MinMin's Diary



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7月23日

近視眼的にしかものを見ることができない人は、どんなトピックスを扱っても結局は同じ。
結局はその人の持つ批評能力がその程度でしかないことを露呈するだけだ。
そして逆もまた真なり。
批評家として素晴らしい業績を残した江藤淳氏が亡くなった。
既存の夏目漱石論を覆すだけのものを大学時代に発表した江藤氏。
目の前に並べた資料を数学的に機械的に切るのではなく、感性で組み立てる評論家だった。
資料の裏や奥深くに潜むものを浮き上がらせ、先人が見過ごしていたものを見つけるような評論。
ある有名大学の教授が言っていた。
自分が多くの資料を集め、その資料を丹念に調査し、証拠を固めて導き出した結論を、江藤氏は感性で導き出してしまうと。
江藤氏にとって「見えるもの」は、ただ「ある」のではなく、目に見えないものを「ある」と感じるための道標なのかもしれない。
先述の教授にとっても見えるものは見えないものを「ある」とするための道標であるには違いない。
だが、根本的に違うのは教授が見えないものを「ある」と確信するために、各道標の下に書いてある行き先を見て、それを書き留めてひとつひとつ注意深く立ち止まっているのに対し、江藤氏は最初の道標を見て到着点を「感じて」しまうという点である。
それを「感性」だと件の教授はおっしゃった。
自分のような人間は感性が足りないから、数学の証明のようにひとつずつ導き出さなければいけないのだと言っていた。
彼にとって、これを認めることはつらいことだったに違いない。
しかし、やはり能力のある人である教授は江藤氏の能力を認め、評論家であり批評家でもある江藤氏への敬意を払ったと言えよう。
この教授の口癖は「エビデンス(証拠)はあるのかね」だった。
論文を書いている学生が論文の中間発表を行った時に「○○だったといえる」という持論を展開する時に、証拠があまりにもないのに「自分の感性」を基に先走るのをこの言葉で制した。
自分の感性で勝手に意見を言うのは「感想」であり、「批評」や「論」にはなりえない。
しかし、卓越した感性を持つ人に対して、この言葉を向けることはしなかった。
彼には自慢の学生がいた。
その学生が「静止した点にこそ、もっとも強い力がある」という詩の一節を説明するのに「バレエでトウで片足で立った時、それは静止した状態でありながら、最も力が体のうちから発されている状態であると●●さんがおっしゃったのを聞いて、これだと思いました」と、別の人がまったく別の発表で述べたことを基に説明したことを満足そうに聞いていた。
このことが理解できずに「証拠はどこにあるんでしょうね」と質問した別の学生に「解らない人は解らなくていいです」とにっこりかわした男子学生を教授は怒らなかった。
他の学生が「もし自分があんなこと言ったら教授は絶対に怠慢って怒るだろうけど、彼だけは別なんだね」と言っていた。
やはり、感じ取る力の強さがあり、その直感が全てのエビデンスを超越してしまうものである人に対して、努力の末に感性を磨こうとしている人は敬意を表し、黙って脱帽するのだろう。
それがたとえ自分の弟子であっても。

別の時に私は知ったかぶって見当外れな発表をした学生に出会った。
「原始、女性は太陽であった」という言葉を持ち出してブルーソックスと青踏社運動を論じようとした男子学生が「古代の大和王朝でも女帝は一般的なことであり」と言って「原始、女性は太陽であった」という意味を説明し、古代の女性が男性並みに扱われていたのが、国家の発展によって部屋の中へと追いやられていったと結論を導こうとした。
確かに飛鳥時代に女帝は多く登場した。
しかし、それは政争を避けるための手段であり、結局、本当のところの実権は男達の手中にあった。
「ナカツスメラミコト」と呼ばれた彼女達は結局は天皇位を安定させるための中継ぎ役でしかなかったのであり、そこに男性との同権を見るのは難しい。
原始、太陽であったのは、もっと古代の呪術的な時代の話だろう。
この点を指摘すると論理武装せずに安易に発言した彼は黙った。

