁判で真実が明らかにされましたが、すでに取り返しのつかない傷がつくられました。「二人とも真実を知ったあとでは、お互いに恥じるようなことを言い合っていた後でした」とその記事は伝えています。

更なる移植の合併症

臓器移植を受けた人たちの間に癌の発生率が、一般人口に比べて100倍も高いことが、最近報告されました。しかし、コロラド大学医学センターのウォルフ・カーシュ医師によると、脳腫瘍の頻度は「約1000倍大きい」そうです。新しい器官の拒絶反応を抑えるための長期にわたる免疫抑制療法が、患者を「病的な過程の罠」に巻き込む、とその医師は語りました。 そのような患者を救える見通しは「暗い」そうです。

(「目ざめよ」1974年2月22日30-31頁)

 明らかに、ものみの塔協会の執筆者たちは、世界中のニュースに眼を光らせ、少しでも輸血や臓器移植についての悪いニュースがあれば取り上げますが、一方それらに関する全てのよいニュースは、もちろん葬り去るのです。

臓器移植は良心の問題である

 しかしこの、ものみの塔の有名な医学教義の一つは、突然1980年に手のひらをかえすように変更を加えられました。

パブテスマを受けたクリスチャンが、角膜や腎臓など、人体の一部の移植を受けた場合、会衆は何らかの措置を取るべきですか。

ひとりの人間から別の人間へ人体の組織や骨を移植するかどうかは、エホバの証人各自が良心的に決定すぺき問題です。‥‥

今日の誠実なクリスチャンの中には、医学的に人体の一部を移植することを聖書ははっきりと非としてはいない、と考える人もいるでしょう。そのような人は、移植される体細胞が恒久的な意味で、受け入れる側の体の一部になるわけではない場合もある、と論じるでしょう。体細胞は七年ことに入れ替わると言われており、移植される人体の部分も例外ではありません。また、食物を供するために“提供者”が殺されるわけではないので、臓器の移植は人食いとは異なる、との論議も出されるでしょう。中には、死期の迫った人が実際に遺言で自分の体の一部を移植のために用いるよう言い残す場合もあります。言うまでもなく、移植に伴って他の人の血液を体内に入れなければならないのであれば、それが神の律法に反することに疑問の余地はありません。−使徒15:19、20。

明らかに、移植というこの問題に対する個人の見解や良心的な感じ方は様々です。人間の用に供するために人体の一部を使うことは、ホルモンや角膜などの小さな物から、腎臓や心臓など主要な臓器に至るまで多岐にわたっていることは良く知られています。聖書は特に血を食べることを禁じてはいますが、他の人間の組織を受け入れることをはっきりと禁じている聖書の命令はありません。そのわけで、この問題について決定を迫られる人各々は、物事を注意深く、祈りのうちに考量し、それから神のみ前で自分のできること、あるいはできないことを良心的に定めなければなりません.それは個人的に決定を下す問題です。(ガラテア6:5)ある人が臓器の移植を受けたとしても、会衆の審理委員会は懲戒措置を取らないでしょう。

(「ものみの塔」1980年3月15日31頁)

 この重大な教義の変更には、多くの問題点を含んでいます。先ず第一に、予防接種を解禁にした時と同様、それまでの移植禁止によって被った、一般のエホバの証人に対する一言の反省の言葉も、同情も読み取れません。第二に「今日の誠実なクリスチャンの中には、医学的に人体の一部を移植することを聖書ははっきりと非としてはいない、と考える人もいるでしょう」とは、何と偽善的な言い方でしょう。実際には、それまでのものみの塔の指令を守らずに「人体の一部を移植することを聖書ははっきりと非としてはいない」と考えて臓器移植を受けたエホバの証人は、排斥処分を受けているのです。そのような人々が、ものみの塔協会の呼ぶ「今日の誠実なクリスチャン」と言えるのでしょうか。この1980年の「新しい光」は、何のことはない、1961年の「古い光」すなわち「良心の問題」に立ち返ったに過ぎません。

