アメリカ人の合理主義は徹底している。時間配分、チームの中での自分の位置付けの把握、製図技術、そして初対面および大勢の場面での社交の上手さには目を見張るものがある。また、「○○主義」として様々な事物を体系化することに優れている。こうしないと居場所が見つからずに決まりが悪いのかもしれないが。また、個人の価値観を優先することも、大変な強みを発揮することがある。自分なりの目標を設定し、それに向かって一直線に進む姿勢は驚嘆すべきものがある。しかし、歴史の浅さと合理主義の徹底には反動も付いてくる。政治的公正性は既に末期的症状を呈しており、正確な状況の把握と創造的な思考を妨げている。繊細さに欠けるのもかなり典型的な症状である。国が物質的に豊かであるが故に、量的な価値を優先し、質にはあまり気を配らない。英語が世界的共通言語であり、他文化への配慮抜きにコミュニケーションが取れることも一因だろう。人間関係の希薄さは、そこはかとない孤独感を招いている。この国では人生の円熟期を向かえる気がしない。
イタリアの歴史の永さ、豊かさには目を見張るものがある。ギリシャなどを抜きにすれば、全ての西欧文明のルーツがここにある印象。アメリカ的に見れば不合理と思われることも、既に文化の一部として定着している。時間および金銭感覚の無さ、美への執着、濃密でかつ偏狭な人間関係など、徹底しているのに感心する。現代文明の価値を普遍的とすれば、若者には暮らしにくい国かもしれないが、それでも精神的な豊かさでは他を圧倒する。また、郷土色が伝統的に強く、自分達のコミュニティに誇りをもっている事も素晴しい。食事は簡素ながら大変美味しく、人々は自分を美しく魅力的に見せる術を心得ている。勿論、建築や芸術の素晴しさは言うまでもない。
日本人は明らかに西欧文化とは異質のものを備えている。例えば無常という言葉に表わされるように、時間や滅び行くものへの諦めにも似た感覚は個性的である。繊細さ、部分へのこだわりにも秀でているように思われるし、団体として行動する際には特別な力を発揮するのも事実であろう。しかし、自己を圧し殺す発想は、国際社会においては通用しにくいのではないか。言葉の壁も歴然と存在している。現在の日本は他国の文化を大変活発に取り入れた反面、自国の伝統をあまり重んじていない感がある。それによる利益もあろうが、損失の方が大きいのではないか。特に、実態が把握できないことは、他国には勿論、日本人自身にも得体のしれない恐怖感を与えているようだ。
今後、自分としては日本の伝統的価値観の再発見を、常に念頭に置いていきたいと思う。とくに、第二次大戦以前の文化は他国に誇れるものであろう。勿論、文化は優劣を付けられるものではないので、アメリカを初めとした他文化から学ぶべき点も大変多い。これらを総合してこそ、将来の日本の進路が見通せるのだと思うし、また、自分自身の人生観の確立にもつながっていくと思う。
1997年7月1日深夜零時、パリ発東京行きの機内にて。香港の中国返還の日に
注:本コラムは特定の人物または団体を想定してのものではありません。