PLASTICS SECRET STORY
![]() Hajime Tachibana |
ロス・アンジェルス 1981年 Hぼく、日本に帰りたかったけど、終っちゃったから何か帰りたいという気もなくなっちゃって...。プラスティックスには満足してなかったけど、コレっていう構想みたいなもんもなかったし、その頃ギター弾いてたからヴォーカリストじゃないから、じゃ君何やりますかっていわれてもさぁ...。ほんとにここだけの話、プラスティックスはヤバイなぁというのは判ってて、せっぱつまった気持ちだった。 1981年、3月から7月までイギリス及びヨーロッパ、そしてアメリカを含む長期のワールド・トゥアーに出ていたプラスティックスが、お定まりのバンド内の音楽的意見のくい違いを理由に、実質的に解散を余儀なくなくされたとき、トゥアーの終了を俟って島武実と佐久間正英の二人はすぐ帰国、一方の中西俊夫と佐藤チカの二人はニュー・ヨークへ向かい、メロンとしてスネークマン・ショーのレコードに参加する為にレコーディングを開始した。そして残るひとり、立花ハジメはそのままロス・アンジェルスに居残ることになった。 Hメロンも最初のときはぼくが茂一から頼まれて、それでチカ、トシにユキヒロと細野さんとで、「黄金のクラップ・ヘッズ」やってるじゃない。でも今度はチカ=トシにという話だったし、ぼくはとにかく終った!トゥアーだけじゃなくて、ひと区切りついた、っていう感じだった。 |
![]() Plastics@World Tour |
トーキョー 1975年
立花ハジメと最初に会ったのは、筆者が初めての単行本として「恋する男たち」の出版を準備中のことであった。その次に出会ったときは、彼はプラスティックスという名の、アマチュアのパーティーバンドのギタリストに変身していたのでる。 ロクシー・ミュージックのファンというのがまだまだ珍しい時代であったから、筆者のその夜の感激たるや並大抵のものではなく、遂にはこのユニークなアマチュアたちを、ブラウン管にまで引っぱり出してしまうことになった。「NOK」という、まぁ今ならニュー・ヨークのアンダーグラウンド・ケーブル・TVでも企画しそうなユニークなプログラムのホストを筆者は担当していた為に、プラスティックスのTVデビューに一役買った、という訳である。 |
この模様は、WOWOW放映「HAJIME TACHIBANA DESIGN Vol.2 -REGEND OF BAMBI-」の中で短く紹介されている。 彼らは7人組のグループとして登場、ROXY MUSICの「LET'S STICK TOGHETHER」を演奏している。 |
筆者の次にこのバンドに注目した人物は、スネークマン・ショーをラジオ用にプロデュースしていた桑原茂一氏だったそうである。結局はボツとなったが、氏は当時すでにスネークマン・ショーのレコード化を企画中で、その企画の一部としてプラスティックスに声がかかったものの、フォノグラムの北沢孝氏のもとで「ただでレコーディングができるゾ」と喜んでハッスルしたプラスティックスの期待もむなしく、遂にレコード化は実現しなかった。
茂一氏はしかし、セックス・ピストルズのマルコム・マクラレンよろしく、プラスティックスのマネージメントをかって出た、という。派手なルックスが話題を集め、方々のパーティーからお呼びがあったが、日本のマルコムは頑として安いギャラの申し出は受けつけず、それでなくても苦しくなる一方のバンド維持の最後の賭けとして、華々しいオーディションをレコード各社のディレクターたちを呼び集めて開催、みごとにコケて、この段階で氏は手を引くと同時に、チカ、トシそしてハジメの3人を残して他の仲間は、もっとまともな仕事を選ぶと言い残して、バンドを去り、原宿にブティック、プレッピーをオープン。 Hあのままやってりゃ良かったのに、サウンド志向に走って、売れなくなって......。 とは他ならぬハジメの述懐である。 |