やっと秋になって涼しくなってきた頃、妊娠9ヵ月の私は、おしっこがでなくなってむくんできた。疲れているのはいつものことだったので、私自身はあいかわらずだったのだけれど、定期検診でお医者さまに、入院治療が必要だと言われた。出産予定日まで3週間もある。出産したら1週間入院なので、一ヵ月も子供たちだけを両親にあずけるわけにはいかない。ちょっと、入院できませんというと、1週間だけ猶予をくれた。この間に、血圧が下がったら入院はしなくてもいいと・・・。安静と減塩を言い渡された。家に帰って鈴木(主人の姓は鈴木)にそういうと、ふーんと言っただけだった。一週間の間、結局、私の生活は変わらなかった。多動のりゅうと2才になったばかりのみさと鈴木の世話で、私が安静にできるはずがない。1週間後、早起きして自分で車を運転して20分ほど離れた産婦人科に診察の予約を取りにいった。そして、診療が始まる頃、また自分で車を運転して診察にいった。もう、それぞれの実家と妹に連絡して入院の準備はできていた。
「入院ですね。」
もういいでしょう?と淡々と入院を告げられた。
家に帰ると、やっぱり入院だったと鈴木に告げて、いろんなところに電話をして連絡をとった。りゅうとみさが鈴木につれられて、わたしの実家に行くのを手を振って見送った。妹が私を病院に送るために車で来てくれた。妹は車を運転しながら
「ねえちゃんが、妊娠中毒症になったのは、鈴木さんのせいよねー。なーにもしてくれないものねえー。」
「そうよねー。」
私は、笑って答えた。
私は、出産の準備とそれまでの入院の準備といままで読まずにため込んでいた雑誌と本とラジカセをもって、入院した。二人部屋だったけれど、最初の1週間は、誰も入院してこなかった。入院といっても安静と減塩が目的なので、一日中ごろごろと好きな本を読んで、作ってくれる塩分抜きのご飯を食べていればそれでよかったので、子供たちを預かってくれている両親には悪いけれど、私は最初で最後ののんびりした数日を過ごした。鈴木は、2回ほど面会に来たけれど、頼んでいた残りの雑誌を持ってきてくれただけで、「じゃあ。」と1分もたたずに、スポーツ新聞でばいばいと振っていそいそと雀荘に出かけていった。1週間ほどたったころ、隣の部屋に誰か入院してきた。陣痛が初まったかと思うと、あれよあれよとあっという間に産まれてしまった。長男も長女も時間がかかった私は、おどろいてしまった。
その日、病室にもどってきた隣の彼女は、興奮でねむれずに私といつまでも話をして夜更かしをしてしまった。たぶん、夜中の2時ぐらいまで、お互いの家庭の事情をうちあけあって、語り合って過ごした。カーテンもあって、お互い顔も見えないのでまるで長電話をしているようで、いつまでも話がつづいた。病気ではなく出産で入院するし、スタートラインが同じなので、入院期間にとても仲良くなるのが常らしい。彼女のご主人は毎日やってきては、2番目の娘を抱っこして帰った。大工さんのようで、まだ完成していなかった屋根つきの球場をつくっているとか。同居していて、まだ高校生の弟や妹もいっしょに住んでいるという彼女の事情は、私よりも気の毒なような気がして、一生懸命聞いてしまった。血圧が高くて明るいと頭が痛いので、一日中カーテンを閉めていたので、通路側の彼女のベットは暗くて気の毒だったのに気がついたのは、退院した後だった。
毎日、塩分のない食事をしていると、だんだんおしっこがでてきて、体重が落ちてきた。安静にしているだけで、こんなに回復するものなのかとびっくりした。食事を作る人もたいへんだったと思う。ほんとうに完璧に塩が抜いてある。カレーやシチューやハヤシライスの時には、ルーを入れるまえで、できあがり。塩を抜くということは、こういうことなんだな・・・と感心してしまった。食材にはそれぞれの味がある。でも一番うれしかったのは、おやつの時間のコーヒーや紅茶についてくる砂糖だった。いつもは入れない私なのだけれど、全部入れて甘くして、その甘さがうれしかった。
10月31日、ハロウィンの日に、大好きになったパートの助産婦さんがいる時間に産めるようにと、陣痛促進剤を使って計画的に産むことになった。1時間に一錠づつ飲んでいって6個でおしまいという薬だった。なかなか効かないので6錠目になって、どかーんとやってきた。私はさわると、陣痛が倍増するタイプだったので、看護婦さんが痛みを和らげようとさすってくれようとするのを、