 次に注目しなければならないのは、臓器移植を個人の良心に基づいて受けても構わないとして、ここに挙げてある理由です。先ず、ものみの塔協会は臓器移植が「人食い」であると主張した1967年の立場に変更を加えなければなりません。そこで、「移植される体細胞が恒久的な意味で、受け入れる側の体の一部になるわけではない」こと、「“提供者”が殺されるわけではない」ことの二つが、人食いと異なる理由として挙げられています。しかし、この二つの理由は、そっくりそのまま輸血の問題にも当てはまるのです。すなわち、輸血された血液細胞は「恒久的な意味で、受け入れる側の体の一部になるわけではない」のであって、実際血液細胞は、移植された臓器より遥かに短時間の間に自分自身の血液細胞によって置き換えられてしまうのです(赤血球は約120日、血小板は約10−12日)。また、もちろん輸血でも「“提供者”が殺されるわけではない」ことは明白です。したがって、これらの理由で臓器移植が「人食い」でないのなら、全く同じ理由で、輸血もまた「血食い」ではないのではないでしょうか。

 また「他の人間の組織を受け入れることをはっきりと禁じている聖書の命令はありません」という文章にも注目して下さい。この文章で「組織」という言葉を「血」と置き換えれば、これは同じ様に聖書に関する真実を言い表しているのです。聖書に動物の血を食べることを問題にしている箇所はありますが、他の人間の血を食べることを、はっきりと禁じている聖書の命令はありません。もしこの理由で臓器移植が「良心の問題」となるのなら、なぜ輸血は「良心の問題」にならないのでしょうか。

 この1980年の臓器移植解禁にともなって、ものみの塔はそれまでの、臓器移植反対に使っていた、奇妙な協会特有の医学、科学に関する見解も変えなければなりません。例えば、前に紹介した、心臓が「心」の座であって、心臓移植をすると「こころ」のない人間になってしまう、という立場は次のように変えられました。

しかし、聖書では“ハート”への言及がこのほか1,000回近くなされており、“ハート”は明らかに比喩的な意味で用いられています。‥‥心臓という臓器と比喩的な心臓つまり心との間に区別を設けなければならないことは明らかです。(「ものみの塔」1984年9月1日7頁)

 さらにその二年後には、次のような、苦笑を禁じ得ない、ある意味では滑稽な記事さえ登場します。

古代のエジプト人は肉体的な心臓が知恵や感情の座であると信じていました。かれらはまた、心臓にそれ自体の意志があると信じていました。バビロニア人は心臓が知恵と愛を住まわせていると言いました。ギリシャの哲人アリストテレスは心臓が感覚の座であり、魂の領域であると教えました。しかし、時がたち知識が増えるにつれて、これらの考え方は捨て去られました。そしてついに、心臓は体中に血液を循環させるポンプであるという実態が知られたのです。(「ものみの塔」1986年6月1日15頁)

 皮肉なことに、ものみの塔のこの同じ雑誌が、そのほんの数年前までこれらの古代の人間たちと同じことを教えていたことには、全く触れられていないことです。さらにより最近の「目ざめよ」誌では、1970年代の心臓移植に伴う恐怖心を煽るニュースの数々は忘れたかのように、エホバの証人の心臓移植の成功例を次のような誇らしげな記事で紹介しているのです。

