イーハトーブの国のアリス(5)

                                   written by たねり

4・ゴーシュの失踪

 「アリス、いつまで寝ているの。起きなさい」
 ママが大きなフライパンでクッキーを焼きながら、ベッドのそばに立っていました。ママと会うのはひさしぶりだわ、とアリスはうれしく思いましたが、不思議でもあったのです。台所ならともかく、なぜアリスのベッドのそばまでママはフライパンをもって来たのでしょう。アリスが知っているかぎり、ママはやきたてのクッキーを入れたフライパンをもって家の中を歩き回る人ではありません。
 「それに」とアリスは思いました。ちっともクッキーのバターが焦げるいい匂いがしないじゃないの。
 ママが微笑みながらアリスの顔をのぞきこみました。
 「ねえ、お嬢さん。先生のベッドで寝ているお嬢さん」
 アリスが目をあけると、そこにはママではなくて、にやにやと笑っている大きな三毛猫の顔があるきりでした。
 「いやはや、不用心ですぜ。ドアのカギは開けっぱなし。まあ、あっても先生はかけやしない。わたしだからよかったようなものです。これが山猫博士のデステゥパーゴだったりしたら、お嬢さん、いまごろサーカス団に売られてたっておかしくない」
 アリスはしばらく事情がのみこめませんでした。なにしろ、目の前にいる三毛猫なんてイギリスにはいない種類の猫ですからね。チンチラやペルシャやチェシャー猫だったら、過去に付き合いもありました。でも、猫は猫よ、とアリスはこころの中でおまじないみたいにつぶやくと、内心、どきどきしていましたが、すっくと起き上がるとぴしゃりといいました。
 「あら、失礼なのはあなたのほうよ。まったくイギリスの猫はよかったわね。エチケットってものを知っているわ。それにくらべて、イーハトーブの猫ときたら、ずいぶんぶしつけだこと。わたしの目がさめるまでお部屋の外で待つくらいのジェントルマンシップはないのかしら」
 猫には率直にものをいうのがいちばんです。そこが、人間と人間との付き合いとはちがうところですね。人間相手ならぎくしゃくする言葉でも、猫が相手ならたいていはうまくいきます。
 三毛猫はアリスのいいぶんにべつに怒ることもなく、眼をすぼめてひげをさわっていましたが、イギリスの猫はむかしモリーオの教会にいたようだけれどもいまはいないのでうまくありませんや、とわけのわからない弁解をしました。
 アリスが眠っている間にもう夕方になっていました。窓の遠くにはかしわばやしが黒い光のころもをとりだして夜の支度を始めていました。鳥たちがねぐらに帰るのも、アリスがかしわばやしのホームステイ先に帰るのも、まもなくです。
 「ところで、ゴーシュさんはどうしたのかしら。わたしがお昼前に来たときには、もういなかったのよ。あなたはゴーシュさんのお友だち? だったら、何かご存じじゃない」
 アリスは三毛猫にたずねました。
 「お友だちなんて滅相もない。わたしは先生の音楽をきかないとねむられないほど好きなんです。ファンですよ。シューマンのトロメライなんて絶品だと思うがなあ。セレナードがいいんです。だけど、先生は気難しいやね。『インドの虎狩』みたいな難儀な曲がお好きなんだ」
 三毛猫は思い出したようにからだをビリビリと震わせると、ふうっと大きく溜め息をつきました。
 「『インドの虎狩』はたしかに名曲とはいえないけど、ときどききくにはいいと思うわ。バッハの無伴奏ソナタばかりが音楽じゃないもの」
 「キャベジばかりが野菜じゃないってことですね。セロリもパセリも緑黄色だから、サラドにすべし、と」
 「ちょっとちがうような気もするけど、まあいいわ。そうそう、わたし、こんな紙きれを見つけたのよ」
 アリスはゴーシュの部屋でみつけたイーハトーブ警察署からの召還状をポケットからとりだして、三毛猫に読ませました。
 「ねえ、ゴーシュさんは警察署にいったっきり、帰ってこないということになるでしょう」
 「ふん。いかにもこれはほんもののようですな」
 三毛猫は紙きれを表にしたり、うらがえしたりして、ためつすがめつ眺めたあげくに、そういいました。「事情聴取だけなら、まあ、せいぜい1時間。どんなにおおくみつもっても、半日もあればすみますぜ。それで帰ってこないとすれば、先生、これですかい」
 三毛猫は両の手首をかさねて、うなだれるまねをしました。アリスは一瞬、何のことかわかりませんでしたが、あっ、と閃きました。
 「まさか。逮捕されたってこと? いったい何をしたというの、ゴーシュさんが」
 「そりゃあ、わたしだってさっぱりです。ご心配なら、警察署に明日にでもおでかけになってみたらどうです。ただ・・・」
 三毛猫は小首をかしげて、つづけました。「もしも先生が何かの罪で留置をされているとして、お嬢さんが面会を申し出るには具合がわるいかもしれません。どういう関係だ、っていわれるにきまっている」
 「お友だちよ。わたしとゴーシュさんは」
 三毛猫はてのひらの肉球をふくふくと狭い額におしあてながら、アリスのいいぶんを否定しました。
 「友人関係では差し入れも面会もできないはずですぜ。親族か、あるいは身元引受人じゃないと。お嬢さん、どなたかこの街の有力者をごぞんじありませんか」
 アリスは手をうちました。「そうだわ。レオーネ・キューストさんがいるじゃない。市の博物局につとめている方です」
 「それはおえらい方ですかい」三毛猫は探るようなめつきをしました。
 「そんなにおえらくはないわね。18等官とか、19等官とか、そんな数字をいっていたように思うわ」
 「ふん。それでは下から数えたほうがはやいやな。でもまあ、なんにもつてがないよりもましってことにしましょう」
 三毛猫はじつににくたらしい口振りでいいました。アリスは思わず、猫のヒゲをちょんぎってやろうか、と考えたくらいです。でも、そのとき、肝心なことを思い出しました。
 「まあ、たいへん。レオーネ・キューストさんはもうすぐいなくなるわ。毒蛾のせいよ」
 そうなのでした。レオーネ・キューストさんはきのう、ゴーシュのコンサートにでかけた時に、毒蛾の調査のためにしばらく出張をするとアリスに話していたではないですか。
 「おやおや。いつからです、ご出張は?」三毛猫は肩をすくめました。
 「きのう、来週からっていっていたわね」アリスはこたえました。
 「今日から来週だ!」三毛猫とアリスは顔を見合わせると、ぴたりと息があったデュエットみたいに声をそろえました。明日になったらもう遅いかもしれません。いや、もうでかけている可能性だってないとはいえませんが。アリスは、モリーオの街はずれの競馬場跡にあるレオーネ・キューストさんの住まいをたずねてみることにしました。三毛猫は、ゴーシュの音楽仲間だった動物たちが何か知っているかもしれないから、といいのこして、消えました。

