辛
韓の国紀行
韓国戦史の旅
其の2:金泉〜烏山〜水原〜
京城
ソウル
8月某日
金泉での朝食はトーストとぬるいコーヒー。隣のテーブルでガイドさんたちが食べていた
レッドホットチリペッパー
な韓国式の朝食がやけに美味そうに見える。日本人に限らず米食文化圏からの観光客なら、洋食より韓国式の方が口に合うと思うのだが・・・。でもキムチは少な目にね(汗)。
金泉からバスで北上。車窓からは相変わらず低い丘陵に囲まれた狭い平野が見える。緑に包まれた山地、丘陵部には果樹園、平野は水田や畑として使われているのは日本に似ているが、水田の畦に大豆を植えるなど、狭い平地を最大限有効に使う生活の知恵は韓国ならでは。国土に占める山地・丘陵の割合は7割に達するという事だが、こうした地形では1950年当時米軍が
「韓国には戦車が適さない」
と判断したのも無理はない
(なお日本の地形が戦車の行動に適するかどうかは、はっきり言って不明。水田など私有地では、必要なデータが測定できないため)
。
烏山は国連軍が初めて実戦に参加した場所。とはいえ別に以前から綿密に計画を立てて配置した訳ではなく、7月に入ってからここに派遣され、しかも到着したその日に戦闘を開始したのだからつまりは
泥縄
である。おまけに到着してからも陣地や障害を全く作っておらず、突進してきた「北」の戦車はここに米軍がいる事など気にせずそのまま通り過ぎていってしまったとか。但し米軍砲兵中隊の砲撃で戦車2両擱座。もし十分な対戦車徹甲弾があれば阻止できたかもしれないが、この時当砲兵中隊の保持していた徹甲弾は
僅か6発
。幾らなんでも相手をナメ過ぎていたとしか言いようが無い。「戦車の行動に適さない」地形でも、その衝撃力や心理的効果から考えれば、戦車はやはりもっとも恐ろしい相手である。米国が韓国軍に戦車を与えなかったのはともかく、対戦車兵器の用意までしていなかったのは無謀だった。現在ではこの戦場に記念碑が建ち、観光地としての規模の割には観光客が多い・・・とはいえほとんどアメリカ人らしい。まあ多富洞の記念館にあったような
トラウマ誘発ジオラマ
が無いだけ来やすいだろう。
烏山を離れ、ソウル郊外の水原へ。ここはソウルのミニチュアとして李朝時代に計画された街だ、とはガイドさんの弁。その当時に建設された城壁は今でも保存されており、当時を伝える文化財だとして世界遺産にも登録されている。現在では三星(サムソン)グループの城下町として知られており、2002年ワールドカップの舞台としても名乗りをあげているとか。城壁の上を少し歩くと昼食の時間になったので、あまり印象も無いままソウルへ向かう。
宿に向かう前に、まずはソウルにある
「戦争博物館」
を見学。
「護国の殿堂」
だそうだが、「護国の殿堂」を尊重するなら日本の「靖国神社」も尊重しなさいよ
(「護国の殿堂」に祭られる人々が周辺諸国にとって望ましくない点も一緒なのだし)
。中心はやはり「韓国動乱」=朝鮮戦争だが、中には
「海外派兵室」
なる展示が・・・。展示物は
ベトナム戦争
やその後のPKOなどでの韓国軍の活躍なのだが、何も「海外派兵」って偉そうに胸張らずとも・・・。「海外派兵」が禁句な我が社としては羨ましいやらあきれるやら。
「税金泥棒」ではない軍隊ってやっぱり良いね
。
ソウルの宿は明洞(ミョンドン)のソウル・ロイヤルなる高級ホテル。だがこの明洞は
「ソウルの銀座」
といわれるほど人通りが多く、観光バスが通れる道は非常に限られてしまう。というわけで狭い道をくねくねと曲がってホテルに向かうのだが、ホテル前の坂道になぜ
機動隊
が?この機動隊は割と緊張度が少なく物騒な雰囲気も無いのだが、少し奥に入った露地でいかにも和やかな雰囲気で煙草を吸っているのはなんだかな。そこまで和らいだ雰囲気の機動隊なら、出動する必要が無いような気がするのだが・・・。
この日は韓国名物のカラオケで久しぶりに中国の歌を歌い、ミニストップで買い物をして宿に戻る。しかし日本の歌もさることながら、中国の歌も負けずに揃えているのはたいした物だ。観光客の人数はどちらが多いのか知らん。
屈:「まるで池袋のようだな」
同期1:「道を歩く人々の
エスニック度
も、池袋そっくりだね。」
同期2:「キミタチ(・_・;」
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