無輸血の心臓移植

昨年の10月、3歳のシャンドラ・シャープは、米国オハイオ州クリーブランドの病院に入院しました。彼女の心臓は肥大していただけてなく、機能も衰えていました。栄養不良て発育が阻害きれ、体重も9`しかなく、しかも心臓移植を必要としていました。あと数週間しか生さられないと言われました。両親は移植に同意しましたが、輸血は拒みました。エホパの証人だったからてす。外科医のチャールズ・フレイザー博士にとって、これは特に問題とはなりませんてした。ミシガン州の1993年12月1日付のフリント・ジャーナル紙は次のように伝えています。「フレイザーによると、クリーブランド・クリニックと他の医療施設は、移植を含め多くの手術を、患者の体内に他の人の血液を注入せずに行なうことに熱練しつつある。『我々は、どのように出血を防ぐか、どのように心肺装置に血液以外の溶液を満たすかについて、いろいろと学んできた』とフレイザーは述ペた」。同博士はそれからこう付け加えました。「幾つかの専門病院てはこれまて何十年もの間、輸血をせずに心臓血管の大手術を行なってきた。‥‥我々はいつも、(輸)血なしの手術を行なうよう心がけてきた」。10月29日、同博士は輸血をせずにシャンドラの心臓移植を行ないました。1か月後、シャンドラは元気になったと伝えられています。(「目ざめよ」1994年5月22日7頁)

骨髄移植は許されますか

 さらに最近の医学の進歩は、より多くの、ものみの塔にとって「灰色」の領域を提出してきました。その一つは骨髄移植です。これは1984年の「ものみの塔」の「読者からの質問」で扱われています。

血液か骨髄て造られることからすると.クリスチャンは骨髄移植を受けることかできますか。

‥‥神の僕は、『血を避けて』いなければならない、と聖書ははっきり述べています。(使徒15:28,29。申命記12:15、16)では、赤血球が赤色骨髄でできるので、聖書は骨髄を血液と同列に分類しているでしょうか。そのようなことはありません。事実、動物の髄は、食べてもよいほかの肉と同じように言及されています。イザヤ25章6節は、神がご自分の民のために準備される宴の中に、「髄と共に油を十分に用いた料理」が含まれていると述べています。通常の処理法て屠殺し、血を流し出しても、髄から血液細胞すべてを流し出すことは決してできません。それでも、屠殺した動物の胴体からひとたび血を流し出したなら、髄を含むその組織のどの部分を食べてもかまわないてしょう。

言うまでもなく、人間の骨髄移植に用いられる骨髄は生きた提供者からのもので、採取された骨髄には幾らか血が含まれているかもしれません。ですからクリスチャンは、移植用の骨髄が−自分にとって−単なる肉片に相当するか、あるいは血の抜かれていない組織に当たるかを自ら決定しなければならないてしょう。それに加えて、骨髄移植は移植の一形態なので、人間の臓器移植に関する聖書的な面も考慮しなければなりません。本誌の1980年6月15日号の「読者からの質問」をご覧ください。(「ものみの塔」1984年5月15日31頁)

 これを読んでわかることは、聖書に骨髄を食べたという記述があるから、移植を受け入れても構わないが、一方骨髄には血液が含まれる可能性があるから、最終的には個人で決めることである、と教えられています。骨髄移植の目的は、骨髄にある血液細胞を作る元になる細胞、これを幹細胞と言いますが、を様々の病気で血液を作る能力の無くなった患者に移し、造血能力を回復させることです。しかし、これは心臓移植や腎臓移植のように、提供者の体を切り開いて臓器を切り出すわけではありません。その手続きは、先ず生きている提供者の腸骨(腰骨)を太い針で何度も穿刺吸引して、骨の中心に含まれる血液を吸引してきます。これを集めて骨片や脂肪などを除いてきれいにした後、輸血と全く同じ要領で患者の静脈に注入します。これを骨髄血と言いますが、見た目は普通の血液と区別はつきません。違いは、輸血される血液内の細胞成分の違いで、普通の血液(末梢血)にはわずかの幹細胞しか含まれませんが、骨髄血にはたくさんの幹細胞が含まれることです。この違いは血液を顕微鏡で調べてみて初めてわかることです。