「はあはあ、すみません、はあはあはあはあ、あー。さわらないで、はあ、ください。はあはあ。」
という変わった妊婦だった。よろめきながら、休みながらトイレにいった後、すぐ産室にはいって出産だった。陣痛が進んで子宮口が開いてくると、産まれようとする力を堪えるほうがたいへんになってくる。止めようとしてもずんずん胎児は下におりてくるので、先生が来るのが間に合わないくらいだった。裂ける前に切開しないとなおりが遅くなる。ちょっと休憩しましょうという助産婦さんに
「待てません。切ってください。」
と、叫ぶ元気な妊婦だったらしい。人工的に破水させて、力がはいりすぎるとレバーを持つ手を外されてしまった。妊娠中毒症のために、たくさんの看護婦さんが何かあったときのためにそばについていた。そのために人数が多い昼間に、計画的に産むことにしたのだった。先生が階下の診療を途中でやめてやっと来てくれた。ちょうど、切ってくれと叫んでいるときに。
・・・・・やっと産まれた。
「どっちですか?」
「ん?おんなのこ。」
「ありがとうございます。」
子宮収縮剤を看護婦さんがオレンジジュースで飲ませてくれた。
「お・おいしいー。」
「でしょう?」
その病院のきまりで、産後2時間はその産室でそのままぎゃあぎゃあ泣き続ける赤ちゃんと共にそこにいた。なんでも、この2時間は大事な2時間で、母親の母性本能をめざめさせる時間でもあり赤ちゃんに母親はこの人だとすりこませる時間でもあるそうだ。出産の興奮も醒めぬまま、光が眩しいためにライトを落としてもらって、暗やみの中にぼんやり光る産まれたてのあゆをずっと見ていた。
誰も出産に立ち合わなかったので、電話を貸してもらって、実家に電話をした。そこから鈴木の実家に電話をしてもらっていたようで、産室から歩いて帰る頃に来ていた。鈴木は何かいっただろうか?憶えていない。でも、そのとき聞いたことは、8年後3世帯住宅に今の鈴木の実家を立て替えるからという話だった。おめでとうとか、がんばったねとか、3人産んだけれども一度も言ってもらえなかった。何でも1階が両親の家で2階がお姉さん夫婦、で3階にうちの家族が希望するならのせてもいいとか・・・。で、費用は2000万ほどかかるので、その分は出すようにということらしい。まさかその1年後には家を買い、2年もたたないうちに別居しているとは、私の想像力がいくら豊かでも、思いもつかない現実だった。
ときどき、妹が洗濯をしてくれたり、話相手にきてくれていた。実家にも帰って様子をみてきてくれた。りゅうとみさは母にしつけをしなおされているというのだ。まるで保育園のように、あいさつをさせたり、歌を歌ってきかせたりしているとか。それで長男のようすがちょっと変わったとかきくと、まるで他人事のように笑って、へえーと言っていた。
出産してからは、みんなとおなじような入院のメニューがまっていた。同じ頃に産んだ人たちとは、毎日会うことになって、冗談をいったり、とても楽しかった。私はみんなの3倍入院していて場慣れしていたので、縫い目をいたがって「あいたたた・・・」というだけで、みんなの笑いを買い、診察をしていた先生がその笑いを聞いて、首をかしげるほど、和やかな雰囲気だった。私は、私のいいところを発見したようでうれしかった。私はきらわれものの一匹狼ではないかもしれないと。でも、孤独というのは変わらなかった。他の赤ちゃんの父親は毎日お見舞いにきてはわが娘を抱っこして妻をねぎ
らって帰った。2人目のとなりの奥さんの旦那さんは、奥さんと添い寝をして帰った。ふたりのいびきが聞こえてきて、わたしはびっくりしてしまった。とても寂しかった。
入院最後の日、実家の両親がりゅうとみさを連れてお見舞いにきた。おかあさんがいいと泣かれても困るので、最後の日だけ連れてくる約束になっていた。3週間ぶりに会った。みさは、ご飯をいっぱい食べていたのか、ころころと前よりも太っていた。しかも私に人見知りをした。恥ずかしそうにしていた。
