盗まれた月

光りは闇のように暗く
闇は光りのように明るい。
氷は炎のように熱く
炎は氷のように冷たい。
今は永遠のように長く
そして永遠は一瞬のように短い。
この混乱した世界の中で
私は見つける事が出来るのだろうか。
私のたった一つの確かな場所を。


  
プロローグ


 月は見えなかった。厚い雲に覆われていて、見上げて広がっていたのは真っ暗な闇であった。少年はただ呆然と、暗闇を瞳の中に取り込む。ともすれば、自分さえ持っていかれそうな暗闇の中、少年はじっと佇んでいた。
 ここに居なさい、と命じられて一時間は経っただろうか。その命令のまま、少年はその場から動かない。もう、帰ってこないという事は直感でわかってしまっていた。けれど、置いていかれた事を認めたくなくて、少年はただ、その場に立ち尽くしている。
 ぽつり、と少年の頬を冷たいものが掠めた。それが雨の雫なのだ、と理解するまでどれくらいの時間が必要だったのだろう。少年は暫く自分を濡らす雨の雫を体中で感じて、薄っすらと笑った。
 このまま、この雨にうたれていたら、置いていかれた自分も皆の所へ行けるだろうか……心の片隅で、ふとそんな事を考える。一人になる事に怯えなくてもいい世界、ただそれだけを夢見て、少年は薄っすらと笑った。
――ここに居なさい。
 父親はそう命じた。待っていろ、とも、迎えに来る、とも言わなくて、ただ居なさい、と命じた。本当は、それを認めたくなかった。置いていかないでとすがりつきたかった。しかし、そうしたところで返って来るのは父親の困ったような笑みだけで、自分の望む言葉は決して返ってこない事はわかっている。だからあの時、少年は頷くしかなかった。
「ここに……居る……」
 少年は小さく呟く。だから、はやく連れて行って、と。
「バカな事をする」
 少年の背後から声がした。振り返ってみると、一人の青年の姿がある。自分をあっちの世界に連れて行ってくれる人だろうか、と少年は首を傾げる。
「……本当にバカだ……」
 青年はもう一度呟いた。その言葉はどうやら自分にかけられた言葉ではないらしい。少年は、青年を見上げて再び首を傾げた。
「今更、良心の呵責とでも言いたかったのか。……バカだ」
 呟いて、青年はようやく少年の姿を視界に入れた。きょとんと青年を見上げている少年の目線の高さにまで自分の目線をおろすと、青年は口元をわずかにゆがめた。
「けれど、置き土産はしっかりと残していってくれたわけか……」
 青年の言葉の意味は、未だ幼い少年には、はっきりと理解できるものではなかったが、漠然とした恐怖心が少年の心の中に芽生えた。しかし、自分を射抜いてくる目線が強くて、少年は言葉を発する事ができなかった。
 青年は、少年のそんな様子を満足そうに見詰めて、おもむろに立ち上がる。少年は怯えて青年を見上げた。
「来い」
 唐突に青年が命じる。まるで呪術にでもかけられたかのように、少年は反射的に頷いた。
 彼ならば、と少年は思う。彼ならば、きっと自分を皆のいる場所へ導いてくれる。きっと、それまでは青年について行けばいいのだ。それが、どんな事を意味していようと、彼は必ず自分を連れて行ってくれる――自分の本来の居場所へ。




