また、八反田の東はずれに奥平という姓の家が数戸かたまって存在している。いま東京で圭星会というアブストラクトを主体とした書道団体の大幹部をしている奥平昌信君はこの中の一軒の出で村の中学校の先生をしていたが、彼は私が大阪へ出たのと同じ頃、つまり戦後すぐ書家となるべく志を立てて東京へ出た。 彼の言うところでは、奥平家は豊前中津の奥平侯の傍流で、家紋も同じ九階松である。 ご一新の折り、士族になりたかったが、出自定かにあらずとして、希望が叶えられなかったそうである。

昭和二十年代、私はよく東京へ行って彼の部屋に転がり込んだものだ。最初、彼がいた世田谷の古い大きな家は、いま芸術院会員になっている青山杉雨氏の家の二階で、ほこりだらけのだだっぴろい大広間であった。 夜中に私が裏木戸を叩くと、木戸のすぐ側の部屋に寝ている杉雨氏が大声で、「君の友達が帰ってきたのだから、君が起きて開けてやれ」と二階に向かってどなっていた。 すぐ側で寝ているのだから彼自身が開けてくれればよいのに、随分意地の悪い家主だ、と思っていたが、芸術院会員になるような偉い人とは知らなかった。次に彼が移ったのは、高田の馬場の一言堂という年中半分閉めたままの小さな古本屋の二階の小部屋だった。 痩せた主人は何故か万年床で終日寝たままだったが、だからと言って病気でもなさそうであった。 フランスに留学したこともあり、文壇に付き合いがあるという話であった。後になって、志賀直哉の本の中に、この一言堂主人という人がちょいちょい出てくるのを知った。
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