MinMin's Diary
サヤインゲンの筋取りからも解放されて、かなり普通の生活に戻ってきました。
失礼メール@花屋への非礼を詫びるメールは来ません。
まったくもう、言いたい放題してシカトかよ。
お行儀のいい人だこと。
インターネット上って自分の言いたいことだけ言って責任取らない人が多いのよね。
さて、下にあるのはプルメリアの花の油絵風でございます。
←意味もなく登場する黒猫大和さん作のぴーちゃん。
我ながら結構いい出来だと思っているのですが。
本当にこの季節の台北たるや、うっとおしいことこの上ない。
毎日毎日曇り空を眺め、乾かない洗濯物を見ては嘆息。
太陽の光を浴びなければ光合成もできやしません。<おまえはミトコンドリアか!
それはともかくとして、早く春らしい季節になってもらいたいものです。
最近考えていることは「ひとつ」は「ひとつ」であっても「ぜんぶ」ではないということ。
禅問答みたいですな。(^^;
地球儀を眺めていて思ったんですが、いっつも見慣れている北半球を上にして見た地球儀を、ひっくり返すと別の一面が現れる。
ずっと前に一緒に旅行した友達が世界地図を買っていたんですね。
彼女の上司は各国の世界地図コレクターなんだそうです。
当然、自分の国を真中に置くので様相が違うんだとか。
日本が極東と言われる意味が欧米の地図を見て納得したそうです。
そりゃそうだな〜。
日本製じゃ日本がど真ん中だもん。
あと、アメリカ製の世界地図を見てびっくりしたのは北方領土が見事にソ連領として真っ赤に塗られていたこと。
当たり前なんだけど、その当時、中学生だった私は「日本の常識、世界の非常識」って思ったもんです。
自分にとってはまぎれもない事実であっても、それは別の人の視点から見たら全く違う一面を見せているかもしれない。
そういうことです。
もともとそういうことを漠然と考えていたんですけど、最近は複数のメールで全く別の話題をしながらも、そういう流れになるんですね。
そのことをもっと考えてみろっていう啓示かも。
人間が感知できる範囲なんてたかが知れています。
それだけで「事実」として収めてしまうのは、なんだか片手落ちのような気がしています。
人が存在するだけ、「それ」の数はあるんじゃないでしょうか。
「それ」は確かに「ひとつ」なんだけど、でも、誰かの言う「ひとつ」ではないんです。
全ての人の「ひとつ」の複合体である「ぜんぶ」で「ひとつ」っていうのかな。
「それ」の部分にはあらゆる事象、存在が当てはまると思います。
こんなことを考え始めたのは、私が学生時代に凶弾に倒れて逝ってしまったジョン・レノンの歌に負うところが多いかもしれません。
「Imagine」という歌です。
彼はここで「天国なんて存在しないって想像してごらん」って歌います。
そして「天国がなければ地獄もない」って続けるのです。
そして「僕達の上には青い空だけが広がっている」って。
その歌の中で彼は「宗教も国も存在しないって想像してごらん」とも言っています。
国も宗教もないなら、戦う理由もなくなってくるって。
彼は「僕のことを夢想家だって言うかもしれない、でも一緒にそういう風に思ってみてほしい」と歌っています。
これは十代の私には結構衝撃的な歌でしたね。
私は無神論者ではないのですが、宗教を限定しないんです。
子供時代からいろいろな国の神話を読み、いろいろな神様に出会いました。
神様がいるという感覚はあるんです。
その頃からでしょうか、一人の人間が見る「ひとつ」は「ひとつ」であっても「ぜんぶ」ではないという風なことを漠然と考え出したのは。
で、ひいては神様だけじゃなく、あらゆるものについて、そんな風に考えるようになったんですね。
「ひとつ」だけを見ても全部は解らないだろうなって。
だから、他人の考え方やら主義やらに賛同はしなくても、ま、そういう考えもあろうという風に考えます。
でもね、その考え方や主義に「偽善」や「欺瞞」や「優越感」や「差別」や「私欲」が含まれている場合は別です。
君が提示しているそういう事実もあろう、しかし、それ以外の事実もどこかに存在する。
君のその偏狭な視線だけで見た「事実」だけを根拠にそう言い切っていいのかね?って。
たとえば、台湾の犬について失礼極まりないことを言う日本人は結構います。
台湾では犬肉を食べるのがいまだに根強い人気なんていう事実とは全く違うことを言う人は論外です。
その人の目の前で誰か台湾人が犬肉を食べたからといって、2200万人の台湾人の中のどれだけの人が犬肉を食するでしょう?
