前編 今の気持ちがとても大切。 自分の心が何よりも大切。 だから、それがどんなに暗い道へ続いていようと、 ――伝えなくちゃ、始まらない。 自分の心臓の鼓動が、ゆっくりと時を刻んでいる。 時間にすれば、ほんの数分のことで、けれど、僕にはその時間が酷く長く感じた。 何かに緊張するなんて事、これまでの人生で数える程しかなかった。一級賢者の資格を取るときでさえ、何の気負いもなく、いつもどおりの自分でいられたのに。――だけど、今、僕は確かに緊張していた。 「メラフィ……」 躊躇いを乗せて、けれどはっきりと名前を呼ぶと、メラフィは小さく笑った。 「うん……、聞いてるよ」
その笑みの中には、何の辛さも、悲しみも、ましてや苦しみも浮かんでいなくて、僕は内心で小首を傾げた。メラフィの態度が、僕の予想の範疇を大きく外れていたからだ。 「シャルちゃんに好きな人が出来たのなら、それでいいと思うの。そもそも、私との結婚の約束だって、口約束以前の問題だったでしょ?」 最初はメラフィの父親――つまり、アーディルの現国王の一方的な考えで、それが僕の父さんの知るところとなって、一時は大きく荒れた。父さんが、だけど。 そんな感じだから、父さんは当然、メラフィの父親の考えには断固反対って感じで、本当は、僕が今王城に居る事でさえ許したくないのだ。それでも、兄さんが王城にあがったから、と現在は渋々ながらも許してくれているみたいだ。
「シャルちゃんの事、好きは好きだけど……それが結婚に繋がる好きじゃないこと、私も知っちゃったから」 僕はメラフィの呟きに、思わず尋ね返した。 知っちゃった、というからには、それを知るまでの経緯があったという事に他ならない。しかも、話の感じからして、ごくごく最近に。 メラフィは、にっこりと微笑んだ。 「私にもね、好きな人が出来ちゃった」 うっすらと頬を染めて言うメラフィの姿は、何処からどう見ても恋する乙女だ。よほどの役者でない限り、メラフィの紡いだ言葉は真実なのだろう。 と、すれば、相手というものが知りたくなる。なにしろ、メラフィは僕以上に小さい世界で生きているのだ。そうそう人と知り合う機会などあるはずもない。 「……僕、会ったことある?」 メラフィは少し考えて、こくりと頷く。僕は頭の中にメラフィと共通の知り合いの顔を思い浮かべた。しかし、それだけではいまいち絞り込めない。共通の知人の数は多くはない。けれど、王城に勤めている人もあわせてしまえば、少ないわけでもないのだ。 それに、メラフィの事だ。探らなくとも、いずれ話してくれるだろう。だから、僕は無駄な努力はやめることにした。代わりに、別の質問を紡ぐ。
「告白、した?」 メラフィは首を傾げて、複雑な表情を浮かべた。 「分からない。だけど、父様に言えば反対される恋だから……いい返事じゃないほうがいいのかな」 僕はメラフィの言葉に首を傾げるより他なかった。メラフィの父親が反対する、というのがどうにもぴんとこないのだ。 「反対って……身分違いなら、マスターだって反対しないんじゃないの?」
何しろ、彼自身、一般階級の女性を妻に迎えた人なのだから。もっとも、結婚生活は上手くいかなくて、メラフィが10になる前には離婚していた、という結末を迎えたのだけど。
「身分は問題ないと思う。低くはないもの」 それに関しても、あの人は気にしないのではないか、と思うのだ。何しろ、メラフィの相手に僕みたいな人間を選んでいたような人なのだから。 メラフィは僕の言葉にかぶりを振った。 「さすがに、あの父様でも許してはくれないと思う。……私の好きな人、人間じゃないもの」 人間じゃない。その言葉に、僕は反射的に一人の名前を返していた。 「キールって事?」
同時に、僕の後頭部に強い衝撃が加えられていた。 くるりと振り向いた先には、もちろんだけど、キールの姿。珍しく仕事をしていたのか、右手にはやたらと分厚いファイルが握られている。 「俺様は、確かに人間を超越はしているが、人間を捨てたわけじゃない」 それは初耳だった。僕は、キールは「人間」を捨てて、キールの言うところの「人間を超越した存在」になったのだと思っていたのだ。
「じゃあ、キール、人間なんだ」 僕は納得したように頷いて――その実、今でもまだキールは人間ではないんじゃないかと思ってはいるんだけど――メラフィに目を向けた。 「キールじゃないよ」 メラフィは苦笑を浮かべている。確かにキールを選ぶはずがないか。命が惜しいのだったら。改めて考えると分かることなのだけど。 それにしても、キールでもないとすれば、誰なのだろう。 「俺様のしもべだろ?」 僕の疑問を読み取ったかのように、キールが声をあげた。 「一のしもべ。魔精王の始闇」 重ねるようにキールが声を上げると、メラフィは驚愕の表情を浮かべて固まり、ぎこちなく頷いた。
「そう……だけど……。どうしてキールが知っているの?」 キールはいつもの笑みを浮かべて、メラフィを真正面から見据えると、右手を口元に当てながら小さく頷いた。 「メラフィが始闇をな……。面白い事になりそうだな」
|