また、近代日本文学の授業で泉鏡花を論じた学生も、自分の浅薄な知識をひけらかすために見当外れな発表をした。
「泉鏡花には水と女のモチーフが見られます。これは同じ19世紀に英国でリバイバルされたアーサー王伝説の湖の貴婦人などと通じてファムファタールの性質を感じ取れるでしょう」
聞いた瞬間にめまいがした。
これはただの言葉の羅列だ。
確かに泉鏡花の作品の女には水が深く関わっている。
しかし、日本でも古来から水と女は決して無関係ではない。
日本文学において折口信夫もそれを論じている。
19世紀に英国でアーサー王伝説は確かに人気を呼んだ。
湖の貴婦人も確かに登場する。
しかし、湖の貴婦人は男を破滅に導くファムファタールとは扱われない。
それならばアーサーの異父姉のモルガン・ル・フェイやらの方がよっぽどファムファタールである。
「あの、泉鏡花が英国文学を読んでいたという証拠が蔵書や日記などに残されてますか?」
そう突っ込むと発表者は慌て、「いえ、これは僕の思い付きです。感じただけのことです」と逃げた。
おめぇの思い付きだ〜?感じただけのことだ〜?
そりゃな、他人様に聞かせるだけのもんでもなんでもない。
ここは君の思い付きを発表する場所ではなく、泉鏡花を論じる教室だぞ...という言葉が出てきそうになった。
「同じ時代ですから」
そう付け加える彼に対し、こう答えた。
「同じ時代だからといって、全ての文学的な動きが全ての文学者に影響を与えるとは限りませんね。それに湖の貴婦人が典型的なファムファタールにはなりません。これは英文学の常識です」
19世紀末期ならファムファタールなんてお盆中の幽霊ぐらいうじゃうじゃいるわい。
恐らくアーサー王伝説中の女性の名前をグィネビアと湖の貴婦人ぐらいしか知らなかったんだろうな、こいつ。
両者とも浅薄な知識で目に見えたものをつなげ、結局は見当外れなことを言う結果に陥った、感性が足りないくせに感性があると勘違いしている気の利いたふりをしたい人間だろう。
そういえば高校時代、交通事故で怪我をした人の手当てを映像で見た。その時に、傷口をたわしで洗う医者が出てきた。
この映像を見て気の利いた文章を描くと勘違いしていた男性が「医者ってのは感覚が鈍っているんだろう。あんなことができるなんてまともな感覚じゃない」なんて学校新聞に書いていたっけ。
こういうのは見当違いもはなはだしいと言うのだろう。あるいは医者という職業への嫉妬か。
いずれにせよ、独り善がりで根拠のない文章である。

文字を書くのは誰にでもできる。
つまらなかろうがなんだろうが「小説」というものやら、「エッセイ」というものを書くのは誰にでもできるだろう。
しかし、あるものごとをトピックスに置き、それを論じるのは卓抜した感性を持つか、あるいは地道に資料を判別し、吟味する努力をする人にだけ許されることだと思う。
インターネット上で見る「掲示板」での意見の言いっ放し状態を見ていると、ただ感情の赴くままに書き連ねているもの、よく言えば「感想」が野放し状態という気がする。
時にそれを「感想」ではなく、「批評」と思い込んで書いているから性質が悪い。
掲示板だけではない。
自分では批評するだけの力を持ち、批判精神を持っていると思い込んでいる人が知ったかぶって使い古された他人の意見であたかも自分が展開する持論のように話しているのにも出会う。
あるいは目の前に転がっているものだけにしか目が行かずに安易な感想を書いて、自分が感性豊かだと勘違いしている人もいる。