りゅうは、どうだったのか忘れてしまった。後日、両親が語ってくれたりゅうの帰りの車でのエピソードでかき消されてしまった。りゅうは帰りに車の中で、急におんおんと悲しそうに泣きだしたそうだ。あまり悲しそうに泣くので、母も一緒になって、
「寂しいねえ。悲しいねえ。明日帰ってくるからね。」
といっしょに泣いてしまったそうだ。悲しいとも寂しいとも言えなくて、どうしておかあさんがいないのかわからないままだったりゅうは、おかあさんにやっと会えた。でもせっかくあったのに、また帰らなくてはいけなかった。それで、泣いてしまったのだろう。その話を聞いて、もうりゅうと離れないようにしようとその時は思った。
実家に帰ると、それまでの楽しい気持ちはいっぺんに吹き飛んでしまった。子供に慣れていない母は、多動のりゅうと幼いみさの世話でぼろぼろに疲れていた。私は私で退院というイベントで疲れていたので、両親に対して、過大なものを期待してしまった。そもそもその退院の日は、私の誕生日だった。チョコレートのバターケーキが用意されていたので、実はがっかりしてしまった。私は、生のケーキの方がよかった。なんでバターチョコなのか、と用意してくれた感謝の気持ちよりもそれが強く出てしまった。だから、
「誕生日などしなくてもいいのに・・・」
という言葉になって出てしまった。それを聞いて、母が怒ってしまった。それがきっかけになって、私と母は冷戦を始めてしまった。退院して、3日ほど部屋に閉じこもり自分の家に帰りたいとすごく思ったり、ぼーっとして部屋からでなかった。
それとは別に、両親にみてもらっていた3週間でも、りゅうは基本的には何も変わらなかった。言葉が少し増えていたけれど。そして、育て方が間違っていると言われ続けた。それで育児書や保母だった妹の教科書を広げては、りゅうの症状に該当する記載がないか探した。産後は細かい字を読んではいけないというが、それどころではなかった。育児書で、似たような症例を見つけた。自閉症かもしれない。専門医に見せるようにと書いてある。妹に電話で自閉症かもしれないというと、自閉症に関する本が家に残してあるからといった。それが私にとっては、最悪の状況におかれることになる『母原病』という本だった。母原病・・文字通り母親が原因の病のことを総称してそう名付けてあった。そのうちのひとつに自閉症があった。自閉症はカナー症候群とも昔言われていて、それも原因は母親の育て方によるものだと言われていた。自閉症の子供は、母親に懐かず、多動があり、医者に見せるころには母親自身が疲れ切っていた。どの母親も似たように疲れていた。だから、子育てに無関心な無気力な母親のせいで、子供がそう育ったとつい30年程前まで、信じられていた。本当に私たちは哀れである。子供が自閉症なうえに、さらに、原因はおまえだと言われるからだ。
母原病の本には、りゅうそっくりの症状が漫画で描かれていた。そして、その漫画にはその母親が子育てをやり直すことによって、症状がなくなっていくようすが書かれていた。これを見た私はショックだった。やはり原因はわたしなのか・・・と。育児書に書かれていた専門医に見せるようにというのは、忘れてしまった。母や父が勝ち誇ったように私を責めた。ほらやはり育て方が悪いのだと。それは、みんなの逃げ道だった。どうみても異常児なのに私が育て方を変えれば、普通の子供になるのだというのは、救いだった。
両親は、一週間で床上げをして、子供の世話、とくにりゅうを育てなおすように言った。寝ている場合じゃないと。近ごろ、産んでも早々に退院をして、はやく普通の生活に戻っていく女性が増えているが、やはり昔の習慣は、大事にしてちゃんと一ヵ月はおとなしく赤ちゃんの世話をしたほうがいいと思う。私は産後2週間で、上二人の子供たちを抱っこしたり、犬の散歩にいったりする生活にもどった。犬の散歩は、近所の人が
見たら産後なのにそんなことをさせていると思われるのでやめてくれと言われた。やはり無理をさせているとは思っていたのかもしれないのだろうけど世間の目がない家の中ではりゅうを育てなおすために、たくさんのがんばりを要求された。そのストレスで母
乳はまったくでなかったし、それは、後になって自分にふりかかってきた。私は生理痛もない元気な女性だったのに、あゆを産んだ後には、生理の前には頭痛がしたり顔がほってってなまあせをかいたりするようになったし、どうも、子宮をささえる筋肉が弱っ