 アリスがモリーオの競馬場跡についたときにはもう広い草地に暗闇がたれこめていました。レオーネ・キューストさんの小屋はもともとは厩舎の助手が馬の世話をするために住んでいたもので、主のいなくなった馬小屋の隣に建っています。夜などはとても暗くて、さみしい場所でした。それに、街ならば街灯もついているわけですが、ここはこわして再開発をする予定の土地です。あかりなど期待すべくもありません。
 「こんなところに山羊と住むなんて、まったくへんなひとだわ」
 アリスはちょっとこわいので、ぶつぶつと声をだしながら飛んでいきました。背中に羽がはえていて、ほんとうによかったと思ったことでした。こんな闇のなかを、歩いてなんていられないもの。走るのだってごめんだわ。
 いくつかの厩舎をやりすごすと、レオーネ・キューストさんの小屋の前に出ました。いつもなら、この時間には音楽をききながら食事をしているのではなかったでしょうか。でも、ざんねんながら、かれの小屋からは音楽もきこえなければ、光ももれてはいませんでした。アリスは小屋のまえに立ってドアをノックしてみました。返事がありません。裏にまわって、山羊を飼っている一角をのぞいてみましたが、どうやら山羊もおりません。知り合いのファゼーロだかミーロだかという少年にたのんで、しばらくあずかってもらったのでしょうね。レオーネ・キューストさんが出張から帰ってくるのは、1週間ほどもたってからです。
 「とりあえず、一人でさがすしかなさそうね」
 イーハトーブの友人のひとりが消えてしまった一日でした。こんな神隠しみたいなことがあっていいのでしょうか。
 「かれの人生は劇的過ぎるんじゃないかしら。もっと淡々としていなければ幸せとはいえないと思うのよ。でも、むりね。アーティストっていうのは、凡庸な人生がいやだからアーティストになるんだもの」
 アリスはシュトルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)こそ芸術家の人生という考え方でこの日の出来事を納得することにしました。とはいえ、ゴーシュを見つけて、セロの演奏がとてもよかった、と伝えなくてはアリスの気持ちがおさまりません。
 (明日、イーハトーブ警察署にいってみよう)とアリスは心にきめてかしわばやしに帰りました。

                                                                                                     つづく

 Copyright (C) 1998 by たねり NQG63965@biglobe.ne.jp

 


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