 もちろん、輸血と骨髄移植では名前が違いますから、ものみの塔の指導部にとっては全く別の治療行為であって、その一方は命を捨ててでも絶対に受けつけられないものであるのに対し、他方は「個人的に決める問題」と区別して考えているのでしょう。しかし骨髄移植の実際は、大量の血液が、輸血と全く同じ形で注入されるのであり、そのことは輸血と本質的に変わりません。確かに動物の死体を食糧として食べる人間の観点に立てば、液体である血を飲む行為、あるいは血の抜いてない肉を食べる行為と、骨を割ってその中の脂身である骨髄を食べる行為とは全く別に見えるでしょう。(骨髄が美味であるのはその脂肪のせいであり、成熟した動物や人間の骨髄の大部分は、造血組織が脂肪組織に置き換わっています。)しかし、その違いは現代の医療行為には全く反映されないのです。動物の死体を食べる観点と異なり、血液疾患を治療する観点からすると、骨髄と血液は見かけもそっくりであれば、成分も、その一部の幹細胞の存在を除けば、非常に似たものです。もし輸血が命を失っても避けなければいけないものであるのなら、骨髄血の輸血、すなわち骨髄移植も同じように禁止されるべきではないでしょうか。

 ごく最近の1990年代の新しい治療法の進歩は、さらに、ものみの塔協会の医学方針の設定を困難にします。最近、新しい骨髄移植に変わる方法として、自家末梢血幹細胞移植と、臍帯血、あるいは胎盤血幹細胞移植という治療法が開発されつつあります。これはともに「移植」という言葉が使われていますが、実質は輸血です。自家末梢血幹細胞移植では術前の治療処置により、患者の末梢血の中に大量の幹細胞を動員させ、それを採取して保存し、後に注入する方法です。これは自己血輸血と実質的には同じことですが、輸血される血液が大量の幹細胞を含むことが違うだけです。これは「移植」という名前がついていますが、多分ものみの塔の解釈では許されない治療法に分類されると思われます。臍帯血、あるいは胎盤血幹細胞移植では、元々幹細胞をたくさん含む臍帯血や胎盤血を冷凍保存し、後で骨髄移植が必要な状況下で、骨髄移植の代わりに使う方法です。これですと骨髄移植の高度に侵襲的な骨髄の採取が不要となり、今後有用性が期待される治療法です。「ものみの塔」誌はすでに、1997年2月1日号で臍帯血の医学的使用に否定的で、臍帯血は捨て去ることを、エホバの証人に勧めています。

報道によれば、ある病院では出産の後、胎盤や。臍帯の血液中の物質を抽出するために、そうしたものを保存しているということです。クリスチャンは、このことを心配すべきでしょうか。

‥‥もつと最近では、後産から採取した血液を用いて、ある種の白血病の治療に成功した、と唱える研究者たちがいます。そのため、そのような血液は、ある種の免疫不全の治療に役立つかもしれないとか、骨髄移植の代わりになり得るという推測がなされています。我が子の治療に将来役立つかもしれないということで、後産から血液を抽出し、冷凍し、貯蔵してもらう親のことが時折報じられるのは、そのためてす。真のクリスチャンは、そのように胎盤の血液を商品化することに心を引かれることはありません。彼らは、神の完全な律法を考えの導きとします。人間の創造者は、血を神聖なもの、神から与えられた命を表わすものと見ておられます。神が認めておられる血の唯一の用い方は、犠牲に関連して祭壇の上で用いることでした。

‥‥入院しているクリスチャンは、自分の体から採られたものは、排泄物てあれ、病気に冒された組織てあれ、血液であれ、処分されるものと理解しています。‥‥もし患者の側に、そのような通常の手順が踏まれていないように思えるもっともな理由があるなら、担当医にそのことを話せるかもしれません。宗教上の理由で、その種のものはすペて処分してほしいと述べることがてきます。

 しかし、幹細胞のたくさん含まれる「骨髄血」の輸血を「骨髄移植」の名の元に「個人で決める問題」として許しておいて、同じく幹細胞のたくさん含まれる「臍帯血」の同じ様な使用法を否定しているのはなぜでしょうか。片方には臍帯血という「血」という字(あるいはbloodという言葉)が含まれるのに、骨髄移植には「移植」(transplant)という、ものみの塔が1980年に解禁した治療法のことばが含まれているからの違いだけではないでしょうか。