てしまったらしく、ときどき下に落ちてくるようになってしまった。胆石症になって倒れたりもした。両親は2週間も自分たちだけで子供を見ててやったのに、感謝もしないと毎日疲れた顔を見せる。友達に愚痴ると、じゃあ、あなたがたいへんだったことも身に染みてわかったでしょう・・・って言ってみたらと励ましてくれたけれどいまだにそのことは言えずにいる。
りゅうを見ていたら、普通に育てば、耳からはいってちゃんと自分のものにしている言葉がなにもないことに気がついた。言葉の意味を理解していない?りゅうには、わたしたちがしゃべる言葉は、しらない国の言葉のように聞こえるのだろうか。ふとヘレンケラーを思い出した。彼女に世界を教えたのは、サリバン先生の「水」という言葉だった。りゅうを水道のところに連れていって水を手にかけながら「水」だと言ってみた。りゅうは水をもてあそびながら「水」を憶えた。直射日光を顔にあてるとりゅうはしかめっつらをした。
「太陽は、まぶしいね。」
「太陽は、まぶしいね。」
みごとにおうむがえしをする。これも自閉症の独特の症状らしい。まぶしいという形容詞はわからないようだったけど、太陽は憶えた。名詞の単語はわかるらしい。実際にあるものを、手にもたせては、その名前を教えた。それは車。それは本。それは人形。何もかも、最初からやり直せばいいんだと思い込み、一生懸命言葉を与えていった。りゅうは少しづつ単語を増やしていった。見えるものはだいじょうぶらしい。さいわいりゅうは、ひらがな50音をすべて憶えていた。数もある程度までは数えることができた。私は、たくさんの絵本を買ってきて、毎日読み聞かせをした。りゅうは絵よりも字をおって本を読んでいる。金魚が逃げた絵本も、金魚ではなく文字を見ていたために金魚が見えなかったのだ。
鈴木は、お客さんきどりで、ビールを飲みひっくりかえってテレビをみてのんびり日々を過ごした。自分の実家に行ってくれと頼んでいたにもかかわらず、毎日のようにそこにいた。私や私の両親は、てんてこまいしているというのに。その様子を見ていた父が、これでは私がかわいそうと思ったらしい。今は実家で大人の手が3人分あるのに、家に帰ったらすべてひとりでやることになる。3人の子育てもしながら。そこで俺が話そうと、母原病の本を持って、鈴木に話をした。ちゃんと子育てをしなおさせるから、せめてふとんぐらいひいてやれと。鈴木には、まさに晴天の霹靂だった。りゅうが私の
育て方が悪かったせいで自閉症になったと信じた。しかも、自分は外で働いているのに家事を手伝うようにその原因の妻の父から言われたのだ。鈴木は、むっとしたままだった。
次の日に、私と子供たちは、アパートに戻った。私にとっては地獄の日々が再スタートした。
鈴木は口をきかなくなった。無言で私を責めた。時には、言葉で私を責めた。そしてギャンブルで家に帰ってこなくなった。ふとんもひいてくれたのは、たった一週間だった。規則正しい生活をすることということで、夜の8時には寝ることに決めた。でも7時55分になっても、ふとんはおしいれにはいったままなのだ。とうとうある日、待ちきれずに自分でひくと、
「なんだ、自分でやれるじゃないか。」
と、その日からしなくなった。もともと3交替制でいない夜もあったので、いまさらふとんぐらいひいてもらわなくてもいいと思った。
りゅうは睡眠障害もあった。寝る条件は暗やみと静けさ。さあ寝るよと8時に電気を消してもりゅうは2時間ひとりごとをぶつぶつと言った。あゆにおなかいっぱいミルクを飲ませてゆすってやると、すぐに眠ってくれた。みさはふとんにはいったら1分で寝てしまうので、楽勝だ。で、そのあとりゅうの2時間。これにはまいってしまった。2時間たって添い寝から起きて汚れた食器を洗うのはとてもつらかった。それで、すべて生活をシフトさせて夜8時に私も寝ちゃうようにした。主婦が8時に寝る。これだけで私はなまけもの呼ばわりされた。何もしないと。でも夜やるべきことは昼間やればいいのだ。開き直るしかない。りゅうのためなのだと。
テレビは自閉を進ませるものとして、コンセントを引き抜いた。これには鈴木が抵抗した。鈴木の主張はこうだった。