芸術家肌の物書きにはこの点が理解できない人がいる。
理解できないというか、理解する気がないというか、とにかく自分自身がほとばしる感性を持っていて、興味の赴くままに筆を進めれば第三者をひきつける文章を描ける人は「誰でも文章を描いていい」と考えるようだ。
そういう人は自らの持つフィルターで気付かぬうちにトピックスを選び、言葉を選んでいるから問題がない。
また、そういう人は何かを論じるという気持はまったくない。
誰かの目を気にして文章を描いていないからだ。
しかし、評論をする人間は「読む」人を納得させるということを念頭に置く。
つまり、誰かに読まれることを想定してものを書いている。
描きたいから描くという芸術家肌の人間と、この点で大きく異なる。
もちろん、芸術家肌の人であっても作家になれば「誰かに読んでもらいたい」という気持はあるだろう。
しかし、たとえ誰かに読んでもらえない状態になっても、芸術家は創造を続けるだろう。
困ったのが「誰かに読んでもらおう」と思いつつ、「でも納得してくれなくてもいいんだ。私の感性なんだから。だから責任ないんだよ」とうそぶいている人間である。
よく批判される小林よしのり氏は口では「わし漫画家だもん」と言っているが、持論には異様なまでに責任を持ち、反論する相手と徹底的に対峙する姿勢を見せている。
その点で彼は既に「漫画家」だというよりも漫画という手法で批評を行う評論家になってしまったと思う。
多くの識者が彼を右翼漫画家だの、たかが漫画家と呼ぶが、彼には自分なりの批判的精神があり、ちんけな右翼を名のってがぁがぁと感情の赴くままにがなっている人間とは違う。
感情を持ちながらも冷静にものごとを判断する力があると思う。
だからこそ、いち早く坂本弁護士一家の問題とオウムとを結び付けられたのだろう。
これは彼が漫画家という感性の職業に従事しているからこそできた「一つ目の道標で到着点を見つける」技だったのではないだろうか。

江藤淳氏という偉大なる感性を持つ評論家を失い、色々なことを考えてしまった。
批評と感想の違いはどこにあるのだろう。
感性のない人間の思いついたことで、根拠が「自分が思いついたから」というものが感想だと言えるだろうか。
いずれにせよ、偉大なる評論家がいなくなってしまった。
感想に毛が生えた程度の文章で評論家やジャーナリストを名乗る人が多い今、真の評論家がいなくなってしまったのは大いなる損失だと思う。



7月30日

日本の小学校だと夏休みに入って一週間。
この時期、小学生の私は夏休みが既に一ヶ月しか残されていないことに焦りを感じていた。
それでもまだ実感が湧かず、ま、いいやとやり過ごしていたような。
それにしても今の小学生は夏休みでも色々と大変みたい。
私が子供の頃はまだまだ世の中がのんびりしてたかな。
ぐたぐたとのんべんだらり夏休みを過ごし、朝から晩まで遊び呆けてたような...。
それは私だけかもしれないけれど。(^^;
朝はラジオ体操に始まり、朝顔の観察をして、朝御飯を食べた。
朝御飯の後はテレビを見て、気が向いたら外に出て遊び、喉が渇けば麦茶を飲みに戻った。
昼には冷や麦を食べたり、昼寝しなさいと言われても薄目を開けて寝たふりしてた。
おやつにはかき氷を作ってもらったり、夕方から表に出て日が暮れるまで遊んだ。
ちゃぶ台で晩御飯を食べ、人心地つくと外の方から友達の声がして、花火に誘われた。
普段はできない夜遊び?だけど夏休みだけは大目に見てもらえた。
こうやって毎日があっという間に過ぎ、気がつけば8月も終わりの方になり、ドリルを片付けていなかったことに気がついたり、課題を片付けていないことに気付き、青ざめる。
そして8月の最終週はちゃぶ台が宿題対策本部として活躍。
そんなことを思い出すと、とても懐かしい。
今の子供達が私ぐらいの年になった時、夏休みの思い出ってどんな風なものになっているんだろう。
台湾全土がほとんど停電だった昨晩に続き、大雨の降った今日、夜の10時過ぎに表に出ると同じマンションの人達が数人、外で涼んでいる姿に出会って、子供の頃の夏休みの光景を思い出してしまった。
おまけにお馴染み「ぐたぐた犬」までいるもんだから...。
 
 



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minmin@geocities.co.jp