丘虚幻影









  とてもゆっくりとした時間が流れていた。
  前へ進もうと決心したのは、僅か前で――その時には、目の前にチャルが立ちはだかるとは思ってもいなかった。否、感じてはいたのかもしれない。チャルはカールスの監視役であることは、とっくの昔に知っていたのだから。
「つまり……それは、陛下の命令に逆らうって事だな?」
  カールスは少し躊躇い、けれどしっかりと頷く。そう決めたのは自分だから、疑問を感じてしまったのは自分だから、その気持ちに素直でいたいから。
  カールスの気持ちがわかったのだろう。チャルは複雑な表情で、真っ直ぐとカールスを見つめてくる。その視線の鋭さに、カールスは苦笑した。
  チャルは優しい。誰よりも優しいから、きっとどうすればいいのか分からないのだろう。ただ、国王の命令に忠実だった自分とは違って、チャルは何か強い意志をもって、望んではいない任務についているのだから。
「陛下の下を離れるという事だな?」
  カールスはもう一度頷く。今度は躊躇いもしなかった。
「もう、十分、償ったと思うんだ」
  チャルが疑問を浮かべた視線を向けてくる。その視線を真正面から受け止めて、カールスは何の含みもない笑みをチャルに向けた。
「母親の罪も、父親の罪も、私自身の罪も――ずっと、自分自身を陛下に奉げる事で償ってきた。それだけの働きを、私とリゼットは果たしたと思うんだ」
  リブレスがカルゼアンに仕え始めてから、随分と長いときがたった。今も昔もかわりなく、ただカルゼアンの為だけに仕えてきた。その気持ちに、偽りはないが、今の関係は、昔のそれとは違う。一方的な関係には、そろそろ終止符を打ってもいいのじゃないかと、カールスは思うのだ。
 それで、もとの――国王とその臣下としての関係に戻れるのならば、それが一番いい。そういう立場としてならば、また、再び、何の疑問も持たずにカルゼアンに仕えていけるだろう。
「カールス……」
「それとも、罪はまだ、私の中に残っているのだったら……」
「そうじゃない、カールス」
  チャルが泣きそうな表情を浮かべている。カールスは僅かに驚いて言葉を切った。チャルが悲しそうな表情や、苦しそうな表情を浮かべるのを、今までカールスは目にした事がなかったのだ。
「そうじゃない、そうじゃなくて……カールス、お前には罪なんてないじゃないか」
「そう……言ってくれるのは、チャルだけだ……」
  不自然な沈黙が部屋に舞い降りた。気まずい雰囲気が辺りを支配しているが、だからといって、何か言葉を紡ぐ雰囲気でもなかったのだ。
「俺は……それでも、報告しなくてはならない」
  沈黙を破ったのは、チャルであった。それまでの時間がとてつもなく長かったように感じる。
「お前が悪いわけじゃないって事を知っていても、それでも、俺は陛下に報告をする」
  カールスは一つ頷いた。
  チャルとカールスの立場は決して同じではない。チャルはカールスの監視役として、報告しなければならないのだろう。それを、痛いほどよくわかっているから、カールスには、何もいえなかった。
  そもそも、チャルが離れていくだろうという事は、はっきりと感じていた。誰もが、カールスの前から去っていくように、チャルもまた去っていくのだろうという事は、始めから知っていた。
「それに、チャルも私がいない方が動きやすいだろ?」
  だから、ただ、その時期がはやかっただけだ。彼が去っていくのではなく、自分が去っていくのを選んだだけの事だ。だから、チャルは何も考えないでいいのだと、ただ彼に課せられた命令に忠実であればいいのだと、心の中で呟いて、カールスはにっこりと笑った。
  それが辛くないと言えば嘘になる。
  また、一人大切な人を無くすのかと思うと、周りの全ての物に当り散らしたくなる。それでも、その気持ちをチャルに向ける事は出来なかった。
  彼も、自分と同じように苦しんでいる事を知っている。だから、仕方がないのだ。
  諦めを含んでカールスが微笑すると、チャルは俯いて小さくため息をついた。そのままの形で固まってチャルは、黙ってきいてくれ、とカールスに懇願する。カールスは内心で小首を傾げつつ、頷く事で返事を返した。
「……カールス……俺は、今現在、マスクォールと私的に何度か接触している」
  僅かに躊躇いを見せた後のチャルの突然の告白に、カールスは目を見開いた。マスクォール、と言葉には出さないで呟いてみる。
「それって……」
「……そういう事を考えている。だから、今は……」
  珍しく言いよどむと、チャルは自嘲を含んだ苦笑を浮かべた。
「言い訳、みたいだな」
  自分で言って、チャルは小さくかぶりをふる。
「違う。言い訳、なんだ」
「だったら、言い訳でもいい」
「これから、どうなるかはわからない。俺は、結局、陛下に報告するという形でお前を裏切るのだし、その事でお前がどういう立場になるのかは俺も分からない」
  そうだね、とカールスが返すと、チャルは自嘲の色をますます濃くして言葉を続けた。
「……でも、これだけは覚えておいて欲しい。俺は、お前の親友でありたいと思っている」
  カールスは頷いた。思わず本当の笑みがこぼれる。
  その言葉だけで十分だ。その言葉だけで、今、全ての心が決まった。
「わかった。その言葉は、心に止めておくよ」
「頼む。……それから、しばらくは、屋敷を出ない方がいい」
  カールスは首を傾げた。屋敷を出るな、とはどういう事なのかは分からない。
「暗殺のターゲットは知っておいた方がいいと思う。それまでは、報告をひかえておくから」
「どうして」
  心底、理由の見当がつかなくて、カールスは怪訝な瞳をチャルに向けた。
「……胸騒ぎがする。杞憂に終わってくれればいいのだが……」