THE EASYBEATS 日本語FAQ

1997年1月9日更新


THE EASYBEATSに関するよしなしごとのページです。

実際にこういった質問がよくあるとは思いませんが、気になりだしたら止まらない「謎」に対するお答え集です。要するに私自身が疑問に思ったことばかりなんですけどね。

Q:そもそも「EASYFEVER」っていうのは何なんでしょうか?

A:これは、イージービーツが1965年に「She's So Fine」から立て続けにヒットを飛ばし、オーストラリアで一躍時の人になった頃の彼らの追っかけの少年少女たち(主に少女)の狂態を表した言葉です。このタイトルのEPも出てますね。英米で言えば「Beatlemania」というのもありますね。英語ではマニアというのは、けっこうたがの外れた様子を指しますから。日本の「グループサウンズ」も、マスコミがブームを表すためにつくった造語だという点では同類のものです。こちらは特定のグループのファンを表さず、雑多なグループをひとまとめにしている点が大きく違うんですが。

Q:ジョージ・ヤングの兄弟が、あのAC/DCのアンガス・ヤングとマルコム・ヤングだというのは本当でしょうか?

A:本当です。ジョージは彼らの兄です。AC/DCのアルバムの何枚かはジョージとハリーのふたりでプロデュースしています。グレン・A・ベイカーによるイージービーツの小史によれば、ジョージの実家の住所が無謀なマスコミによって報道されてしまい、その結果ファンが殺到して警官出動という事態にまでなった事件の際に、なだれこんだファンによってまだ幼かったアンガスももみくちゃにされたという記述があります。さらにジョージの兄のアレクサンダーもまたミュージシャンで、グレープフルーツのメンバーでした。

Q:アルバム「Volume 3」と「Friday On My Mind」の間で作曲コンビがライト=ヤングからヴァンダ=ヤングに変わりますが、これはどうしてでしょうか?

A:スティーブとジョージのコンビが解消された理由はわかりませんが、最初の内、ハリーが曲を書かなかったのは、彼がオランダ出身で、1964年の移住後しばらくは英語が苦手だったからだそうです。ライト=ヤングのチームが解消された後、スティーブ単独で書いた曲がほとんどないことからみても、ライト=ヤングの実体は、ほとんどジョージが中心だったのかもしれません。

さらに言うと、これは憶測でしかないんですが、イギリス進出にあたって彼らは単純なラブソングではいけないと考えたのだと思います。1965年からイギリスのロックは本格的に歌詞が変わってきます。その波を彼らが知らなかったということはないでしょう。1966年の後半にはもはやサイケデリックが主流となります。イージービーツの渡英のタイミングからすると彼らがそれまで得意としていたラブソングをやめて、もっと複雑な曲と詞を指向したと考えるのが自然でしょう。そこで、以前から多少稚拙な面が目立った作詞担当のスティービーが外れて、その代わりに英語も上達したハリーが作詞作曲に加わったと考えられます。普通はこういった交代劇には確執がつきものですが、彼らにはそういったものがなかったようなのでスティービーも納得の役割分担の見直しだったのでしょう。この交代をきっかけに作詞・作曲ともに格段にレベルアップするので、ジョージに対するハリーのサポートはかなり効果的だったといえます。スティービーとハリーでは作詞作曲能力の差が歴然としていたんでしょう。

結局、スティービーは1974年の彼のソロ・アルバム「Hard Road」でも二人に作詞・作曲、プロデュースをしてもらっています。

Q:ドラマーのゴードン・スノーウィー・フリートはリバプール時代にモジョズに参加していたとのことですが、本当ですか?

A:本当のようです。しかし、日本の書籍の中には誤訳と思われる解説が書かれているものもありますので要注意です。彼は1963年にはオーストラリアに移住してしまうため、彼がモジョズに参加していた頃の写真や録音は残っていないみたいです。ちなみにモジョズとは、「Everything's Alright」のヒットで知られるリヴァプール出身のバンドです。この曲はデビッド・ボウイ、GSのアウトキャストらによってカヴァーされています。

Q:やはりスノーウィーですが、彼は亡くなったのですか?

A:これは間違いです。彼はオーストラリアのパースで建築士をしているようです。1986年のリユニオン・ツアーにも参加してます。音楽から遠ざかっていただけに、流石にドラマーとしての技量は聴くに堪えないレベルに落ちてしまいましたが。

Q:「Friends」の作詞作曲クレジットの大半がRusselとなっていますが、この人は一体何者ですか?