これは以前の日記で書いたことなので重複しては書かないけれど、その文章の中からうっすらと台湾人に対する上から下への視線が感じられました。
犬肉を食べることが悪いこととは言いません。
それは文化ですから。
でも、その文章の中にうっすらと「西欧的な先進的発想に触れた人間は食べない」「古い台湾的価値観しか持たない教養のないレベルが食べる」という構図が見えたのです。
こりゃもう、事実に反するどころじゃないですね。
事実に反する上に蔑視と「台湾より先進的な日本人である私」という優越感が潜んでいる。
あと、日本人は犬を大事にするけれど、台湾には野良が多くて可哀想なんて書いてあるHPにも出会いました。
日本人のどこが犬を大事にするのですか?
自分の飼っていた犬を、もう飼えないからと粗大ゴミを捨てるかのように保健所に連れて行く人が多いのですよ。
野良を日本で見かけないからって日本人が犬を大事にしていると思うのはとんでもない間違いです。
確かに日本では野良犬を見かけないのは事実の「ひとつ」です。
でも、その事実の裏に多くの家庭犬すらも保健所で処分されているという「ひとつ」の側面があります。
確かに台湾には野良公が多いでしょう。
それは事実です。
だけど、その事実の裏に他人が飼えなくなった犬だし、自分の家では飼えないけれどと可愛がっている人達がいるのも事実です。
捨てる方にしても「誰かに大事にしてもらえよ」と思いながら屋台の多そうなところに捨てるのです。
言い換えてみれば、生き延びる可能性を犬に与えているのです。
生き延びる可能性が0に等しい保健所送りを平然とする日本人と比べてどちらがひどいか、はっきりと言い切ることができますか?
日本人やアメリカ人が台湾人の犬の扱いに異議を申し立てたり、批判したりする裏に、台湾人を自分達よりも文明的ではないという思いがあるのを私は嗅ぎ取ります。(私は犬か!?)
それとは別に、偽善も欺瞞も優越感も差別もないけれど、裏に潜む別の「ひとつ」を見ずに無邪気に自分の抱く「ひとつ」にのめり込む人というのも心配になります。
自分の抱く「ひとつ」がたとえ間違いではなくても、そうすることでそれ以外の側面である別の「ひとつ」を受け入れづらくなる。
その「ひとつ」が違う色合いを見せてしまった時に、その人は何をよりどころにすればいいのでしょう...。
宗教にのめりこんだ人とかを見ていると思いますね。
あと、宗教じゃないけど、あるひとつの何かに入れ込んでいる人。
決してあなたの思っているだけのものではないんだよ、もっと大きな、大きな、あなた一人では捉えきれない大きなもの相手なんだから、そんなに自分を失うぐらいに入れ込んでは危険だよ...。
いくらそう言っても、のめり込んでいる相手には届きません。
ものごとには色々な「ひとつ」が含まれていて、そして、そのひとつひとつが構築されて、本当の「ひとつ」になっているんじゃないかなという思いを常に念頭に置いておくのが大事なんじゃないかと思うのです。
なんか、まだ上手くまとまらないけど、また思いついたら書いていこうと思います。
それにしても権利ばっか主張して義務や責任を嫌がる人の多いこと!