 暗闇の中、小柄な人物の影が躍る。その影の主は、軽く身を翻し、一軒の屋敷のバルコニーに降り立った。同時に、とんっと小さなが音がする。小柄な少女は、暗闇の中、わずかに顔をしかめた。しかし、すぐに気を取り直し、窓に手をかけるとそっと右にスライドさせてみる。鍵がかかっているだろうと思われた窓は、意外にも簡単に少女の進入を許してくれた。
 少女は、薄く笑って部屋の中に足を踏み入れた。部屋の中は、外と同じように暗闇に支配されている。夜目の利く少女には、暗闇など進入の妨げにはならない。人の気配は――ないようだった。
 貴族の豪邸だというのに、いささか無用心すぎる。少女でなければ、きっと違和感を感じたに違いない。しかし、少女は特におかしいとは思わなかったようだ。もともと、そういう事には無頓着なのだ。少女は、音を立てないように慎重に歩みを進めると、部屋の中を見回した。
 部屋の中に、特に豪華なものは見当たらない。屋敷の主人は装飾品には興味はないのだろうか。それとも、無造作に置かれている、がらくたに見えるそれらには、それなりの価値があるのかもしれない。
 少女は、わずかに首を傾げ、そっとがらくたに手を伸ばした。
「何か面白い物でも見つけたのかい?けれど、生憎ここに置いてあるものは、私の持つペン一本の価値にも劣るものばかりだけれどね」
 ふいに暗闇の中で声がして、少女は慌てて手を引っ込めた。何の気配も感じられなかった部屋に、今は誰かの気配を感じる。そう、さっきまで、人の気配はなかったのだ。
 スイッチの入る音がして、部屋の中が光りに支配された。暗闇になれきった瞳は、突然飛び込んできた光の洪水に驚き、少女はまぶしさに目を細めた。夜に生きる彼女は、人工の光が苦手だ。
 しばらく、瞳を開けたり閉じたりしていると、光りにも慣れてくる。ぼんやりと浮かんでくる人の姿を目をこらして凝視すると、それが青年の姿であるという事がわかった。
 だんだんと視界が開けてくる。目の前に立っているのは、自分よりいくつか年上の――青年と呼ぶには幼く、少年と呼ぶにはふけすぎた――男性だ。銀色の長く伸ばされた髪に、少し赤みがかった茶色の瞳。美しい、という表現を男性に使った事はないが、きっと美人、というのは目の前の男性のような人間の事をさすのだろう。
 呆然と男性を見詰めていると、男性は微笑を浮かべた。
「成る程、リゼットの人間か。――リブレス伯爵家に忍び込むとは、なかなか勇気があるね」
 リブレス伯爵家。その名を聞いて、少女は二、三度瞬きをした。それを目にしてか、青年は顔をしかめてみせる。
「何だ。……知らずに入ったのか?分かっていて忍び込んだのかと思っていたが……」
「ば、馬鹿にするな!無論、知っていた!」
 思わず少女は声をあげた。本当は知らずに入ったのだ。リブレスにだけは手を出すな――再三言われて育っているのだから、何も好き好んで忍び込みはしない。しかし、今更間違えました、などという事も出来ないではないか。
 リゼット盗賊団。少女がそこの盗賊となったのは、物心がつく前の事。おそらく、片親が――それとも両親が――リゼットの盗賊だったのであろう。気がつけば、彼女は盗賊であった。彼女は、盗賊という職業に誇りを持っている。
 リゼット盗賊団にはいくつかの決まりがある。一つは自分より格上の団員には敬意を払う事。貧しい人間からは盗まない事。殺生はしない事。そして、何よりも重要視されているのは、リブレス伯爵家には決して手を出さない事。危険な人間には近付くな、という事らしい。
「そう、分かっていて忍び込んだんだ。……ふん、まあいいか。そういう事にしておいてあげよう。……だったら盗んでみればいい。リゼットが手を出せるような家ではないが、もし盗めるのならばやってみるといい。私がじきじきに許可するよ」
 男性は少女の頬に右手をあてた。少女は男性の行動に驚き、その場で固まる。
「君に敬意を払って私の名を教えてあげようか。私はこう見えてもこの家の主でね。カールス=リブレス=リチニウムという」
「お前が伯爵!?」
「まあね。もっと若いかと思っていた?それとも、もっと年食ってると思った?……残念ながら、私が伯爵だよ」
 カールスと名乗った男性は、右手を少女の頬にあてたまま、笑顔で頷いた。その笑顔が魅力的で、少女は思わず頬を染める。
「こ、国王の犬が!」
 それを悟られないように、少女は青年の手を振り払うと窓に近付いた。顔が熱い。貴族の顔に見とれてしまった自分に対する怒りも入り乱れて、少女は眉をひそめた。
「だったら、盗んでやる!後悔はするなよ!」
 少女は青年の顔を見ないように顔を背けると、ひらりとバルコニーから飛び降りる。
 カールスは微笑を浮かべたまま、しばらくバルコニーに目を向けていた。

