MinMin's Diary



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10月5日

親不知を抜いた。(^^;
これで3本目。
さすがに今回のは下の歯だったうえ、やけに大きかったし、根っこが曲がってたので大変だった。
でも歯医者さんの腕がいいのでそれほど痛くない。(^^)y
親不知コレクターとしては最後の4本目に期待している。
でも、こいつも曲がっていると覚悟しておいてと歯医者さんに言われた。(^^;;;

台湾の地震の興奮がさめやらぬうちに東海村の原発事故。
なんか、恐いです。
そして、もっと恐いのは話題が流れていってしまううちに忘れてしまうこと。

さてはて、「おどろ気 ももの木 台湾日記」はあちらこちらで皆様のお手伝いもあって売れております。
台湾の普通の生活を知りたい方にはオススメです。
データや政治や経済ばかりからは絶対に見えてこない台湾の市井が見えてきます。
自分で言うのもなんだけど、誰も書かなかったというよりは書けなかったことが書いてあります。
台湾の社会に入り込んでいる私達だからこそ書けたもんだと思ってます。
今回の震災後の日本のメディアが流した報道にも「???」みたいなもんがありました。
基本を抑えてませんねぇ〜というようなものもたくさん。
台湾の屋台が節水のために使い捨て容器を使いだしたなんて書いている記事もありました。
節水のため???
使い捨て容器なんて少なくとも10年前には屋台の常識として使われておりましたぞよ。
節水というよりは肝炎蔓延の防止のため。
この使い捨て容器については拙著の中でも冒険小僧さんが「便利ならいいのか!」で書いてくれてます。
確かに日本とは全く違う生活、文化、政治、経済、常識が台湾にはあります。
でも、住んでいるのは同じ血の通った人間なんだってことを忘れないでほしいです。
そんな気持を込めて書きました。

そうそう、昨日、またまた新しいことをちょいと考えて書きました。
ここを見てね。
 



10月7日

日本ではお茶ブームみたいですね。
子供の頃から茶飲みばばぁみたいな生活をしていた私としてはうれしいです。
リプトンやら日東紅茶のティーバッグと共に育ちましたからね。
あとはプロセスチーズとか。
うちはどういう訳か朝食が洋食だったんです。
トーストにバターとジャム、そして牛乳と紅茶とヨーグルト、更にレタスのサラダっていうのは子供の頃からなじみのある光景でした。
だから修学旅行やら合宿やらで朝御飯がお味噌汁と御飯と納豆や焼き魚だと「う〜む」と困りました。
別に私は帰国子女でも親がアメリカ人でもありません。
でも、そういう生活をしておりました。
そして、どういう訳か父方も母方も親戚で集まるとなると中華料理屋でということになります。
法事の後に中華料理という妙ちきりんなことが平気で行われておりました。
だから「みんなが集まる時は中華料理」と長いこと思い込んでいたのです。
確かに中華の方が大勢集まる時は楽ですよね。
よ〜く考えたら父方も母方も合わせて中国語というものが多少なりともできる人が5人いる...。
当然私は抜いている数だからな...。
母の実家では「急いで!」が「かいかいで!」だったという。
よ〜く考えたら「快一点!」ではないか!!!
だからって別に私は華僑でもかくれ中国人でもありません。
ただ、そういう生活をしていただけです。

そんなだから自分のことを「亜流日本人」と呼んでみたりします。
それが結構気に入ってたりするんですよね〜。
なんだか現地化しながらも中華文化を残し、なおかつ欧米文化を吸収している東南アジア華僑に近いものを感じたりして。
インドネシア華僑やフィリピン華僑、そして元南ベトナム華僑と一緒にいて心地よかったのはそのせいかしらん?
現地の料理や文化にも誇りを持ち、自らの出自でもある中華文化も愛し、進取気鋭の精神で欧米の文化も取り入れている彼らと一緒にいると「温故知新」という言葉を時に思い出しました。
日本も昔はそうじゃなかったのかなぁ。
父方の今はない家には和室と洋間があり、洋間には暖炉がきちんとついていました。
私が小さかった当時、洋間には従兄が住み着いていて、かなり散らかってましたが、でも趣があって私は大好きでした。
和室のふすまにもきれいな花の絵が描いてあったりして、これも好きでした。
良い意味での和洋折衷で、それが明治から戦前に脈々と通じた精神でもあるかのように思えました。
自分の側にあった新しい文化をどんどん取り入れて、自らの血肉としていった感じがします。
これがアジアの国々に住む華僑達の間では今でも普通に行われているような気がします。
こうなってくると、私の亜流日本人意識の亜流は亜流でも「亜細亜流」だったりして。
ははは。
どっちでもいいけどね。
どんどん自分の側にあるものを良いものならば取り入れ、表層だけを追いかけるのではなく、自分の生活にとけ込ませるってのが大事なんじゃないかなぁ。