A:これはヴァンダ=ヤングによる変名です。マネージメントの関係、対外的な配慮などから変名を使わなくてはならない状況だったらしいです。確かに曲調が以前と比較すると微妙に違うので、もしかしたら外部の作曲家を起用したのかといぶかしむ所ですね。決してレオン・ラッセルではありません。念のため。蛇足ですが、この「Friends」ではヴォーカルが誰かよくわからない曲もあります。これはスティーブが歌い方を変えているのだと思うんですが、少なくとも外部からヴォーカリストを招いたわけではないようです。もう一つ蛇足ですが、ヴァンダ=ヤングが変名を用いたのはこれが唯一の例ではなくて、彼らは70年代に2000曲もの曲を書いたそうです。その大半は発表されていても別名義になっていると思われます。彼らの一般的な知名度はそれほどでもないですが、印税収入は相当なものでしょうね。何せプロデュースまで含めると、AC/DC、ベイ・シティ・ローラーズ、スージー・クアトロ、デビッド・ボウイ、ロッド・ステュアートなどの作品からも印税が入りますから。

Q:「Friends」のベースは誰が弾いているのでしょうか? なんとなくディックらしくないんですが・・・。

A:ほとんどジョージ・ヤングだと思います。このアルバムは大半がヴァンダ=ヤングのふたりだけで制作されています。最早バンドとしての作品ではありません。スティーブが歌っている曲が極端に少ないことからも、バンドのメンバーが揃っていなかったのは明白です。質問に関して言えば、ディックもまた、当時はバンドから離れ気味で、この時期はほとんどベースを弾いていないと思います。注意して聴けば、ベースのフレージングや音色がベーシストらしくないのがわかるでしょう。ジョージは後にベースを弾いていたりしますから、ここは多分ジョージが担当したのだと思います。そして、この「Friends」の作品の録音にはトニー・ケイヒルもほとんど参加していないようです。これまたドラムをよく聴けば、リズムがタイトな割に技に乏しいシンプルなドラムだとわかります。しかし、そうなるとこのドラムはハリーなのかな? パーカッションやコーラスが賑やかしで加えられていますが、そういったサウンド・プロダクションに重点が移っている点も、後のヴァンダ=ヤングの活動とオーヴァーラップしてくるでしょう。

Q:「Saturday Night」のコーラスはなんだか変ですが、あの笑っているようなのはわざとなんでしょうか?

A:「にょ・にょ・にょ〜」というコーラスに挟まるおかしな所ですが、あれはわざとだと思います。なぜなら、テイク違いでも同じことをしているからです。意図はわかりません。

Q:イージービーツ解散後の各メンバーの活動はどうでしたか?

A:ハリー&ジョージ、スティービー、トニーは音楽を続けましたが、ディックとスノーウィーはバンドをやめてそのまま引退しました。トニーはパイソン・リー・ジャクソンでのヒットなど、いろいろ活躍した模様ですが、詳しくは知りません。スティービーはソロでアルバム「Hard Road」がオーストラリアで1位を獲得するなど70年代の半ばまで活躍が続きます。このアルバムからのヒット曲で、「Hard Road」をロッド・スチュアートが、「Evie」をスージー・クアトロがカヴァーしています。なお、このアルバムのプロデュースならびに主要な曲の提供をハリーとジョージが行っています。

ハリーとジョージについては、書き出すと本当に長くなるので別な欄で述べることにします。

Q:元イージービーツの彼らはイージービーツのことをあまり語らないようですが、どうしてですか?

