第二章:予防接種に関する教えの歴史

 第一章で見てきたように、ものみの塔協会の医学キャンペーンは、主に「黄金時代」誌の上で、その編集者、クレイトン・ウッドワースの筆で行われてきました。第一章で述べた、多くの医学キャンペーンの他に、一貫して貫かれたものみの塔協会の主張に、予防接種の反対がありました。それがどのような議論によっているのかを、先ず、ものみの塔協会の出版物から直接引用して見てみましょう。

 18世紀の終わりにイギリスのジェンナーにより、種痘が開発されて以来、人類の歴史と同じ長い歴史を持ち、世界的に常に猛威をふるい続けてきた天然痘(疱瘡)は年を追って、撲滅に向かっていました。またその後、天然痘以外の伝染病、例えばジフテリア、麻疹等の予防接種も次々に開発されていきました。しかし、ものみの塔協会の指導部はこのような世界的な医学の進歩に頑なに背を向けていたのです。

予防接種は何も予防しないし、これからも何も予防することはないだろう。これは最も野蛮な行為である。‥‥われわれは今、終わりの日にいる。悪魔は徐々にその立場を失いつつあり、最後のあがきを行って、出来る限りの害を行い、その害悪が自分たちに帰せられるようにしている。‥‥アメリカ市民の権利を利用して、この悪魔の行為である予防接種を永遠に葬り去るべきである。(「黄金時代」1921年10月12日17頁)

 この当時も、現在と同様、すべて、ものみの塔協会にあわないものは、悪魔に帰せられ、「終わりの日のしるし」にされたのでした。

 1923年1月3日の「黄金時代」誌は、「予防接種の詐欺」と題する記事を載せ、その中で徹底的に予防接種の害を説き、それに伴う医療体制への批判に大きな紙面を費やしています。

予防接種の詐欺

予防接種の原理からだけでも、この行為は糾弾するに値する。腐った物質である膿を血液循環の中に注入することなど、どう贔屓目に見ても、吐き気を起こさせる嫌悪すべき行為である。予防接種に何らかの意味があるとすれば、それは健康人あるいは病人に感染物質を注入して、忌むべき悪質な病気を作ることである。‥‥(「黄金時代」1923年1月3日212頁)

予防接種が稀ならず、死、梅毒、癌、結核、発疹、癩病やその他の病気の原因となっていることは、もはや疑いの余地もなく示されている。(同)

知恵の優れていた子供たちはワクチン接種を受けた後まもなく、鈍くて愚かな子供になってしまった。彼らを健康状態に回復させるのは困難であった。(同)

 この予防接種攻撃は、ここでも、ものみの塔が繰り返し主張する「悪者」に帰されています。エホバの証人の世界観では、これは昔も現在も変わりませんが、この世には三つの大きな邪悪な力が働いていることになっています。それらは、「偽りの宗教(これはものみの塔以外の全ての宗教を指す)」、「この世の政府(これはサタンに支配されていると信じる)」、そして「抑圧的大企業」ですが、ここでは予防接種の悪は、この第三番目の邪悪な力に帰されています。

一般の人々は、血清や抗毒素、ワクチンなどの製造がどれだけ大きな産業であるかに気がついていないし、大企業が全体の[予防接種の]産業を支配していることを知らない。‥‥健康委員会が、天然痘、ジフテリア、チフスの流行を引き起こそうと努力しており、彼等は考えの至らない社会の人々に、その製造した汚物を接種することにより、黄金の刈り取りをしているのである。(「黄金時代」1923年1月3日214頁)

 この商業や大企業に悪を帰する、ものみの塔の態度は、最近の「目ざめよ!」誌(「黄金時代」の誌名が変わったもの)1990年10月22日号の「血液の販売−もうけの大きい商売」の記事で、輸血の裏に企業利益が働いているという主張と共通したものです。その記事では、国際赤十字社が大々的な嘘と非倫理的方法で、血液を売って大儲けをしていると主張しています。この論じ方は、今も昔も変わらない、ものみの塔協会の論理のようです。

 その後も、ものみの塔協会の奇想天外な予防接種攻撃は続きました。

健康で正常な機能を果たしている体は、病気の兆候を示さない。そしてワクチンがそのような体に植え付けられると、それは他の毒物や排泄物と同様に体から除去される。しかし、その侵入の努力が余りにしつこいと、その毒物はついに血流に入り込み、血液はそれを無毒化出来なくなる。その時に予防接種が成り立つのである。(「黄金時代」1925年4月8日424頁)

考えのある人は種痘をうけるよりは疱瘡にかかったほうがましだと考える。なぜなら種痘は梅毒、癌、発疹、丹毒、腺病、結核はもとより癩病に至るまで、多くの忌むべき病気の種を植え付けるからだ。従ってワクチン接種の行為は犯罪であり、非道であり、妄想である。(「黄金時代」1929年5月1日502頁)