自分が何かの中に入り込むということは、少なくともその「何か」における義務を遂行するのが責任というものでしょう。
その簡単な責任も果たせないで、尻尾の方でうまく隠れて甘い汁だけ吸おうとしたり...。
それで何か大変なことが「その中」で降りかかってくると上手な逃げ口上を使って逃げようとする。
男女雇用機会均等法一期生の女性の知人達を思い出します。
就職前に「どうして文学部の女子はこういうチャンスがあるのに一般職で行くの?」なんて言われました。
まるで一般職で行くのは花嫁修業の腰掛けみたいな言い方もされました。
結果、一般職で行った文学部の女性の中にはこつこつと任務を果たし、現在では会社でも必要な存在になっている人達がたくさんいます。
一方、総合職で行った女性達はどうだったでしょうか。
ただ「総合職」という言葉だけで言った人達のほとんどが敗れ去りました。
自分達が特別なんだという思い込みで社会に入り、偏差値や学校名や型どおりの仕事では話にならない事実にぶつかった彼女達。
有名進学高校から有名大学に進学したように、有名企業に総合職で就職。
これはある意味では彼女達の描いた「優等生」の道のりかもしれません。
だけど、学生の本分は勉強であり、その勉強さえしていれば十分であり、彼女達は優等生であり続けられました。
しかし、社会はそうではありません。
更に、学生時代は既に世の中が敷いてくれた学生としてのレールの上を走っていればいいのです。
自分で道なき土地に道を切り拓く必要はありません。
だけど総合職一期生という立場だと、まさに道なき土地に道を切り拓く役割を担うわけで、お勉強の成績やら、型どおりの暗記ものとは違う資質が要求されます。
有名大学卒業という肩書きも役に立ちません。
そういうことを真摯に受け止められたらいいのですが、それは「優等生」としての彼女達のプライドが許しません。
「会社が私を正当に評価しない」
「自分の時間が持てない」
「私の持つ才能が活かされない」
よくぞまぁ、これだけ自分勝手な言い草でものの半年から2年の間で辞めてしまえるものです。
そんなだから、世の男達に「だから女の子はね」なんて女性全体が言われるようになり、後続の女性達により大きなプレッシャーを与える結果になったのです。
あんたが女性総合職だからって理由だけで、同期の男達が下積みしている中で輝かしいキャリアウーマンとして、本社の総合企画室でバリバリとさせてもらえるとでも思っていたの?って心の中で思いました。
もちろん、オーヴァーヒートして果てた女性総合職もいました。
一期生だということで無理をしすぎて倒れてしまったのです。
ある意味では「社会」をたいして知らないのに、いきなり何も持たされずに放り出されてしまったと言えます。
私は彼女達を見ていて、あるイメージが浮かび上がりました。
満天の星空が広がるだけの、右も左も、東も西も、北も南も解らない道すらない広大なアフリカの平原に何も持たずに放り出されてしまった姿。
そこでは肩書きも身分も通用しないのです。
星明りだけを頼りに自分が進む方向を決めなければいけない。
猛獣が潜んでいるかもしれない。
底なし沼が足元にあるかもしれない。
荒野に出てしまい、二度と人間のいるところに戻れないかもしれない。
そんな不安に押しつぶされそうな時、頼りになるのは自分自身が身に付けた資質です。
少し前にトレーニングした時に習ったことをどれだけ応用できるかです。
そして、下手に焦ったりしない気持の余裕。
時間配分やペース配分。
これはトレーニングで教えてもらっただけでは絶対に実行に移せるほどのものにはなりません。
日々の目に見えない自分自身の鍛錬の賜物でしょう。
結果、それまでの学校生活では見えない本人自身の姿が見えてきました。
早々に適当な理由を見つけて切り上げてしまった人達。
自分自身でどうしていいか解らずにがむしゃらになりすぎてペース配分を乱し、自滅してしまった人達。