A:簡単にいえば、ヴァンダ=ヤング以外はその後みんな音楽から離れているからです。そして、主役であるヴァンダ=ヤングのふたりにとっては、音楽キャリアにおける最初数年間の出来事に過ぎないからです。後期イージービーツはこのふたりによる作詞作曲・プロデュースの実験ユニットになっていた以上、彼らのイージービーツとしての自覚は「Vigil」辺りで終わっているのかもしれません。この辺りに関するハリーのインタビューは「The Definitive Anthology --- Ausie Beat Shook The World」というボックスセットに入っているブックレットで読むことが出来ます。最近違うタイトルの2枚組セットが出てますが、多分内容は同じものです。こちらにもこのインタビューと同じものが納められている模様です。ハリーはかなりドライな回想をしています。グレン・A・ベイカーによるジョージのインタビューでもやはり、ジョージはかなり突き放してイージービーツのことを語っています。とにかく金にならなかったことと、渡英後はスタジオに入り浸りになっていたことが彼らの共通した記憶ですね。スタジオワークを覚えたこと、ビジネスのやり方を覚えたことが彼らがイージービーツで得たものだったといえるでしょう。70年代の彼らの作品の多くは変名でなされているようです。これは彼らがクレジットをビジネスの手続き的な問題ととらえていたからでしょう。単独でのセールスでは最も成功したFLASH & THE PANでも彼らは匿名ユニットを狙っていましたし、彼らはスターダムから降りることによって、職人として活躍する道を選択したのですね。渡英後のイージービーツが商業的に成功していたら、彼らの進んだ道はまた違っていたのかも知れません。

Q:イージービーツと他のバンドとの交流はなかったのですか?

A:有名な所では、スモール・フェイシズとの交流がありました。実際にスティーブ・マリオットがバッキング・ヴォーカルをしている曲もあります。しかし、どちらのバンドも1967年を最後に分解過程に入ってしまいます。また、マリオット=レインの作曲コンビはほとんど対外的に作曲していなかったので、彼らの曲をイージービーツが演奏したということもないようです。他には、ビートルズとの交流はあまりなかったものの、ビートルズがらみの逸話がいくつかあります。ブライアン・エプスタインからマネージメントの申し出があったとか、ポール・マッカートニーがドライブ中にラジオで聴いた「Good Times」にぶったまげて、すぐに車を止めてラジオ局に電話したとか、意外なエピソードがあります。デビッド・ボウイが後に「Pinups」で「Friday」をカヴァーするように、実はイージービーツはイギリスのミュージシャンの間では結構知られた存在だった模様です。プロデューサーもシェル・タルミーにグリン・ジョーンズと名の知れた人が歴任してますし、「Friday」の成功を最後に解散まで失敗続きだったのは残念なことでした。若干知名度の低いところではグレープフルーツとの交流がありましたが、こちらはジョージの兄が参加していることが理由でした。

Q:当時、日本盤は出ていたのでしょうか?

A:わかりません。シングル「Friday On My Mind」は出ていたようですが、後は多分なかったのでは? この曲には「我が心の金曜日」という邦題がありますが、長いタイトルの曲「Falling Off The Edge Of The World」に邦題が付いていたという話は知りませんから、多分このシングルより前に日本でのリリースは止められていたと思います。もしも英国盤と同じスケジュールでリリースされていたとしたら、「Friday」の次のシングル「Who'll Be the One」にも邦題が存在することになります。これはこれで興味深いですね。どんな邦題だったのかな。

Q:ジャケット写真をよく見ると、ディックが着ていた服と同じものをトニーが着ている時があります。これはユニフォームか何かでしょうか?

A:わかりません。しかし、ユニフォームではないでしょう。初期のスーツ姿と、Fridayのジャケット写真に見られるしましまスーツ以外はユニフォームらしきものを見たことはありません。問題の服は、「Vigil」のジャケットでトニーが着ているベストですが、確かにディックも同じものを着て写っている写真があります。ふたりのキャラクターを考えると、多分ディックが着ていたものをトニーに譲ったのではないかと思います。ふたりの着方の違いもポイントですね。ディックは黒い服の上に着てますが、トニーは素肌に直です(さすが肉体派)。

Q:イージービーツのデビューのきっかけはどんなものだったのでしょうか?

A:直接的にはクラブで演奏している所をアルバート・プロダクションに認められたことがきっかけですが、全世界的にビートのブームが訪れたことがその背景にありますね。そして、そのブームの立て役者はなんといってもビートルズです。そのビートルズが、実はイージービーツのデビュー前夜、1964年にオセアニア・ツアーを敢行しています。これが大きな影響を及ぼしたんでしょう。これについてはまもなく資料が手にはいるのでまた詳しく紹介します。ちなみに、日本では1966年にビートルズが訪れ、1967年から本格的なGSブームが沸き起こりました。GS現象というのは、EASYFEVERと同じことだったんですね。

文責:棚橋勝敏(イージーファン)

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