臓器移植と輸血は本質的な違いがありますか

 ここまで考えて来ると、一体輸血と移植とは一体本質的な差があるのかという疑問に到達するのではないのでしょうか。ものみの塔によれば、輸血は「血を食べること」あるいは「血で養うこと」であるから聖書の教えに反すると、長年の間教えてきました。しかし、そこには本質的な観点が失われています。輸血では取り入れられる組織の、生物的機能、すなわち酸素を肺から末梢組織に届けたり、感染と戦ったり、止血の過程に参加したり等、が受容者の側で同じ様に働き続けるのに対し、「食べる」行為では、取り入れられる組織は、破壊されて消化、吸収され、受容者の栄養素となって働きます。従って、輸血は血液細胞の移植なのです。

多くの人は輸血を受けることは血を食べることとは違うといいます。この見方は確かなものですか。

病院にいる患者は口からでも、鼻からでも、静脈からでも養われます(feed)。糖の溶液が静脈から与えられる時、それは経静脈栄養補給(feeding)と言います。ですから、病院の用語の中そのものに、静脈を通して、人の体の中に栄養を与える過程を養うこと(feeding)と認めています。従って病院で患者に輸血をする人は、その患者を静脈を通して血で養っているのです。‥‥

(「ものみの塔」1951年7月1日415頁)

 この議論は、ただ静脈と管とそこを流れる液体という、ただの見かけだけで議論している、詭弁というか、屁理屈としかいいようのない議論です。

輸血は本当に血を食べることと同じですか

病院では、患者が自分の口を通して食事を取ることができない場合、その患者には静脈を通して養分が与えられます。では、自分の口の中に決して血を入れなくても、輸血によって血を体の中に受け入れる人がいる場合、その人は本当に、「血‥‥‥を避けている」ようにという命令に従っていると言えるでしょうか。(使徒15:29)例えとして、アルコールを避けるようにと医者から言われた人のことを考えてください。飲酒はやめても、アルコールを直接静脈の中に注入させるとすれば、その人は指示に従っていると言えるでしょうか。(「聖書から論じる」1989年309頁)

 これもまた、無茶な論理です。確かに一昔前の医師が、弱っている患者に対し、元気づけのために輸血をしたことは、否定できません。しかし現代の医療界では、このような昔の習慣が反省されて、輸血は最小必要限度にとどめられています。実際のエホバの証人の輸血拒否例を見てみた場合、口から食べられないからといって輸血を勧められたエホバの証人がいるでしょうか。先ず皆無のはずです。現代のほとんど全ての輸血は、急性の失血(手術や外傷による)により、失われた血液細胞の機能が他の代用手段で補えきれない時に、それを一時的に補うために行われる緊急手段です。

 アルコールのたとえも、屁理屈としか言いようがないでしょう。アルコールは化学薬品であり、血液のような生体組織とは異なります。アルコールは口で飲む状態と、血中の状態は同じで、従って似たような効果が出るから、口から入れることも、静脈から入れることも同じ様に扱えるでしょう。同じことが水でも言えます。しかし、血液が口から入った時と、静脈から入った時とでは、全く別の効果を示します。いくらものみの塔が、特別な科学的見解を持っているにしても、口から食べた血液が、アルコールのように、そのままの形で血液の中に現れるとは主張しないでしょう。血液を食べることが静脈に入れることと同じことだとそこまで主張するのなら、出血をしている患者に輸血の代わりに血液を食べさせたら同じ結果になるでしょうか。

 ものみの塔は、その「血の教え」を押し通すために、この「輸血」イコール「食べること、養うこと」の議論をどうしても確立したくてしょうがありません。次の議論は、その涙ぐましい、なりふり構わぬ議論の例です。ものみの塔の議論によく出てくる手法で、「権威者」の口から自分たちを正当化する議論を語らせます。

