MinMin's Diary
暑さ満開ですねぇ。(変な日本語)
今さらながらにメディア不信が募っております。
掘り下げる価値のある「何か」と、伝達するだけでいい「何か」の取捨選択が、既にメディアによって行われてしまっているような気がするのです。
全ての人にとって掘り下げる価値があるものなのか。
マスメディアを通して、電波に乗せて全ての人に微に入り細に入り伝えるほどの問題なのか。
それがともすると、気がつかないうちに犯罪の巧妙な手口を第三者に伝達する役割を果たしていないか。
どうでもいいことを、詳しく報道することで、大事なことから目を逸らさせているのではないのか。
こういう疑問符が次から次へと浮かんできます。
また、周期的に訪れるメディアの特集。
「男と女の差異」を論じる風潮がまたしても現れてきました。
今、「話を聞かない男、地図を読めない女」(A・ピーズ、B・ピーズ著、主婦の友社)という本を読んでいるところです。
面白い内容ですし、それなりに説得力もあると思います。
まだ読破していないので、何もいえませんが、こういう本の内容の一部が一人歩きしがちなのも、日本のメディアの特徴かもしれません。
そのうちに副題になっていた「男脳・女脳が「謎」を解く」の「男脳」「女脳」が流行り言葉になるやもしれませぬ。
これを読んでいて思ったのは、「男」と「女」にきれいにカテゴライズされたものだけに、上手く利用する人達が現れるだろうなということです。
たとえば、一般的に見られる「どちらの靴がいいかしら?」と夫に聞く妻と、その答えに詰まる夫の図なんか、大いに男性の共感を得ると思います。
でも、夫と妻の会話となっていたものが、そのまんま逆転した配役でなされている事実もあるでしょう。(我が家です(^^;)
そして、そのことは著者も十分承知の上で取り上げているという前提条件を、私は「彼ら自身が書いた本」を、幸いにも一番最初に目にしたので知っていました。
著者は「平均像」を取り上げているのであって、全ての男性、女性にそのまま当てはまるものではないという点や、彼らの立場を明確にしています。
しかし、多くのメディアはこういった但し書きに対して非常に無責任で、著書の中にある刺激的な部分だけしか取り上げないのは、これまでの経験から、簡単に推察できます。
この本が、マスコミにどのように利用されていくのか...そういう思いで眺めています。
男と女の差異を論じることもさることながら、「職業婦人VS専業主婦」の構図も今だ健在ですね。
ちょいと前の日記でも述べましたが、前衛的なものがウリの朝日新聞さんが発行している「AERA」の7月24日号。
タイトルは「ステキな専業主婦の安らぎ」(このカタカナの「ステキ」自身がそうとう怪しい響きを持つ)。
ページを開くと、どか〜〜〜んんと「ステ専という贅沢な生き方」ときた。
「ステ専」ですか。
「ステテコ専科」かと思いました。
「これからはステテコ君の時代だ!」とでも言うなら、それもそれでいいでしょう。
高島兄のステテコ君は、ある意味、見ものでかっこいいですからね。
でも、内容見てうなりましたよ...。
小見出しが「顔がやさしくなった」「3時間のアイロンがけ」「幸福を諦めない人」「キャリアほど主婦志向」「愛されるという条件」「葛藤を乗り越えてこそ」「いまや贅沢品になった」。
おお、吐き気を催しそうなこの文字の羅列。
バブリーな時代にバブリーな結婚を願った我が世代が一度は目にした文字。
確か、我が同級生の二谷友里恵様が「愛される理由」って本をお書きになりましたわ。
何しろ「顔がやさしくなった」という言葉自身が超曲者。
これって確か雅子様の時にも出てきたな。
「キャリアだった雅子様も、お妃になるにあたり、お顔がどことなくおやさしくなった」とかなんとか。
雅子様はキャリアだった時代からだって、ずっとおやさしかったはずですぜ。
「やさしい顔」=「女の幸せ」「女らしさ」という、いやらしいまでの男社会の価値観がにじみ出ている。
そして次の「3時間のアイロンがけ」...そんなにアイロンかけていたいなら、クリーニング屋にでもなりたまえ。
「幸福を諦めない人」って...じゃ、なんだい?専業主婦が幸福への道だっていうのかい?
