97年6月28日

丸々6月一杯をイタリアで過ごした。その内の2週間は、アーバンデザインのワークショップでマサ・マリティマというタスカニーの小さい街に留まり、残りの期間は北部イタリア中を気のむくままに周った。イタリアという国は観光客には天国のようなところで、全ての訪れた街について書くことなど不可能なので、イタリア人の友人から学んだこと、感じたことを書いてみる。

イタリアは本当に地方色が強く、街ごとに表情が全然ことなるし、人々は自分の街が一番だと誇りをもっているのがすごい。そして、皆が自分の街に堅い絆で結ばれた友人グループをもっており、毎週のように皆で集まり話しに花を咲かせる。今回は、ワークショップの友人を尋ねて、フェラーラとビチェンツァを訪れた際に、そんな会合に誘ってもらう機会を得た。どちらでも約10人以上の「いつもの」仲間が夕方集まり、車で郊外のレストランへ移動。そこで郷土色溢れる料理を食べながら、近況などを語り合っていた。彼等の間に秘密は存在しないし、できない。その会話は大変ゆったりとリラックスした心地よいもので、イタリアの地方都市にはこういうコミュニティが健在なんだなあと感激すると共に、ミラノやローマといった街がイタリアの中でいかに例外的かということを思い知らされる。まあ、それらでも街への愛着が強いのはセリエAの熱気を見れば明らかだが。

初対面のイタリア人達と話していると、環境が人を育てるというのがよくわかる。彼等にとって、大聖堂や宮殿は日常のものであって、近所の人に会いに行くところである。実際、宮殿や別荘に住んでいる「世が世なら大貴族」という人達とも気さくに話せたが、日本人観光客にとっては感激的な史跡でも、彼等にとっては住処でしかない。そのため、彼等にとってイタリアの建築や芸術、文学、歴史などは生まれながらに親しんだものであり、皆が深い造詣を自然に養っている。そして、一度イタリア文化についてしゃべり始めると止まらない。その自尊心はフランス的な偏狭さに陥らずに、他文化への好奇心として現われるのは、自分達の文化が世界一という自信の現われだろう。

一方、過去へ囚われすぎていて革新が無い、という批判はイタリア人の中にも多い。パリのようにルーブルやポンピドーを歴史的地区に建てるようなことは考えられないそうだが、かと言って本当にそういう変化を起こしたいのかというと、どうもそうではない。偉大すぎる過去の重みに苦しみかつ満足しているといったところか。聞いたところでは、イタリア人が尊敬する文化国は、まずギリシャ、そして隣国フランス、さらにアジアの中国と日本が挙げられるそう。面白いのは日中に関する観察で、中国の過去を重んじ進歩に対して慎重な姿勢には大変共感を覚える一方で、日本があまりに急激に現代文明を取り込んでいく姿は理解できないそうである。なるほど、イタリア人はぶらぶらするとなると、一人でも男同士でも広場や美術館、劇場、映画館へ出かけ、「伝統」を満喫する。あまり日本では一般的ではない光景だろう。「日本人は日本文化を知らない」とはよく言われるが、これはイタリアではあてはまらないのではないか。念のため言い添えておくと、彼等が最も軽蔑するのは、いうまでもなくアメリカである。勿論、そこには文明への嫉妬も込められている。

こんなことを考えた今回の旅行でぶらぶらして面白かった街の筆頭は、ルッカとオルビエートだった。どちらも中世そのままの世界が健在である。これらに比べて、シエナ、アッシジ、サンジミニアーノなどは観光化が著しく、観光客天国である一方で、イタリア人がこれらの街をまちづくりの反面教師としているのがよく理解できた。しかし、実際自分が住んで働く場面を考えると、結局、ミラノかローマあたりに落ち着くような気がする。非イタリア文化圏から来た自分にはある程度の文明の集積は不可欠だし、またこれらの街の「伝統」も自分には十分過ぎるほど重い。最後に付け加えておくと、何故か大変気に入ったのがジェノバだった。港街ならではの革新的空気、産業の力強さ、いわゆるイタリア的ではない文化。そして、ここではあの赤茶色の屋根レンガがほとんど見られない。高台からの眺めが白かったのには驚き、そしてどことなく「伝統」からの自由さが心地よかった。ふと、神戸や横浜が懐かしかった。

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