血液が口からでなく静脈からとり入れられることは重要なことではありません。またある人が言うように、経静脈栄養とは同じではないという議論も重要性はありません。事実は血が人体の生命を養って支えることでなのです。この見方と調和するのはジョージ・W・クリル著の「出血と輸血」の中に出てくる言葉であり、その本はフランスの医師で輸血の領域で早くからの研究者であったデニスからの手紙を引用しています。そこにはこうあります。「輸血をすることは、普通の経路から近道をして栄養を与えているに過ぎない。つまり、何度かの変化を経た後に血液になる食物を摂取する代わりに、すべて出来上がった血液を静脈に入れるのである」。(「ものみの塔」1961年9月15日558頁)

 しかし、ここでものみの塔協会が決して教えない事実があります。ここに引用されているフランス人医師ジャン・バプティステ・デニスは17世紀の医師なのです。もちろん、こんな江戸時代に相当する古い医師の説を現代の医学に当てはめるなど、到底考えられないことですが、ものみの塔はその自分たちの主張をなんとか正当化するために、必死でこのような「権威者」の引用を持ってくるのです。1990年の「血はあなたの命をどのように救うことができますか」のブロッシュアーの6頁では、トマス・バルトリンという、やはり17世紀の解剖学者を引っぱり出して、「血によって病人は養われ、また回復させられるのである」という言葉を引用しています。

 このような記事から何が言えるでしょう。ものみの塔協会は、自分たちの聖書的根拠の薄い教義を何とかエホバの証人たちに納得させようと、「科学的権威」を使って自分たちの曲折した解釈を正当化しようとしているのですが、どうさがしても、17世紀の「権威」しか、彼らの解釈を指示する「権威」はいないということです。確かに、現在の生理学者、栄養学者、血液学者等で、この輸血イコール栄養をとること、という解釈をとる人は、いないのです。

 ものみの塔は最近になり、余りにもばからしいこの議論に気がついたのか、最近の論理は「食べること」から「生命を支える」こと、に論点を変えています。これは、確かに輸血のある程度の適応をカバーするかも知れません。しかし、ものみの塔はここに来て、今度はとんでもない間違いを冒しています。というのは、聖書には血を文字通り「食べる」ことは禁じていても、聖書のどこにも、血で「生命を支える」ことを禁じる言葉はないのです。ここに来て、ものみの塔は、「聖書の枠を越えた」教えを金科玉条として教えている自らの姿を明らかにしたと言えるでしょう。

 この「輸血イコール血を食べること」の議論に欠けている基本的視点、あるいは、ものみの塔が意図的に無視するか隠している点は、輸血が基本的に血液組織の移植であるということです。輸血が成り立つには、注意深くその細胞成分の生物学的機能と形態を保つ努力が必要です。そして、いったん受容者の体内に入ると、元来の血液細胞としての機能を果たすことにより、その輸血の目的が達成されるのです。血液を食べた場合は、その細胞成分は破壊され、消化吸収されて、全く血液細胞の機能はゼロになってしまいます。そして、この点は、実はものみの塔自身も不本意ながら認めています。ただ、それを大々的に宣伝しないだけです。

心臓血管外科医のデントン・クーリーの言っている通り、「輸血は一つの臓器移植である。‥‥私はほとんど全ての輸血にある程度の組織不適合があると思う」。(「目ざめよ」1990年10月22日9頁)

医師たちが心臓や肝臓などの器官を移植する場合、移植を受ける人の免疫機構は異物を感じ取ってそれを拒むかもしれません。しかし、輸血は一種の組織移植です。“正しく”交差試験の施された血液でさえ、免疫機構を抑制する恐れがあるのです。(「血はあなたの命をどのように救うことができますか」1990年8頁 イタリックによる強調は、原本では下線が引いてある)