「キャリアほど主婦志向」ってのは、敗れ去ったキャリア組のことでしょう。実際にキャリアでばりばりやっている独身女性の友達もいますぜ。
ここで、ある元キャリア女性が言っている。
「もともと妻が専業主婦を前提に日本企業社会は成立しているから、キャリアの共稼ぎは難しい。(略)」(p34)
つまり、「キャリアほど主婦志向」というのではなく、「キャリアで主婦の両立は難しい日本社会」ということになる。
しかし、よく行間を読まなければ、キャリアな女は主婦志向と思われる結果に陥りかねない。
「愛されるという条件」というのは、専業主婦であるには、絶対的にその「家庭」が崩壊しないという前提が必要だというお話だった。
この特集に登場した女性達のバックグラウンドが、ここで紹介される。
あはは、こりゃ、私とは縁のない世界の方達。
夫の年収は800万から1500万。
年収800万って、あ〜た、一ヶ月いくらの収入?
遠い目になっちゃいそう。
そんな非現実的な数字を論拠にして、畳み掛けるようにこう来る。
「「働かなくていい」ことは一種のステータスでもある。」(p34)
待て!
そういう極端な結論付けは許されるのか?
私の高校時代の多くの友人は大体が専業主婦をしている。
ある友人は、娘が幼稚園に入ったのをきっかけにパートに出ようと思った。
しかし、幼稚園の延長保育は4時まで。
4時までに迎えにいけるようなパートはなかった。
それで、パートで副収入を得るよりも、家計を切り詰めてやっていく道を選んだ。
決して「一種のステータス」でもなんでもない。
苦渋の選択の結果だ。
日本の社会が「働く女性」にではなく、「女性が働く」ことに対して、非常に非協力的なシステムになっていることを無視しないでほしい。
「葛藤を乗り越えて」に登場する女性も随分と薄っぺらい。
主婦になって中国語(今はイタリア語じゃなくて中国語なのね)を習いに行ったところ、働いている女性に「日本の主婦は年金も払っていない。言葉だけできたって仕事なんかできると思ったら大間違いよ」(p36)と言われたという。
これでうろたえ、ショックを受けたが、今ではそう言った女性を気の毒に思える心持ちになっているらしい。
それはそれで価値観だからよろしい。
夫の転勤で、その境地にいたったそうだが、その解き放たれ方が可愛いものである。
「そのころのスケジュール帳は、几帳面な字で毎日びっしりと埋められていた。そのほとんどがタウン誌で知った専業主婦同士のサークル活動だ。大宰府へ花見にいったり、有田まで陶器市に行ったり、Jリーグや相撲の福岡場所の観戦。ただお茶をする日もあれば、友達の家で誕生会をする日もある。融資でイタリア旅行にも出かけた。初めて自分の存在を肯定できた気がした。」(p36)
ぐぇ〜〜〜。出ちゃった。「自分の存在を肯定」...この胡散臭い字が。
こういう活動は、はっきり言って「日本企業社会」の中では「奥様の手慰み」程度の扱いしか受けないことだ。
別にそれはそれでいいし、それで自己肯定できるなら、それもいいことだ。
しかし、それがあたかも「全価値観の中でうるわしいと認められるべき生き方」のように描かれ、また、専業主婦の鑑みたいに描かれることに胡散臭さを禁じえない。
悪いが、私の知っている専業主婦で、こんな勝手気ままにお気楽に自分の好き勝手をしている人を見たことない。
みんな、家族や家事やPTAや何やらかんやらで忙しくしている。
この人も、ある意味では「特殊な専業主婦」というか、「特権階級に属す専業主婦」であり、私達のような「庶民階級」に属す人ではないだろう。
そう言えば、薬師丸ひろ子が演じた「マダムシンデレラ」ってドラマで、彼女はイタリア語を習っていたけど、今は中国語なのねぇ...。
隔世の感があるわ。
それにしても、「働けない」と言われたとでくしゅ〜〜んとなり、遊び仲間を見つけて「自己肯定」というのは、随分とお気楽な「葛藤」である。
私の知っている専業主婦は老人介護に明け暮れ、その老人が死んだら、死んだで、今まで見向きもしなかった連中が乗り込んできて遺産相続争いだ。
自分の友達とお茶一杯飲むことも許されず、一人になりたくない老人の傍につきっきり。