人間の血が侵害されることと、悪魔信仰の広がりとは何らかの関係があることは、非常にありえることである。‥‥‥ 今日の性関係のいい加減な系列は、人の血と動物の血とを分けておくようにという神の命令を、簡単に継続的に破っていることに源を発していることは、明らかに示されるのである。他の動物の血が静脈の中を駆けめぐっている状態では、人間は正常ではなく、自分自身を失い、自己統制を可能にする冷静さと均衡を欠くことになるのである。‥‥ (「黄金時代」1931年2月4日293頁)

 ここでも、医療上の治療を悪魔信仰、性関係の問題とこじつけていますが、これに似た議論は現在のエホバの証人が、臓器移植や輸血の問題でも使っています。

種痘は、洪水の後、神がノアと結んだ永遠に続く契約の直接の侵害である。(「黄金時代」1931年2月4日293頁)

 ここでは、予防接種反対の「聖書的根拠」が上げられています。

全ての理性のある心は、神が反対しているのは血を食べることではなく、野獣の血を人間の血と接触させることなのである。‥‥予防接種は人の命を救ったことは一度たりともない。種痘は天然痘を防ぐことはできない。(「黄金時代」1931年2月4日294頁)

ワクチン接種は動物に由来する物質を直接人体の血流に注入することであり、エホバ神の法の直接の侵害である。(「黄金時代」1935年4月24日465頁)

 この時代、予防接種に対する攻撃は、やはり血の教えに基づいていたようですが、これらの引用でも分かる通り、その教えは血を食べることに問題があるのではなく、動物の血が人体に入り、人間の血と混じることがその大きな理由でした。この予防接種禁止の教えは、現在の血の教えと全く同様に、これがノアとエホバが結んだ永遠の契約に違反するから、許されないというものでした。また、これも現在の血の教えと全く同様に、治療に伴う危険を誇大宣伝しています。確かに種痘による副作用があったことは否定できませんが、それにより、ものみの塔協会の言うような、全く無関係の病気が引き起こされたことはありません。

体が病気の組織の注射により健康になり、血流を腐敗させることで病気に対する免疫が得られるなどという、ひどい作り話を聞いたら、悪魔はどれだけ大笑いすることであろう。‥‥マリアとヨセフはヘロデ王から逃げることができたが、医師会の監視の目と広範に延びる触手から逃げることは困難であろう。‥‥医師会は一つの予防接種だけでは満足していない。そこにはある程度の儲けがかかっているのだ。健康な人間が、金を払って医者の助けを必要とするとは、彼等にとって何と素晴らしい発見であろうか!‥‥(「慰め」1939年5月31日3頁)(「慰め」は「黄金時代」と「目ざめよ!」の間に一時的に使用された雑誌名)

予防接種は、意図的に作った敗血症であり、それ以上でも、それ以下でもない。(「慰め」1939年5月31日5頁)

 ここでもまた、ものみの塔協会は、飽くなき攻撃を医師会に向けて行っています。

 しかし、1952年になって、ものみの塔誌は、「読者からの質問」の欄を使って、劇的な変心を行い、この反予防接種の立場を静かに、しかし手のひらを返すように180度ひるかえしたのでした。ものみの塔協会は、頻繁に教義の変更を、この「読者からの質問」の欄を使って発表するのが、伝統となっています。

予防接種は神の血を取り入れることを禁じる掟に違反することですか?−G.C.ノース・カロライナ

予防接種に関する事柄は、個人がそれに対して自分の決定を下すべきです。‥‥そして当協会はこれに関して訴訟に持ち込めるだけの資力はありませんし、その判決に責任を負うことはできないのです。

 ここで注目すべきことは、この新しい教義の変更の言い訳として上げられている理由です。ものみの塔協会は、ここで明らかに予防接種禁止の教えにより、沢山の命が失われたことを、言外に認めています。それはその当時、エホバの証人とものみの塔協会に向けられた、数々の訴訟を見てもわかります。

 後に、種痘の有効性は世界的な天然痘の絶滅をもって証明されましたが、その当時、天然痘はアメリカだけでも年間10万人近い患者がおり、死亡率は40%に登りました。その間エホバの証人の種痘拒否によって、何人のエホバの証人が天然痘で死に、またエホバの証人が免疫を受けていないために、社会全体が病気の蔓延でどれだけ苦しんだかは、想像に難くありませんが、その実数はつかめていません。(これに似た例は現代でも続いており、麻疹の予防接種を拒否する宗教団体の子供たちに源を発した麻疹の蔓延が知られています。)ものみの塔協会は、それ以上の「世」の圧力に抵抗するわけには行かなかったようです。この「新しい光」と呼ばれる教義の変更がここで打ち出された理由は、ものみの塔がこれ以上の犠牲者を出して、訴訟で係争する資力もなければ、判決に沿って賠償をする責任も負いたくなかったからでした。