 これらの引用は、ともに輸血の困難さを強調するために、多くの「権威者」の引用を持ってきたものですが、恐らく、ものみの塔協会の筆者も考えないうちに、実は非常に重要な視点を明示しています。そうです、輸血は一つの臓器移植です。そして、臓器移植である行為が同時に「食べる」行為ではあり得ないのです。いや、多分ものみの塔は、このように出版物に明示してあるくらいですから、輸血が移植の一種であることを知っているのかもしれません。しかし、そのことを認めることは、現在の「血の教え」全体の体系を崩すことになり、出来かねるのです。

 先に、ものみの塔が臓器移植を「良心の問題」として解禁した時、「医学的に人体の一部を移植することを聖書ははっきりと非としてはいない」ことと、「移植される体細胞が恒久的な意味で、受け入れる側の体の一部になるわけではない」ことを理由にあげてあったことを見てきました。しかし、この二つの理由は、そっくりそのまま、輸血、すなわち「血液細胞移植」にもあてはまるのです。「医学的に血液を移植することを聖書ははっきりと非としてはいない」し(食べることは非としてあったとしても)、「移植された血液細胞が恒久的な意味で、受け入れる側の体の一部になるわでではない」のです。

 ものみの塔は1967年から、1980年までの間、輸血と臓器移植を同じ理由で禁止しました。

● 腎臓移植は「人食い」であるから、聖書で禁じられている。

● 輸血(血液細胞移植)は血を食べること(「血食い」)であるから、聖書で禁じられている。

 1980年以降、この立場は次のように変わっています。
○ 腎臓移植は「人食い」ではないから、聖書で禁じられていない。

● 輸血(血液細胞移植)は血を食べること(「血食い」)であるから、聖書で禁じられている。

 同じ理由でありながら、一方を解禁し、他方を禁止し続ける何と片手落ちの、「教え」ではありませんか。

結語

 ものみの塔協会が真に「血から避ける」ことがエホバの絶対的命令であり、これを守ることがこの地上での命を救うことより遥かに重要だと考えるのなら、徹底してそれを行うべきでしょう。すべての血液製剤をきっぱりと拒否すれば、これだけたくさんの「読者からの質問」の紙面を使って、例外に次ぐ例外、抜け道に次ぐ抜け道を作る必要はないでしょう。しかし、世界中五百万人以上のエホバの証人の実生活を考えると、ある程度、「良心的に決める事柄」を作って、稀ではあるけれど実際にこのような治療を必要とする証人の福祉も考えなければならないことに気付くでしょう。それはちょうど、ひたすらモーセの律法を守っていたパリサイ人が、長年の間に実生活にあわせるために、細かな規則と抜け道を作り上げた事情と似ていることに気がつきませんか。そのようなパリサイ人を見てイエス・キリストは何を教えたでしょうか。パウロはどのように対応したでしょうか。形式的に律法を守って、実際には例外を作ることでしょうか。「血は避ける」と大声で叫びながら、その実は、少量だから血清は構わない、「自分の循環の一部と感じられる」から体外の血液を受け入れても構わない、という抜け道探しの態度だったでしょうか。

 エホバの証人の兄弟姉妹の皆さん、もう一度、聖書を通してお読み下さい。そして、イエスの「忠実な奴隷」を自称して、世界中五百万人の命と健康を預かる指導者として、ニューヨーク・ブルックリン本部の統治体の推進している「血の教え」が本当に、「主人」であるイエス・キリストの教えにあうものであるかを、ここで再検討してみて下さい。わたしたちは、この「血の教え」を廃止することが、世界のエホバの証人の真のエホバとイエスの元での、愛ある交わりを保っていける鍵であると信じて、この活動をはじめました。これがわれわれ、執筆委員会の「現状を憂う」エホバの証人の、聖書的良心に基づいた訴えです。


第一部 エホバの証人の血の教えの歴史的発展とその現状

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