買い物もストップウォッチよろしく時間を計っている老人の監視のもと、20分以内に戻ってこなければいけなかった。
そんな時に優雅にお友達と習い事やらお茶やら旅行やらやっていた他の姉妹が、老人が死んだとなると乗り込んでくる。
「お勤めしたいんだもの」という姉妹の言葉で、「専業主婦」ということから老人の介護を、「押し付け」られ、お勤めを辞めた後でも「友達づきあいは大切よね」だの何だのと調子よくやっているのを横目に、淡々と老人介護に明け暮れ、当の老人にはイヤミを言われたりしながら、それでも黙々と尽くしてきた専業主婦もいる。
その人の心の中の葛藤に比べ、「言葉だけできたって仕事なんかできると思ったら大間違い」と言われた程度で生まれる葛藤なんて、羽のように軽い葛藤だ。
だって、本当のことだもの。
言葉だけ出来たって仕事できるもんじゃない。
英語ができて仕事ができるなら、アメリカの小学生はみんな日本で仕事ができる。
そこに「主体」があり、「外国語」で「何」を語り、「何」をできるかが大事なものになるのだ。
その程度でくしゅんとなる実力なら、しょせんはその程度の実力でしかない。
「語学を活かして仕事がしたい」という人は、「語学以外にとりえがない」のか「語学のエキスパート」であるかのどちらかだろう。
後者は「語学を道具として自分の才能を活かして仕事をしたい」人。
しかし、前者は「語学学校できれいな発音だって誉められました〜♪」程度の人だったりする。
言葉なんて訛っていても通じれば出来る仕事は山ほどある。
そして、本音のシメがやってきた。
「いまや贅沢品になった」...何がやねん?
ここで登場するのが宮崎哲弥である。
誰じゃ、そりゃ?と思われるかもしれないが、一応は評論家という肩書きのお兄さんだ。
彼は言う。
「専業主婦になり得る自由を有することは社会的ステイタスとしてかえって際立ってくる」(p36)
はぁ、この人、やっぱり価値観が大学時代の社会から抜け出てないんだわ。
なんつうたって「ステ専」さんの予備軍がうようよいて、かの「愛される理由」をお書きになった二谷友里恵様もいらした、あの慶應にいらした御方ですもの。
彼は言う。
「だからこそ、社会保障制度や税金面で専業主婦を優遇するのは少なくともやめたほうがいい。いまや贅沢品なのだから」(p36)
おい、待て!
それはお前の周囲の専業主婦の話だろう。
お前の周囲の専業主婦が贅沢品だろうが消耗品だろうが知ったこっちゃない。
そもそも、こういう発言の裏に「働く女性」と「専業主婦」との対立を煽る構図があるのを見逃してはいけない。
こういう「社会保障制度」や「税金」というものを持ち出して、そこに不公平感を際立たせることで、職業婦人の不満を募らせるという図式だ。
更に彼は言う。
「経済的に余裕があれば、できれば働きたくないというのは本音。だったら男性も同じ。もっとのんびり働きたい、一時期家庭に入りたいと思っている人はいるはず」(p36)
ここに論点の摩り替えがある。
日本の企業社会は男性中心主義で、女性が共働きで続けることが難しいという話が前に出てきていた。
仮に男でも働きたくないという男がいるならば、そういう社会を男性自身が打破すればいい。
宮崎氏自身も男性であるならば、そういう不公平を生み出す源である「男性中心社会」をバッシングすべきであろう。
あるいは、一時期家庭に入りたい男性がいるとするならば、そういう男性は妻に働きに行ってもらい、家事一切を引き受ける「家庭管理」を担当すればいい。
共働きが無理な場合、女が仕事を諦めなければいけないという規則はどこにもない。
女が会社で働き、男が家庭に関する全てを管理する。
どこに不都合があるのだろう。
不都合があるとすれば、それは「社会における体面、体裁」であろう。
また、女性に対する社会が与える報酬の格差だろう。
そしてこの記事は結論に近づく。
例の中国語を学習し、専業主婦のステキな交流に自己肯定を見いだした奥さんの旦那様が登場する。
「いま僕が働いているけれど、働くことがそんなにエライとも思っていないですし」
聞こえはいい。
とても聞こえがいい。
しかし、待ってほしい。
家事は「仕事」ではないのか?
