前に述べた「正木の本家」のすぐ西隣に、多田と言う姓で、通称も又「多田」という古い藁屋根に白い土塀をめぐらせた家がつい先年まで存在していた。この家は明治初年の田原村初代村長、多田五郎吉の旧居であった。多田五郎吉のちょんまげ脇差し姿の大きな写真が旧田原村役場の二階にあったが、いまはどうなっているか知らぬ。多田五郎吉の孫は武一氏で、どういうつもりであったかこの人は妻帯もせず、一生をほぼ無職ですごした。 二人の姉妹も嫁がず、三人だけで世間の付き合いも少なくひっそりと暮らした。その中、手元も不如意となり、武一氏は家財道具を売り、庭木を売り、屋敷地をうり、ついに住んでいる古家だけになってしまった。その間に老姉妹はあいついで亡くなった。 そして最後に、初老の武一氏がなすこともなく亡くなった。 餓死に近かった。村の人々が相よって葬式を出した。 武一氏の最も近縁と思われた加西郡富田村の助役黒田氏へ葬式を報ずる使者が差し向けられた。 使者は私であった。黒田家は富田村の「べつめ」という所にあって、みるからに古めかしい立派な構えの家だったが、その返事は「多田家とは長年付き合いが無いので葬式に行くつもりもない。 どうぞ村の方々の間で宜しく処置して欲しい」とのことだった。 この「べつめ」という所は柳田国男が、足利時代に開拓された別名(ベツミョウ)という北条からも辻川からも二里ほど南に在る村というのと同じ所ではないかと私は思っている。 実際の位置は北条から一里弱、辻川からは一里半が正しいと思うが、柳田先生も行ったことがないと書いているから、少々の誤差があってもよいだろう。柳田によれば、そこには彼の父の友人である石坂素堂という学者が野原の中に小さな庵室を作って一人暮らしをしていたという。 もしそうであれば、この黒田氏の先祖と石坂先生は土地の知識人同士として、当然親しい間柄であったろうと想像できる。
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