■ポルトガル遠征記■

#1: はじめに

まず、事の成り行きからお話しましょう。

2000年12月にアラバマ大学を卒業してから進路が決まらず、また資格も取得することも出来ずに帰国してアルバイトをしながら半年が経った2001年9月。アラバマ大学に編入する前に通っていたインディアナ州立大学での知り合いである、吉村啓明さんから「知的障害者日本代表バスケットボールチームの女子トレーナーに欠員が出たのでなんとかやってもらえないか」というオファーがありました。その頃、アスレティックトレーナーの資格試験の為に勉強はしていたものの、現場から離れてかなり経っており、よい機会だと思って引き受けました。最初は9月下旬に行われた愛知県の三河安城で行われた強化合宿参加でした。それに先駆けて、実際に総監督と男子のヘッドコーチに会いに行くということで、横浜まで行きました。総監督は神奈川県立新城高校の教師であり、神奈川県バスケットボール協会副理事や多数の役職をこなす山下輝明先生、そして男子のヘッドコーチは元日本リーグのプレーヤーである小川直樹さんです。

正直、知的障害者のスポーツ自体考えたこともありませんでしたし、何よりも、私自身バスケットボールには縁が無かったので少し不安はありました。その日はちょうど山下先生の高校のバスケ部と、小川さんが教える知的障害者のクラブチームとの合同練習日だったので、そこで何かがわかるかなと期待もしていました。見る前の私の想像では、そういった障害者の教育指導の一環なのだろうと思っていたのですが、小川さんの指導法にまず度肝を抜かれました。知的障害だろうとなんだろうと、プレーを失敗すれば鉄拳は飛ぶは、罵声を浴びせるはで正直、「大丈夫なんだろうか・・・」と心配すらしたほどです。あとで小川さんに話を聞いてみると、「あいつらだって同じ人間なんだ。知的障害者だからといって区別して接するほうがおかしいだろ?」ということでした。僕の知る限りでは、日本の知的障害者への扱いは、まったく別の人種として枠で囲ってしまうといった印象が大きかったのですが、この小川さんのポリシーにはいい意味でびっくりさせられました。と同時に、この人たちは本気でバスケットを教えようとしているんだな、と素直に感じました。それは僕にとってもアスレティックトレーナーとして参加するというモチベーションを上げてくれるものでした。

こうしてこれから9ヶ月間、女子チームのアスレティックトレーナーとして参加することになったのです。

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