「俺とみさは犠牲者だ。テレビを見せないとみさはまともに育たない。」
私は、しばらく母原病の本以来、誰の言葉にも「はい」というようになった。鈴木のために明かりのもれない部屋にテレビとこたつを運びこんで、こっそりテレビを見れるような環境を作った。私はもともとあまりテレビを見ないで育ったので、ないならないでもかまわなかった。実際、じっとしてすわってテレビを見る暇もなかった。数ヵ月後に起こった関西大震災の生の映像をついにテレビでみることはなかった。テレビを再び見れるようになったころには、震災のあとは片付けられてテレビに出ることもなくなっていた。
私は、図書館から持てるだけの絵本を借りてきた。近くの市営の図書館は無制限に本を貸してくれたから。で、毎日毎日絵本を読んだ。犬のキッパーシリーズが大好きだった。
「ぐーーーるぐるぐぅるぐるかきまぜる。」
りゅうは、最初に憶えたことを忘れて、次に進むことがなかなかできない。そのこだわりは時には、思わぬ才能になったりする。この数か月の私の読み聞かせは、りゅうに感情をこめて台詞を読むという音読を身につけさせた。国語の時間、とてもじょうずに初見で音読ができる。ところがこんなに感情移入したように読めるのに、まったく気持ちを読み取ることはできないらしい。小学校2年生の目標は、読みながら中身を読み取ることにした。とても、むずかしい。
「どんな気持ちで、キッパーは、ケーキのたねをかきまぜたのかな?」
ってきいても、今のりゅうにもきっとわからないだろう。
鈴木は、しばらくして、同僚から子育ての秘訣を聞いてきて私に言った。
「汗をかいて育てろ。」
それは、父親に対するアドバイスじゃないのかとも、言えなかった。私は反論する気持ちさえ失っていた。車を使うなと言われた。りゅうを人間に慣らすために、私は毎日買物に出かけていた。あゆが2ヵ月になったころ、鈴木はそういった。本当は首がすわっていないかもしれないあゆをおんぶして、前にみさうしろにりゅうを乗せて必殺自転車4人のり。まるでサーカスのような自転車乗り。行きはジェットコースター並みの下りで、帰りは心臓やぶりの坂道。途中に公民館があってそこでしばらく遊ばせて帰った。この行事は、雨がふらなければ毎日実行された。訓練のひとつだと信じて。あゆをおんぶしたまま私はぶらんこにのって、りゅうが公園を徘徊するのを見守った。小学校以来ぶらんこにのった。めまいがした。酔った。でも青空がきれいだった。
ある日、ぶらんこにゆれながら私はりゅうをいつもいってた小児科の神経外来にみせることを決意した。みさはまともに育っているじゃないか。金魚だって探せるし、ちゃんとお話もできる。それにりゅうだって、可愛がって育てた。いっぱいだっこもした。毎日公園に、散歩に行ってた。多少、手は抜いたとしてもがんばっていたじゃない。ちゃんとやっていた。やっていたんだよ。そういうことに気がついた。
予約をして、母にあゆとみさを預けて医大から来る先生に会いにいった。りゅうの生育歴を十数枚のレポートにまとめて、その予約の30分間が最大にいかされるようにした。
「こんにちは。」
しばらく、りゅうを見ていた先生に
「行動が変なんですけど・・・。」
「ええ、見ただけでわかります。自閉症ですね。レインマンという映画を見たことがあ
りますか?」
「いいえ。」
レポートを読んでいた先生は、パニックについてかいた場所でとまった。
「パニックという言葉が、正確に使われていますね。あなたは?」
「一応、心理学を専攻したのですが・・・。」
「そうでしょう。」
「でも母原病ってみんなに責められたんですが。」
「母原病は、間違っていますよ。」
レポートを読みおわった先生は、ほめてくれた。それまでがんばったことをほめてくれた。あなただから、ここまでできたのだとほめてくれた。初めて私を責めない人を見つけた。先生は、その診断を確定するためにまた来週に面接に来るように言ってくれた。でも、脳の障害による自閉症と言われたことで、逃げ道がなくなってしまった。私のせいじゃなかったという気持ちは、生れつきの発達障害という言葉に飲み込まれてしまった。
(つづく)
Copyright (C) 1998 by 中村緑