そして、軽やかに自分自身のペースを崩さずに着々と道を切り拓いている少数の人達。
女性総合職として完遂できなかった女性達には同情に値する部分もあります。
同じ女性として、女性に対する社会の意識が成熟していない段階でいきなり放り込まれてしまった彼女達は大変だったと思います。
しかし、中には立派に成し遂げている人もいるのですから、それはある意味では、彼女達の資質は総合職一期生としては不完全だったとも言えるでしょう。
それを素直に認め、自分自身の足りなかったところを補っていこうとすれば、新しい道は拓けたのかも知れません。
でも、「優等生」であった彼女達には、それがなかなか出来ないようでした。
「派遣で外資に行くと時給も結構いいのよ。ほら、研修で総合職の研修を受けたから、色々なことができるでしょ」
あんたは会社が研修にかける費用を知らないのか!こら、研修費泥棒!と心の中で思いました。
一般職で中途雇用で入って、社会の女性への風当たりをまともに感じてみて、再出発するぐらいの気概を見せてみろって思いました。
でも、そんなこと、彼女達のプライドが許さないようで、その後、数年経ってお見合いやらで外国に駐在するような男性と結婚して海外へと行ってしまったりしてしまいました。
つまんないの...。
常に「なんか素敵」と思われるそとみがほしいだけなんだ。
外側の見栄えのいいものがほしいだけなんだ。
それがうまくいかないと、聞こえの良い理由を見つけて逃げ出すんだ。
会社に入るにしても、それは会社の中での義務を責任を持って果たすことが本分なのに、そんなことすら忘れて、会社から与えられる恩恵ばかり期待している程度の人間なのに。
海外に行ってしまった同期の総合職だった某女性を見て、そう感じました。
入ったものに庇護だけ求め、恩恵だけを期待し、それが裏切られ、自分の方に大変なことが義務として降りかかってくると理由を見つけて逃げ出そうとする。
それも聞こえの良い言葉を選んで。
どうして「私の認識不足でした。私が甘かったんです。もう一度頑張ります」と謙虚に言えないんだろう。
あるいは「経験のない私一人の力では大変です。お手伝い願えませんか」と傍にいる経験者に声をかけてみないんだろう。
本番はこれからという時に聞こえのいい逃げ口上を準備して面倒には巻き込まれたくないとでもいうように、既に逃げ出してしまった彼女達。
彼女達ばかりを責めることはできない。
「自分」が丸腰の状態で、そこにある責任を果たせるのか、義務を完遂できるのかということを理解せずに出向いてしまい、何の前例も持たずに消えていってしまったのだから。
男性であれば、そこには色々なアンチョコやら目に見えないヘルプがちらばっていたのだろう。
しかし、それは十分に最初から解っていたはずだ。
何もないところに道を拓くのは難しい。
でも、それだけ自分の力を信じ、自分の力を発揮できる機会を与えられたんだと思えないんだろうか...。
何でも受身で生きてきた人達に能動的になれという方が無理なんだろうか。
それならば、受身の分際でえらそうなことを言わないで、素直に「私は受身しかできない人間ですから」という風な態度を示してほしい。
受身の人間が権利やらを主張して何かから逃げ出そうとするほど、見苦しいものはないのだから。
このせいで、どれだけ世の男性達に「だから女の子はね」と言われたことだろう。
学生時代に送っていた受身の人生における輝かしい経歴は、何も役に立たない。
優等生ではなくても、何かやりたいことを学生時代にやっていた人間の方が、それなりの道を社会で自分なりに切り拓いているような気がする。
でも、そういう人の方が少数派なのかな。
なんでも今日は400年に一度の特別な日なんだそうな。
そうであっても私にとっては普通の一日。
明日からいよいよ3月。
それなのに雨は止まないし、洗濯物は乾かない。はぁ。
困ったもんです。
早く春めいた季節にならないもんでしょうか。
minmin@geocities.co.jp