「カールス、無事か?」
 カールスは名前を呼ばれて、声の主に振り返る。
「誰に訊いているんだい?」
 振り払われた手をさすりながら、カールスは声の主である親友に微笑みかける。親友チャルは少し肩をすくめてみせた。
「かわいいよね。まだ若い」
 カールスは窓を閉めながら呟く。チャルは、ああ、と小さく笑った。
「リシャだろう?リゼットの頭領に憧れているんだと」
 カールスはチャルの言葉に薄く笑う。
「ふうん。私に、ね。知らないとは怖い事だね」
「普通の人間は気付かないさ。滅多に姿を見せない盗賊団の頭領が伯爵とはな」
 自分だってカールスでなければ知らなかったかもな、とチャルは笑う。カールスは苦笑を浮かべてため息をついた。
 カールスはリブレス伯爵家の若き当主だ。それはお遊びで出来るようなものではない。にも関わらず、この若き伯爵は盗賊団の頭領も務めている。もっとも、盗賊団の方はカールスの唯一の親友にして、もっとも信頼のできる部下チャルに任せているようなものなのだが。
「惚れたのか?」
 にやついた顔でチャルが問うと、カールスは酷く真面目な顔をして小首を傾げた。
「どうだろう。わからないな」
 惚れたのか、と問われると、わからない、と答える。嫌いなのか、と問われたら嫌いではない、と答えるだろう。気にはいっていると思う。今まで周りには居なかったタイプであったから、新鮮ではあるのだ。しかし……
「一目ぼれは信じないからね」
「信じていない、のか?」
 カールスはチャルの問いに答えを返さない。ただ曖昧に微笑んで窓の外に目を向けた。
 しばらく沈黙が部屋の中を支配する。庭の木々を揺らす風の音だけが響いて酷く気味が悪い。カールスはそっと目を伏せた。
 今は人の事を考えている余裕がない。今も、昔も……。しかし、だからといって自分の事を考える事すら出来ないのだ。
 つらい、と不安をもらした時も、チャルは黙ってそこにいてくれた。自分の支えとなってくれるチャルを、カールスは信頼している。だからこそ怖いのだ。今はチャルを縛り付けているようなもので、手を放せば、チャルのことだ、黙って何処かへ行ってしまうに違いない。それは、きっと近い将来の現実。
 一目ぼれはしない。それは偽りではない。知らないまま好きになるには、恐怖心が先走りしてしまう。好きになっても離れていってしまうかもしれない――近い将来のチャルのように。それでも、誰かを好きになりたいとも思った。チャルのように、いつも側にいてくれる存在が欲しい。一人になるのは、もう嫌なのだ。
「カールス、仕事が来たってな」
 重苦しい空気を壊すように、チャルが呟くように尋ねた。ほんの少し安堵して、カールスは頷く。
「情報が早いね。一体どこで仕入れたんだい?」
「今日、いつものじじいが来てたろ?誰に訊かなくとも、それ位はわかる」
 ああ、そうか――とカールスは微笑を浮かべた。チャルに言わせると一部感情が欠落しているカールスは迷惑でも迷惑そうな顔をしない。何時もと違うカールスに、チャルはカールスの機嫌を損ねたのではないかと不安に思ったのか、怪訝そうな顔でカールスの顔を覗き込んだ。
「訊かれたくなかったか?」
「誰に?チャルに?――何を今更」
 カールスは困ったような表情を浮かべて、軽くかぶりを振った。
「そういうのじゃなくてね……よく、わからないんだ。ターゲットもまだつかめない。ぎりぎりになるまで、私に報せないつもりか……」
 カールスは一度息をつき、疲れたような笑みを見せる。
「どちらにしても、おそらくは近いうちに」
「近いうち、ね。……とりあえず、今のところは了解した」
 今のところは、を強調してチャルは部屋を後にする。おそらく、納得していないに違いない。しかし、カールスが嘘をつかない事は、チャルも知っている。カールスがわからない、と言えば本当にわからないのだ。
 チャルの出て行った部屋の中、カールスは部屋の中央に置かれているソファに身をうずめた。
 何故か心の中がざわめいていた。仕事の後のように、心の中に何かが重くのしかかっていた。助けを求めて伸ばされた手は、虚しく宙を掴み、カールスは思わず苦笑する。
「バカだな……私は」
 らしくもなく弱気だ。カールスは自分の頬を軽く叩くと、勢いをつけて立ち上がった。