 この「ものみの塔」誌の記事を読むと、その時まであれだけ力を入れて説いていた「聖書的」な議論は、すっかり影を潜め、あるいは全くどうでもよいこと(資金をかけて責任をとることに比べれば)のように見えます。

この事柄を検討した結果、これは創世記9:4に書かれた、ノアの結んだ永遠の契約の違反でもなければ、レビ記17:10−14のこれに関係した神の命令に反することでもないように、われわれには思えます。少なくとも予防接種を受けることで、その人間が血を飲んだり食べたりした、あるいはそれを食物として取り入れた、あるいは輸血を受けたということになるとは、論理的にも聖書的にも、議論して証明することが出来ないことは確かです。予防接種は、創世記6:1−4に書かれている、み使いの「神の子」と人の娘との結婚とは何の関係もなく、何の類似性もないのです。また、この問題はレビ記18:23,24に書かれた人と動物との交接を禁じた問題と同じ分類に入れることも出来ません。これは性関係とは全く関係ないことです。(「ものみの塔」1952年12月15日764頁)

 ここまでの議論は、確かにその通りと思われます。しかし、それでは、ものみの塔協会があれだけ繰り返してきた教えを守って病気になったり、死んだりしたエホバの証人はどうなのでしょう。この記事では、そのことには一切触れてはいませんし、反省をうかがわせる言葉は一切書かれていません。しかも、その時点でも、まだ負け惜しみととれるような、次の言葉が続きます。

確かに予防接種がその結果として、それが予防するはずの病気に対して、血液にそれに抵抗する生命力を築き上げることになると、医科学は主張しています。しかし、これはもちろん、一人一人の個人が、エホバの彼に対する意志であると思えることに従って、自分で決定すべき問題です。(同)

 そして、最後にそれまで、意味の無い教えを真理と信じてきたエホバの証人たちには、どのような言葉がおくられたでしょうか。

わたしたちは、単に上に書いてある情報を、要請に従って提示しましたが、読者がそれによって決定して行ったことに関しては、わたしたちは責任をとることはできません。(同)

 つまり、協会は予防接種を受けることが、個人で決める問題か、それとも神の命令として絶対に守らなければならない事柄かを決めて、それをエホバの証人たちに「ものみの塔」誌を通して徹底させてはいますが、「その結果がどうなろうと責任はとりませんよ」、という態度です。これは、現在でも続く協会の態度であり、後の臓器移植と輸血の問題の所で、再び見られます。

 このように、1923年から17年間にわたり、ものみの塔はその出版物の中で激しい口調で種痘を含む予防接種を攻撃し、エホバの証人は、ものみの塔協会が「新しい光」として1952年にこれを解禁するまで、種痘や予防接種を拒否し続けていました。この間「黄金時代」には予防接種を皮肉った漫画が掲載され、エホバの証人の子供は入学を拒否されることもありました。

 今日では、エホバの証人が予防接種を受けることは、何の抵抗感もありません。昔の「古い光」は忘却の彼方にあります。1993年の次の「目ざめよ!」誌では、予防接種について次のように書かれているのです。

予防接種を受けたほうがよいでしょうか

1950年代に、ポリオに効くワクチンが開発され、ほとんどの国では事実上この病気の脅威に終止符が打たれました。1980年には、天然痘は世界から撲滅されたと宣言されました。このことは「1オンスの予防は1ポンドの治療ほどの価値がある」というベンジャミン・フランクリンの言葉の正しさを支持しているようでした。今日、予防接種は多くの病気の抑制に全般的な効果を上げています。少し挙げるだけでも、破傷風、ポリオ、ジフテリア、百日咳などの例があります。‥‥

子供の予防接種が可能な世界のほとんどの場所では、定期予防接種のおかげで、対象とされた小児病の発病率が激減しました。(「目ざめよ!」1993年8月8日22頁)

 この予防接種に関するエホバの証人の歴史は、血の教えを理解し、今後の方向を推測する上で、鍵となる大きな情報を与えます。というのも、予防接種の禁止の教えには、今の輸血禁止の教えと共通する論理と聖書の裏付けが使われており、それが後に手のひらを返すように変更されたからです。

 次の章では、この予防接種解禁とほぼ時を同じくして、厳密な教義に発展し、予防接種に代わるエホバの証人の最大の医学教義となった、輸血禁止の問題を取り上げます。


第三章:「血の教え」の成立の歴史

第一部 エホバの証人の血の教えの歴史的発展とその現状

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