主婦が毎日のようにこなしている無償で行っているあまたの仕事は「働くこと」ではないのか?
アンペイド・レイバー(支払いを受けない労働)である家事を「働く」ことと見ていない価値観がそこには根強く存在している。
だが、そんなことはそっちのけで、記事は素晴らしい結論に持っていかれる。
「ひと昔前の男は外、女はうちというマッチョさとはちょっと違う。働く女性をステ専主婦に変える土壌は、もしかしたらステ専主夫をも生み出すかもしれない」(p36)ときた。
女を専業主婦にしてしまうことが、男を主夫にする道だ?
おいおい、よしてくれ。
何でも女性の側に責任を転嫁しないでくれ。
ま、そもそも「転嫁」って言葉自体が「嫁に転がしてもってく」ってことだからな。
責任はない女の側に責任が転がってくるんだわな。
男が主夫になりたいなら、なれる土壌を自分達が作ればいい。
女が男並に働ける環境造りに積極的に取り組んでみればいい。
託児所の数の少なさや、先にあげた幼稚園の延長保育の時間とパートとの折り合いの悪さ、パート賃金の低さ、出勤時間に子供を連れて動くことの煩雑さなど、考えたことがあるだろうか?
少子化、少子化というけれど、どうして子供を産まない女性が増えるか、男の側は真剣に考えたことがあるだろうか?
彼らは「女が仕事を持ち出した」「女がわがままだ」という風に、なんでも女の側に責任を転嫁して終わりにしようとする。
どこで子供を預かってくれるの?
育児休暇中の手当てよりも、育児休暇が終わり、職場復帰した後に子供がいることで起こるアクシデント(急な発熱などなど)に会社側が快く対応できるのか。
リーズナブルな値段で安心して預けられる託児所がどれだけあるのか。
どうしても電車に乗せて託児所のあるところまで子供を連れていかなければならない時、ラッシュアワーの電車で舌打ちしたり、嫌な顔をしたり、あからさまに「こんな混んでいる電車に子供乗せるなんて良識疑う」なんて言葉を浴びせたりする人がいないか。
そういうこと言うならば、各駅ごとに十分な託児所システムがあるようにならないかと思えないものか。
働きながら主婦もしている女達は手一杯だ。
具体的に運動を起こしている時間も余裕も無い。
だから、この問題はいつまでも浮上せずに、男達が「女が子供を産まない」と女の側に責任を押し付けて終わる。
また、専業主婦と職業婦人の対立を煽り、専業主婦が職業婦人の心強いサポーターになるのを阻む。
そして、この記事にあるように、職業婦人をも「家庭」の中に押し戻そうという意図を裏に持ち、職業婦人と専業主婦の連帯化を阻む。
働きたい女を追い詰めて、追い詰めて、働きたいなら結婚を諦めろという無言の圧力を突きつける。
そして、結婚している職業婦人には「子供を産まない君みたいな人が少子化の原因」というプレッシャーを与える。
ステ専が、さもさも新しい概念であるかのように描いてはいるが、しょせんは男社会を存続させたいくせに、でも楽したいという、軽佻浮薄なくせに権力主義な、図書館の中だけで知識をかじり、知に溺れて実を知らぬ男が言い出しそうな戯言に過ぎない非実用的な発想だ。
こういう愚論を掲載してしまうあたり、「AERA」も煮詰まっているんじゃないだろうか。
いや、日本のメディア全体がやばいんじゃないだろうか。
偏差値ばっかり追い求め、社会大学を経験しないままに自らを「知の選民」と誤解してしまった人間が、メディアを牛耳るようになってしまった今、彼らの扇動に誤魔化されず、真実を見極める目が強く要求されるだろう。
55年目の終戦記念日というか敗戦の日。
何のために、誰のために、どうして、なぜ...。
こういった言葉を統べて封印して命を散らした人達。
今、私がここにいるのも、彼らの命の御蔭です。
黙祷。
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