例えば中国茶にしても紅茶にしてもうんちくよりも生活に取り入れることがまずは一番だと思うのです。
ベッドサイドで飲む朝の紅茶は無理でも、それだからって紅茶道を諦めることはないです。
ティーバッグで飲んでもいいから美味しく飲めばそれでいい。
紅茶道や中国茶道の作法を知っているのは良いことだけど、それでなければいけないなんてことは無しです。
あくまでも自分のライフスタイルに自分流にアレンジして取り込んでいけばいいと思います。
お茶だけでなく、全てのものにそういう姿勢が大事なんじゃないかなぁ。
そうすることで様々なヴァリエーションが生まれ、亜流日本人が増えて、日本がどんどん面白くなると思います。
個性の時代、個性の時代とオウムのようにお題目を唱える暇があるのなら、マニュアル的な発想から離脱して、自分の側に転がっている面白いものをひとつだけでもいいから生活に取り入れる試みをみんなに促したらいいのに。

個性的な服装や髪型をした若者達。
そんな同じように個性的な姿の若者が集団でいる学校にあると、それが制服に見えてしまう。
金髪、銀髪が多いから青くしようとしたって、それじゃ髪にこだわるという点で既に同じカテゴリーに入ってしまう。
外見ではなく、生活の中にちょっと面白い一工夫をしたら、もっともっと他者との区別がつけられそうなもんだけどなぁ。



10月14日

「おどろ気 ももの木 台湾日記」のお誕生パーティを一昨日に行いまして、大勢のお友達に祝ってもらいました。
皆さん、どうもありがとう。
それに、なんと、あのマッハ文朱さんにまでいらしていただけました!
こんなに色々な人に祝ってもらえて幸せな本であります。
でも、祝ってもらっただけじゃ、まだまだです。
読んでもらわねばね。

それで思ったこと。
文章は書き手の手を離れた瞬間に、既に読み手のものへとなっているんだなってこと。
この「おどろ気 ももの木 台湾日記」にしても、読む人の立場や捉え方で、感想がま〜ったく異なるんですね。
「すげ〜面白い!」
「げらげら笑ってしまいました〜」
「すごく重い内容です」
「こんなこと、本当にあるの?信じられない」
「あまりにも普通なことを書いている」
「本当に台湾好きなのって思えちゃうよ」
「台湾への愛情が感じられるねぇ」
「日本の田舎とほとんど変わらない状態じゃないの?」
「世界は広いんだね〜」
「これは女達が何をどう捉えるのかを知るために男達が読むべきものだ」
「国籍に関係なく同じような問題があるんだね」
「ここまでするかぁ〜って感じだよね」
「異文化交流論だよね」
「こんな台湾の生活情報がほしかったんです。日本人が就職できる仕事なんかも紹介して」
などなど。
これがひとつの本に対する感想であれば、書いた本人達の思いも結構ばらけてたりする。
何しろ四人が四人、役割も違えば目的も違う。
当然ながら生き方も違う。
常に異端児として生きてきた者同士にしても考え方は全く違う。
たんぽぽ組幹部仲間の冒険小僧さんは「違って当たり前。仲間になれなくて当たり前」って思っているという。
私は「違って当たり前」までは同じだけど「でも違うからって仲間に入れないのは、そうする連中が間違っている」と思う。
だから同じ思いを抱いていても、生き方は自ずと違ってくるようだ。
私個人は移動した先の社会にそれなりにコミットメントし、自分なりに役割を果たそうとあがくから辛い。
ただ出自や言葉だけを理由に不当に扱われるのがどうしても許せない。
恐らく、私の方が生きづらいだろうなって思う。
最初から「違うんだからハブにされていい」と諦めてしまえれば楽かもしれない。
だけど、結婚したら相手の側は都合良く「うち」扱いするから、それがまた許せない。
「そのうち扱いをするところでよそ者扱いし、よそ者扱いするところでうち扱いしてほしいわ」
そんな風に思うことがままある。
でも、だからといって決して台湾が嫌いだとか、耐えられないってんじゃない。
日本で生きているのと同じように生きようとしているだけ。
そうやって生きていくために最低限の権利をほしいと主張しているだけ。
友人に「後書きまで来て、やっと、四人ともみんな台湾が好きなんだって気がついたんだ。だから、もっと台湾好きだ!って部分を前面に押し出せばよかったのに」と言われた。
でもね、薄っぺらな台湾礼賛式の本なら山とあるもの。
何も私達が書く必要はない。
私達にしか書けないものを書くからこそ、買っていただき、読んでいただく価値がある。
表層的な部分だけを捉えて「台湾大好き」なんて言っている段階のものを書くぐらいなら、何も書かない方がいい。
四人とも考え方も捉え方も違えば、生き方や目的も違うけれど、でもそこにあるのは、自分が住んでいるところで、ささやかでもいいから、より良い暮らしを送ろうとしていることだと私は思っている。
私個人は、ふわふわと飛んでいった先で幸せに花を開くたんぽぽの花のように生きられたらいいと思っているし、同じように飛んできた人達が同じように幸せに生きられたらいいと思っている。
そして新しく来たものだし、少々は様子や風習が違っているけれど、在来の連中にはそういった点を大目に見てもらい、温かく受け入れてもらえたらいいのになと思う。
ちょっと違うようでも、よく見たら同じなところに目を向けてほしいし、目を向けていきたい。
全く違うようならば、違うものを尊重し、尊重されたい。
あの本を第三者として私が読んだら、どんな感想を持つことになるだろうな。
 



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minmin@geocities.co.jp